2024年9月8日(日)聖霊降臨後第十六主日 主日礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マルコによる福音書7章24−37節(202498日スオミ教会礼拝説教)

「謙った砕かれた心を見て喜ばれるキリスト」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 前回は、エルサレムからイエスのもとにやってきたファリサイ派の人々と律法学者達が、イエスの弟子達が手を洗わず食事をしていることを見て、「なぜ昔の人々の言い伝えの通りに手を洗うことを守らないのか」と質問し、それに対してイエス様が答えられた出来事を見てきました。イエス様は彼らに、旧約聖書の預言の言葉から答え、その預言の言葉が示すように、彼らは「口では神を敬うが、心は神に向いていない」と、その見た目は敬虔そうに装っても、その心は偽善に満ちていることを指摘しました。そして「人に入るものが人を汚すのではなく、人から出るものが人を汚すのである」と、神の前では人の心にある罪が汚れの原因であり、人は手を洗おうが、口で綺麗事を言おうが、どんなに立派な行いをしようが、それらで神の前に自らを清めることはできないことを教えたのでした。そこから私たちを唯一きよめ救うことができる天から来られた救い主イエス・キリストを改めて指し示されたのでした。

2、「知られたくないと思うイエス」

 さて、イエス様はその出来事ののち、再び別の地へと移動します。24節からこう始まっています。

24イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。

 ティルスは、ガリラヤの北、フェニキア地方の地中海沿岸の、異教徒の街です。そして、こう続いています。

「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。

 この時すでに、イエス様の評判は広まっており、ガリラヤ地方でも行く所、行く所で大勢の人々が群衆となって押し寄せていました。5つのパンと二匹の魚の場面でも男性だけで五千人いたことが書かれていました。しかしこのように人から見れば、それほどまでの人気があって支持されている状況であるのに、そのガリラヤから北のフェニキアの異教徒の街にまで退かれ、さらには隠れるように家に入り「誰にも知られたくないと思っておられた」とあるのは、何か疑問に思われるかもしれません。人気があるんだから、もっと支持者を増やして自分の勢力を増せばいいじゃないか、人間の党派心、あるいは多数派が勝るという価値観ではそう思うかもしれません。ですから、ある学者達は、この身を隠した行動について、イエス様は本当は救い主としての道を望んでいなかったんだという人もいるようです。しかし、4つの福音書全体、そしてパウロの書簡に照らしても、間違いなくイエス様は、十字架の道をまっすぐと見て歩んでいましたし、そしてイザヤの預言53章を見ても、その十字架の道は神の御心でありそして罪のための犠牲は神の喜びであったとも書かれていますから、そのような学者達の考えは明らかに間違いだと言えるでしょう。むしろ、そのようにイエス様が世の罪を取り除く神の子羊としてこられ、十字架と復活による救いの完成をまっすぐと見て歩んでいたのであるなら、この地に退き、「誰にも知られたくないと思っておられた」理由が見えてくるのです。それは、すでにこの時、人気が出てきて、人々の人間的な動機や目的や、その勢いだけで彼を地上の王にしようとまでする流れがあった中です。まさにそのような人間的な人気の力などで神のみ心に反して王に祭り上げられることはイエス様の望むことではないでしょう。そのためにこそ、そのような人間の間違った勢いによって導かれることから離れ、神の時を待つためにも、このように異教の地に退き、密かに隠れるような行動も必要だったと言えるのです。

3、「異邦人の女性の求め」

 しかし、それでも、どうやらこの異教の地ティルスにもイエス様の噂はすでに広まっていました。人々に気づかれ、25

25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 26女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。

A,「ひれ伏す女性」

 一人の女性がイエスのことを聞きつけてやってきます。彼女は「足元にひれ伏した」とあります。最大限の心からのイエスへの敬意と謙りです。そして求めるのです。「娘から悪霊を追い出してください」と。彼女の娘は絶望的な状況であったでしょう。彼女は「娘のために」「イエス様ならおできになる」と藁にもすがるようにやってきてひれ伏したのでしょう。しかし福音記者マルコはここで、この女性は「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と説明を記しています。それは彼女が異邦人の背景があることを強調するものです。それは、先週の、言わば異邦人とは正反対にあるイスラエルの民のファリサイ派や律法学者達との出来事と対照的に描いているようでもあります。そして、この後のイエスと女性とのやりとりともその対照は関わってくるでしょう。女性がそこまでも縋り求めてくるのに対して、27節、イエス様は最初、次のように返しますが、その言葉は私たちから見れば驚くべき違和感のある応答です。

B,「子犬に」

27イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」

 イエス様は、異邦人である彼女に対して、まずは子供達、つまりイスラエルの民に対して与えるのが先であるといういうことを言いたいのかもしれませんが、彼女を指して「子犬」という非常に侮辱的な言葉を用いているのです。イエス様はなんと失礼で冷たく、突き放しているんだと、私たちは思わされるのです。しかし、この言葉がイエス様の成そうとすることのゴールではもちろんありません。この後に成そうとすることのためのイエス様の意図が必ずあるのです。そのような非常に大きな侮辱にも思えるような、そして突き放されているとも感じる言葉に対して彼女はいうのです。

C,「彼女の応答」

28ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

 イエス様が「子犬」と言っている言葉は、ギリシャ語「クナリオン」という言葉ですが、それは野生の犬や、通りにいる野犬のことではなく、家庭のペットを指すような言い方を示すものです。彼女も、そのイエス様のそのことばを捉えて「しかし、食卓の下の小犬も」と答えています。この言葉に、彼女の「足元にひれ伏す」という行為は見せかけの格好だけのパフォーマンスではなく、本当に心からのものであることがここにわかるのです。「最初は子供達に」と言われ、「子犬」と言われても、彼女は、それに怒るのではないし、自分を「侮辱した」と求めるのを止めるのでもありません。むしろ「その通りです」と、イエス様に返しているでしょう。そして、子犬でも、その子供にあげたもののパン屑でもいただければ、それでいいという、彼女の実に謙った心の内がこの彼女の言葉にはわかります。それはまさに彼女の「イエスをどこまでも求める」信仰から出る言葉です。

D,「イエス様の言葉の意図」

 イエス様の意図ははじめから、彼女の娘を突き放すつもりはなかったことでしょう。その求める思いが本物であることも心を見られるイエス様は分かっていたでしょう。だからこそ、その彼女の信仰の告白を彼女の口から引き出すためにこそ、そのような冷たい言葉で返したのではないでしょうか?そして、そのやりとりは、まさにその前の出来事である、先週のファリサイ派や律法学者達と対照的な出来事であり、また対照的な言葉であり、心であることを、イエス様は見事に描き出しています。

4、「神は人の心を見られる」

 イエス様は、前回の出来事からも分かるように、表面的な地位や立場、その表向きの立派な言葉や言い回しや、行いが見た目に立派に映るとかそのような表面的なことだけを見るのでは決してありません。神は人の心を見られるというのは、旧約聖書の時から実に一貫した神様の性質です。イエス様は、ファリサイ派と律法学者達がやってきた時に、その偽善性をすぐに見抜いて、聖書から答えました。彼らは確かに律法に誰よりも詳しく、教える立場であり、律法を完全に守っていると自負する人々でした。しかし、彼らは律法だけでなく、そのように律法を捻じ曲げて解釈した伝統までも含めて、それらを守っている自分の行いを誇り、それゆえにそれを基準に人々を監視したり裁く立場にもなっていました。そのようにしてイエスのもとにやってきて、彼らは確かに口では神の律法や、それを守ってきた先祖の昔から言い伝えられてきた伝統を口にして神を敬うのですが、しかしその心には神はおらず、人間の作り上げたもので神の律法を捻じ曲げ人間の心を支配する偽善性があったのでした。見た目や表向きは立派でしたが、その心が、神を求めない、いやむしろ神であるイエスを試し裁こうとする罪深い動機で支配されているのをイエス様は見抜いていました。そしてそのような心から出るものは何も生まず、清めず、たてあげず、それは人を汚すだけのものであるとイエス様は示しました。

A,「ファリサイ派のようか?異邦人の女性のようか?」

 しかし、このイスラエルの民から見れば卑しい存在である異邦人の女性の心は、彼らの心とは全く逆でしょう。イエス様はまさにこの女性とのやりとりで、周りの弟子達に、そして、現代の私たちにも、神の国のために何が大事であるのかを、はっきりと示してくれているのです。それは、ファリサイ派や律法学者達のように、選ばれた民であり、聖書もよく学び、律法もよく知り、表向きは律法もよく守る良い行いをし、地位も社会的立場もしっかりしている、尊敬もされていて、人の目には申し分ないように見えるが、神は二の次、自分が中心、心には神を求める思いがない、「自分が自分が」になっている、そんな信仰が大事で求められているのか?それとも、卑しい存在、異邦人、本当に子犬と呼ばれてもその通りですとしか言えないし認めざるを得ない現実、しかしそれでも、あくまでも「イエス様、このような卑しいものを憐れんでください。こんな罪深いものにテーブルの上からのパン屑でもいいから与らせてください」と、どこまでもイエスの前に膝まずき、ひれ伏し、イエスの力と憐れみに縋り求める信仰が大事なのか?どちらなのか?イエス様の答えははっきりしているでしょう。29

29そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 30女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

 イエス様のこの福音のメッセージは、選びの民だとか異邦人だとか、そのような線引きはもはや関係ありません。それさえ外側のことです。イエス様はこの前のところでも、「人の心」のことを教えていたでしょう。神様は人の表向きの立派さとか、何をしたとか、何を果たしたとか、そのようなことを第一に、あるいはそれだけを見るのではないのです。いやむしろ、大事なのは、その心を見られるのです。

B,「それは純粋で清い完全な心か?」

 しかも、その心が純粋で清いかでもありませんね。むしろ、人は皆その心までも見られるなら誰でも汚れてた罪深い心です。どこまでも自己中心で、自分を神のようにしようとする心です。神の言葉を退け、自分の言葉こそ正しい、義である、清い、清めることができる、そう思い神を無視する心です。しかし、ここでイエス様が見られているのは、どこまでも、神の前に謙り、むしろその自分の卑しさ、罪深さを、その通りですと認め、子犬にすぎない現実を認め、それでも「イエス様、そんな私を憐んでください。癒してください。助けてください」とどこまでも縋り求める心をイエス様は見られ、賞賛されていることが分かるのではないでしょうか。ルカの福音書の18章にも、ファリサイ派と人と徴税人の祈りの例えをイエス様は語っています。そこでは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」(ルカによる福音書 18:9とその例えは始まっています。ファリサイ派は、神殿で『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 (11−12節)と祈りました。彼は、自分の完全さを誇るのですが、隣の徴税人と比べての誇りであり、しかし、神の前での自分はまるで見えていません。神の前には皆が罪人であるのに、あたかもそうでないかのように自分を誇る罪深い心があるのですが、それが見えていません。しかし、その隣の徴税人はこうでした。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 」(ルカによる福音書 18:13。彼は自分の罪深さを悔い、神の前に認め、謙り、「神よ、罪人のわたしを憐んでください」の心です。イエス様はどちらの心を、祈りを受け入れているでしょうか。こう続いています。14「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 神様は聖書に一貫しているでしょう。イザヤ書5715節にこうあります。

「高く、あがめられて、永遠にいましその名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にありへりくだる霊の人に命を得させ打ち砕かれた心の人に命を得させる。

 詩篇でもダビデはこう証ししています。5119

「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。

5、「結び」

 私たちは、この1週間、聖書を通して、その中の律法をとおして、日々、自分の罪深さを気付かされる毎日です。律法は実に私たちの心を刺し通し、神の前にあって私たちの本来の事実は、神に受け入れられない滅びゆく存在であることを教えられます。しかし、そのような罪深い私たちに神様は、「自ら自分の力で、自分の罪をきよめ、精算し、克服して、自ら自分の力で、完全に聖なるものとなりなさい。そうすればあなたを救おう、天国に受け入れよう」とは言いませんでした。神はそのような罪深い私たちの現実、滅びゆく現実、自分たちではどこまでも神に背くだけであり、自分で清めるどころか自分でますます汚していくようなそんな救いようのない存在であることを、ご存知だからこそ、あるいは、そんな存在をどうしても救って神の国に与らせたいからこそ、御子キリストを世に人として与えてくださった、送ってくださった。そして、その御子に人類の、つまり私たちの、全ての罪の責任を負わせ、罪の報いである死を、罪の罰である十字架の処罰を、その御子に負わせた。そしてその御子キリストがこの十字架で私たちが負うべき罪の代価を全て代わりに払ってくださったからこそ、神はそのキリストのゆえに、「あなたたちの罪を問わない。あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださり、平安のうちに遣わしてくださるし、神は私たちに永遠の命の道を備えてくださっているのです。その一人子を私たちのために死なせるほどに神は私たちを愛してくださっているのです。それが神が天から私たちに与えてくださっている良い知らせ、福音ではありませんか。イエス・キリストの十字架は、その福音によって平安のうちに生きるようにと私たちに与えられている素晴らしい宝ですね。そうであるのなら、私たちが日々導かれるのは、ファリサイ派のように、表向きの自分でなす行いの立派さで自分を誇り、自分自身に確信の根拠を探すことでは決してありません。このイエス・キリストの十字架と復活が私たちの宝、福音、命であるからこそ、私たちはどこまでもこのイエスの前に日々、謙り、日々悔い改め、「神よ、罪深い私を憐んでください」と祈り求めすがるのです。その砕かれた心こそ、真の神への礼拝、生贄なのです。それこそ神は私たちに求めており、喜んで受け入れてくださる。そして事実、私たちを憐んでくださり、このイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちの義のゆえではなく「キリストの義のゆえに」日々、赦してくださいます。そして日々、復活の命で、私たちを日々新しくし、新しい命で生かしてくださり、世にあって私たちを用いてくださるのです。だからこそ、イエス様は今日も私たちに宣言してくださるのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの福音を今日も受け、新しくされて、平安のうちにここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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