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女性はたいてい洋服とか飾りが好きですが、道具の好きな人もいます。特に男性はたいていそうでしょう。私も、何も考えないで店に入って、少しすると、新しい スクリュードライバーとか「マきた」をもって出てきます。「あなたはもう道具をたくさん持っていますけれども、今度の買い物は本当に必要ですか。」と質問されたら、なかなか答えが見つかりません。新しい道具が本当に必要な場合もあることはありますが・・・。とにかく、時々ショッピングするのは楽しみです。新しい道具を見つけると嬉しいものです。 では、神様は何を探されるでしょうか。 神様は私たちを探していらっしゃいます。 私たちが神を知り得るのは、神が私たちに御自身をお示し下さるからです。 神は愛をもって私たちに近づき、私たちを御自身の御許に引き寄せられます。聖書にはこう書いてあります。 「遠くから、主はわたしに現れた。/わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ」(エレミヤ31:3)。 「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に 話しているのか、分かるはずである」(ヨハネ7:17)。 私は道具を店で探しましたが、今日の聖書の箇所で、イエスは人間を探していらっしゃいます。イエス様の愛というのは、私たちには理解できないほどすばらしいと思います。今日の聖書の個所を読みましょう。 9.9.イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 マタイは即座に立ち上がりました。『すばらしい先生が私を招待してくださいました』と思ったでしょう。そして、どんなに喜んだことでしょう。 10.イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 みな大喜びでした。イエスは大勢の人々と共に食事をしておられました。 彼らは、自分たちは愛されているという感じがしたに違いありません。 しかし、他の人たちはそれが気に入りませんでした。 11.ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 ファリサイ派の人々は『私たちは偉い』と考えていたでしょう。そして、イエスはそれをご存知でした。神様の御子だからです。 12.イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」 さて、ある友達の話をいたしましょう。 私が前に働いていた教会の友人のラッセという男性は私にこんな話をしてくれました。先ほどのみ言葉の意味がよくわかる具体的な例として、この話を考えてみてください。 そのとき、ラッセはおおよそ四十歳で、外見は何も問題がないようでしたが、内心はとても暗く、酒癖が悪く、自分でも幸せな生活ではないと告白していました。 ラッセはある日、信徒説教者の話をききました。その説教者は私の家内の父でした。その話の中にこの聖書の一節が出てきました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」この言葉を聴いて以来、ラッセは自分は「別の世界」に入ったと言いました。彼は神様の国に入ったのです。そして、彼の生活はすっかり変わって、心の平安と人生の目的が見つかりました。奇跡でした。その後、ラッセは自分自身も神様の国のことを人々に話し始めました。心の希望が生まれたのです。 聖書の箇所に戻りましょう。 13.『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」 こうしてイエスはファリサイ派の人々に答えて、神様の恵みについて教えてくださいました。 イエスが教えられた神の御恵みはどんなものなのでしょうか。 イ エスは特に失われた者や罪人と交際しました。このことは彼らにとっては大きな慰めでしたが、他の人々には躓きとなりました。しかしイエスはこれによって罪 人を求めてこれを救う神の言い尽くし難い愛を示したのです。このように私たちに何の価値も無いのに与えられる神の愛が恵みと呼ばれるのです。 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。 「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19)。 イエスの考え方はファリサイ派の人々と全く違いましたね。 イエスはマタイを友達として愛されました。そして、弟子にされました。マタイはそれからイエスと共に働きました。私の友人のラッセも神様のみ言葉によって神様の国のために働き始めました。そして、私たちも自身も、神様の道具としてイエスと共に働くことができるのです。 今、神様の恵みによって、わたくしたちは喜ばしい自由な心をもっています。 キリスト者は、強制の下にいやいやながらしたり、または報酬を目当てにしたりするのではなく、むしろ、自らすすんで「喜びのある自由な心」から、神の御旨を遂行します。 「喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」(詩篇100:2)。 「喜ばしい自由な心をもって働け」
(マルティン・ルター)。 イエスのみ業によって喜びましょう。 ローマ5:11.それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して(とおして)和解させていただいたからです。 私は新しい道具を探しました。そして、何か見つかったら喜びました。神様は、新しい人とか神様から離れて生き続けた人が見つかると天国で大喜びをされるのです。 祈りましょう 天の父なる神様。二千年前イエスはマタイを弟子にしてくださいました。このことを通しても、あなたはマタイに対する、またはすべての人間に対する深い愛を表してくださいました。あなたの御前で私たちには価値があります。どんな痛みやがあっても、あなたのところに行くことが出来ます。そのことを感謝します。またあなたは教会の働きを通して私たちを招いてくださっています。この招きにしたがって、私たちがあなたの御国のためにできる仕事を教えてください。どうすれば福音を世界へ伝えることができるのか私たち一人一人を導いてください。どうか敵をも愛することができるように助けてください。よい僕になれるように導いてくださ い。あなたの御言葉がわかるように、あなたの御心に従うことが出来るように私たちを教えてください。また、隣人を愛せるように、苦しんでいる人を助けられ るように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことが出来ますように。 この祈りを主イエスキリストによってお祈りいたします。
アーメン。