2024年9月1日(日)聖霊降臨後第十五主日 主日礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マルコによる福音書71−8節、14−15節、21−23

「人は自らをきよめられない。神が私たちを聖としてくださる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 この週から再びマルコの福音書に戻り、7章に入ります。7月の各週では6章を見てきていますが、そこでは、ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを処刑したところまでを見てきました。その後は、マルコの福音書でも「5つのパンと2匹の魚の奇跡」のことが書かれているのですが、8月はマルコの福音書からではなく、ヨハネの福音書6章からその奇跡と共に、イエス様ご自身がご自分こそ天からのいのちのパンであると告げられたことまで詳しく見てきました。そして再びその後の出来事を、マルコの福音書に戻りまして7章から見ていきます。この直前の6章の終わりのところで、イエス様と弟子達の一行は湖の向こう側のゲネサレの地を訪問されたことが書かれています。ゲネサレの人々はイエスが来たのを聞きつけて、病気の人々を次々とイエスのもとに連れてきました。イエス様のせめて服にでもさわれば治るとまで人々は信じてイエス様に求めてきました。イエス様は、そんな彼らの病を癒やされたのでした。しかしこの7章、同じようにイエス様の元に集まってくる人々がいますが、純粋にイエスの力を信じて集まってきたゲネサレの人々とは実に対照的です。1節から見ていきましょう。

2、「自らのきよめの行為で神の国を見ようとする人々」

1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。

 集まってきたのは、ファリサイ派の人々と数人の律法学者達でした。しかもエルサレムからわざわざやってきた人々でした。彼らはなぜ、どのような目的でイエスのもとに集まってきたのでしょうか?彼らもゲネサレの人々のように、純粋に「直してほしい」「イエス様には力がある」とイエスを求めてやってきたのでしょうか?2節からこう続いています。

2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

 彼らが見たのは、イエスの弟子達の汚れた手、手を洗わないで食事をする弟子達でした。3節以下には、彼らが昔の人々からの言い伝えを固く守っていて、そのようなものが沢山ある事が説明されています。もちろん、私たちも食事をする前に手を洗ったりするのですが、それは衛生上、清潔のための習慣であり、何か昔の人々から受け継いでいる厳格な言い伝えというものではありません。彼らの、手だけでなく、杯などの器や、食べるときに寝そべる寝台までも洗うというこの言い伝えは、衛生上のことではなく、罪汚れに対するきよめが理由であり、神殿に入るときに手を清めるのと似たような理由です。それと同じように、彼らには、汚れた食物などの定めもあり、そのようなものに触れたり食べたりすることは厳格に禁じられていて、決して食べたりせず、食べたら汚れるとして、厳しく戒めてもいました。それは確かに旧約の儀式律法で手を清めるということが命じられてはいるのですが、昔の人々からの言い伝えとあるように、彼らはその律法を厳格に解釈して、神殿礼拝の時だけでなく、人々に食事の前に、自分も食器も食べる時のクッションまでも全てを清めるよう、求めてきたのでした。ですから、彼らはイエスを求めていたのではなく、律法、とは言いましても、彼らが拡大解釈し生活に当てはめた慣習、あるいは昔からの言い伝え、伝統を、イエスや弟子達が守っているか、破っていないかどうかを見るためにイエスのもとにやってきたのでした。そして、尋ねるのです。

「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。

 彼らは自分たちはモーセの律法に、つまり彼らが信じるところの聖書の神の命令にしっかりと厳格に従ってきたし守ってきた、それに誰よりもその律法をわかっていると自負する人々でした。この食事の前の手や食器や寝台を念入りに洗うことも先祖代々受け継がれ守られてきた律法の伝統に沿ったことだと自信を持っていたことでしょう。だからこそ、彼らはこのように質問できたのでしょう。しかしイエス様はその彼らの自信にある矛盾を聖書から照らして指摘するのです。6節からですが、

3、「御言葉からの応答」

6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。

『この民は口先ではわたしを敬うが、

その心はわたしから遠く離れている。

7人間の戒めを教えとしておしえ、

むなしくわたしをあがめている。』

8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

 イエス様は、旧約の預言書のイザヤ書2913節の言葉を引用します。そしてその預言はファリサイ派や律法学者達あなた方のような偽善者のことを指しているというのです。彼らは確かに社会の周りの人々から見た限りでは、律法をよく知り、教えていました。自分達でもよく守り、守るように教え、時には人々を戒めてもいたでしょう。社会では立派な行いで模範となるような人々であり尊敬もされていたでしょう。もちろん聖書の律法を正しく理解し、正しく行うことは神の御心であり大事なことなのです。しかし、彼らは確かに口では神や律法を口にはし敬っていたとしても、ここで彼らが弟子達を見て問いただし要求してる内容は、律法の正しい理解でも正しい解釈でも正しい行いでもありませんでした。福音記者のマルコ自身も3、4節でわざわざ説明を記しているように、神殿礼拝で行われる儀式律法を人間的に拡大解釈して当てはめたものであり、マルコも神の律法とは呼ばないように、「昔から受け継いで固く守っている言い伝え」に過ぎないと書いたのでした。いわゆる伝統の類のものでした。

 もちろん伝統が全て悪いわけでなく、このキリスト教会に当てはめれば、きちんと聖書に教えられていることに従っており、聖書を歪めたり、聖書の教えを軽んじたりするものではなく、そのように伝統が聖書に従うものであり、教会の徳のために良いものである限りは、伝統は大事にしていくのは全然良いことです。しかし、それが逆になってしまい、まさに昔から受け継いで固く守っている伝統が、聖書よりも優位に立って、聖書を伝統に従わせてしまうなら、それは、イザヤの預言のごとくです。口ではいくら神の名を崇め、賛美をし、神を敬ったり礼拝したとしても、人間の伝統がいつでも優先されたり、判断基準になったり、教会のなかで大きな比重を占めるようになってしまえば、神も神の言葉も実はただの飾りです。その口から出るものとは裏腹に、その心は神から遠く離れてしまっています。神よりも人間の戒めが大事な教えになっており、神よりも人間に従ってしまっています。それは見た目はどれだけ敬虔に見えても、偽りの敬虔です。イエス様がいう偽善というのはそのことです。

 今日の箇所ではない9節以下13節までのイエス様の言葉も彼らの教えていることの矛盾を示しています。十戒では「父と母を敬え」とはっきりと教えられているのに、彼らは、両親にさし上げるものを神殿や神への捧げ物とするなら、両親へするはずだったことはしなくても良いというような教えをしていたようです。何か、家族を犠牲にしてまで教団にいっぱい献金させるような、現代に問題になっているカルト宗教のようですが、しかしそれはカルトだけでなく、キリスト教でもカリスマ的な教会では時々聞く危険で間違った教えです。しかし多くの人がそんなカルト的な人間の教えに騙され引き込まれ、そのようなカリスマ的なキリスト教会でも、家族を犠牲にしてまで教会に献身させたり、高額を献金させたりすることがさせる方だけでなく、する方もそれが「敬虔だ」とか「祝福をもらえる」とか本当に思わされているのを聞くことは実は少なくないです。それぐらいに、人は、聖書を口にしていながらも、そのような本当は聖書は教えていない人間の作り出す最もそうでご利益的な教えに、巧妙に流されて行きやすいということは今もあるのです。そしてカルトやカリスマではなくても、キリスト教会や教団の中でも、何か聖書の一箇所だけを文脈や真の意味や解釈も考慮せずに取り上げて、それにいろいろ教会指導者や教会組織に都合のいいように拡大して作り出された人間的で律法的な教えや伝統の方が、教会やその成長や宣教のために大事にされたり強いられたり、教会内や教団内での評価判断基準とされたりするということは実はよくあることのように思います。しかもそれが聖書的に矛盾するのではと思ったり疑ったりすることも悪であるかのように思えるぐらいに教会や教団で大切にされている伝統とかも時々聞いたりもします。それぐらい巧妙に聖書を超えた人間的なものは聖書を支配し脅かしたりするのです。

4、「人から出たもの」

 当時も、まさにそのような人間の作り出した教えが社会の敬虔になっていたからこそ、彼らは自信を持ってその伝統の管理人としてわざわざエルサレムから来てイエスとその弟子達を指摘できたのでしょう。

 しかし、それらはイエス様の目からはっきりしています。それらは「人から出たもの、教え、言葉」に過ぎませんでした。それは13節にある通り「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」ことなのです。イエス様は冷静に、彼らの間違いを、しかも聖書から正しく解釈した正しい教えをもって、彼らの質問に答えているのです。

 そして、1415節の言葉、そしてその言葉を弟子達に解説した2022節の言葉は、彼らが投げかけた「手を洗う」「清め」ということについてのイエス様の教えです。

14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」

18イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 19それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 20更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 人から出るもの、それは人間の作り出す、伝統、教え、そして行いや振る舞いや習慣もそれは神の前にあって人間を清めることは決してできません。たとえその手をどれだけ綺麗に洗い、食器までも全て洗い清めたとしても、それは神の前にきよいものとして立つことができる方法では決してあり得ません。あるいは、聖書の言葉だけだと、弱い、分かりにくい、現代の文化や流行に合わない、信じられない、だから人間の側に合うように、分かりやすいように、受け入れやすいように、聖書を人間らしく変えよう、聖書の言葉を都合よく解釈しよう、衣をつけよう、人間らしく装うとしても、それは人間的な成果や成功は実現できるかもしれませんが、神の前になんら良いものとなることはできません。どれだけ周りに賞賛され尊敬され敬虔そうに見えたとしてもです。神の前に清くなることも、功績を積むことも、神のわざに協力し貢献することも、救いや神の国を得ることも、決してできません。いやそれどころか、それは「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」ことと同じです。それは、人から出ているもので、人を汚しているだけでなく、神を冒涜しているだけなのです。イエス様はここで清くない食べ物の問題にまで踏み込んでいます。当時はそのようなものがありました。使徒の働きでも、イエス様はペテロに幻を見せて、清くない動物を食べるように言われたペテロは躊躇しています。その時、イエス様はペテロに、神が清めたものは清いと言いました。しかし、イエス様はすでにここで、外から人に入る食べ物は消化され外に出るだけで、決して人を汚さないと教えています。

 イエス様がここで「人から出るものが人を汚す」といいます。それは何でしょうか?人の心に巣くう最も深刻で重大な病巣である罪のことを示しているのです。まさに人から出て聖書を曲解し、伝統の衣や文化的解釈の衣で、イエス様の教えを全く異なったものにしてしまうのは、人間の罪です。そのような間違った伝統や律法で、イエス様が与えてくださった信仰の自由や平安を、強制や束縛や不安に変えるのもそれは人間の罪であり人間が罪のゆえに神の言葉を捻じ曲げて作り上げる偽りの教えです。イエス様がその約束の故に私たちに与えてくださっている救いの確信を「本当に救われているのだろうか?と疑わせ不安にさせるのも、人間がそのキリストの福音を捻じ曲げて、福音と律法を混同させて教える間違った福音や間違った律法の教えです。全て「神の言葉、神の恵み、神の福音を疑う」という人間の罪から出るものであり、人から出るものは、どんなに敬虔そうで合理的であっても、数の上では成功で繁栄しているように見えても、聖書に正しく基づき従うものではないなら、それはまさしく人間を汚し、人間を滅びに導くものです。そのように決して人間のわざ、人間の言葉、人間の作り上げる伝統や新しい律法が、人を神の前にあって聖なるものとし義とし、人を救うのではないのです。

5、「終わりに」

 神の目にあって、人を、どんな人でも、真に清め、義と認め、聖徒としてくださり、私たちを救い、平安と救いの確信を与えることができるものは、私たちが手を洗うことでも伝統を守ることでもありません。人から出る何らかの良い行いや功績でもありません。それは、神が与えてくださる言葉、何より、イエス様が私たちの罪のために死んでくださった、そのイエス様の十字架の義のゆえに罪赦され、復活のゆえに日々新しい命を生かされるという福音の言葉であり、そしてその福音のゆえにイエス様が与える水である洗礼、それによる賜物として信仰と聖霊なのです。それだけです。今日もイエス様はその唯一の救いであるイエス・キリストの十字架と復活を私たちに指し示して、今日も宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日も、イエス様の福音によっていのちを新たにされて、ここから救いの喜びと平安のうちに世に遣わされて行きましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

聖餐式

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