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聖書は原語で読めなくても大丈夫(その2)
どうして聖書は原語で読めなくても大丈夫なのか?それは、聖書は日本語ででも全体を繰り返して読んでいくと、わからない個所の理解は別の個所が助けてくれるように出来ているからです。 まさに、聖書の解釈は聖書にしてもらうということです。先週、新共同訳はヘブライ語のミシュパートをほとんど自動的に「裁き」と訳していると申しました。「裁き」とは、もともとの意味は有罪か無罪かを決めることでしたが、「お前を裁いてやる」という言い方があるように、実際には断罪の意味が強いです。それで、旧約聖書で「裁き」という言葉に出くわすと、どうもしっくりいかないことが多い。しかし、旧約聖書全体を何回も読んでいくと、これは断罪ではないと感覚的にわかってきます(因みに、私の使っているヘブライ語・英語の辞書では「正義」、フィンランド語の聖書もそう訳すことが多いです)。
そういうわけで、聖書を原語で読むというのは、全体の繰り返し読みをしないで済まそうとする横着なやり方とも言えます。
「聖書の解釈は聖書にしてもらう」という聖書の理解法の大敵は、解釈を聖書にさせず、聖書外のものでさせようとすることです。例えば、先週の例にあげた詩篇36篇6~7節について、何か「真実」をテーマにした小説を読んで大変感動したとします。それで、詩篇36篇6節の「神の真実」もそれと同じなんだと理解してしまう。(聖句は違いますが、実際にその手の説教を聞いたことがあります。牧師曰く、「これが、今日の個所でイエス様がおっしゃりたいことではないでしょうか?」) しかし、詩篇36篇6節の「神の真実」は、正確には「神の揺るがぬ頼り甲斐」です。それで、その節が「真実」のことを言っていると思い違いして、小説に結びつけてしまったら、神が御言葉を通して言おうとしていることからどんどん離れていきます。
そう言うと、じゃ、「揺るがない頼り甲斐」をテーマにした小説を読んで感動したら、それは結びつけてもいいんだな、と言われるかもしれません。しかし、それもダメなんです。というのは、詩篇で言われるように、神の揺るがない頼り甲斐は、雲にまで至るほどの高いものです。人間の頼り甲斐は背丈ほどの高さです。なので、小説の登場人物の頼り甲斐に感動したら、神の頼り甲斐はもっともっと高いものなんだ、人間の頼り甲斐でこれだけ感動したら、神の頼り甲斐がもたらす感動は計り知れないのだ、というように予感できないといけないのです。神を人間のレベルに引き下げないことです。
そう言うと、神はひとり子を人間としてこの世に送ったのだから、神を人間レベルで扱ってもいいじゃないかと言われるかもしれません。それも違うんです。神がひとり子を送った心というのは、天にまで届く「恵み」と「頼り甲斐」、聳え立つ山々のような「義」、地の底まで覆いつくすくらいの「正義」の4つを総合したものです。人間の心とは比較にならないものです。
次回は、聖書を原語で読むことの落とし穴についてお話しします。