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説教題「神はあなたに良い業を始め、それを主の再臨の日に完成させる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
先週キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。クリスマスまで4つの日曜日を含む期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主の降臨を待つ期間です。クリスマスの日になると私たちは救い主を贈られた天地創造の神に感謝と賛美を捧げ、人間の姿かたちを取って降臨した救い主の誕生をお祝いします。この救い主の降誕を待つ期間、私たちの心は2千年以上の昔に今のイスラエルの地で実際に起こった救世主の誕生に向けられるのです。
このように待降節は一見すると過去の出来事に結びついた行事に見えます。しかし、先週も申しましたように、私たちキリスト信仰者はそこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。実に私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。そのため待降節の期間は主の第一回目の降臨に心を向けつつも、第二回目の再臨にも思いを馳せる期間です。クリスマスをお祝いして、ああ今年も終わった、また来年、と言って飾りつけと一緒に片づけてしまうのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を思い起こしてそれを保っていかなければなりません。そういうわけで今日も、本日定められた聖書の個所を通して再臨を待ち望む心を思い起こしましょう。
本日の福音書の日課は洗礼者ヨハネが活動を開始する場面です。神の言葉がユダヤの荒野にいたヨハネに降り、ヨハネはそこから出てヨルダン川流域の地方に出て行って、罪の悔い改めの洗礼を受けなさいと宣べ伝え始めました。そして、大勢の人々がヨハネの洗礼を受けようと集まってきました。この福音書を書いたルカは、これこそ旧約聖書イザヤ書40章に預言されていたことの実現だとわかって、それを引用して書き出します。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
荒れ野で叫ぶ声とは洗礼者ヨハネの宣べ伝えの声です。ヨハネが整えよ、まっすぐにせよ、と命じた「主の道」の「主」とはイエス様のことです。イエス様の道を整えよ、その道筋を真っ直ぐにせよとは具体的に何を意味するのでしょうか?ヨハネは続けて、「山と丘はみな低くされる、曲がった道は真っ直ぐに、でこぼこの道は平らになる」と言います。聞いていると、なんだかイエス様が歩きやすい道を整備しなさいと言っているように聞こえます。イエス様はでこぼこ道や曲がった道を歩くのが苦手だったということでしょうか?
いいえ、そういうことではありません。ここのイザヤ書の引用はイエス様の足について言っているのではなく、イエス様を迎える立場にある私たちの心のことを言っているのです。それがわかるために、まず、「道を整えよ、道筋を真っ直ぐにせよ」と命じた後に来ることを見てみましょう。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と言います。全部未来形で将来起こることを言っています。
「山と丘は低くされる」と言う時、「低くされる」のギリシャ語原文の動詞(ταπεινοω)は「ヘリ下させる」という意味があります。つまり、山や丘というのは高ぶった人やその心を意味し、それをヘリ下させるということです。暗に人の心を言っているのです。「谷は全て埋められる」というのは、人の心のことを言っていないようにみえます。ところが、引用元のイザヤ書40章4節のヘブライ語の原文を見ると、「埋める」という動詞は使われていません。「高くする」という動詞(נשא)です。「谷底を高くする」という言い方です。ちょっと変ですが、要は、低くされた人を高く上げてあげること、谷底に落ちたような状態にある人を引き上げてあげること、ヘリ下った心の持ち主を高く上げることを意味します。まさに人の心について言っているのです。イエス様が、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされると言っている旧約聖書の背景がここにあります。
「曲がった道はまっすぐに」ですが、ルカ福音書のギリシャ語の原文、引用元のイザヤ書のヘブライ語原文を見ても「道」という言葉はありません。一般的に「曲がった」ことを言っています。それで「道」と理解する必要はないのです。「曲がった」というのはギリシャ語の単語をみてもヘブライ語の単語を見ても(σκολιος、עקב)、ずるい、悪賢い、陰険という意味があり、まさに心が曲がった状態を意味するのです。それが「まっすぐになる」と言うのは、これも単語の意味を調べると(מישור)、公正な、正しい、義に満ちたという意味があります。なので、ここは正しい心、真っ直ぐな心のことを言っているのです。このように、主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ、と命じて、そうすれば高ぶった心は低くされ、低められた心は引き上げてもらえ、曲がった心は真っ直ぐになって、神の救いを見ることになるのだ、という流れです。一見、平らで歩きやすい道のことを言っているようですが、実は心のことを言っていて、神の救いを見るのに相応しくなかった心が相応しいものに変わることを言っているのです。このように聖書は原文に遡ってみるといろんな発見があり、日本語の理解をさらに進めてくれます。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とは、神と神が贈る救い主が私たちのところにやってくる、だから、私たちのところに来やすいように道が曲がりくねっていればそれを真っ直ぐにして、道の上の障害物を取り除きなさいということです。私たちの側でバリアフリーにしなさいということです。
私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを私たちはどうやって取り除くことができるでしょうか?「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在でした。それが、最初の人間が悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言葉を疑い、神がしてはならないと命じたことをしてしまいました。それが原因で人間の内に神の意思に背こうとする罪が入り込み、神聖な神との結びつきが失われてしまいました。その結果、人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロがローマ6章23節で、罪の報酬は死であると言っている通りです。人間は代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。
これに対して神はどうしたでしょうか?身から出た錆だ、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世から離れた後は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう決めて人間を救う計画を立てました。そして、それを実行に移すためにひとり子をこの世に贈られたのでした。
神は人間の救いのためにイエス様を用いて次のことを行いました。人間は自分の内に居座るようになってしまった罪を自分の力で追い出すことができません。それで人間は罪にまみれ罪の力に服したまま、神との結びつきがない状態でこの世を生きることになります。この世から離れる時も神との結びつきがないまま離れることになってしまいます。そこで神は、人間の罪を全部イエス様に負わせて、彼があたかも全ての罪の責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を人間に代わって受けさせました。イエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開かれました。
このようにして、遠いところにおられる神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、その彼を通してご自身の愛と恵みをもって私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを持てて今のこの世だけではなく次に到来する世も合わせた大いなる人生を生きられるようにするためでした。
それでは、神がこのように私たちに近づかれたのならば、私たちはどうやって自分のうちにある障害物を取り除いて、道を整えて、神の近づきを受け入れることができるでしょうか?
それは私たちが、この神の近づきは人種、民族に関係なく全ての人間に向けられたもので、この自分に対しても向けられていると気づいて、それでこの大役を果たしたイエス様を自分の真の救い主と信じて洗礼を受ける、そうすることでバリアフリーになって神の近づきを受け入れることができます。まさに洗礼の時、心の中にある主の道が真っ直ぐにされて聖霊が入ったのです。聖霊が入ったことは、次のような聖霊の働きから明らかです。洗礼を受けたことでイエス様が果たしてくれた罪の償いが自分の償いになったのだ、自分は罪を償ってもらったのだ、罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見てもらえるようになったのだ、神から罪を赦された者と見てもらえる以上、自分はもう罪の側にいて生きるのではなく、神の側にいて生きるようになったのだ。こういうふうに新しい命が自分にあるのだとわかるのは聖霊が働いている証拠です。聖霊なしではわかりません。
聖霊の働きは、新しい命の自覚をもたらすことで終わりません。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したことではありません。神の意思に反しようとする罪はまだ内に残っています。たとえ行為に出さないで済んでも、心の中に現れてきます。そのような自分を神聖な神は本当に罪を赦された者として見てくれるのか、心配になります。その時、キリスト信仰者は自分の内にある罪を見て見ぬふりをせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈ります。神への立ち返りをするのです。罪を見て見ぬふりをして赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。このようにキリスト信仰者が自分の内に罪があることに気づいて神への立ち返りをするというのも聖霊が働いている証拠です。
神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。この時キリスト信仰者は自分にはイエス様の償いがある、神との結びつきは失われていないとわかり、神の側にいて生きる者の自覚、洗礼の時に始まった新しい命の自覚が戻ります。このように自覚に戻れるのも聖霊が働いている証拠です。
実にキリスト信仰者は聖霊の働きにより、罪の自覚と神から赦しを受けることを何度も何度も繰り返しながら復活と永遠の命が待っている神の国に向って進んでいくのです。先週の説教でも申しましたように、これを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。そこで、私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、逆に神と私たちの結びつきは一層強められるので罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。また罪の自覚と赦しを繰り返していくと、高ぶった心は低くされ、谷底に落とされた状態からは引き上げられて、曲がった心は真っ直ぐにしてもらえます。福音書の日課の最後のところで言われるように、最終的に神の救いを見ることになります。つまり、主の再臨の日、「お前は真に神の側にいて生きてきた」と裁きの主から認められるのです。本日の使徒書の日課フィリピ1章6節で、キリスト信仰者に良い業を始めた神はイエス様の再臨の日にその業を完成させる、と言われていますが、真にその通りです。
主の再臨の日に神が完成させる善き業について、以上は神と人間の関係に関わる善き業でした。説教の終わりに、人間と人間の関係に関わる善き業について見てみます。つまり、私たちのこの世での営みや活動の善き業についても神は完成させられることを述べたく思います。宗教改革のルターが言ったのではないかと考えられている言葉に次のようなものがあります。ある人がルターに聞きました、先生、明日世界が滅亡するとわかったら、今日何をしますか?と。ルターはこう答えたそうです。「そうであっても、私は今日リンゴの木を植えて育て始める。」
明日世界が滅亡するのに今日リンゴの木を植えて育て始めるなんてどうかしていると思われるでしょう。今日植えたリンゴが明日までに実を結べる筈はなく、普通に考えたら全くナンセンスです。ルターはどうしてそんなことを言ったのでしょうか?
それはキリスト信仰の終末論のためです。ただし、終末論と言っても、この世が終わって本当に何もなくなってしまう消滅論ではありません。この世が終わっても次に新しい天と地が創造されて、死から復活させられた者が新しい世の構成員になるという新創造論なのです。終末もありますが、その後も続きがあるのです。まさに再創造あっての終末論、永遠の続きがあることを見据えた終末論です。それなので、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえこの世で果たせず未完で終わってしまっても、次に到来する世で創造主の神が完成したものを見せてくれるので、この世で途中で終わっても無意味とか無駄だったということは何もないのです。それで、この世で悪や不正に与せず、それに反対するのが大事なのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫できるからです。また、この世で障がい者が出来るだけ普通の社会生活を送れるように支援することが大事なのは、新しい世で天使のようになったその人と出会えるからです。イエス様は復活した者はみな天使のようになるのだと言っていました。明日この世が終わるという時に今日リンゴの木を植えるのが大事なのは、新しい世で実を豊かに実らせているその木に出会えるからです。今日リンゴの木を植えるというのは、今日悪と不正に与せず反対すること、今日障がい者を支援することと同じです。新しい世で実を豊かに実らせる木に出会えるというのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫すること、新しい世で天使のようなその人と出会うことと同じです。この世で始められた善い業を神は必ず完成させられるのです。
このように、イエス様の再臨を待ち望むキリスト信仰者は、この世に終わりがあることを意識しているにもかかわらず、この世で果たすべきことをちゃんと果たすことが出来るのです。意識しているにもかかわらず、と言うよりは、まさに意識しているから果たすことが出来るのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。