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今日の御言葉は、復活後のイエス様とトマスの話です。
24節を見ますとトマスは、12弟子の一人でデイデイモと呼ばれるトマスとあります。12弟子の中で、そう目立ったこともしていないトマスですが、今日の場面で登場します。 よみがえられたイエス様が、弟子たちが集まっているところに現れた。 19節~23節のところでヨハネはそう記しています。 その時トマスだけがいなかった、というのです。 トマスは復活の日、なぜ弟子たちと一緒にいなかったのでしょうか。
ウィリアム・バークレーという聖書学者が、トマスのことについて次のように言っています。 トマスは決して勇気のない人ではなかったが、トマスは生まれつき悲観的な人間であった。トマスがイエス様を愛していたことは、なんの疑いもない。他の弟子たちがしりごみして恐れていたのに、彼だけはエルサレムへ行って、先生と一緒に死のうと考えていた。彼はそれほど先生であるイエス様を愛していた。 そして、トマスが予期していたことが起こった。つまり、イエス様が十字架の処刑によって死なれた。トマスはショックを受けました。 あれ程、おどろくべき奇跡を起こすことのできるイエス様が、死んでしまわれるなんて!。 トマスの傷心ぶりはひどかった。傷心のあまり人々と会う気になれない。トマスはただ一人悲嘆にくれることを願った。 だから、他の弟子たちとは一緒にいなかった、ということでしょう。
そこで、他の弟子たちが「わたしたちは、主を見た」というと、トマスは言った。「あの方の手に釘のあとを見、その指を釘跡に入れてみなければ、又、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 ここでトマスが言っている、「わたしは決して信じない」という言葉が印象的です。このトマスの言葉に対して、この物語の最後にイエス様がトマスに向かって、「見ないで信じる者になりなさい!」と言っておられる。
復活された日、弟子たちの間では、主が墓からよみがえられた、という話で大さわぎでした。そうして、その一週間後、更に弟子たちが集まって、まわりの戸を全部しめている中に、よみがえった姿のイエス様が現れたのでした。 トマスは、マリヤたちが知らせた墓が空であったことも聞いたけれども、確信がもてなかった。他のすべての弟子たちが、「よみがえりの主が現れた。この目で私たちは見た。」ということを話されても、話だけではどうしても、トマスは確信できなかったのです。私たちも恐らくそうでしょう。
こうして、弟子たちの間に「イエス様はよみがえられた」と信じる者たちと、信じられない者が浮き彫りにされます。
ここには、トマスを浮き彫りにして、復活の主が彼に何をなさったのか、著者ヨハネはこのことを記すことによって、「ナザレのイエスは、十字架で死んで、よみがえられた」という復活の信仰が、いかに確かなものであったかを、完全に明らかにしたのであります。弟子たちにとって、愛する主の復活を疑うことなど、不可能なことであったのです。 ただ、トマスだけは弟子たちから離れていたので、復活の主の御姿を見ていないのです。イエス様は、トマスの心を知っておられるのです。 イエス様はトマスのため、もう一度、弟子たちの中に現れるという、特別のことが起こっていきます。
26節で、「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」
20世紀最大の神学者といわれる、カール・バルトが1937年の復活後主日に、ベルンの聖霊教会で、ここと同じ聖書について説教しています。その一部だけ、バルトは次のように表現しているのです。 使徒として選ばれた、全く特定の人間が集まっている、その人々の真ん中にイエスは入られたのである。更にこの箇所では、二度までも「戸は閉ざされていたが」、イエスはその真ん中に入られた、と記してある。 したがってイエスは、一人の人間が他の人間のところに来るような仕方で、彼らのところに来られたわけではない。 彼は、神が人間のところに来るような仕方で、彼らのところに来たのである。 しかしながらイエスは、神の全能、偉大、尊厳において、時間空間を超える、主として、あらゆる被造物の生命とは違った新しい生命と存在において、彼らのところに現れたのである。 私たちはふつう、この箇所を読む時、イエス様のよみがえり体は肉体をもった体ではなく、壁と戸を突き抜けてスーっと現れた、とイメージします。 ところがバルトは、深い意味を含めて、難しい表現であらわしています。
次にイエス様は、彼らの真ん中に立ち「あなた方に平和がるように」と言われた。この一行の言葉を、バルトは次のように説明しています。 「あなた方に平和があるように」という美しい挨拶は、当時のユダヤ人の日常のきまった挨拶の言葉であって、いわばイエス様が弟子たちに、私たちが互いに「今日は」というのと少しも変わらない。このような挨拶をされたのは、この人間の集いの中に、神のからだを持った存在があることのしるし、現実を望まれたのである。 それは、弟子たちの心や頭にある人間の思想ではなく、又彼らの出会った空想、幻想、妄想の存在でもないことを表している。彼らは幻を持ったのでも、幽霊を見たのでもない。一人の人間、彼らのよく知っているナザレのイエス、という人間がはいって来たのである。バルトのするどい、奥深い言葉です。
さて、イエス様はトマスに向かって、大事なことを語っておられます。 トマスがあんなに、実際に、よみがえられたイエス様の体を見ただけでは済まない、自分の指でさわってみなければ信じないと言った、同じトマスの言葉を、イエス様は言われます。 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。又、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
21世紀に生きている私たちは、よみがえりの姿のイエス様を見ることはできません。そかし、トマスに言われた「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉は、私たちにも言われていることでしょう。
イエス様が死からよみがえって、現にあらわれたという神からの啓示は、この世の人々にとっては、ふさわしいものではなかった。 特にユダヤ教の最高幹部の人々にとっては、たしかに十字架の死によって葬ったのに、イエス様が復活したとなれば、もう大変なことである。今日もなお、この戦いはあっているでしょう。 しかし、イエスを信じる者にとっては、主がよみがえって、あらわれたことが、どんなに喜びであったことか。又ふさわしいことであったことか。 これまで、トマスの心は動転していた。信仰へ導かれるか、不信仰に導かれるか、彼の魂はゆり動かされていた。 イエス様はこれらの弟子を、いつまでも疑いと不信仰の中に残しておられなかった。そうして、イエス様の親しみのこもった言葉、又、厳しい処罰の言葉をもって、「信じない者にではなく、信じる者になりなさい」。 トマスは答えて言います。「わたしの主よ、わたしの神よ」。
トマスは今、すべての弟子たちの心の中に、明るい確かな信頼として立っている。今、弟子たちは、よみがえられたイエスにおいて、永遠の命を目のあたりに見て、新しい段階に立っているのです。 新たな、よみがえりの栄光の光りに満たされて、新しい力を与えられて、「私の主よ、私の神よ」と答えているのです。 復活の主イエスは、彼らに言われた「あなたは、私を見たので信じたのか。見ないで信じる者は、幸いである」。 単なるすすめではない。それこそ、力ある言葉であります。 これは、イエス様の御姿を見ることからくる信仰ではなく、私たちがイエス様を見ないのに、イエス様と私たちとを結ぶところの、信仰であります。その信仰は、私たちに復活の主を宣べ伝える、御言葉から来るものです。更にその御言葉は、私たちをイエスのもとに導いてくれる、御霊によって起こされるものであります。
この聖霊の導きによって、私たちは今日教会において、復活の主であるイエス・キリストを礼拝し、祈り、讃美するのであります。そこに、生ける復活のイエス様と出会えるのであります。 どうか望みの神が、信仰からくる、あらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせて下さるように。アーメン。
復活後第二主日 2014年5月4(日)