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死者との向き合い方は「慰霊」?「追悼・追憶」?
先週のコラムで、キリスト教の「祝福」と日本語の通常の「祝福」の違いについて述べました。同じ言葉を使っても意味が異なるという例でした。今回は、異なる意味を持つ言葉なのに同じことを意味すると誤解されてしまっていることについてです。それは、亡くなった方との向き合い方を言う時、「慰霊」と言うのか、「追悼または追憶(メモリアル)」と言うのか、と言う問題です。
「慰霊」は文字通り霊を慰めることです。「追悼または追憶」は思い出(メモリアル)に関わることで、霊を慰めるという観点はありません。しかし、実際には日本語で「慰霊」と言っているものが英語でmemorial serviceと訳されたり(フィンランド語ではmuistotilaisuus)、逆もまたしかり。例として安倍元首相が首相時代の2015年に米国議会で行った演説を見てみましょう。第二次大戦中の米国の戦争犠牲者に言及する下りで次のように述べました。「先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼を捧げます。とこしえの、哀悼を捧げます。」(I offer with porfound respect my eternal condolences to the souls of all American people that were lost during World War II.)この演説の中で元首相は硫黄島の戦いに従軍した元米軍将校が日米合同の記念式典に参加した時の発言を引用しました。元将校曰く、「(式典に参加した目的は)双方の戦死者を追悼し、栄誉を称えるためです。」(to pay tribute to and honor those who lost their lives on both sides 以上の日本語訳は日本政府による)
元首相が敬意を表するのは「魂」という死者の現在の有り様。元将校の場合は、命を落とした人という過去の有り様。魂ではありません。硫黄島の記念式典も、英語の原文ではmemorial servicesという追悼・追憶の式なのに、日本語訳では「慰霊祭」に変身。フィンランドの弔辞の決まり文句の一つは、「故人の思い出に敬意を表します」です。魂でも霊でもありません。
かつて政治学者の京極純一は「日本の政治」の中で、死者の霊を慰めるとか魂を鎮めるというのは、もし怠れば霊の機嫌を損ねて祟られるという恐れと一体になっている、日本の公的・私的空間にはそういう鎮魂慰撫の影響が見られ、日本人の行動様式の無視できない要因になっていると。キリスト信仰にあっては、宗教改革のルターも言うように、亡くなった方は痛みや苦しみから解放されて復活の日まで安らかに眠っています。なので、そっとしてあげます。今はその愛すべき方と、その方と過ごせた日々を与えて下さった神に感謝し、過去の大切な思い出と将来の復活の日の再会の希望を胸に抱いて今を生きるというスタンスになると思います。