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説教題:「主はご自身がご計画のうちに召したものを守り導かれる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「はじめに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日の箇所の直前では、御使いがナザレのマリヤに現れ、神様が旧約聖書の預言を通して約束してきた救い主が生まれると知らせたことが書かれてあります。しかし問題はその救い主が、まだ結婚もしていない処女マリア自身の中に聖霊によって妊り、彼女自身がその救い主となる赤子を産むという信じられない驚くべき知らせでもあったということでした。それはマリヤ自身にとっては喜びどころか、むしろ、戸惑いであり、恐れであったとも書かれています。そのようにマリヤは御使の告げることを、信じられず疑ってしまいます。けれども神の使いは、そんな信じられず怖れ不安になるマリヤを、疑って恐れているからと、救い主の母として相応しくないと責めたりはしませんでした。それどころかむしろ、御使いは「神があなたと共にいる、神にとって不可能なことはない、神が全てをなすのだ」と、どこまでも彼女を励ますのでした。そのような神様の驚くべき信じられない出来事が進められていく中で、神によって召された一人の罪深き女性は、神の慰めと励ましに支えられ、神によって与えられ召され神によって導かれる信仰の歩みを開始するのです。それは決して平穏でも薔薇色でもない「苦難の歩み」の始まりではあるのですが、真実な神様はその約束の初めから変わることなく、マリヤに絶え間ない励ましと慰めを与え続け導いているのが今日のところであると言えるでしょう。39節から見ていきましょう。
2、「エリサベトのところへ」
「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
御使いとの出来事の後、マリヤはユダの町に向かいます。それは40節にある通り、親類のザカリヤとエリサベト夫妻の家に行くためでした。そして56節にある通りに、そこで三ヶ月ほど過ごすためです。
この「マリヤのエリサベト訪問」はいくつかの理由と意味があると言えます。
まずよく言われるように、婚前の妊娠は当時のユダヤ社会では極めて不道徳なことでした。町中のさらし者になるのは避けられません。だからこそマタイ1章にある通り、ヨセフは内密に去らせようとさえしました。ですからまずナザレで予想されるその困難な状況を、このユダの町のザカリヤとエルサベトの家で三ヶ月過ごすことによって回避することができるということがあります。マタイの福音書にあるように、ヨセフが御使いからお告げを受けた後、ヨセフは御使いから言われた通りマリヤを花嫁として迎え入れ、そしてその後、マリヤだけ、ユダに行き三ヶ月過ごしたということは十分、考えられることです。
けれどもこの行動は、何よりこの直前に書かれている御使いが与えた励ましの言葉に導かれていることであると言うことこそ大事な点です。それは36節でした。マリヤが「まだ男の人を知らないにどうして子を宿すことなどあろうか」と不安を口にした時に、御使いは、マリヤを励ましました。聖霊が共にありその力が助けると。そしてこう言って励ました言葉でした。
「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
この言葉は、マリヤに対する励ましとなったのではないでしょうか。この言葉によって、マリヤは、自分と同じような神からの不思議をなんと親類のエリサベトも経験していることを知流ことになります。御使いはエリサベトにも現れたんだと。正しくはみ使いは夫のザカリヤに現れたのですが。このように御使いは、この言葉を持って、マリヤを励ますと同時に、エリサベトの家へと導いているとも言えるのではないでしょうか。マリヤはこのみ使いの言葉があったからこそ、エリサベトのもとに急いだことでしょう。
3、「神の言葉は私たちにとって何一つ無駄に語られない」
このように神様は、この救い主キリストを身ごもるという一つの出来事、計画が、一人の罪人であるマリヤにとってはとてつもない戸惑いであり恐れであるというその現実を、きちんと知ってくださっていることがわかるのです。神様は、マリヤのこと、つまり彼女の気持ちも恐れも心配も弱さも、そのようなことを一切、何も考えず、無責任に、ただお気楽に神様の喜びの計画や知らせを一方的に御使いに語らせているのでは決してありません。マリヤがこの結婚前に子を身ごもることによって、罪深い人間の社会であるナザレの村でどのような大変なことになるのかも、その不安も恐れも全てご存知なのです。同じように、恐れたヨセフが内密にマリヤを去らせようとした時に、み使いはヨセフに「去らせてはいけない。マリヤを妻として迎えなさい」と言ったことも、根拠のない無責任な言葉ではなく、神様の完全な計画のうちに、ヨセフもマリヤもきちんと導き助け、計画を成就させることをしっかりと見ていての言葉であったということが見えてくるでしょう。御使いがマリヤにエリサベトに起こっていることを伝えたことは、非常に深い意味があるのです。それはマリヤをエリサベトの元に三ヶ月滞在させ、マリヤを守るためなのです。もちろんそれは同時に、お腹の中の御子キリストをも守ることになるのです。
この事実は今日を生きる信仰者である私たちにとっての恵みでもあります。つまり、神様が私たち信仰者に、何よりも毎週、牧師による説教や、そして日々ディボーションなどを通して与えてくださるみ言葉には、私たちの思いをはるかに超えた、一つ一つ意味が必ずあるということです。そして何よりそれは、私たちを決して苦しめ恐れさせ重荷を負わせるためではなくて、苦しみや恐れや不安にある私たちを導き、守るために語りかけてくださっているということが、このところから教えられているのではないでしょうか。
そして、それは実際的な慰めとなってもいるのです。マリヤにとってはもちろんなのですが、エリサベトにとってもです。二人が互いに会うことは互いにとって大きな励みになるでしょう。男性には経験できないことですが、妊婦、特に初めての子の時、女性はものすごい精神的にも孤独、不安になると聞きます。そんな時に、妊婦同士の交わりや会話や情報交換によって安心したり、励まされたりすることがあることでしょう。まさにそんな二人の時となったはずです。ですから、確かに、エリサベトがやがて産むバプテスマのヨハネは、御子イエスの前に来て道を整え、イエスを指し示す預言者です。けれども、ある意味、今日のこの出来事は、それだけではなく、そのヨハネの母エリサベトが、イエスの母マリヤのために、神が備えてくださった助け手であったことも重なるように見えてくるのです。そしてそれは、マリヤがエリサベトにとっての励まし手であり、助け手であったということでもあるでしょう。みなさん、エリサベトも不安であったでしょう。高齢とはいえ、何人も子供を産んでいる女性ではありませんでした。御使いは「不妊の女」と言っています。それまで子供がなかったのでした。そして、初めての出産はもちろん、高齢であるからこその、エリサベトにとっての妊娠、出産への不安と恐れは、計り知れず大きかったはずです。けれどもそんな中で、マリヤの存在、そしてマリヤに起こった出来事は、エリサベトへの神からのまさに助けであり慰めであり希望ではありませんか。マリヤが来たことは、エリサベトにとっては間違いなく、慰めと希望になったのです。
どうでしょうか。このように、これらのことはまさにあのパウロがローマ8章28節で励ましている神の真理そのものです。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
そのように、神様は確かにご自身が愛するご計画に従って召した人のために、その人の思いを遥かに超えて、時に背後で、全てのことに働いて益としてくださることの証しが見えてくるではありませんか。そのように、神様はそのご自身の言葉を持って約束したことに必ず責任を持ってくださるのです。私たちが立ち返りたいのは、神様の言葉、約束というのは、それほどまでの確かさ、真実さがある。そして、それは全て私たちのためであり、私たちへの愛と憐れみに満ちているということが教えられているのではないでしょうか。
4、「神は信仰者の不安や恐れを喜びと幸いに変える」
そして、さらにこの後のことは、神様は本当に慰めの上にさらに慰めに満ちている方であることがわかるでしょう。マリヤがエリサベトに挨拶した時に不思議なことが起こります。41節〜45節
「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
マリヤがエリサベトに挨拶した時に、エリサベトのお腹の中の子が踊ったというのです。そして「聖霊に満たされて」彼女は喜びと賛美に溢れてそのことを証しするのでした。まず、感謝な事実は、聖霊は、エリサベトとも共にあり、導いていたということです。何度もいうように、エリサベトも不安と恐れにあったのは間違いありません。けれどもこのように、主はご自身が選び召し出した人を決して見捨てないし、聖霊にあって共にあり、そして、その約束されたことを聖霊なる主が果たすために働いていることがここには現れています。そして、決して完全な存在では無い、不安と恐れのエリサベトに、マリヤに対してもそうであったように、聖霊はその度毎に彼女に働き、慰め、励まし続けていることが見えて来ます。
しかもここで、神は実際的なしるしを通しても示してくださっています。マリヤの挨拶に、もう一人の約束の男の子は答えるのです。それは不思議なことでしたが、エリサベトににとっては主の導きでした。それによって信仰が強められ、彼女の証しと告白に導かれているのです。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
と。
まさにここにもルターの言う「聖徒であり同時に罪人である」信仰者の幸いな事実と証しがあるではありませんか。マリヤの時と同じです。繰り返しますが、私たちは皆一人一人、恵みにより義と認められた信仰者でありながらも、同時に、どこまでも罪人であり、戸惑い恐れる不完全な存在でもあります。それはエリサベト、マリヤであっても同じです。しかし、主がその彼女たちの弱さや不完全さをそのまま受け入れ、理解し、そして怒ったり、責めたり、見捨てたりするのではなく、絶えず、繰り返し、み言葉とその実現を持って励まし、慰めの上に慰めを与えることによって、主がその信仰を間違いなく、強めていることがここに教えられるでしょう。このように「信じる」ということ、信仰は決して律法ではなく、このようにどこまでも与えられる恵みであり、恵みのうちに神が進ませ神が実現する福音であるということがやはり貫かれているのです。そして、この後、46節以下で、同じように聖霊に導かれ、マリヤも賛美するわけです。喜びと希望の歌です。二人の女性に起こったことは、最初は恐れと戸惑いでした。信じられないことでした。しかしいずれも主が始め、主が計画し、主がもたらしたもの、主から天からの約束です。その主から来たもの、主から始まったものは、私たちの方で恐れと戸惑いに始まったとしても、最初は私たちの思いをはるかに超えたものであったとしても、しかし、主は約束の通り完全に私たちに働き、主が約束を必ず果たす、そして全てを益としてくださるのです。エリサベトやマリヤにそうであったように、私たちの恐れや戸惑いも、必ず、イエス様は、平安に、希望に、喜びに、賛美に変えてくださる、そのようにして、主はその恵みのうちに、福音の言葉を通して、聖霊を通して、そして具体的にしるしを通しても、働いてくださり、そのように私たちの信仰をも育て、励まし、強めてくださるのです。パウロはこう言っています。ローマ1章16〜17節
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 17福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
新改訳聖書では
「その義は、信仰に始まり、信仰に進ませるから」
ともあります。
5、「救い主キリストは私たちのために世に人としてこられた」
私たちは、肉体も精神も弱り果てるものです。私たち自身は、どこまでも不完全な存在です。神の前に私たちは何もできません。罪深いものです。不信仰なものです。けれども今日見てきたことからもわかるように、神であるイエス様はそのような罪人である私たちのところに「こそ」人として生まれてくださるのです。それはヨハネ3章17節にあるように、私たちの罪を責め裁くためではありません。むしろその私たちの罪を私たちの代わりに全て背負って、十字架で死なれるために生まれるのです。しかし神がこの十字架で、神の御子に人類の全ての罪を見て、その罪の報いである死を私たちの代わりに御子に負わせ死なせたからこそ、この十字架のゆえに、そしてこの十字架のキリストを見るものを、神様はもうその罪を見ず全ての人々に「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言してくださるのです。ですからこのイエスの誕生はイエスの十字架を示しています。神様から私たちへの真のクリスマスの贈り物は、イエス・キリストであり、この十字架にかかって死なれるイエス様とそこにある罪の赦しなのです。それが福音、良い知らせです。そして、それは全ての人々の前に差し出されていてもう誰でも受け取るだけになっているのです。信じるとは受け取ることです。その受け取る信仰さえも、イエス様は絶えず「与えます、さあ受けなさい」と語りかけ招いてくださっている恵みなのです。マリヤもエリサベトも私たちと変わらない罪人でしたが、その神の言葉とそこにある恵みの約束をそのまま受け取ったからこそ、弱さや不安や恐れは、希望と賛美に変えられていきました。それは「そうならなけれいけない、そうでなければならない」という律法としてではありません。神の恵みの約束、福音にただ信頼したがゆえです。ですから同じように私たちも、何度、人生で恐れたとしても躓いたとしても、倒れたとしても、戸惑ったとしても、失敗したとしても、その時、自分自身には何の力がなくても、このイエス・キリストのゆえに、イエス様が絶えず私たちに与えてくださる救いの恵み、福音のゆえにこそ、私たちは何度でも立ち上がることができる、いやイエス様が立たせて歩ませてくださるのです。イエス様が常に、今日も、来週も、来年も、いつもまで、み言葉を与えてくださり、励ましと慰め、愛と憐れみをもって私たちの手を取ってくださる。恐れや不安、戸惑いや失望を、喜びに、希望に、平安に、賛美に変えてくださる。それが信仰の歩み、救われていることの素晴らしさに他なりません。
今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ私たちは、今日も罪赦され、この恵みの新しいいのちの道、イエス様のいのちに生かされている幸いと救いの確信を覚えながら、平安のうちにここから遣わされていきましょう。そして、その救いの確信と平安と喜びをもって、私たちは今週も神を愛し、隣人を愛していきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
クリスマス愛餐会