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スオミ教会の式文の改正 「罪の告白」のところ
洗礼準備勉強会を行うといつも参加者の方々からいろいろな質問やコメントを受けます。中にはこちらが今まで気に留めていなかったことを前面に出すようなものもあり、すぐに答えが出てこないこともあります。 今行っている勉強会でもそうでして、伝道の観点から考えなければならないと思わされたことがありました。それは、礼拝式文の「罪の告白」のところで、「私たちは生まれながら罪深く汚れに満ち」という下りです。これは、ノンクリスチャンの方が見た時、かなり強すぎる表現ではないか、これを唱えなければならないというのは礼拝に対して違和感を覚えさせるものにならないだろうかというコメントを頂きました。
この文言は、日本福音ルーテル教会が用いてきたものをそのまま踏襲したものです(日福ルは現在、改訂式文に移行中でこの文言も変わりました)。聖書では、例えば詩篇51篇でダビデが神に「深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい。(…)わたしは咎のうちに産み落とされ母がわたしを身ごもったときもわたしは罪のうちにあったのです」と告白しているところがあります。また、イザヤ1章で神は「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる」と言われます。なので、人間にはシミのように洗い落とさなければならない罪がある、それは母親の胎内にいる時から受け継いでしまったもので、だから神から是正してもらわないとそのままになってしまうという抜き差しならない状況におかれている、それを素直に認めて、神からの是正が間違いなくあることを宣言してもらうのが式文の「罪の告白」です。人間というものは今の世界と世の中を見回してもわかるように、創造主の神を前にしたら至らないことだらけで自分はその一人であることを認めるという、透徹した謙虚さを持てるひと時でもあります。確かに表現は厳しいですが、私も信徒の方々も長年唱えてきたので「原罪」とはそういうものなんだという感じがあって違和感はなかったと思います(因みに、フィンランドやスウェーデンでは「原罪」は英語のように「元々ある罪」という意味の言葉original sinではなく、「受け継がれた罪」を意味する言葉perisynti/arvsyndです)。
ところが、そういうものなんだという感じがないノンクリスチャンの方がこれを見て、唱えなさいと言われたら、どう思うか?自分が汚れに満ちているなんてどういうことかと反発したり、または今その方が抱えている課題との関係で謙虚さとは違う方向に考えが向かってしまわないか、いろいろ問題が出てくるかもしれません。
キリスト信仰の真理を背後に追いやらず、かつ正しい謙虚さに立てるような文言を考える必要があるのではないかと思います。スオミ教会は日本福音ルーテル教会から離れて以後、独立した立場で式文の改定を進めてきました。「罪の告白」の文言もその一つになります。フィンランドのルター派国教会の式文の「罪の告白」の文言は選択肢がいくつもあり、礼拝の時に牧師が選びます。それを参考にしながら考えてみようと思っています。