牧師の週報コラム

聖書は原語で読めなくても大丈夫(その3)

今回は、聖書を原語で読むことの落とし穴についてです。前々回の時、原文にあたって見ると、訳の少しぼやけた感じが照準定まった感じになると申しました。一つ例をあげると、使徒言行録2章37節に「人々は心を打たれ、」とあります(新共同訳)。これは読んで違和感を覚えるところです。というのは、ペトロは群衆に向かって、イエスを十字架につけたのはお前たちだ、と言っているのに、「心を打たれ」と言ったら、群衆はそれに感動してしまったみたいだからです。ギリシャ語の動詞カタニュッソーは「突き刺す」という意味です。それで、ここは「人々は心に突き刺さるものを感じて」と理解します。

こういうふうに照準が定まることが多い反面、逆に収拾がつかなくなることも多くあります。辞書を開けば、一つの単語に沢山の異なる意味があって、どれを選んだらいいのか?文法書を開けば、この属格は主語的用法?目的的用法?所有的?部分的?材料的?解釈的?この未完了形の意味は未完了のままか間接的命令か?辞書や文法書で解明できたと思っても、次は、この句はどこにかかるか?等々。選び方次第で解釈に違いが生じるということが出てくるのです。昔、W.バウアーの世界的権威の聖書ギリシャ語・ドイツ語辞書を使って調べものをしていた時、何の単語が忘れましたが、数多くある意味の一つに「この意味はあまりにもルター派すぎる!」などと括弧書きで注釈がしてありました。

原語で読んで、どれを選んだらよいかという時はどうしたらいいのか?私はさっさとキリスト教の伝統的な信条集プラス、ルター派の信条集を意識してそれらからはみ出ないことを心がけて選ぶようにしています。そんなのは正統主義の威を借りるやり方だ、と蔑む人もいるのですが、私は、別にいいじゃん、と思っています。正統主義に囚われずに訳を追求することは偉大な挑戦です。でも、それは命がいくつあっても足りない世界なので、私は限られた寿命の中で出来ることはこれと思って今のやり方で行きます。

人によっては、偉い学者が書いた参考書をそのまま引用披露する方もいますが、それではその学者が選んだ結果を拝借するだけで自分が無さすぎます。説教者はやはり自分で悩むこともあった方がいいと思います。

あと、自分で原語で読んで理解が現代語から離れすぎていると気づいたら、他の国はどう訳しているか覗き見もします。私が対応できる現代語の聖書は日本語の他は、フィンランド語(ルター派国教会の)とスウェーデン語(Bibel2000)と英語(取りあえずNIV)とドイツ語(新約のみ、ルター訳とEinheitsübersetsung訳)の4つだけですが、必ず同志に出会えます。覗き見で一つ気がついたことがあります。日本語で説教するようになってまだ15年足らずでサンプルは十分ではないかもしれませんが、日本語と英語の訳が一致して、フィンランド語とスウェーデン語とドイツ語がそれとは違う意味で一致していることが多いと思います。もちろん、これとは異なる一致の組み合わせもありますが、大体60~70%はそんな感じです。聖書の翻訳には、日米同盟と欧州連合の対決があるみたいで面白く感じています。

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