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礼拝説教 2025年1月1日新年礼拝 スオミ教会
コヘレト3章1-11節
黙示録21章1~6a節
マタイ25章31~46節
説教題 「永遠を思う心を持っていれば大丈夫」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
西暦2025年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーの新年は昨年の12月1日の待降節に入った時から始まりましたが、世俗のカレンダーでは今日が新しい年の始まりです。新しい年を迎えるというのは、今までと違う新しいことが始めるという感じが強くするものです。そういう感じ方を持つことは大事です。今世界中が大きな試練の中にあるので、それをこれからも同じだ何も変わらないと諦めて向かって行くのと、いや、これからは今までと違うものになるのだと前向きに向かって行くのでは試練に対する向き合い方、試練の中にあっての進み方も違ってきます。どうか今日の御言葉の解き明かしがそのような向き合い方、進み方に中身を与えるものになりますように。
2.私たちの試練に対する神の手腕
以前の説教でもお話ししたことがありますが、何年か前、私の家族で長期間病気などがあったりして、もう日本でのミッションの仕事は続けられなくなるのではないかという試練がありました。本当にもがくような思いで、多くの人の祈りに支えられながら、やっと暗いトンネルの中に光が見えてきてそれに向かって歩みだした時、あるキリスト信仰者から次のような言葉を頂きました。「先生とご家族の皆様の試練の間中、神はその裏で新しいことを始められていたのでしょう。」神が私たちの知らない見えない裏で何か新しいことを始めて、それが何かは事後的にわかる、そして、わかった時点に立って後ろを振り返ってみるとあの試練はもう試練ではなくなっていて、むしろそれがあったから、それに取り組んでいたから、今この新しい地点に立っている、そして神が本当に見捨てずにずっと導いて下さったということもよくわかる、こういう捉え方はとてもキリスト信仰的です。
なぜこの捉え方がキリスト信仰的かと言うと、聖書の神、万物の創造主の神が本当に信頼に値する方だと信頼している者にとっては真理だからです。神を本当に信頼するというのは、困っている時苦しい時に助けを祈る相手はこの方以外にはない、自分が成し遂げようとしていることに祝福と導きをお願いする相手はこの方以外にはいない、さらに神の意思に反する罪を持ってしまった時に赦しを願う相手はこの方以外にはない、という具合に全身全霊で神一筋になることが神を本当に信頼することです。まさに十戒の第一の戒め、「私以外に神はあってはならない」の通りになることです。
それでは全身全霊で神を信頼しきるという心はどうしたら生まれるのでしょうか?それはもう言うまでもなく、その神がかけがえのないひとり子を私たちに贈って下って、その方に十字架の死と死からの復活という業を果たさせたということ、それで彼を救い主と受け入れて洗礼を授かった者たちをご自分の子にして下さったこと、ここに私たちの神に対する信頼は拠って立ちます。私たちは神の子とされたのです。私たちにひとり子を贈って下さった父なるみ神を私たちはその子として信頼するのです。だから、試練があってもそこで立ちすくんだり埋没したり堂々巡りしないで、一直線に(多少ジグザグするかもしれませんが)神が準備して下さっている次の段階に向かって進んでるという見方になれるのです。
そのことを使徒パウロは第一コリント10章13節で次のように述べています。「神は真実な方です(注 ギリシャ語のピストスは「裏切らない、誠実な、貞節を守る」という意味があります。つまり神は私たちを見捨てないという意味です)。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」
イエス様を救い主にしていない人たちから見たら、こういうのは根拠のない楽観論にしかすぎないでしょう。しかし、キリスト信仰者はそれを真理として抱いているのです。キリスト信仰の楽観的な真理はパウロの次の言葉にもよく出ています。ローマ8章28節です。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
私たちの用いる新共同訳では「万事が益になるように共に働く」と、万事が勝手に働いて益になっていくという訳ですが、ギリシャ語原文は、神が万事を益にしてくれると訳することもできます。フィンランド語の聖書もそう訳しています。私もその方がいいと思います。今は試練の中にあり、神の助けと導きを祈りながら自分の出来る最善を尽くして取り組むのみ。それと同時に、神は私たちの知らない気がつかないところで、まさに裏で私たちのいろんな難しい形のパズルを合わせて下さっている。全てが見事に埋め合わさった全体像を後で見せて下さる。それを心に留めながら試練に取り組むのがキリスト信仰者というものです。
3.コヘレトの永遠を思う心について
このようにキリスト信仰者というのは、神は試練を脱する道を備えて、試練のいろんな要素を組み合わせて最後は大きな益にして下さるということをわかっている者です。しかしながら、何がどう組み合わさっていくのか、細かい具体的なことは試練の最中にあっては全然わかりません、全然見えません。全ては事後的にわかるだけです。だから、試練の最中の時は父の愛情と先見の明に信頼して進むしかないのです。このような、全体的には神の基本方針はわかるが、具体的な詳細は現時点ではわからないということは本日の旧約の日課「コヘレトの言葉」の個所でも言われています。3章11節で、天と地と人間を造られた神は人間に永遠を思う心を与えたと言われています。「永遠を思う心を与えた」はヘブライ語原文を直訳すると「永遠を人間の心に与えた」です。「永遠」、「永遠なるもの」を人間の心に与えたのです。
永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、説明は簡単ではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には創造主の神と神の霊、そして箴言で言われる、天地創造の場に居合わせた神の「知恵」なる者しか存在しませんでした。神が天地を創造して時間の流れが始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26ー29節、詩篇102篇26ー28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。新しい天と地のもとで唯一の国として「神の国」が永遠に存続すると言うのです。そういうわけで、今の天と地は造られてから終わりを告げる日までは時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時もおられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。
神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれたというのは、まさに永遠の中におられる方が、限りあるこの世界に生きる私たち人間を、永遠の神と結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えた後も復活の日に目覚めさせて神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られたのです。そのような今のこの世と次に到来する世の二つにまたがる神との結びつきを持てるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間から神との結びつきを失わせてしまった原因、つまり神の意思に反しようとする罪をどうにかしなければならない。それで神のひとり子のイエス様は人間の罪を全部引き受けて十字架の上で人間にかわって神罰を受けて、私たち人間のために罪の償いを神に対して果たして下さいました。イエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ける者はこの罪の償いを自分のもとにすることができ、罪が償われたから神から罪を赦された者として見なされるようになって、それで神との結びつきを持って生きられるようになったのです。
神はそのような永遠に属するひとり子を信仰を通して私たちの心に与えて下さいました。まさにコヘレト3章11節で言うように、神は永遠を私たちの心に与えて下さったのです。それならば、なぜ「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と言うのか?「永遠」を心に与えられたのに見極められないというのは悲観的です。コヘレトは旧約聖書の知恵文学に数えられますが、全体的にペシミスティックな作品と言われています。ところが私は、何年か前の説教で指摘したのですが、ここのヘブライ語原文を見れば見るほど、どうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は永遠を人の心に与えられた。それがないと(מבלי אשר、מבליを前置詞に解し、אשרは関係詞なので、英語で言えばwithout which)神のなさる業を始めから終わりまで見極められないという心を」という訳になるのではないだろうか?そうすると、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」となるのではないだろうか。ただ、英語(NIV)やフィンランド語やスウェーデン語の聖書も新共同訳と同じように訳しているので、あまり大きな声で主張するのはばかれます。それでも、イエス様という永遠に属する御子を救い主として心で受け入れることで、神の救いの業を発見することができるのだから、この訳でいいのではないかと密かに思っています。
もちろん日々の試練の中では神の業を初めから終わりまで具体的に見極めることは不可能です。そのことは先ほども申しました。その意味で、心に永遠を与えられても発見できないというのはやはりその通りです。そうなるとペシミズムになってしまうのか?しかし、先ほど述べたように、キリスト信仰者は、事後的に全てが繋がっていたとわかる、神はそのように取り仕切って導いて下さる、そう信頼して進んでいくので、ことの最中にある時は具体的なことは何もわからないけれども、神の基本方針はわかっている。先ほどのパウロの聖句のように神の基本方針をわかっていることでは神のなさる業を発見できているのです。この視点に立ってコヘレトを見ればペシミズムに留まらないで、それを超えるものが見えてくるのではないでしょうか。
コレヘト3章の初め「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」のところで、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、もちろん自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われるとあきらめムードになります。これをどう考えたらよいでしょうか?
そこで、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りを見てみます。ヘブライ語原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。つまり、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかなくなります。そこから出発しなければならなくなります。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?これが一番大切なことです。
ここで「永遠」の出番となります。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのこととしたら、そこで起きる出来事は全て天と地の中だけにとどまります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、目指す先には神の意思、神の正義、神の義があることが見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と、今この世の目で見て不幸な状態にある人たちの立場が逆転する可能性について繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。運よくこの世の段階で逆転することもあるでしょう。しかし、たとえあってもそんなのは序の口にしか過ぎない完璧な逆転が待っているのです。また不運にもこの世で逆転しなくとも「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が起こるのです。
4.勧めと励まし
イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神と結びつきを持って生きられるようになったとは言っても、それでも内側にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。自分では神の意思に沿うように生きようと志しても、それが叶わない、至らないことにいつも気づかされます。本日の福音書の個所はイエス様が最後の審判について教えているところです。困窮した人たち苦難や困難にある人たちを助けてあげなかった者は炎の地獄に落とされてしまうことが言われます。そんなこと言ったら、自分はもう一貫の終わりだと思う人が大半でしょう。一人や二人くらいは助けてあげたと言っても、世界中に困っている人たちが無数にいることを考えたら、何の役に立つのだろうか?と。
この個所をよく見てみましょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25章40節)」。これはギリシャ語原文が厄介な個所です。直訳するとこうなります。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にした分をεφ’ οσονあなたたちは私にしたのである。」全然なっていない日本語ですが、わかりやすく言うと、イエス様の兄弟の一人に多くのことをしてあげたら、イエス様に対しても多くをしたことになり、少なくしたら少なくしたことになる。それでもイエス様にしたことには変わりないので、神の御国に迎え入れられるということです。多くをしたということは、しなかったことが少しあるということです。少なくしたら、しなかったことが多くあるということです。でも、イエス様は多くても小さくてもいい、みんな自分にしてくれたことであると認めてくれるとおっしゃっているのです。しなかったことはあるにしても、それは問わないと言うのです。
キリスト信仰というのは、イエス様が打ち立てた罪の赦しに留まって生きる限り、至らなかったところ足りないところは神は追及しないから心配しなくてもいい、出来たところを見て下さるから安心していいという信仰です。それなので、遠い国に赴いて困窮した人たちを大勢助けることも、身近なところで少人数助けることも、同じように認めて下さるのです。助ける人を支える人も認めてもらえるでしょう。自分の力が足りなくて助けてあげられなくても神に祈ることはできます。祈るだなんて、そんなのは助けないことをカモフラージュして自己満足することだ、と言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰では最後の審判は切実な問題なので、祈りがカモフラージュや自己満足に陥ることはありません。
兄弟姉妹の皆さん、今世界を見渡すと、皆が皆自分に都合のいいこと自分の感情にぴったりなことが真実だとして、それをSNSを通して拡散するので何が真実かわからなくなっていく状況があります。うまく言いくるめる能力のある人たち、感情に訴える力のある人たちが我が物顔です。こういう時だからこそ、神が永遠を思う心を与えて下さったことを思い起こしましょう。そうすれば、いろんなものがごった煮になった今の世界はやがて火で精錬されて不純物は蹴散らされ、混じりけのない完璧な純度を誇る正義が全てを覆う日が待っていることが見えてきます。それが見えれば、真実は自分に都合のいいこと感情にぴったりなこととは別のところにあることもわかります。それなので、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られそれをいつか新しいものに変えられる方と結びついていることを今一度思い起こしましょう。その方は私たちの試練の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっています。なので、日々聖書を繙き御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは心に「永遠」を頂いたのですから、神が万事を益にして下さることを今一度思い起こして、今日始まった新しい年を進んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン