説教「復活の体」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章1~18節

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.十字架に掛けられて苦痛と激痛の中で息を引き取られたイエス様は、三日目に死者の中から復活されました。復活とは何なのでしょうか?それは、単に息を引き取った人が息を吹き返すということなのでしょうか?一度死んだと見なされた人が生き返ると、その時までの状態は仮死状態と見なされます。実用日本語表現辞典によりますと、仮死状態とは「呼吸や心拍の一方または両方が停止し、意識もなく、外見死んだかのように見えるが、自然にまたは適切な処置により蘇生する余地のある状態」とありました。キリスト信仰の復活とは、仮死状態から生き返ることとは全く違います。仮死状態からの生き返りでは、肉体がまだちゃんと残っていることが前提となります。肉体が腐敗してしまったり燃やされて灰になってしまったら、蘇生などもう不可能です。しかし、キリスト信仰の復活とは、蘇生が完全に不可能になった時とか、さらには肉体自体が消滅してしまった後に起きる生き返りなのです。つまり、復活した者は、今この世で持っているのとは全く別の体を持って生きることになるのです。この復活の体について、使徒パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」の中で次のように詩的に表現しています。

蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」(15章42~43節)。

今この世で私たちが有しているこの体は朽ちるもの、それゆえ卑しく弱いものであるが、復活すると朽ちない体、輝かしく力強い体を持つことになる、とパウロは教えます。本日の使徒書簡である「コロサイの信徒への手紙」の箇所でパウロが「あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」と言っているのは、復活して神の国に迎えられる者は神の栄光を体現するような体を持っているということです。イエス様自身もかつて、復活について教えられました。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と述べています(マルコ12章25節)。

キリスト信仰の復活という信仰の形はとても特殊なもので、なかなか理解されにくいものです。本教会の説教や聖書の学びでも、その都度教えてきたところですが、理解を助ける上で重要な点をいくつかまとめておきますと、まず、復活とは将来のいつの日にか起きる出来事であるということ。復活の日というのは、聖書によれば、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる天変地異の大変動の日であること。今ある天と地がなくなってしまうので、今のこの世の終わりの日でもあるということ。その時、神の国が目に見える形で現れ、創造主である神の意思に適う者がそこに迎え入れられる。その関係で最後の審判というものが起こる。その時点で生きている人たちは復活の体と命に変えられるが、既に死んでいて跡形もなくなっている人たちは復活の体と命を与えられる。大体以上のようなものです。

これらから明らかなことは、キリスト信仰者であるかないかにかかわらず広く共有されている考えですが、人は死んだらすぐ羽が生えて天使のようになって天国に行って、そこから地上にいる私たちを見守っているということはないということであります。キリスト信仰にあっては、人は死んだら、ルターも教えているように、また教会讃美歌366番「愛の泉」の4節と5節でも歌われているように、将来の復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているのであります。眠っているだけだから、お腹が空いたり喉が渇くこともないし見守りもしません。こう言うと、大抵の日本人はギョッとしてしまうでしょう。というのは、亡くなった人の霊とか魂が見守ってくれているから今の自分があると考える人が多いからです。しかし、キリスト信仰では、私たちを見守るのは、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与える創造主の神しかいないのです。この父と子と聖霊の三位一体の神以外のものは全て、見えるものも見えないものも全て造られたものにしかすぎず、神は、造り主こそが見守り主であることを忘れるなと言っているのであります。

 
2.以上、復活というキリスト信仰の特殊な信仰の形について駆け足で見てみました。本日の福音書の箇所に戻りましょう。イエス様は死から三日目に復活されましたが、この場合、まだ肉体はちゃんと残っており、復活というよりは、仮死状態からの生き返りではないかという疑いが出るかもしれません。そうなると、イエス様は、神の栄光を体現する朽ちない復活の体を持っていなかったことになります。三日ではまだ日が浅すぎるでしょうか?

イエス様は仮死状態と言うには程遠い位に本当に死んでいました。ヨハネ福音書19章に記されていますが、まず兵隊たちが、イエス様が死んでいるのを確認しました(33節)。さらに、それでも不足と言わんばかりにイエス様のわき腹を槍で貫き刺しました(34節)。このことを書き記したヨハネ自身が、自分は目撃した通りのことを書いている、これはこの通り真実であると強調します(35節)。肉体は腐敗したり灰にされなかったけれども、イエス様の肉体は蘇生の可能性がないくらい完膚なきまで死んでいたのでした。

 それでは復活したイエス様は、私たちがこの世で有する体と異なる体を持っていたのでしょうか?ルカ24章やヨハネ20章を見ると、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。それで、その体はもう今私たちが有している体とは全く異なるものです。本当に天使のような存在です。

復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象があります。それは、復活したイエス様は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か特別なことがある。死ぬ前のイエス様と何かが違うが、何がどう違うかということについては、自由な空間移動ができるようになったことと、一目ではすぐ確認できないということ以外は、聖書には具体的に記されていません。それなので、ここではこれ以上のことは言えません。いずれにしても、復活後のイエス様の体は死ぬ前の体とは全く異なるものであるということは明らかでしょう。

 

3.復活したイエス様の体がどのようなものであったかについて、本日の福音書の箇所にはもう一つ興味深い出来事が記されています。それは、イエス様がマリアに対して、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われたことです。後ろに立っていた人がイエス様だと分かった時、マリアはイエス様にすがりつきました。「すがりつく」というのは、相手が崇拝や尊敬の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったでしょう。それに対してイエス様が「すがりつくな」と言ったことになっています。ところが、この「私にすがりつくな」と言っているギリシャ語の元の文μη μου απτουは、「私に触れるな」と訳すことも可能なのです。実際に、ドイツ語のルター訳の聖書を見ると、「私に触れるな!

Rühre mich nicht an!と訳されています。スウェーデンのルター派教会が用いている聖書も同じです(Rör inte vid mig)。フィンランドのルター派国教会が用いている聖書も「私に触れるな」です(Älä koske minuun)。それでは、私たちの新共同訳が間違っているかと言うと、そうでもなく、英語のNIV訳をみると、Do not hold on to meなので、「私にすがりつくな」です。ドイツ語のルター訳とは別のEinheitsübersetzung訳をみると、Halte mich nicht fest「私にすがりつくな」です。さて、足にしがみついているマリアに対してイエス様は、「私にすがりつくな」と言っているのでしょうか?「私に触れるな」と言っているのでしょうか?

この問題の解決には、イエス様の次の言葉が鍵となります。「まだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、マリアに対して、自分にすがりつくな、ないしは、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。父なるみ神のもとに上げられていないことが、どうしてすがりつくこと、ないし触れることの禁止の理由になるのか、わかりにくく感じられますが、次のように考えればよいでしょう。復活したイエス様は、この世の我々が有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ存在となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で天の父なるみ神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。しかし、自分は存在的には天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。

神の神聖さを欠いた被造物である人間が神聖さそのものである神と接触するということは危険なことであるということが、聖書には記されています。例えば、出エジプト記2章で、モーセが燃える柴に近づこうとした時、神は、近づくな、お前の立っている所は神聖な土地だから汚い履物は脱いであがれ、と命じます(5節)。イザヤ書6章で、預言者イザヤがエルサレムの神殿で神を目にしてしまい絶望の声をあげます。ああ、この目で神を見てしまった自分は呪われてしまえ!なぜなら、自分は汚れた唇を持つ者であり、汚れた唇を持つ民の中で暮らす者だからだ。そのような汚れた存在である自分が神聖な神を目にしてしまったのだ。その直後に神の御使いが神殿の祭壇から燃え盛る炭火を取って、イザヤの唇に塗りつけます。イザヤは火傷一つ負わず、お前は罪の汚れから清められたと宣言されます。このように神聖さというものはそうでないものを焼き尽くす力を持っているのであります。罪の汚れを持つ人間が不用心にも神聖な神の前に立つならば、焼き尽くされてしまう危険があるのです。十戒をはじめとする掟を直接神から授かったモーセは、近くに来てもよいと神に認められた稀なケースです。しかし、彼が神と対峙したシナイ山の山頂から降りてくると、彼の顔の肌は光を放っていて覆いをかけなければならなかったほどでした(出エジプト34章29~35節)。これなど、神聖な神がどれだけ栄光を放っていたかを示すものでしょう。

神の神聖さというものがこのようなものだとすると、神のもとにいて当然な復活の体というものも、同じ神聖さを備えていると言うことができます。そうなると、イエス様がマリアに言った言葉は「すがりつくな」ではなく、「触れるな」が正しい、ということになります。ここで、ルターの訳やスウェーデンやフィンランドの訳に軍配があがるかと思いきや、実はこれもそう単純ではないのです。他の訳が「触れるな」ではなく、「すがりつくな」と訳しているのには理由があります。ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」と命じます(39節)。また、再来週の福音書の箇所であるヨハネ20章27節で、目で見ないと主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスに対して、イエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。そうなると、なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになってしまい、本日の箇所を「触れるな」と訳したら矛盾が生じてしまいます。それで、「すがりつくな」という訳にしたのだと考えられます。しかし、ここは福音書の原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」とイエス様が命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(ψηλαφησατε、βαλε両方ともアオリスト命令形)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(απτου 現在形の命令)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶が原因の接触禁止ということなのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。もちろん、このことをしっかり踏まえていれば「すがりつくな」と訳してもいいのですが、ただそれでは、うっとうしいからすがりつくな、とか、もういい加減早く歩き出したいから、すがりつきをやめろ、と言っているように受け取られてしまいます。そういうことではないのです。

 
4.復活したイエス様は神聖な復活の体をもって、もうすぐにでも天の父なるみ神のもとに戻らなければならない。罪の汚れを持つがゆえに神聖さを欠いている人間は、イエス様に触れることも許されず、彼が天に上げられてこの地上から去って行くことを見守るしかない。それで全ては終わりなのでしょうか?復活とは、もともと神のもとにいて神聖な存在であったイエス様が、わざわざこの世に人間の体を持ってやって来て、十字架の上で完膚なきまで死んで、復活してまたもとの神聖さを回復して天の父なるみ神のもとに戻る、そういうサイクルの一循環なのでしょうか?復活とは、イエス様がもとに戻ってめでたし、めでたし、というハッピーエンドなのでしょうか?

いいえ、復活はイエス様自身のためのハッピーエンドでは全くありません。復活とは実は、私たち人間がハッピーエンドを持てるために起きた出来事なのです。このことがわかるためには、復活の前に起きた十字架の出来事をふり返ってみなければなりません。十字架の出来事があったがために復活の出来事も起きた以上、十字架の出来事がなければ復活の出来事もなかった以上、両者はあわせてみなければなりません。別々にしてはいけません。

先週の主日礼拝でも、この間の聖金曜日礼拝の説教でもことさら強調しましたが、十字架に掛けられたイエス様というのは、神の人間救済計画が実現したことを示しています。神の人間救済計画とは、かつて失われてしまった神と人間の結びつきを今一度回復させようとする神の計画です。人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られたものですが、それが堕罪の出来事のゆえに死ぬ存在になってしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で教えているように、死とは罪の報酬であります(6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教では、いつも罪が強調されるので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる。悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。

さて、罪が人間に入り込んでしまったために、人間は死すべき存在になってしまいました。神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまったのです。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようにしようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を請け負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしたのであります。人間は、このことがまさに自分のために行われたのだと分かって、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた罪の赦しの救いをそのまま受け取ることが出来るのです。この時、神の罪の赦しがその人に対して効力を発揮し始めます。こうしてイエス様の犠牲の死に免じて罪を赦された人は、神との結びつきが回復した者となって、この世の人生を歩み始めることとなります。神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩むとは具体的にはどういうことか?それに答えを与えるのが、イエス様の死からの復活でありました。

一度死んだイエス様を復活させることで神は、旧約聖書に預言されている復活の命が実在することを、まだ復活の日が来ていない段階で、示したのであります。従って、イエス様を自分の救い主と信じて神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩むようになるというのは、復活の命に至る道に置かれて歩むようになったということであります。これが、神はイエス様の復活によって人間に復活の命への扉を開かれた、と言われるゆえんです。こうして神との結びつきの中で生きることとなった者は、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得てこの世の人生を歩むようになります。万が一この世から死ぬことになっても、まず復活の日までは、神の知る所にて安らかに眠り、復活の日が来ると、神の御許に引き上げられて、復活の命と体を与えられて、永遠に自分の造り主のもとにいることができるのであります。

以上、イエス様の十字架の死と死からの復活というものは、イエス様自身の体験のために起きたのではなく、私たちが生まれ変わって新しい命を持てるために起きたということが明らかになったと思います。そういうわけで、兄弟姉妹の皆様、私たちのためにイエス様を送られてこのような計り知れないことをして下さった天の父なるみ神は、誉め讃えても誉め讃えし尽くすことはなく、感謝しても感謝し尽くすことはない方であるということを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

復活祭の聖書日課 使徒言行録10章39~43節、コロサイ3章1~4節、ヨハネによる福音書20章1~18節

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