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主日礼拝説教 2024年11月3日(全聖徒主日 イザヤ25章6-9節 黙示録21章1-6節 ヨハネ11章32-44節
説教題 「キリスト信仰とはつまるところ復活信仰なのだ」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課はイエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行った出来事です。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。その中で会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の出来事は詳しく記されています。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言うことがあります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」と言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。キリスト信仰では本気で眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?と心配する人が出てくるかもしれません。しかし、キリスト信仰では心配無用です。天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神が見守ってくれるからです。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、死からの「復活」があると信じるからです。復活とは、本日の日課の前でマリアの姉妹マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです(21節)。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まった、それが今日の黙示録21章の1節で言われるように、神が全てを新しく造り直す時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。ただし天と地は新しく造り直されるので、この世が終わっても新しい世が始まります。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点とはそういう途方もないものなのです。死者の復活は、まさに今の世が終わって新しい世が始まる境目に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じだという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになるのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が生き返らせた人たちは「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることが復活です。ところが、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんなまだ肉体がそのままなので「復活」ではありません。時々、イエス様はラザロを復活させたと言う人もいるのですが正確ではありません。「蘇生」が正解でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんな後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今は神のみぞ知る場所にて「眠って」いて復活の日を待っているのです。
本日の説教では、このキリスト信仰に特異な復活信仰について、本日の他の日課イザヤ25章と黙示録21章をもとに深めてみようと思います。深めた後で、なぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのかということを考えてみようと思います。
復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられた者は神の御許に迎え入れられる、その迎え入れられるところが「神の国」ないしは「天の国」、天国です。黙示録21章で言われるように、それは天から下ってきます。しかも下ってくる先は今私たちを取り巻いている天地ではなく、それらを廃棄して新たに創造された天と地です。その迎え入れられるところはどんなところか?聖書にはいろいろなことが言われています。黙示録21章では、神が全ての涙を拭われるところ、死も苦しみも嘆きも悲しみもないところと言われています。「全ての涙」とは痛みや苦しみの涙、無念の涙を含む全ての涙です。
特に無念の涙が拭われるというのはこの世で被ってしまった不正や不正義が完全に清算されるということです。この世でキリスト教徒を真面目にやっていたら、世の反発や不正義を被るリスクが一気に高まります。どうしてかと言うと、創造主の神を唯一の神として拝んだり、神を大切に考えて礼拝を守っていたら、そうさせないようにする力が働くからです。また、イエス様やパウロが命じるように、危害をもたらす者に復讐してはならない、祝福を祈れ、悪に悪をもって報いてはならない、善をもって報いよ、そんなことをしていたら、たちまち逆手に取られたり、つけ入れられたりして不利益を被ります。しかし、この世で被った反発や不正義が大きければ大きいほど、復活の日に清算される値も大きくなります。それで、この世で神の意思に沿うように生きようとして苦しんだことは無駄でも無意味でもなかったということがはっきりします。
まさにそのために復活の日は神が主催する盛大なお祝いの日でもあります。黙示録19章やマタイ22章で神の国が結婚式の祝宴に例えられています。神の御許に迎え入れられた者はこのように神からお祝いされるのです。天地創造の神がこの世での労苦を全て労って下さるのです。真に究極の労いです。
本日の旧約の日課イザヤ書25章でも復活の日の祝宴のことが言われています。一見すると何の祝宴かわかりにくいです。しかし、8節で「主は死を永遠に滅ぼされた、全ての顔から涙を拭われた」と言うので、復活の日の神の国での祝宴を意味するのは間違いありません。そうわかれば難しい7節もわかります。「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼした。」布を滅ぼすとは一体何のことか?この節のヘブライ語原文を直訳すると、「主はこの山で諸国民を覆っている表面のものと諸民族を覆っている織られたものを消滅させる」です。「覆っているもの」というのは人間が纏っている肉の体を意味します。どうしてそんなことが言えるかというと、詩篇139篇13節に「私は母の胎内の中で織られるようにして造られた」とあるからです。ヘブライ語原文ではちゃんと「織物を織る」という動詞(נסך)が使われています。なのに、新共同訳では「組み立てられる」と訳されておもちゃのレゴみたいになって織物のイメージが失われてしまいました。今見ているイザヤ書25章7節でも同じ「織物を織る」動詞(נסך)が使われていて人間が纏っているものを「織られたもの」と表現しています。それが消滅するというのは、復活の日に肉の体が復活の体に取って代わられることを意味します。
人間が纏っている肉の体は神が織物を織るように造ったという考え方は、パウロも受け継いでいます。第二コリント5章でパウロはこの世で人間が纏っている肉の体を幕屋と言います。幕屋はテントのことですが、当時は化学繊維などないので織った織物で作りました。まさにテント作りをしていたパウロならではの比喩です。幕屋/テントが打ち破られるように肉の体が朽ち果てても、人の手によらない天の衣服が神から与えられるので裸にはならないと言います。まさに復活の体のことです。
次になぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのか見ていきましょう。
そのため少し本日の日課の前の部分に立ち戻らなければなりません。イエス様とマルタの対話の部分です。兄弟ラザロを失って悲しみに暮れているマルタにイエス様は聞きました。お前は私が復活の日に私を信じる者を復活させて永遠の命に与らせることが出来ると信じるか?マルタの答えは、「はい、主よ、私はあなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)」。
マルタの答えで一つ注意すべきことがあります。それは、イエス様のことを神の子、メシア救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語原文の正確な意味は(ギリシャ語の現在完了です)「過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。つまり、今イエス様と対話しているうちにわかって信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということです。このことに気づくとイエス様の話の導き方が見えてきます。つまり、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会できることはわかってはいた。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと認めたくない、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと願うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても遠い世界の話か気休めにしか聞こえないでしょう。
しかし、復活信仰には死の引き裂く力を上回る力があります。復活そのものが死を上回るものだからです。どうしたら復活信仰を持つことが出来るでしょうか?それは、神がひとり子を用いて私たち人間に何をして下さったかを知れば持つことができます。私たちは聖書を読むと、自分の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっていることが見えてきます。そうした罪は人間なら誰しもが生まれながらに持ってしまっているというのが聖書の立場です。人間が創造主の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしたい、この世から別れた後も神のもとに永遠に戻れるようにしたい、そのためには結びつきを持てなくさせている罪をどうにかしなければならない、まさにその解決のために神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪を全て負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせて罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る道を人間に切り開かれました。まさにイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。
神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける番になります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったということは、これからは神の罪の赦しのお恵みの中で生きるということです。たとえ罪の自覚が生じても、自分には罪を圧し潰す偉大な力がついていてくれているとわかるので安心して人生を歩むことができます。目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵同様です。神から頂いた罪の赦しのお恵みから外れずそこに留まっていれば神との結びつきはそのままです。この結びつきを持って歩むならば死は私たちの復活到達を妨害できません。
マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまう程でした。今すぐ生き返ることを望むくらいでした。これはキリスト信仰者でもそうなります。しかし、マルタはイエス様との対話を通して、一時弱まった復活と永遠の命の希望が戻ったのです。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認できて見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失って鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰に留まるだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかです。ここが大事な点です。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。
それにもかかわらずイエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼には復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。
このようにラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する力があることを示すこと自体が目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、自分が復活であり永遠の命であることを示したのでした。イエス様はラザロを生き返らせる前に神に祈りました。その時、周りにいる人たちがイエス様のことを神が遣わした方だと信じるようになるため、と言われました。これを聞くと大抵の人は、イエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行えば、みんなは、イエス様はすごい!本当に神さまから遣わされた方だ、と信じるようになる、そのことを言っていると思うでしょう。ところが、それは浅い理解です。今まで見てきたことを振り返れば、そうではないことがわかります。イエス様がラザロをはじめ多くの死んだ人たちを生き返らせたのは、イエス様にとって死とは復活の日までの眠りにすぎず、彼には復活の日に目覚めさせる力があることを知らせるために行ったのでした。それを知ることでイエス様は本当に神から遣わされた方だと信じるようになる、そのことを言っているのです。キリスト信仰とは、つまるところ復活信仰であることを知らせるために神はひとり子をこの世に遣わし、死者を生き返らせたのです。
最後にイエス様が涙を流したことについてしてひと言述べておきます。イエス様はマリアや一緒にいた人々が泣いているのを見て、「心に憤りを覚え、興奮した」とあります。イエス様は何を怒って興奮したのか?ギリシャ語の原文はそうも訳せますが、感情を抑えきれない状態になって動揺したとか、深く心が揺り動かされて動揺したとか、感極まって動揺したとも訳せます。フィンランド語の聖書はそう訳しています。私もその方がいいかなと思います。イエス様はラザロと二姉妹がいるべタニアに行く前、自分はラザロを生き返らせると自信たっぷりでした(11節)。それなら、泣いているマリアや人々に対しても同じ調子で落ち着き払って「泣かなくてもよい、今ラザロを生き返らせてあげよう」と言えばよかったのです。しかし、そうならなかった。イエス様はみんなが悲しんで泣いているのを見て、悲しみを共感してしまったのです。まさにヘブライ4章15節で言われるように、イエス様は「私たちの弱さに同情できない方ではない」ことが本当のこととして示されたのです。
イエス様は、一方で神のひとり子として死者を生き返らせる力がある、自分が父に願えば父は叶えて下さるとわかっていながら、他方ではそのわかっていることをもってさえしても、共感した悲しみを抑えることはできなかったのです。それなので、ラザロを生き返らせる前に神に祈った時は、一方で自分を覆いつくした大きな悲しみ、他方で神は大きな悲しみよりも大きなことを行ってくれるという信頼、この相反する二つのものが競り合う中での祈りだったと思います。しかし、信頼が勝ちました。それを表すかのような大声で「ラザロ、出てきなさい!」と叫んだのです。私たちも困難の時、神に助けを祈る時は心配と信頼が競り合います。しかし、祈ることで信頼が勝っていることを神に対しても自分に対しても示すことが出来ます。ヘブライ4章16節はまさに信頼が勝つように励ましてくれる聖句です。「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜になかった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
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