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2024年12月15日(日)
聖書:ルカ福音書3章7~18節
説教題:「悔い改めに相応しい実を結べ」
今日の聖書はルカ福音書3章であります。神から遣わされたヨハネという人が荒野に現れて「悔い改めよ」と叫びました。その声はユダヤの全土に鳴り響きました。このヨハネの叫びは人々の心を鋭く刺激する権威を持ったものでしたからヨハネの叫びを聞いた民はみな自分の生活を顧みて道徳的にも良心に訴えられる反省すべき点を見つめたのでしょう。また神の審判の近いことを感じ恐れおののいたかも知れません。彼らはユダヤの全土からヨルダン川へやって来てヨハネから「罪の許しを得る悔い改めのバプテスマ」を受けたのでした。バプテスマのヨハネはこれらの群衆向かって言ったのです。それが今日の聖書に書いてあります。3章7節からの言葉でありました。「蝮の子らよ!差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか。悔い改めに相応しい実を結べ『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことがお出来になる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる」・・・・。
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これはもう刺激的な言葉であります。ユダヤ人の群衆に向かって「お前たちは蝮の子らだ」と言うのです。神の怒りの下にあると言うのです。蝮と言うのは荒野の岩穴に潜んでいる毒蛇であります。人々もよく知っている恐ろしい蛇であります。神様から特別に選ばれている民族である誇りに思っているユダヤの民に向かって「蝮の裔(すえ)だ」と呼んでいるのです。来らんとする神の怒りを逃れられる、とでも思っているのか。各人は自己の生活を悔い改めて良い実を結べと迫って叫ぶのであります。罪を悔い改めなければ民族の伝統をいくら誇ってもユダヤ人であれば誰であれ切り倒されて滅亡の火に投げ込まれるのだ!と叫んでいるのです。悔い改めるならユダヤ人たちが軽蔑する異邦人であっても信仰的には「アブラハムの裔(すえ)」として神の救いを受けられるであろう。このようにしてヨハネの言葉を聞いた群衆は自己の良心に心打たれ感動の言葉に心開かれ人々は言いました。「では私たちはどうすればよいのですか」・・・・。そこでヨハネは答えて言います。11節以下を見ますと「下着を二枚持っている者は一枚も持たない者に分けてやれ」。私たちはヨハネのこの言葉をどのように思うでしょうか。現代の日本に生活している私たちからすると下着一枚も持っていない人にやりなさいと言われるのはピンとこないでしょう。ところがイエス様の時代です。2000年以上も昔です、しかもバプテスマのヨハネは荒野で生きて来たのです。一口で言いますととにかく暑いです。日本人の感覚からは想像を絶する程の暑い中にいるのです。私は実際イスラエルに旅して荒野をバスで通りました。ごつごつした岩、石ころだらけ、気温35度以上どころではありません。バスの中はクーラーをがんがんかけていますがバスから出た途端に物凄い暑さです。もう大変な暑さでカラカラで、とにかく水が無いのです。聖書の中でイエス様が言われる一滴一滴の水の有難さ、まさに命の水です。実際に行ってみないと分からない、実感が湧かない。ここでヨハネが言っている言葉も私たちの日本での感覚からかけ離れた風土の中で語られている言葉です。一枚の下着がどんなに貴重なものであり下着を持っていない人々が沢山いると言う事でしょう。更に食べ物を持っている者も同じようにせよ。充分に食べ物もない、いつも腹ペコペコでやっと水や野菜や草で食いつないでいる人々の状況の中で言われているのです。他のところでイエス様も言われています。そこには人と人との心からの信頼し合って生きねば生きられない。その土台があって[互いに助け合いなさい。][愛し合いなさい。]という事であります。今日生きられるか明日死ぬかもわからない、何も持っていない過酷な状況の中で響く重い生きた言葉です、イエス様の命令です!ヨハネの荒野での禁欲生活の体験から出している実践的真理を訴えて言っているのです。そして更に徴税人に対しては規定以上のものは取り立てるな。兵隊に対しては誰からも金を強請り取ったり騙し取ったりするな、と言っています。自分の給料で満足せよ。きわめて具体的な不正や権力を持っている者が弱い者をないがしろにした社会に対する鋭い警告と悔い改めであります。人間誰もが持っている欲を鋭く突いていると言えるでしょう。時代を超えて昔からユダヤ人の間で横行していたであろう騙し取りや強請り取りの悪がはびこっていたと思われます。これらの一貫して言えることは「あなた方は貪るなかれ」とヨハネは訴えたのです、欲を捨てよ!です。
ヨハネのこれらの鋭い指摘を受けた群衆はヨルダン川において一度全身を水中に沈めて再び浮かび上がるという水による洗礼をうけました。この洗礼によって全身を川の水に一たび全てを沈めることでこれまでの諸々の悪い思いや罪の一切を一瞬にして捨ててしまって再び新たな信仰生活の出発を全身で水を浴びて体験する、これは悔い改めの象徴であります。そこには罪の許しを受け新生の感覚を持って主と共にある信仰の希望を生きるのであります。この体験は一生忘れない印象深い恵みでありましょう。今日でもバプティスト教会は特別の意味を持って聖壇の下にあるプールの中で全身水に浸って新たな信仰の覚醒をする洗礼式が行われています。なぜヨルダン川でのバプテスマのヨハネ悔い改めの叫びにユダヤ全土、彼方此方から人づてに群衆がやって来て洗礼を受けたのでしょうか。このヨハネが現れる前の時代BC16年?~BC37年頃マカベヤ時代といわれた時代、ユダヤ国が倒れた後、歴史的にメシア待望の時代のうねりが高まり民族の間に救い主メシアの出現を期待する思いが強くありました。そこへヨハネが荒野から現れ悔い改めを迫ってヨルダン川で洗礼を授けましたのでこれこそ待望のキリストではあるまいかと群衆が考え始めたのです。16節から見ますと、そこでヨハネは彼らの心を知って皆々に向かって言ったのです。
「私はあなた達に水で洗礼を授けるが私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない。その方は聖霊と火であなた達に洗礼をお授けになる。・・・」ヨハネははっきりと自分はキリストではない。即ちあなた方の期待しているメシアはナザレのイエスであることを明らかにしたのであります。そして二人の違いは次の二つの点にあると言います。
第1に ヨハネは水でバプテスマ施すがイエスは聖霊と火でバプテスマを施す。聖霊のバプテスマはその人に全く新しく、魂に至るまでの生まれ変わり、生き方が変えられるのである。そうした神からの力を持つ。一方水のバプテスマは象徴的意味をもつにすぎない。
第2に ヨハネは斧が木の根元に置かれていると言ったけれどもヨハネ自身が斧を振るうのではない。彼はただのの事実を指摘したに過ぎないのです。しかしイエス様はその手に箕を持って自らこれをふるい給うのであります。従って斧を振るう者も又当然イエス様であります。こうしてイエス様とヨハネの間には審判を行う者とそれを指し示す者との差があったのです。これはもう天と地ほどの次元の違う差があったのです。ルカ福音書3章ではヨハネの出現した事について旧約聖書イザヤ書40章を引用しています。ヨハネは救い主イエス様の登場前に道を整え準備する者である事を書いています。その事はヨハネが生まれた時既にその父ザカリヤが聖霊に満たされて預言したところであった。バプテスマのヨハネは罪の許しに至る「悔い改め」の道を宣べ伝えたのでした。[罪の赦しを得させる者は]ヨハネではなくイエス様の救いでありました。ヨハネは水による洗礼で形式的象徴であってイエス様の救いは聖霊によってする永遠的効果のある実力であったのです。こうした違いがある事をヨハネ自ら「私はあなたのために水で洗礼を授けるが私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない」という表現で言ったのです。
今日のメッセージで私たちはバプテスマの叫びを心に受けて自分の人生をこれから何をしたら良いのでしょうか。イエス様は33年の生涯で最後の僅か3年間を激しく神の国の心理を語り神の力を爆発させて数々の奇跡の業を起こし数知れない病人を救い、そして遂には十字架の死をもって信ずる全ての人の罪を贖ってこの世を終えられました。バプテスマのヨハネは神の子イエスの前を歩き僅か30年の生涯を殆ど荒野で過ごした後ユダヤの民に「悔い改め」を叫びヨルダン川で水による洗礼を授けを最後は牢獄で死を遂げたのであります。我らはこのヨハネの叫びを聞き何をなすべきか?彼は今日も叫んでいるのであります。
来週の礼拝はクリスマスです。私たちはバプテスマのヨハネの叫びを受けとめ罪赦された神の愛を受けて神を褒めたたえたい!詩編103篇の作者のように「我が魂よ主を褒めたたえよ」と喜びの賛美を挙げてクリスマスを迎えましょう。
人知では測り知ることの出来ない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。