2024年10月13日(日)聖霊降臨後第二十一主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教2024年10月13日 聖霊降臨後第21主日

アモス5章6-7,10-15節
ヘブライ4章12―16節
マルコ10章17-31節

説教題 「永遠なるものを前にしての人間の無力さ、しかし、神が道を開いて下さる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所のイエス様の教えには難しいことが二つあります。一つは、金持ちが神の国に入れるのは駱駝が針の穴を通り抜けるよりも難しいと言っていることです。ああ、イエス様は、金持ちは神の国に入ることはできない、と言っているんだな、と。じゃ、貧乏人ならできるのかと言うと、そうでもないことが弟子たちの反応からうかがえます。金持ちが神の国に入るのは駱駝が針の穴を通り抜けるより難しいのだったら、いったい誰が救われるのだろうか?と。つまり、金持ちでさえダメなんだからみんな無理だという反応です。しかし、イエス様は人間には不可能でも神には不可能ではないと言われます。ということは、神の国に入れることを神が可能にしてくれるということです。神はどのようにそうするのか?後ほど見ていきます。

 もう一つの難しい教えは、イエス様が親兄弟家財を捨てないと永遠の命を持てないぞと言っているように見えることです。なんだか危ない宗教団体のように聞こえます。それだけではありません。十戒の第四の掟「汝、父母を敬え」はどうなるのか?家財はともかく親兄弟を捨てよなどとは「父母を敬え」に反するのではないか?しかし、イエス様の教えには反社会的なことも矛盾もないのです。このことも後ほど見ていきましょう。

2.「神の国」、「永遠の命」について

まず、「神の国」とか「永遠の命」とは何かを確認しなければなりません。意味をあいまいにしたまま話をするととんでもない方向に話は行ってしまいます。最近のキリスト教会では、「神の国」や「永遠の命」は将来本当に起こることではなく、キリスト信仰者が心の中で描く像のようなものだ、とか、この世の何か大切なものを象徴して言っているだけだ、などと教えるところもあります。しかし、このスオミ教会で私はイエス様やパウロが教える通りに、将来本当に起こることとして教えていきますので、ご了承ください。

 男の人は、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるのか?と聞きました。「永遠の命」と聞くと、普通は死なないこと、不死を思い浮かべます。この世で何百歳、何千歳になっても死なないで生き続けることです。ところが、聖書で言われる「永遠の命」は不死とは違います。なぜなら、それは一度この世で死ぬことを前提としているからです。だから、不死ではないのです。キリスト信仰では、いつか将来今のこの世が終わって新しい天と地が再創造される日が来る、その時すでに死んで眠りについていた人たちが起こされて、神から義(よし)と見なされた者は復活の体という、神の栄光を映し出す体を着せられて創造主の神の御許に永遠に迎え入れられる、そういう復活の信仰があります。このように復活を遂げて神の御許に迎え入れられて永遠に生きる命が「永遠の命」です。

 復活した者たちが迎え入れられる神の御許が「神の国」です。そこはどんなところかは聖書に言われています。まず、盛大な結婚式の祝宴に例えられます(黙示録19章、マタイ22章、ルカ14章)。これは、この世の労苦が完全に労われるところということです。また、「全ての涙が拭われる」ところとも言われます(黙示録214節、717節、イザヤ258節)。「全て」ですから、痛みの涙も無念の涙も全部含まれます。この世で被った不正義や悪が神の手で完全かつ最終的に清算されるところです(ローマ1219節、イザヤ354節、箴言2521節)。もう復讐心に引き回される苦しみも泣き寝入りの辛さも遠い世界になるところです。さらに、フィンランドの教会の葬儀ではいつも「復活の日の再会の希望」が言われます。つまり、「神の国」は懐かしい人たちとの再会の場所であるということです。

 復活した者たちが迎え入れられるところをキリスト教では「神の国」とか「天の御国」とか「天国」と言います。そういうわけで、永遠の命を受け継ぐいうのは復活させられて永遠に「神の国」に迎え入れられることです。

3.永遠の命は人間の力や努力で獲得できるものではない

さて男の人は、永遠の命を受け継ぐには何をすべきかと聞きました。男の人はお金持ちだったので、永遠の命も何か正当な権利があれば所有できる財産か遺産のように考えたのでしょう。何をしたらその権利を取得できるのか?十戒の掟も若い時からしっかり守ってきました、もし他にすべきことがあれば、おっしゃって下さい、それも守ってみせます、と迫ったのです。これに対してイエス様はとんでもない冷や水を浴びせかけました。「お前には欠けているものがひとつある。所有する全ての物を売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすればお前は天国に宝を持つことになる/持つことができる(εξεις未来形)。それから私に従って来なさい」と。「天国に宝を持つ」とは、まさに永遠の命をもって神の国に迎え入れられることを意味します。地上の富と対比させるために永遠の命を天国の宝と言ったのでした。

 男の人は悲しみに打ちひしがれて退場します。永遠の命という天国の宝を取るか、それとも地上の富を取るかの選択に追い込まれてしまいました。一見するとこれは、人間というのは天国の宝という目に見えないものよりも目に見え手にすることができる地上の富に心が傾いてしまうものだ、という宗教・文化を問わずどこにでもありそうな教訓話に聞こえます。しかし、ここにはキリスト信仰ならではのもっと深い意味があります。それを見てみましょう。

 まず、この男の人は私利私欲で富を蓄えた人ではありませんでした。イエス様のもとに走り寄ってきて跪きました。息をハァハァさせている様子が目に浮かびます。永遠の命を受け継げるために何をしなければならないのですか、本当に知りたいのです、と真剣そのものです。イエス様に十戒のことを言われると、若い時から守っています、と。これは、自分が非の打ちどころのない人間であると誇示しているというよりは、自分は若い時から神の意思を何よりも重んじて、それに従って生きてきました、という信仰の証しです。イエス様もそれを理解しました。新共同訳には「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いてあります。「慈しんで」というのはギリシャ語の原文では「愛した(ηγαπησεν)」です。イエス様がその男の人を「愛した」とは、その人の十戒を大事に思う心、神の意思を重んじる心が偽りのないものとわかって、それで、その人が永遠の命を得られるようにしてあげたいと思ったということです。ところが同時に、その人が永遠の命を得られない大きな妨げがあることも知っていました。その妨げを取り除くことは、その人にとって大きな試練になる。その人はきっと苦悩するであろう。イエス様は、そうしたことを全てお見通しだったのです。愛の鞭がもたらす痛みをわかっていました。そして愛の鞭を与えたのです。

 それでは、この男の人の問題は一体なんだったのでしょうか?それは、神の掟を守りながら財産を築き上げたという経歴があったため、なんでも自分の力で達成・獲得できると思うようになり、永遠の命も財産と同じように自分の力で獲得できるものになってしまったということです。神の意思に従って生きて成功した人は往々にして、自分の成功はそうした生き方に対する神からのご褒美とか祝福と考えるようになることがあります。それで弟子たちが驚きの声をあげたことも理解できます。神から祝福を受けて繁栄した人が神の国に入れるのは駱駝の針の穴の通り抜けよりも難しいと言うのならば、それほど祝福を受けていない人はどうなってしまうのか?駱駝どころかディノザウルスが針の穴を通るよりも難しくなってしまうのではないか?財産を売り払ってしまいなさいというイエス様の命令は、今まで神の祝福の現れと思われていた財産が永遠の命に直結しないことを思い知らせるショック療法でした。永遠の命は、人間の力や努力で獲得できるものではないということを金持ちにも弟子たちにも思い知らせたのでした。

4.「永遠の命」の受け継ぎと「神の国」への迎え入れは神が可能にした

それでは、永遠の命を得て神の国に迎え入れられるのはどうやって可能でしょうか?イエス様は言われます。人間には不可能だが神には不可能ではない、と。つまり、人間の力で出来ないのなら、神が出来るようにしてあげようということです。どのようにして出来るようにするのでしょうか?

 神はそれをイエス様の十字架と復活の業をもって出来るようにしました。人間が持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、すなわち罪が人間の神の国への迎え入れを不可能にしている、その罪の壁を打ち破るためにイエス様は身を投じたのです!それがゴルゴタの十字架の出来事でした。イエス様は自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのです。人間は、イエス様の身代わりの死は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けるとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになります。罪を償われたら神から罪を赦された者として見なされるようになります。神から罪を赦してもらったから、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。罪の赦しという神のお恵みの中にとどまっている限り、この結びつきはなくなりません。結びつきがあるおかげで逆境の時も順境の時も全く変わらない神の守りと導きを受けて生きることができます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて、復活したイエス様と同じように神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられます。この大いなる救いは人間が成し遂げるものではなく、神がひとり子を用いて人間のために成し遂げたものです。人間はただそれを信じて受け取るだけでいいのです。そういうわけで、人間の力では不可能だった「永遠の命」の受け継ぎと「神の国」への迎え入れは、神の力で可能になったのです。本当に神にしか出来ないことでした。だからイエス様は、神が唯一の善い方であると言われたのです。

5.キリスト信仰は親兄弟家財を心で捨てている

しかしながら、この時はまだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。なので、人間には不可能でも神には不可能でないと言われても、まだ理解できません。ペトロの言葉はまだ理解できていないことを示しています。イエス様、あなたは金持ちの男に対して、全てを捨てて貧しい人に施せば永遠の命を得られると言われました。その人は捨てられませんでしたが、私たちは全てを捨ててあなたに従ってきました。それならば、私たちは永遠の命を得られるのでしょうか?という具合です。これに対してイエス様は、私のため福音のために親兄弟家財を捨てる者は永遠の命を得ると言ったことになっています(新共同訳では)。これだと、ペトロたちは得られると言っていることになります。しかし、それだと永遠の命も結局は、人間がエイヤー!と気合を入れて親兄弟家財を捨てたら得られるものになってしまいます。人間の力が決め手になってしまいます。これでは人間に不可能なことではなくなってしまいます。話が滅茶苦茶になります。

 この混乱は問題の個所のギリシャ語の原文が少し複雑なために起きます。二重否定があったりして少し厄介な原文ですが、素直に訳すと次のような流れになります。ペトロが、私たちは全てを捨ててイエス様に従いました、私たちは永遠の命は大丈夫でしょうか?と聞きます。それに対してイエス様は次のように答えたのです。「もしこの世で捨てたものを100倍にできず、次の世で永遠の命も得られないのなら、この世で私と福音のために親兄弟家財を捨てたことにならない。」つまり、もしこの世で捨てたものを100倍にできて、次の世で永遠の命も得られるのなら、この世で親兄弟家財を捨てることになる、というのです。この世で100倍のものを得て次の世で永遠の命を得ることが先で、その次に親兄弟家財を捨てることが来るというのです。普通は逆に考えます。親兄弟家族を捨てたら100と永遠の命が来ると。ご褒美だからです。しかし、原文の素直な訳はその逆で、先に100と永遠の命を得ないと、親兄弟家財を捨てることもないと。本日の福音書の個所の最後のところでイエス様は、後のものが先になり先のものが後になる、と順序が逆転することを言っていますが、それと見事にかみ合うのです!(素直な訳がどうしてこのようになるかについて、本説教のテキストの終わりに解説をつけて教会ホームーページに載せます。興味ある方はご覧下さい。)

 ペトロは、私たちは全てを捨てました、永遠の命は大丈夫ですか、と聞いたのに対して、イエス様は、先に永遠の命を得ないと捨てたことにならないと応じました。それでは、どのようにして先に100倍と永遠の命を得られるのか?言うまでもなくそれは、十字架と復活の出来事の後でイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとそうなるのです。神と結びつきを持って生きられるようになることが、捨てたものを100倍にして得られることです!この結びつきを持って生きる者に永遠の命が約束されているのです。それでは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者は本当に親兄弟家財を捨てているのでしょうか?ここで宗教改革のルターに登場してもらいます。ルターが問題の個所を素直な訳で考えていることは明らかです。

 ルターは、親兄弟家財を持っていてもイエス様を救い主と信じる信仰と衝突しない限り持っていいのだ、律法の掟に従って父母を敬い、財産を隣人のために役立てよと教えます。ただし、持つことと信仰が衝突して、どっちかを選ばなければならなくなったら親兄弟家財を捨てるのだ、と言います。この心構えを持っていれば、衝突がない時でも既に「心で捨てている」ことになると言うのです。「捨てる」とは「心で捨てている」ということなのです。「心で捨てる」なんて言うとなんだか真心がこもっていない冷たい感じがします。しかし、そうではないのです。先週の説教でもお教えしたように、親兄弟家財は全て神から世話しなさい守りなさい正しく用いなさいと託された贈り物です。贈り主がそう言って贈った以上は感謝して受け取って一生懸命に世話し守らなければならない。肝心なことは、贈り主が贈り物よりも上にあるということです。これが「心で捨てる」ことです。もし、贈り物が贈り主を捨てろと言ってきたら、信仰者は贈り物を捨てなければならないのです。

6.勧めと励まし

それでは、もし贈り主と贈り物が衝突したらどうなるでしょうか?もし肉親がキリスト信仰に反対して捨てろと言ってきたら、どうしたらいいのか?もう心の中ではなくて文字通り捨てて家を出るということになるのでしょうか?イスラム教国のようにキリスト教徒になれば家族といえども身の危険が生じる場合は家を出るのはやむを得ないと思います。現代の日本ではそういう危険はないでしょう。家に留まっても、イエス様と福音を選んで永遠の命と神の国への道を歩んでいれば、それに反対する肉親を心で捨てているということは起きています。ただ、同じ屋根の下にいて「心で捨てている」などと言うと、何か冷え切った人間関係の感じがします。しかし、信仰者の側ではそうではありません。そのことを最後に述べて、本説教の締めにしたいと思います。

 これは以前にもお話したことですが、私が昔フィンランドで聖書の勉強を始めた時、教師に次の質問したことがあります。「もし親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり信仰をやめさせようとしたら、第4の掟『父母を敬え』はどうしたらよいのか?」彼は次のように答えて言いました。「何を言われても取り乱さずに落ち着いて自分の立場を相手にも自分にもはっきりさせておきなさい。意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てる、親から捨てられるという事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち取れるかもしれない。場合によっては親に信仰の道が開ける可能性もある。だから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に自分の思いと願いを打ち明け祈りなさい」。使徒パウロはローマ12章の中で、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は高ぶることや偉ぶることと無縁であると教えます。使徒ペトロは第一ペトロ3章の中で、キリスト信仰の希望について説明を要求されたら穏やかに敬意をもって正しい良心で弁明しなさいと教えています。誠にその通りです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

問題となっているマルコ10章29~30節

 ουδεις εστιν ος αφηκεν οικιαν η αδελφους η αδελφας η μητερα η πατερα η τεκνα η αγρους ενεκεν εμου και ενεκεν ευαγγελιου,

 εαν μη λαβη εκατονταπλασιονα νυν εν τω καιρω τουτω οικιας και αδελφους και αδελφας και μητερας και τεκνα και αγρους μετα διωγμων, και εν τω αιωνι τω ερχομενω ζωην αιωνιον.

1)素直な解釈は、主節文をουδεις εστιν (…)του ευαγγελιουまでとして、εαν 以下は英語のifの文と同じように考えます。

「親兄弟家族を私と福音のために捨てた者はいない、もし(捨てたものを)この世で100倍にして得ず、次の世で永遠の命を得ないのならば。」

 この解釈だと、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼で永遠の命を先に得たのなら、親兄弟家財という贈り物はいつでも捨てられる、心で捨てている、ということになります。ルターはここをこのように解釈したのではないかと思います。

2)親兄弟家財を捨てたら永遠の命を得るという理解は、εαν 以下を関係節ος αφηκεν (…) の中に含めてοςαφηκεν …)εαω μη λαβη (…) と見なす解釈ではないかと思います。

「親兄弟家財を私と福音のために捨てて、それらをこの世で迫害は伴うが100倍にして得ない者、次の世で永遠の命を得ない者は誰もいない。」

これだと、捨てないと得られないということになり捨てないといけないというプレッシャーがかかります。

聖餐式

新規の投稿