2024年9月15日(日)聖霊降臨後第十七主日 主日礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

[私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたにあるように。アーメン]

                                            2024915日(日)

説教題 「主よ、あなたこそメシアです」

聖書 マルコ福音書 82738

今日の聖書はマルコ福音書の8章です。27節を見ますと「イエスは弟子たちとフィリポ・カイザリア地方の方々の村にお出かけになった。」とあります。フィリポ・カイザリア地方へ、なぜ弟子たちを連れて行かれたのでしょうか。フィリポ・カイザリアと言えばエルサレムやガラリヤ地方から見れば、もう外国のような地方です。

私はイスラエル・トルコのパウロ伝道の跡を訪ねました際、フィリポ・カイザリアにも行きました。ガラリヤ湖の小高い山に「山上の垂訓」の教会があります。イエス様が大切な説教をされた有名な所です。マタイは5章から7章にかけて記しています。その山上の垂訓の教会の近くには世界でも珍しい花がいっぱい咲いている花園があります。世界中から植物学者が来て珍しい品種を調べているのです。その花園をずうっと北へバスで1時間ほど走って行くとバリアスの滝とかヨルダン川の源流を辿って行った先にフィリポ・カイザリア地方があります。ガリラヤ地方から遠く離れた地にイエス様はどうして弟子たちを連れて来られたのでしょうか。それまでナザレの家族から出て、いよいよガリラヤを中心に神の御子としての本来の活動を始められた。神の国の教えを語られ、病人を癒し群衆が何時も押し寄せて来た。マルコ8章の始めを見ますと「群衆が大勢いて何も食べる物がなかったのでイエスは弟子たちを呼び寄せて言われた『群衆が可哀そうだ、もう三日も私と一緒にいるのに食べ物がない、空腹のまま家に帰らせると途中で疲れ切ってしまうだろう。』・・こうしてイエス様は4000人の群衆に<七つのパンと僅かな魚で彼らを満腹させる>と言う全く考えられない驚きの奇跡の出来事をなさっています毎日々寝る時間もなく病人を癒し奇跡を起こし多くの人々が何時も周りに押し寄せて来ていた。そこでイエス様はこうした群衆から離れて弟子たちだけを連れてユダヤ人たちからも遠い地に来られたと思われます。そこにイエス様にとって一つの区切りをつける時を持たれたのではないでしょうか。そしてマルコはこの福音書の半分のところにフィリポ・カイザリアへ弟子たちを連れて行かれた事を書いているのです。ですからイエス様にとって大事な一区切りの時を持つことで前半のクライマックスを持ってきているのです。マルコは、さあ後半の始めに31節以下の所からイエス様の使命を弟子たちに打ち明けられて行きます。十字架への道です。さて、イエス様はフィリポ・カイザリアに向かって旅する途中で弟子たちに質問されたのであります。「人々は私のことを何者だと言っているか」と言われた。すると弟子たちは答えています。「洗礼者ヨハネだ」と言う者もいます。他に「エリヤ」と言う人もいます。「預言者の1人だ」と言う人もいます。そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか。」弟子たちに向かって尋ねられるのです。それでは・・・と言う、この問いに世間の人々は色々と言っています。それはそれで・・・ともかく、では「あなた方はどうなんだ」。とイエス様の本心はここにあったのです。

このことは弟子たちにだけではなく現在の私たち1人々に対してもイエス様と言うお方を教会だけではなく日常のあらゆる生活の最中でも「私にとってイエス様はこういう大切なお方です」と言える信仰の告白を問うておられるのであります。エレサムの神殿や教会の礼拝ではない、フィリポ・カイザリアに向かって行かれる旅の途中です。「あなた方は、私を何者だとと言うのか」と尋ねておられるのです。ここで最も重要なのは主イエス様ご自身が私どもの告白を求めておられる、という事実なのです。「あなた方は、私を何時も日常の中でもどのような方として思っているのか、信じているのか」と、主イエス様はその答えを聞きたいと思っていらっしゃる。どうお答していくか実に重大な問題なのです。愛し合っている夫婦の間で、親子の間で、親しい友人たち信頼している仲間たちの間で、もし「私のことをどう思っている?」と聞かれ、どう答えるでしょう。イエス様が問われる。「私どもが主イエス様を自分でどう信じ、どう告白しているか」教会の礼拝の中では信仰の告白をしています。しかし、いつも「あなたは、私が真実に救い主である、と今信じていますか」と言う問いの前に繰り返し何時も立たされているのではないでしょうか。

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さて、ペテロは弟子たちを代表すかのようにイエス様の問いかけに答えました。「あなたこそメシアです」当時のユダヤ人たちは皆メシアが現れるのを期待していました。ですからペテロもイエス様のことをそうだと考えて言った、ということでしょう。「イエス様こそメシアです。」と告白しています。口語訳の聖書では「キリストです」となっていました。メシアと言うのは「香油を塗られた者」という意味です。旧約聖書では王や預言者が神から任命される時、香油を塗ったところからメシアという名前が起こっていました。そして「救世主」を表すようになったのです。そのギリシャ語がキリストです。ペテロは当時のユダヤ人たちが待望していたメシアを考えていたのでしょう。あなたこそ旧約の時代から待ち望んだ「救世主」であられます。と告白したのです。ペテロはイエス様の「あなたはどう思うか」という問いの前に自分の信じているままに答えたのであります。「あなたは私にとってメシアである救い主です」私たちも主の前に、いつも旅の途中であろうと、日常生活の様々な問題であってもイエス様を呼び求め「あなたこそ私の救い主です」と主イエス様がいつでも私の内にいて下さっています、ことをしかと心に留めていたいのです。最後に大切な言葉がイエス様から言われます。30節を見ますと「するとイエスはご自分の事を誰にも話さないように、と弟子たちに戒められた。」とあります。これはちょっと考えると不思議なことと言われています。なぜイエス様はご自分の事、つまりメシアである事を誰にも話さないように戒められたのでしょうか。ペテロをはじめ弟子たちはみな心からあなたこそ神から遣わされたメシアであられます。みなあそう思っています。ですから家族を捨て自分の人生を全てイエス様に預けてついて来ているのです。私たちの心から信頼しているイエス様を「メシアであられます」と言ってもよいではないでしょうか。ところがイエス様は誰にも話さないように、と言われたのです。なぜそう言われたのか、この事は謎として学者たちが議論するところであります。信仰のない学者は、こう言います。「これは後に教会が付けた句であってメシアであることが復活された後になって判ったから付け加えたに過ぎない。イエス様が生きていらっしゃる間はそんなことは判らなかったことだ。だから秘密にされていた。この説はあまりに付け足したで、とても考えられないことでしょう。では、イエス様が戒められた意味は何なのでしょうか。ここでイエス様が「戒められた」と訳されている、この語は悪霊を戒める、とか嵐の湖を鎮める時に言われた用語と同じものであります。実はこの語が旧約聖書では神が天地を創造なさる、とか権威を持って力あることをなさる、という意味のヘブル語をギリシャ語に訳す際に用いられとぃる、というそういう背景から考えますと、例えば天地や新しい生命を創造する神の力、神の意志、或いは紅海を二つに分けられたような神の力を表す言葉として使われています。そのような神の言葉の持つ力をイエス様も持っておられる事を指すのが「戒める」という言葉なのです。<私は聖書学者ではありませんが尊敬する素晴らしい牧師、学者である先生の説教で解説しておられます。>このように「戒められた」という言葉の中にイエス様は限りない主であることが力強く示されている。ということです。

ここでイエス様が「あなた方は、私を何者だと言うのか」と尋ねられ、ペテロが「あなたはメシアです」と答えました。自分で尋ね、ご自分が聞きたいと願っておられた答えをお聞きになったのに、かえって誰にも言うなと戒めた、という事はおかしな話のように思われるかも知れません。だのに、どうして普通の話のような口調で“誰にも内緒だぞ”と言うた程度ではない、嵐の海を静まらせ,紅海の海をま二つに分けられる神の力を秘めた力強い戒めの言葉で「誰にも言うな!」。弟子たちが内心震え上がるような権威に満ちた顔をもって戒めておられるのです。当時のユダヤ人たちは長い間、歴史の中で待望していたメシア、目の前にはローマ帝国の圧政の下で苦しめられているけれども自分たちは特別な神の民である、この苦しみを開放してくださる救い主がきっと今に現れる、ペテロたちも同じような心を抱いていた、そういうメシアが主イエス様だ。今に社会が、世の中がひっくり返るような神の力をもって救ってくださるにちがいない、こういうメシア観でありました。それは人間が勝手に想像し期待している救い主メシアであるかもしれない。しかし、主イエスは違う!

全ての民が救われる、ことをイエス様は考えておられた。ですからうっかりペテロが自分の考えに従ってユダヤ流のメシア理解を宣言するというのでは困る。だから力強い神の力をもって戒められたのであります。イエス様は確かに告白を求めておられるのですが彼らの考えの中にある内容についてはイエス様は、そうかと任されるままでは決してない。正しい告白をここで与えようと思われて、しかと戒められた。人間の言い方では危ないのであります。事実ペテロはイエス様の前にどういうふうになったか31節を見ますとその事がわかります。「それからイエスは人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。するとペテロはイエスをわきにお連れして諫め始めた。イエスは振り返って弟子たちを見ながらペテロを叱って言われた「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている。・・・・。」イエス様ご自身のま近に苦しみと死が迫って来ている運命を話されたのであります。ペテロが戒めると「サタン!引き下がれ」と激しい口調で叱られています。イエス様がどのような意味でメシアであられるのか弟子たちにその深い真実の意味は判っていない。イエス様の十字架の苦難と死に至ってはじめてはっきりされて来る。全ての人間の罪を十字架の上で流れる御血と肉の痛みで贖われてメシアとしての救い主であられる。ペテロたちが「あなたこそ、みんなが待望している救い主メシアです」と告白してもイエスご自身の十字架の死を持っての救い主というイエス様の内容の次元が全く違っているのであります。その時まで判らない、秘められた神の救いの御業であるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

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