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映画「東京物語」を観て
今年の夏フィンランド滞在中、現地のテレビで日本の映画を観る機会があった。3つほど放映され、そのうちの一つは小津安二郎監督の「東京物語」。 戦後間もない1953年の制作。現地の新聞の映画評で5つ星だったので、何十年ぶりかで観てみた。(先週のコラムでは3つの中のもう一つ、是枝裕和監督の「ワンダフルライフ」について書きました。)
ストーリーは、尾道に住む老夫婦が東京の息子・娘の家族を訪問しに上京した時の出来事。息子・娘たちは一見親孝行に見えたものの結局は自分の都合を優先して両親の世話をたらい回し。ただ、戦死した次男のまだ若い未亡人だけが仕事を休んでまで献身的に義父母の世話をする。そういうコントラストはあるのだが、老夫婦を中心にした輪のようなものの中の凹凸程度なもので、全体としては言葉が通じ合い心が通い合う一つの小世界(コスモス?)を形成していると言ったら言い過ぎか。
そのコスモスに魅かれるように自分もほとんどその一部のような雰囲気で見ていると、キリスト教徒はここまで、ということが。それは、尾道に帰った後で老母が旅の疲労が原因で急逝してしまうのだが、お寺で盛大な葬式が行われる場面。何人もの僧侶が総出で延々とお経を唱える。そこで三男がやるせなさそうに外に出てしまうのだが、次男の嫁が声がけして中に戻る。この通じ合いのコスモスから出てはいけないのだ。とてもキリスト教など入り込む余地はないと思い知らされた。
ところが、終戦から戦後間もない頃の日本はキリスト教ブームだったのだ。1950年代のSLEYの宣教師の記録を見ても、どこの教会も人で、特に若者で満員だったと。コスモスから抜け出られたということなのか?そんなことを考えながら葬式の場面を見ていて突然思い出したのは、黒澤明監督の「生きる」の一場面。区役所の職員たちが、今は亡き課長がなぜ公園づくりに命を懸けていたのかを仏壇の前で話し合う。葬式の儀式は見せなかったと思う。なので葬式は背景扱い。「東京物語」と対照的ではないかなどと思った。ちなみに黒澤監督の作品に「我が青春に悔いなし」という、戦時中に反政府活動を行ったために牢獄で獄死した男の内縁の妻の半生を描いたものがある。その制作後の監督の言葉、「僕は、日本が新しく立ち直るのに大切なのは自我を尊重することだと信じていた。今でも信じている。そういう自我を貫いた女を僕は描いたんだ。
(ドナルド・リチ―著「黒澤明の映画」三木宮彦訳から)
今はどうだろう?かつて栄えたキリスト教会は戦後間もない世代の人たちが高齢化してなかなか後が続かず、この先どうなるかという状態。祟りや穢れで人心を惑わす宗教団体だと人や金が集まるのに。あの麗しきコスモスは?官製の郷土愛、愛国心に取って代わられていないか?小津監督が生きていたらどう思うだろう?「秋刀魚の味」の中で、かつて撃沈された駆逐艦の元艦長に「日本は負けてよかったんだ」と言わせた。さて、今の嵐吹き荒れる大世界の中でのあなたの立ち位置は?