説教「主よ、あわれんで下さい」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書15章21節~28節

今日の聖書は、表題にありますように「カナンの女の信仰」ということです。 ユダヤの女性が登場するのではなくて、カナンの女であります。

21節を見ますと「イエスはそこを立ち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、その地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ、とあります。

イエス様は、ユダヤ地方での福音宣教で、パリサイ人や律法学者といった人々との戦いに決裂して、弟子たちをつれてガリラヤよりずーっと北にあります、ツロとシドンの地方に退かれたのでした。 イエス様の生涯において、この旅が、どんな意図をもってなされたか、これは充分意味のあることであったでしょう。

これまでイエス様は、ガリラヤ湖の畔を中心に病気の人々を癒したり、多くの人々にはパンを施したり、といった救いの活動をなさってこられたのであります。しかし、イエス様にとっては、こうした救援活動をすることが、究極の目的ではありませんでした。 一方、北方にあるツロやシドンは、悪名高い、偶像崇拝の町でありました。どうしてイエス様は、わざわざこの悪名高い異邦人の町へ旅されたのでしょうか。

ツロの町については、旧約聖書イザヤ書23章1~7節に出てきます。又エゼキエル書26章から28章にかけて出てまいります。或いはヨエル書4章4~8節等にも記されています。 そこでは、ツロとシドンは滅ぼされるという予言です。 シドンについては、北イスラエルの王アハブの時代に、アハブ王がシドンの王女イゼベルを妃として迎えたために、この地のバアル崇拝となり、イスラエルは大きな禍いをもたらした、という事情が起こりました。これは、列王記上16章31節を見ますと分かります。 もっと昔にさかのぼって、士師時代にイスラエルの民は、シドンの神々に仕えた、という記述があります(士師記10章6節)。 そういう異邦人の地へ行かれたその訳は、結局のところわかりません。神からの御示しによる、としか言いようがないのかも知れません。 少なくとも、この地域に救いをもたらすためではなかった(マルコ7章24節)。

イエス様は群衆とはなれて、弟子たちと静かに、神の御旨の本質を深く、語りたかったのではないでしょうか。 間もなく、自分はこの世を去っていく。残った弟子たちに、福音宣教の重大な課題をしっかりと伝え、将来に備えての霊的訓練を、じっくりしておきたかったのではないでしょうか。 イエス様はここにおいて、弟子たちとの霊的交わりの重要さを、深く感じておられるのであります。

又、別の面から見ますと、イエス様の十字架と復活の後、昇天され、弟子たちはこの重大なキリストの福音を、西の方面へ、エジプトへと広められ、又、東の方面には、エラム、メソポタミヤといった世界へ、広められていったのであります。けれども主流としては、何と言っても、北の方面へと進められていったのです。 北の地、異邦人の地へと教会は広められて、アンテオケを中心に小アジアに教会は伝道され、時にパウロは主に、異邦人伝道につくのでありますが、このアンテオケを基地にして三回の伝道旅行をし、エルサレムへの往復も、彼らはツロとシドンの地方を通過したのでありました。こうしてみるとこの地方は、初代福音宣教の前進基地として、重要な役割を担ったことになります。

イエス様が、そういう時代の先の、歴史的事実を予想して、このツロとシドンの地方へ来られたのか、それはむずかしいところで、ただ、神様の御計画のうちになっていったのであります。 例えば、私たちのこのスオミ教会が、遠いフィンランドの教会の方々の、熱い伝道の思いをこめて、なぜ、東中野のこの地に宣教師の先生方を送って下さって、福音伝道がなさているのか、まことに不思議なことであります。 そのことが、やがて将来、何十年か何百年の後に、どのような重要な意味をもつ教会となっていくのか、私たちにはわかりません。神様の御経綸の中に成り行くことであります。人の目には隠されている。 しかし、確かにその布石はすでに打たれている、後の歴史的事実を見ます時、私たちは深い驚きを覚えるのであります。

イエス様御自身としては今、この異邦人の地ツロとシドンという地方へ、弟子たちをつれてこられ、大切なひとときをすごそうとされているわけであります。

ところがここに、思いもかけず一人のカナンの女が登場して参ります。そして、イエス様に助けを訴えるのであります。 「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、叫んでくるのです。 娘が悪霊に、ひどく苦しめられています。助けて下さい、と叫び続けます。恐らく重度の精神障害を負っていたのでしょう。 彼女の夫については、何も記されていないところからみると、この障害の子供のため、離別されたと思われます。 これからどう生きたらいいのか、将来の不安と、困窮のどん底で、彼女はイエス様の中に、神のみ力を見ていますので、その救いを求めて必死に叫びをあげているのです。 彼女は異邦人でありますが、イエス様に向かって「ダビデの子、主よ」とよびかけています。私たちは、彼女の叫びに驚かれます。

神学者シュラッターの解説を見ますと、イエスを呼び止めた異邦人の女は、イエスに「ダビデの子」という、王としての名前で呼んだ。 ユダヤ人からは、そうたびたび受け入れられなかった名であります。 彼女は、たた単に、イエスの偉大な業をなさることを聞いていったにちがいない。イエスこそ、自分の娘を助けることができるお方と、見たのである。 シュラッターの解説です。

待望の人が、今ここに現われたと、彼女は信じたことでしょう。 しかしイエス様は、彼女の叫びに一言もお答えにならなかった。弟子たちは、彼女の必死の叫びにうるさくて、ついにイエス様に願って言った。「彼女を追い払って下さい。叫びながらついて来ます」。 この時の弟子たちの態度の中には、異邦人に対する差別と、女を軽蔑するまなこで見ていることが、露骨に出ています。

弟子たちの求めに応じて、イエス様はこの女性に語られた。 「わたしはただ、イスラエルの家の、失われた羊にだけ遣わされたのだ」。 このことはマタイ10章6節で、12人の弟子を電動に派遣された時にも、言っておられたことでした。 「異邦人の道に行ってはならない。むしろイスラエルの家の、失われた羊のところへ行きなさい」。 イエス様の目は、しっかりと神の委託に目を向けておられるのです。それでも、なお、彼女はイエス様の前にひれ伏しまして「主よ、どうかお助け下さい」と言っています。 彼女は、イエス様の言葉でもそこを去らなかった。それどころか、遠くから叫ぶより、もっと大胆に近寄って来て、全身全霊を込めてイエス様の答えが、彼女のねがいを満たしてくれるように望んだのです。

こうしてこの場面は、以外な展開を見ることになります。 イエス様にとっては、彼女に強要されて、御自分の道を脇に追いやることは、できない。26節で、イエスは応えて言われた。「子供たちのパンを取って、小犬にやってはならない」。 イエス様の本来の使命は、まず、イスラエルの救いのため、全力を挙げねばならない。異邦人にまで救いはやれない、と。 それを、子供とパンをもって、たとえて言われた。

本来、子供たちに与えるパンを、小犬にはやれない、とカナンの女を小犬よばわりにされて、軽蔑のひびきすらする言葉です。 しかし、カナンの女はなおも、切実な願いを込めてイエス様に迫りました。彼女は、イエス様のそっけない返事に反発することなく、心を低くして、まずイエス様の言葉を受け止めています。 その上になお、願いを重ねていく必死の姿に、私たちは心うたれます。 そうして彼女な言っています。「主よ、そうです。しかし小犬でも、その主人の食卓から落ちるパンくずは、いただくのです」。

そうです。主人は子供にはパンを与えます。でも、主人の食卓から落ちるパンくずは、いただけるのでしょう、と、彼女は言っているのです。 私たちは、彼女のこの深い、叡智に裏付けられた熱い言葉に、胸打たれます。 もし子供が飢えて、小犬が満腹するというのなら、あってはならないことでしょう。しかし、子供も充分に与えられ、落ちたパンくずで小犬も食べられるなら、救われるのです。 彼女は、イエス様の御力がユダヤ人にも、異邦人にも、すべての者のために、豊かに溢れるように、と信じたのです。彼女は、このお方なら、イスラエルの民のために仕えると共に、異邦人を助け、イスラエルの約束を満たすと共に、異邦人の女の願いも聞きとどける、という、両方の事が同時におできになる、と信じたのであります。

イエスは彼女に言われた。「女よ、あなたの信仰は見上げたものだ。あなたの願うとおりになれ」。すると彼女の娘は、その時癒された。 イエス様は、彼女の信仰を、見上げたものだ」と言われます。 この異邦人の女は教養もなく、聖書もない、神学もなかったが、イスラエルの教師たちが分からない謎を、解くことができたのであります。

聖書には、<神は御自分の御国のために、イスラエルをお造りになったが、それと同時に、その栄光は地上に満ち溢れる>と、記されている。 この二つが、どのようにして一緒に見出されるようになるか、将来の大きな謎であります。 しかし、神様の御旨は必ず成っていくのであります。 アーメン

 

  聖霊降臨後第13主日  2014年9月7(日) 

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