信徒礼拝

 

本日の説教は高木 賢宣教師(SLEY)から頂いた本日の聖書の箇所の説明を青木千恵 姉が朗読しました。

7月27日(日曜日)の聖書(使徒書)の箇所についての説明

(はじめに)

聖書の訳は原則として口語訳によっています。「ローマの信徒への手紙」の説明は、フィンランドで入手可能なルター派の説明書を翻訳したものですが、わかりやすくするために翻訳者(私)の責任で文章に手を加えてあります。これは説教用の文章ではなく、聖日の聖書箇所の学びのための文章ですので、その点はご承知ください。それでは、御言葉によって祝福されたひと時をお過ごしください。(高木賢、フィンランドルーテル福音協会)

ローマの信徒への手紙7章15〜25節の説明

この箇所が、ローマの信徒への手紙7章の核心です。パウロはここで誰について話しているのか、たくさんの議論が戦わされてきました。それらは大きく二つに分けられます。パウロは、まだ神様の方に向き直る以前の段階の非キリスト信仰者のことを意味している、と考える人もいますし、キリスト信仰者のことを意味している、と考える人もいます。パウロは、キリスト信仰者が同時に罪深い者でも聖なる者でもある、と言いたいのでしょうか、それとも、キリスト信仰者は、罪のない状態で、よい生活を送ることができる、と言いたいのでしょうか。この問題は、決定的な重要性を帯びています。

教会の歴史で指導的な役割を果たした教会教父たちの多くは、この箇所を非キリスト信仰者について語っているものとして理解しました。それと同じ理解をもった教会には、たとえばローマ•カトリック教会がありましたし、また、信仰者の聖化(つまり、聖なる者となっていく過程のこと)を重視する多くのプロテスタント教会もそうでした。「神様に自分を委ねたはずの人間が相変わらず罪深い存在でありえようか」、と彼らは考えます。聖書学者の大多数もこの立場を支持しています。

アウグスティヌスなど数人の教会教父たちは、それとは異なる立場を取りました。これは、後にルターの神学の礎ともなりました。すなわち、パウロはこの箇所で、ほかでもない自分自身の罪深さを嘆くキリスト信仰者について語っている、という見方です。ルター派の神学はこの立場を取っています。一番大事な論点は、ここでの対象がキリスト信仰者か、それとも非キリスト信仰者か、ということです。それに比べると、ここでの対象がパウロ自身のことなのか、それともキリスト教徒一般のことなのか、ということは、さほど重要ではありません。

それでは、「パウロはここでキリスト教徒を意味している」という見解に基づいて、話を進めて行くことにします。この見解を支持する聖書的な根拠として、パウロがこの世での人生の歩みを終えた後でようやく訪れる罪と死からの解放を心から待ち望んでいる、という「コリントの信徒への第一の手紙」15章50〜58節をあげることができます。

15:50兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 15:51ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 15:52というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 15:53なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 15:54この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。15:55「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

15:56死のとげは罪である。罪の力は律法である。15:57しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 15:58だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。(口語訳)

ここでパウロは自らの罪深さを嘆くキリスト信仰者について語っている、という見方を支える聖書の箇所として、もう一つ、「ガラテアの信徒への手紙」5章17節をあげておきます。

5:17なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。(口語訳)

パウロは、このテーマを次のように展開していきます。律法自体には何の落ち度もありません。人間の側にこそ問題があるのです。「私は善を行うことができない」、とパウロ自身、告白しています。彼は神様の律法に従うことができず、彼の心の中には、彼に悪いことを行わせる罪が住みついています。人間は、自分の行いが悪くて間違っていることを知りつつも、自分の罪深さに束縛されています。人間は、善を行うことを望んでも、それを実行する力に欠けています。人間は、悪を行うことを望まないとしても、やはりそう行っています。なぜなら、心の中に住みついている悪の方が人間よりも強いからです。

このように、パウロは相反する二つのものの間にいます。一方で、彼は喜んで神様の律法の教えに賛同し、それが善いものだと、証します。他方で、彼の中には悪が住みついており、彼に悪いことを行わせます。パウロは、この二律背反の構図から逃れることができません。 いかにして罪が人間をがんじがらめにして、神の御国の外側に追いやるものか、人は自らの身体の感覚によっては察知することができません。

「私は惨めな人間です。誰がこの死の身体から私を救ってくれるのでしょうか」(24節)これはパウロの心からの嘆きの言葉です。その同じ心からは、神様への感謝も出てきます。キリストは人間の罪の罰をすべて代わりに引き受けてくださいました。そのおかげで、罪深い人間は「神様の側に属する者」とされたのです。

キリスト信仰者は、他のことと比べて、とりわけ自分の罪深さと弱さに関しては、それらを瞬く間に忘れてしまう傾向があります。この世にいる限り、彼らは、自分の罪深さを気にもかけず悲しみもしないで過ごしていることがしばしばあります。ところが、いったんキリストの意味がわかると、今まで乱雑だったすべての事柄が徐々に整理整頓されていくようになります。キリストを信じるようになったばかりの人は、自分自身の罪深さを過小評価しがちです。それはたとえば、コーヒー依存症だったり、異性を視線で追うことだったり、過去の趣味への執着だったりします。人間は、心が神様に向かって燃えている時には、 神様が捨てるように望んでおられる事柄を素直に捨てて、ひたすら主に向かって生きて行く心の準備をするものです。こうした態度には、信仰に入ったばかりの人が周囲に放つ初々しい愛の香りが漂っています。ですから、信仰に入ってからの経験がまだ少ない人に対しては、あまりに厳しく接してはいけません。もちろん、神様は、しばらくすると、もう少し深い世界を眺めるようにと、その人を教えてくださいます。ただし、このことが実現するためには、聖書に基づく「律法と福音」についての教えがその人に正しく宣べ伝えられている必要があります。

ある特定の罪は、ひどい罪であるとみなされます。たとえば、神様を無視して生きていた時に浮気をしたことがあるとか、飲酒の虜になったとか、何かを盗んだとか、などです。神様は、これらの罪から人間を解放して、御自分の民としてくださいました。しかし、ここで大切なことがあります。それは、上記の罪の行いをやめることだけならば、たんに皿の外側をきれいに磨くことにすぎない、ということです。もしも依然として皿の内側がそれを覗き込むと誰でも気分が悪くなるほど汚れているのであれば、一体何の助けになりましょうか。実のところ、私たちは、神様の御前ではまさしくそのような存在なのです。人間の心は腐敗の源です。その中から、いつも新たな腐敗が湧き出てきます。たとえ目立つ最悪の罪の行いが取り除かれたとしても、悪の源泉自体は依然として温存されたままです。具体例で説明しましょう。暴力行為をやめるかわりに意地悪な態度を取るようになったり、盗みをはたらくかわりにある程度の物欲と物事への執着が生まれたり、実際に浮気するかわりに心の中で密かに行ったり、悪い行いをするかわりに悪い言葉を吐いたり、悪い言葉のかわりに悪い考えが置き換わる、といった具合です。

「神様の側に属する者」とされたはずの人にとって、万事がうまく運ぶわけではないことに気がつくのは、かなり動揺をもたらすことかもしれません。神様が私たちに、私たちの本当の姿を少しでもお示しになるなら、私たちはそのあまりのひどさにすっかり希望を失ってしまうかもしれません。もう罪がないはずのところからも、依然として罪が見い出されることになるからです。隣り人や、友だちや、自分の家族との関係からも、罪が見つかります。また、行いや、言葉や、思いの中にも、依然として罪が残っています。私たちの信仰生活が様々な罪で満ちている、という事実を直視するのは、最悪に衝撃的なことかもしれません。信仰生活は、不信仰と不確実な事柄であふれかえっています。人は神様の御旨に対して根強い疑いを抱いていることなどがその一例です。私たちは自分の罪深さを嘆くこともしませんし、神様が憎まれる事柄を憎むこともしません。神様の愛についても、本来なら喜びに満たされるはずの事柄なのに、そうなりません。これらのことが罪でなくて一体何でしょうか。つまり、私たちは本当に、神様の栄光が欠けている罪深い存在なのです。もしも神様が私たちを裁き始めるなら、私たちは全員、主の御前から永遠の滅びの世界へと落下して行くほかありません。

今までの御言葉の学びを通じて、私たちはパウロと共に、神様に助けを願い、自分自身の惨めさを素直に告白する準備ができました。パウロは、自分が「キリストの側に属する者

であることを、信じて告白しています。このパウロに倣って私たちもまた、自分が「キリストの側に属する者」であることを告白できるのが望ましいです。神様は、私たちの抱えている惨めな罪深さをよくご存知です。たとえ私たち自身にはその惨めさのごく一部しか見えていないとしても、神様はその全体をすっかり見通しておられます。まさにそれゆえに、聖書はこう言っています、「父親がその子たちを憐れむように、主の憐れみは御自分を畏れる者たちの上にあります。主は私たちの造られた有様をご存知であり、私たちが塵にすぎないことを覚えておられるからです」(「詩篇」103篇13〜14節)。本来ならば、地獄に落ちるのが当然の罪深い者でありながら、それでも私たちは、キリストの血によって清められており、まったく落ち度のない、神様にとって言いようもないほど愛しい存在なのです。私たち自身のおかげではなく、ゴルゴタでのイエス•キリストの生け贄のゆえにそうなのです。これは確実なことです。なぜなら、その通りであると、主の使徒であるパウロの口を通して、神様御自身の御言葉が証しているからです。

本日の福音書、マタイによる福音書11章で、イエス様は罪の重荷に苦しんでいる私たちに対して優しくこう言われています。

11:28すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 11:29わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

終わりに、ルターによるローマの信徒への手紙7章25節の説明を紹介して、本日の聖書の学びを閉じることにいたしましょう。

「このようにして、私自身は、心では神様の律法に仕えていますが、肉では罪の律法に仕えているのです」(「ローマの信徒への手紙」7章25節より)。

これはとても明確なメッセージです。同じ一人の人間が、「神の律法」と「罪の律法」とに同時に仕えている、というわけですね。要するに、人は同時に、義とされた存在でもあり、罪深い存在でもあるのです。上の御言葉でパウロは、「私の心は」神の律法に仕えています、とも、「私の肉は」罪の律法に仕えています、とも言ってはいないことに注意しましょう。「私は」、とパウロは言っています。つまり、同じ人格である一人の人間である「私」という全存在が、同時に二面的な事柄に仕えているのです。そういうわけで、彼は、一方では、自分が神の律法に仕えることができることを感謝しており、もう一方では、罪の赦しを願っています。なぜなら、彼は罪の律法にも仕えているからです。しかしこれは、「肉的な存在である人間が神の律法に仕えている」、という意味ではありません。私が先ほど言ったことを思い出してください。神聖なるキリスト信仰者たちは、同時に、罪深い存在でもあり、義とされた存在でもあります。彼らは義とされています。なぜなら、彼らはキリストを信じており、 彼らを覆うキリストの義を「彼らの義」でもあるとして父なる神様が認めてくださっているからです。しかし、一方では、彼らは依然として罪深い存在でもあります。なぜなら、彼らは律法を完全に守ることができないし、罪深い欲望をもたずには生きることもできないし、いわば医者にかかりっきりの病人に等しい存在だからです。実際、彼らは依然として病気なのですが、その一方では、治癒も始まっているので、健康になる希望をもつことができます。つまり、彼らは治りかけの患者のようなものなので、今後の健康は予断を許さない状態にあります。処置の仕方によっては、以前よりも症状が悪化する可能性もあるからです。

(マルティン•ルター 「ローマの信徒への手紙についての講義」より)

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