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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.本日の福音書の箇所でイエス様はたとえを話されます。イエス様は自分のことを、命を賭けて羊を守る良い羊飼いである、とか、また羊が盗まれたり危害を加えられないように見張る門であるともおっしゃります。ああ、イエス様はそういう良いお方なんだな、と理解できるのでありますが、それでは、羊とは誰のことを指しているのか?羊飼いとしてまた門としてイエス様は、誰を守られると言っているのか?そして、羊を盗んだり危害を加えようとする盗人、強盗とは何を指しているのか?狼が来たら、イエス様は、命を捨ててまで羊を守ると言われますが、その狼とは何を意味するのか?そして、羊が守られている囲いとかそこにある門とは、また羊飼いが羊を連れて行く牧草とは何を意味するのか?こう言ったことまでわからないと、イエス様のたとえの意味は理解できたことにはなりません。
イエス様はこのたとえを、彼に敵対するファリサイ派の人たちに話しました。自分がどのような方で、何のためにこの世に送られてきたかを教えるためでした。しかし、ファリサイ派の人たちはたとえの意味を理解できませんでした(6節)。私たちとしては、本日の説教を通して、当時のユダヤ教社会の宗教エリートであったファリサイ派の人たちよりも賢くなってお家に帰るようにしましょう。
2.イエス様はまず、1節から5節まで、ごく一般的なこと、常識的なことを話します。
「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
羊の飼育が大事な産業になっているところでは、塀のような囲いをつくって、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。塀は木材で造られるものばかりかと思っていましたら、石で造られるものもあったようです。泥棒が「乗り越える」(ギリシャ語で「上る」)というのだから、決して垣根のような低いものではなく、それなりの高さがあったと言えます。イエス様の話し方から判断すると、囲いの中には、一人のだけでなく複数の所有者の羊が一緒に入れられていたようです。羊を所有する羊飼いが、さあ、これから自分の羊を牧草地に連れて行こうとするか、とやってきて、門番に間違いなく所有者であると本人確認をしてもらって門を開けてもらい、自分の所有する羊を呼び集める。生まれた時から同じ羊飼いに飼われている羊は、自分を牧草地に連れて行ってくれる羊飼いを声で聞き分けられたのでしょう。他の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がったのでしょう。こうして、羊飼いはどれが自分の羊かわかり、羊も誰が自分の羊飼いかわかって、一緒になって牧草地を目指して、囲いの外に出て行きます。囲いの門についてですが、門番が開け閉めをすることから、扉付きの門と言った方が正確でしょう。
以上の話は、当時の社会の人が聞いたら、ごく身近なあたりまえな出来事の描写でした。イエス様がこの話をした時というのは、ある安息日の日に盲目の人の目を開く奇跡を行った後でした。人々の間で、イエス様のことを、こうした奇跡が行えるのは神から送られた者だからだとか、あるいは逆に安息日についての律法を破ったのだから神の意思に逆らう者であるとか、賛否両論の議論が沸き起こりました。当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派の人たちは、イエス様が天の父なるみ神から送られた方であることを、どうしても信じようとしない。それで、イエス様は、彼らの心の目は盲目であると指摘したのでした(9章39~41節)。これの続きとしてイエス様は、本日の羊飼いと囲いの話をされたのです。
その内容は、先ほど申し上げましたように、当時の人なら誰にでも頭に思い浮かぶ身近な光景でした。ただ、イエス様はこの話を単なる写実的な話をするためでなく、別の目的をもって話したのです。それは、自分がどんな方で何のためにこの世に送られてきたかを明らかにするためのたとえとして、この話をしたのです。従って、この話を聞いて、そう、確かに羊は扉付きの囲いの中で守られるし、自分の羊飼いを間違えないでついて行って牧草地に連れて行ってもらうものだ、その通りだ、と納得してしまっては、この話をたとえとして理解したことにはなりません。この話から、イエス様本人のことやその使命についてわからなければ、理解したことにはならないのです。このたとえを理解できるためには、そのなかにある二つのことに注目する必要があります。まず、羊が無事に生活できるためには、しっかりした門ないし扉がついた囲いが必要であること、そして、羊が無事に牧草地に到着できるためには、良い羊飼いが必要であること、この二つです。誰もが日常的に当たり前のことだとわかることを引き合いに出して、イエス様がどんな方でどんな使命を託されて送られてきたかということを、同じように身近で当たり前のこととして理解させようとする狙いがたとえにはあるのです。
3.たとえを話した後で、イエス様はまず、自分は羊の囲いの門ないし扉である、と解き明しをします。9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」日常身近なことに即して見れば、確かに、門や扉を通って囲いの中に入る羊は危険から免れます。そして囲いを基地として今度は羊飼いに導かれて出て行けば牧草地にたどり着けます。しかし、ここの霊的な意味は絶大です。ギリシャ語に即してみると、こうなります。「わたしを通って中に入る者は救われることになる。中に入り、そして外へ出て牧草地を見いだすことになる。」イエス様という門・扉を通って中に入った者というのは、将来救われることが確約された者です。「中に入る」とは、救いが確約された者たちの群れの中に連なることを意味します。そしてその守られた群れの中に連なって、今度は、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行くことになります。「外へ出る」というのは、救いの群れから出ていってしまうということではなく、救いの群れ自体がこの世の荒波の中に乗り出して行くことを意味します。そして、この群れは、最後には緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に迎え入れられます。荒涼とした渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり、安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。
ここで、イエス様が自分のことを羊飼いと言わず、門ないし扉であると言われるのは、どうしてでしょうか?それは、救いが確約された者たちの群れの中に加わるためには自分という門・扉を通らなければならないと強調しているからです。イエス様という門・扉を通るということは、どういうことでしょうか?それは、天の父なるみ神が計画しかつ実行した人間救済ということに関係があります。
天の父なるみ神は、人間の中に神に対する不従順と罪が入り込んでしまって、人間との結びつきが失われてしまった堕罪の出来事をとても悲しみました。なんとか、人間が自分の造り主である神との結びつきを取り戻して、その神から絶えず助けと導きを得てこの世の人生を歩めるようにしてあげよう、万が一この世から死んだ時は、永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげよう、と計画しそれを実行しました。ひとり子のイエス様をこの世に送ったのは、まさにそのためでした。人間と神との結びつきを壊している原因である罪の破壊力を無力にしなければならない。そのために神がやったことは、全ての人間の罪を全部イエス様に請け負わせて、罪から生じる罰も全て彼に十字架の上で受けさせて死なせたということでした。そのようにして、イエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、イエス様の十字架の死と死からの復活が自分のために起きたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この罪の赦しはその人にその通りになります。このようにして罪の赦しを受けた人は、神との結びつきを回復することになるのです。そのような人は、人間を永遠の死に陥れる罪の呪いが一掃されています。
以上から明らかなように、私たちが自分たちの造り主である神との結びつきを回復して、その結びつきの中でこの世の人生を歩むことができるためには、さらに次の世で造り主のもとに戻ることができるようになるためには、まさにイエス様を自分の救い主と信じるかどうかにかかっています。ヨハネ14章6節でイエス様自らが次のように述べています。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
ギリシャ語の原文では、「道」、「真理」、「命」それぞれの単語に定冠詞がついていますので、イエス様は天の父なるみ神のもとに到達できる道、真理、命の決定版ということになります。それは、数多くある道、真理、命の一つではなく、まさにこれこそ、という決定版なのであります。そういうわけで、救いが確約された者たちの群れの中に加われるためには、イエス様は真に通らなければならない門ないし扉なのであります。「わたしよりも前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」(8節)というのは、イエス様が十字架の死と死からの復活をもって永遠の救いを打ち立てる以前は、天の父なるみ神のもとに戻ることができる救いは存在しなかったということであります。誰かが、自分こそが人間を造り主のもとに導けるなどと言っても、それは真理でも真実でもなく、人間を別のところへ導く誤った道でしかなかったのであります。
ここで、羊を盗んだり危害を加えたりする盗人とか強盗について考えてみましょう。今見たように、人間を救いの群れから連れ出して、父なるみ神ではなくどこか別のところに引っ張って行こうとする者たちです。そして引っ張って行った先で屠ってしまい、滅ぼしてしまう。「滅ぼしてしまう」(απολεση)というのは、せっかく神との結びつきを持てて生きられるようになったのに、それが全て失われてしまうことを意味します。何が、救いの群れの中にいる者をこのような滅びに陥れるのでしょうか?この世には、神との結びつきを壊そうとするもので満ち満ちています。私たちはイエス様の十字架のおかげで神から罪の赦しを日々与えられているのに、そうした罪の赦しを薄めたり弱めたりするものがいろいろあります。
もし人が、自分の造り主である神を全身全霊で愛せないとか、隣人を自分を愛するが如く愛せないとか、そういう神の意思になかなか忠実になれない自分の真実の姿に気づいて悲しむうちはまだ霊的に健康な証拠です。しかし、この世は、そんなことはいちいち悲しんだりこだわったりしなくてもいいんだよ、とか、神はそんな厳しいことは言っていないよ、とか、君の言っている神はちょっと違うんじゃないか、というような惑わしと誘惑の声で満ちています。惑わしと誘惑に乗ってしまえば、もう罪は気づかないものになってしまいます。罪に気がつかなければ、赦しの必要性も感じられなくなってしまいます。赦しの必要性が感じられなくなれば、イエス様の十字架と復活は自分とは関係のない出来事になってしまい、そこでイエス様は自分の救い主ではなくなります。まさにこの時、神との結びつきは失われてしまうのです。
盗人、盗賊とは、このような惑わしと誘惑の声と態度をもって近づいてくるもの全てを意味します。私たちは、そのような声に耳を傾けるべきではなく、イエス様の声に耳を傾けるべきです。イエス様の声とは、まず聖書の中に記されているイエス様の教えがあります。それから直接イエス様によって世に遣わされた使徒たちの教えもイエス様の声の延長です。さらに加えて、イエス様をこの世に送られた父なるみ神の意思が記されている律法や預言であります。すなわち、イエス様の声は、全聖書のなかに聞きとることができるのです。
3.次に、イエス様が自分のことを「良い羊飼い」と言ったことについて見てみましょう。良い羊飼いと雇い人とが対比されます。雇い人は、羊の所有者に代わって羊の番をする者ですが、狼が現れるなど危険が生じると羊をおいてさっさと逃げてしまう。ところが、良い羊飼いはそのような場合でも逃げはせず、羊を守るためだったら、自分の命さえも惜しまないというのであります。実際、イエス様は人間が罪の支配から解放されるために、人間の全ての罪を請け負い、それから生じる全ての罰を受けて自分を犠牲にされました。イエス様は、十字架に掛けられる前の晩、この犠牲の死を引き受けることができるかどうか自問自答して苦しみますが、それが自分をこの世に遣わした父なるみ神の御心である以上、それに従って引き受けますと言ったのであります。
ここで狼が何を象徴しているか見てみましょう。盗人、強盗の場合は、人間を救いの群れから連れ去って、神との結びつきを失わせて滅びに陥れるものでした。狼の場合は、羊を盗んだり連れ去ることが直接の目的ではなく、羊やその群れを即破壊することを目的とします。その意味で狼は、罪の支配力、罪の呪いそのものを象徴しています。
次に雇い人ですが、これは本当の羊飼いではない偽りの羊飼いです。本当の羊飼い、良い羊飼いのイエス様は自分の命と引き換えに人間が神との結びつきを回復できるようにしました。御自分の流した血を代価として、人間を罪の奴隷状態から解放された状態に買い戻した、贖い出したのであります。偽りの羊飼いである雇い人には、同じことはできません。偽りの羊飼いについて、ユダヤ民族の歴史には既に具体例がありました。エゼキエル書34章をみると、神は、自分の民を羊の群れ、その民の指導者を牧者にたとえて、牧者が羊の群れを養わずに自分自身を養っているだけの無責任を非難します。そして、無能な牧者が羊の群れを飼うことをやめさせて、神の意向に沿った真の牧者を起こすと約束します(エゼキエル34章10、23節)。イエス様がこの世に送られたというのは、この預言の実現でもあったのです。
終わりに、イエス様が「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われていることを見てみます。「この囲いに入っている」羊と「入っていないほかの羊」がいて、イエス様は両方の羊のグループを荒地の向こうにある緑豊かな牧草地に導いてい、霊的な表現で言い換えれば、イエス様は双方を、この世の荒波の海路の向こうにある永遠の安息地、神の御国に導いていく、ということになります。それでは、この囲いに入っている羊と入っていないほかの羊とは何を指すのでしょうか?
この囲いに入っている羊と言うのは、端的に言えば、ユダヤ人の中でイエス様を約束の救世主メシアと信じた者たち、ユダヤ人キリスト教徒です。ペトロもヨハネも他の12弟子もイエス様の母マリアも、それからパウロも皆、ユダヤ人キリスト教徒です。囲いに入っていないほかの羊とは、ユダヤ人以外の諸民族でイエス様を自分の救い主と信じた人たち、異邦人キリスト教徒です。初めはローマ帝国内の諸民族、やがてヨーロッパやアフリカやアジアの諸民族に広がっていったキリスト教徒です。イエス様は、この二つのグループを一つの群れとして、神の御国に導くと言われるのです。
意外なことに思えるかもしれませんが、聖書のなかで人間界を二分しているもっとも主要な境界線は、キリスト教徒か非キリスト教徒かではありません。そうではなくて、ユダヤ教徒かまたは「その他大勢」のいずれかなのであります。この「その他大勢」が俗にいう異邦人と呼ばれるものです。そのなかには、日本人だけでなく、ヨーロッパ人も、アメリカ人も、アフリカ人も、中国人も韓国人もみんな全部一緒くたに含まれます。「エフェソの信徒への手紙」2章で使徒パウロが教えるように、キリストは十字架での贖いの業をもって二つのグループを一つの体として神と和解させたのであります。最後に、エフェソ2章18
22節を引用して、本説教の締めとしたく思います。キリスト信仰者がイエス様という良い羊飼いに従って歩むということを考える時、この箇所は大事な視点を教えてくれます。というのは、キリスト信仰者は、ややもすると、今の世と次の世にまたがる自分の人生行路というのは一人で歩く孤独な歩みのように感じてしまいますが、それは本当は、とてつもない無数の見えない横の繋がりをもっているということ、それゆえこれはまさしく見えない大きな羊の群れなのだ、ということ教えてくれます。
「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 2014年5月11日 復活後第三主日の聖書日課 使徒言行録6章1~10節、第一ペトロ2章19~25節、ヨハネによる福音書10章1-16節