説教「罪を犯した兄弟にどう向き合うか?」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書18章15-20節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の福音書の箇所でイエス様は、「あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか」について教えます。ここで言う「あなた」と「あなたの兄弟」は、双方ともイエス様を救い主と信じる者です。17節で、問題が当事者同士で解決できなければ、教会に持ち込めと言っているので、二人とも教会に属する者であることは明らかです。つまり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者です。それでは、教会に属する者が別の者に罪を犯したとき、キリスト信仰者は、どう対処すればよいのでしょうか?

 その前に少し断線しますが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者が同じ信仰を持つ者に対して罪を犯すということがありうるのでしょうか?イエス様の問題提起はちょっとびっくりさせます。しかし、使徒書簡をみるまでもなく、キリスト教会は誕生期からいろいろな問題を抱えていたようです。「コリントの信徒への第一の手紙」の6章をみると、信仰者同士の間で利害の対立が生じた時、その解決を当時キリスト教と全く無縁であったローマ帝国の法廷に委ねることが行われていたことがうかがえます。それについて使徒パウロは、問題の解決を信仰を持つ者同士で行うのではなく、信仰を持たない者に委ねるとは何事かと叱責します。どんな利害の対立があったのかははっきり述べられていませんが、「相手から損害を被っても耐えろ」とか「相手から奪い取るな」とか言っているところをみると(6章7~8節)、金銭上のトラブルがあったことが窺えます。当時はまた、貸した金に利子をつけることも行われていたようなので(マタイ25章27節)、きっと、ちゃんと既定の額を返してくれなかったとか、逆に法外な額を要求されたとか、そういう問題があったのでしょう。この問題は、十戒の第6の掟「汝、盗むなかれ」に関わります。どっちが盗人か白黒つけられれば、どっちが罪を犯したかが明らかになります。しかしパウロは、すぐ法廷に持ち込むということに自己の利益しか頭にないということを見抜いていました。

金銭上のトラブルに加えて、信仰者同士の罪の問題には性関係の乱れがあったことも、同じコリント第一の手紙の中に記されています(5章)。キリスト教会の性のモラルの基本は、イエス様の教え「神は人間を男と女とに創りあげ、男と女は親元を離れて、神によって一つに結ばれる」(マルコ10章6~9節)にあります。つまり、徹底して男女の間の一夫一婦制に基づく性モラルです。当時の地中海世界の性モラルはこれとは異なっていて、今風に言えば「多様な」性モラルでしたから、なかなかそこから抜け出られない信仰者もいたに違いありません。余計なことですが、現代世界は、キリスト教会の内外を問わず、イエス様の教えた性モラルと相いれないモラルが蔓延していると思います。真のキリスト教徒にとっては試練の時代です。いずれにしても、この問題は、十戒の第7の掟「汝、姦淫するなかれ」に関わります。

 第6や第7の掟に関わる罪だけでなく、この他にもいろいろな罪が信仰者の相互関係を損なっていたと考えられます。例えば、金銭上のトラブルや性関係の乱れには、ほとんど必ずといってよいほど、悪口や中傷や事実を捻じ曲げた噂がつきものです。これなど、第8の掟「汝、偽証するなかれ」に関わります。

 

2.こうした信仰者同士の罪の問題はどのように解決すべきでしょうか?本日の福音書の箇所はどう教えているでしょうか?15節から17節をみると、イエス様は次のように教えています。罪の被害を被った信仰者はそれを犯した者に対して、まず、二人だけのところで、「君が行ったことは罪である。我々の神の意思に反することである

とはっきり教え戒めるべきである、と。もし罪を犯した者が、「おっしゃる通りです」と聞き入れて、罪を悔いて赦しを願えばこれを赦してあげる。そうすることで、被害を被った信仰者は、信仰の兄弟を得ることになる。つまり、赦した後は、犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にする。こうして信仰の兄弟姉妹の関係が築かれるのであります。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記19章17節にある神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」に基づいているということです。どういうことかと言うと、罪の被害を被った信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で「こんちくしょう、あの野郎」と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って、「君が行ったことは罪なのだ。我々の神の意思に反することなのだ」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは、罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと見なされる、と言うのです。教え戒めて、相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたということになります。しかし、教え戒めても聞き従わない場合は、罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人は責任解除になるのです。これと同じ神の意思が、先ほど朗読された旧約聖書の箇所エゼキエル書33章7~9節の中にも表されています。

以上から、「二人だけのところで教え戒める」の意味がわかりました。それは、単に信仰の兄弟が仲直りしてめでたしめでたしになるための手続きではない。そうではなくて、罪を犯した者にそれが罪であると認識させて、その上でそれを悔いて赦しを求めるように導くということであり、被害を被った者はその導きをする重要な役割を持つということです。罪を犯した者が悔いて赦しを願う時、被害を被った者は赦しを与えなければならない。赦した後は、犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にする。そうして、真の信仰の兄弟姉妹関係が築かれる。神の民から罪の汚れを取り除くというのは、まさにこのようなことを言います。罪を罪として包み隠さず、当事者に対して明白にし、そこから赦しを与えることで罪を帳消しにしていく、ということであります。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

次に進みましょう。残念なことに、「二人だけのところで教え戒める」ことが功を奏せず、罪を犯した信仰者が教え戒めに耳を貸さなかった場合はどうするか?つまり、自分は何も罪を犯していないとか、あるいは自分のやったことは罪ではない、と言い張った時です。その時は、証人を信仰者の中から一人か二人呼んで、それはやっぱり罪に値することだったということを確認してもらうことになる、とイエス様は教えます。この証人を立てるというイエス様の教えは、旧約聖書の申命記19章15節にある神の命令に基づいています。天地創造の神は、十戒の第八の掟「汝、偽証するなかれ」で端的に表しているように、真実を愛し偽りを憎む神です。「君が行ったことは第三者がみても罪に値するものだから、それはもう真実として受け入れなければならない」ということになれば、罪を犯した者は次の二つの選択肢の前に立たされます。つまり、罪を認めて悔い、赦しを願って、赦しを得る道に入るか、それともあくまで耳を貸さない態度を取り続けるか。前者を選べば、真の信仰の兄弟姉妹関係を築く道に入ります。しかし、後者を選べば、話は次の段階に進みます。

ここで一つ注意することがあります。証人を立てるというのは、罪を確認するという場合もありますが、逆に罪を犯していないと証言する場合もあります。被害を被ったと主張する者が、相手を陥れるためか自分を有利に仕立てるためか目論んで、話を誇張したり捻じ曲げたり、でっちあげたりする可能性もあるからです。その場合は、そちらの方が罪を犯した兄弟になります。いかなる場合であっても、神は真実を愛し偽りを憎む方であることには変更はありません。

さて、いよいよ証人を立てても、罪を犯した信仰者が耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は、教会、教会全体の集まりないしはその代表者の集まりのいずれかになると思うのですが、それに委ねられることになる、とイエス様は教えられます。ここで、罪を犯した信仰者が罪を認めて悔いそして赦しを願えば、問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とイエス様は教えます。異邦人とは、天と地と人間を造られて御子イエス様をこの世に送られた神を信じない人たち、神の民に属さない人たちを指します。徴税人とは、ユダヤ民族に属しながら、当時占領者であるローマ帝国の租税官吏となって同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしていた人たちです。民族の裏切り者と見なされていました。罪を犯しても最後まで非を認めない信仰者は、こうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。

ところで、日本語訳の「異教徒か徴税人と同様に見なしなさい」を注意してみます。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「その人は、あなたにとって異邦人か徴税人のようになってしまえ」という意味です。つまり、あなたは教会に留まる者であることは変わりないが、それに対して罪を犯した者は形式上は教会に属しているが実質上は教会の外部の者となってしまった。何度も赦しの機会が与えられたにもかかわらず、自分で自分を外部の者に追いやってしまっている。これはもう神の目から見てももうお手上げな存在だ、勝手にするがいい、ということです。日本語訳のように「異教徒か徴税人と同様に見なしなさい」と言うと、罪の被害を被った者に対する「見なしなさい」という命令になります。しかし、ギリシャ語原文では、被害を被った者に対する命令文ではありません(二人称単数ではなく三人称単数の命令形です)。罪を犯した者が差し出された手を振り切って自分でそうしている以上は、「異邦人か徴税人のようになってしまえ」と、神に突き離されているのです。それでは、罪の被害を被った者はどうすればよいのか?罪を犯した兄弟を異邦人か徴税人と同様に見なすことでしょうか?

そうではありません。本日の福音書の箇所に続く21~22節を見ると、これは次主日の箇所になりますが、ペトロがイエス様に、信仰の兄弟が罪を犯したら何回赦すべきか、7回までか、と尋ねます。それに対してイエス様は、7回どころか7の70倍までも赦しなさい、と答えます。これはもう、赦すことにおいて回数に制限を設けるなという意味です。罪を犯した兄弟がまだ罪を悔いることも赦しを願うこともしない段階で、その者を赦すとはどういうことなのでしょうか?後でそのことについて見てまいりますが、その前に、これまで述べてきた兄弟を教え戒める手続きの教えと、ペトロとイエス様の赦しの回数についてのやり取りの間にある18~20節をしっかり見てみましょう。

 

3.18節をみると、使徒たちが地上で禁じたり罰したりすることは、天の国でもお墨付きを得ている、逆に地上で認めたり赦したりすることも、天の国でお墨付きを得ているということで、使徒たちに教会生活、信仰生活の規律設定の権限を委ねる内容です。人が罪を犯したかどうか、もし犯したならば、赦しを得られるかどうかということについて、使徒たちに決める権限が与えられている。つまり、イエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になった使徒たちは、神の意志がなんであるかを地上で明らかにする権限を持っているということです。そうであるからこそ、罪を犯した者に対して、罪は罪であるとはっきり言わなければならないのです。

続く19節から20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神はかなえて下さるというような、一見、願い事は何でもかなうと言っているように見える教えです。実はそうではなく、これも18節の使徒たちの権限の教えの続きです。これをギリシャ語原文に忠実に訳すと、「お前たちが追い求めている事柄に関して、お前たちのうち二人がこの地上で合意すれば、その合意された事柄は天の父なるみ神の力で実現されたものとなる」ということです。18節で、使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言ったことに加えて、そのためには使徒一人ひとりが勝手に決めるのではなく、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だ、と言うのが19~20節の意味であります。願い事が何でもかなうという意味ではなく、教会内のいろいろな問題について、何が神の意志に沿っているか反しているかを明らかにしなければならない。その時、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意したら、それは天のお墨付きを得たことになり、地上でもその通りになるという意味であります。

 

4.以上から、18 ,20節は、教会内のいろいろな問題を神の意志に沿うように解決する際、使徒たちに大きな決定権が与えられており、それをしっかり行使しなければならない、と教えていることが明らかになりました。つまり、神の意志を明確にし、それに反していることは反しているとはっきり言わねばならない、ということです。そこで、自分で自分を教会外部の立場に追い込んでしまった信徒にどう向き合うかという問いの答えが来ます。21節でペトロがイエス様に質問します。「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。」「そのとき」というのは、まさに、イエス様が神の意志を地上で明らかにする使徒の権限について教えた「そのとき」なのです。ペトロの質問に対するイエス様の答えは、繰り返し罪を犯す兄弟に対して、赦しの回数に制限を設けるなというものでした。イエス様は、この無制限の赦しというものをわからせるために、続く23節から「仲間を赦さない家来のたとえ」を話すのであります。

これらの教えは次主日のテーマですので、ここでは立ち入りませんが、本説教のテーマとの関連で申し上げれば、イエス様の教えの中で次のことが重要な点です。キリスト信仰者とは、天文学的とも言える莫大な借金を帳消しされた人と同じような憐れみを受けている存在であるということです。罪の赦しが莫大な借金の帳消しにたとえられるのであります。最初の人間アダムとエヴァの犯した神への不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまいました。人間を造られた神は、人間との結びつきを回復させよう、人間がこの世から死んでも永遠の命を持てて再び造り主である自分のもとに戻ることができるようにしようと決めました。そこで、人間と神との関係を壊してしまった原因である罪の力を無力化すべく、ひとり子イエス様をこの世に送り、本来人間が受けるべき罪の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間の罪を赦すことにした。この赦しを受けることで、人間は罪と死の支配から自由の身とされることとなった。罪と死の支配から人間が贖われるために支払われた代償は、まさに神のひとり子が十字架で流した血であった。詩篇49篇8~9節に記されているように、死する存在の人間は、命を買い戻す身代金を払うことはできません。なぜならそれはあまりにも高額だからです。それを神は、み子の血を代価にして支払って下さったのです。しかし、それだけで終わらず、神は一度死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間に開いて下さった。人は、この2000年前の彼の地で起きた出来事が、現代を生きる自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、そのまま罪と死の支配から解放された者となって、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになる。神との結びつきが回復した者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのであります。

これが、キリスト信仰者が莫大な帳消しの憐れみを受けているということです。まさにそのために、同じ信仰を持つ兄弟姉妹が罪を犯した時、それは自分が受けた莫大な借金の帳消しを思えば、兄弟姉妹の負債など比べものにならないはした金にしかすぎないことがわかり、こだわるのも馬鹿馬鹿しくなる、というのであります。ルターも、信仰の兄弟姉妹から何か被害を被ったとしても、そんなものは小さな火花のようなもので、唾を吐きかければすぐ消えてしまうものだ、と言っています。神が自分に対して大きな赦しを与えた以上は、自分は兄弟姉妹に対して赦しを与えないということはあってはならないのであります。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、罪を犯した信仰の兄弟姉妹を赦すというのは、罪を承認することではないということです。15~20節で明らかになったように、罪は罪として神の意志に反するものとして、罪を犯した者に対して明確にしなければならない。しかし、もし犯した者が罪を悔いもせず赦しを願うこともしない場合、どうすればそうすることができるようになるかを考え、神に祈り、その実現のために何かをしなければならない。そんな人は神から大きな罰を受ければいい、などと思ってはいけない。そうではなくて、どうすれば神の罰を受けないですむようになるかを考えなければならない。なぜなら、その人もイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人だったのだから。きっと弱さや何かの迷いで道を誤ったのだろうと思わなければならない。先主日の福音書の箇所にあった「99匹と1匹の羊のたとえ」でイエス様が教えたことは、たとえ自らの誤りで神から離れてしまう道に迷い込んだとしても、神としてはその人が神のもとに戻るのを望んでいるということでした。そうである以上は、罪の被害を被った者は、罪を犯した者が神のもとに立ち返れるように神に願い祈り、可能な限り、また機会を捉えてそうなるように助けてあげる、これが、罪を犯した信仰の兄弟姉妹を赦すことです。

以上が、罪を犯した兄弟姉妹にどう向き合うかという問題の答えになります。要約すると、まず、神の意志に反することは、そうであるとはっきりさせなければならない。それと同時に、罪を犯した者がまだ罪を悔い赦しを願うことをしない段階でも、その者を赦さなければならない。ただし、赦すというのは、罪を承認するということでなく、その人が神のもとに立ち返れるよう心から祈り願い、それを支援するということです。

 

4.以上は、教会内、キリスト信仰者同士の間での罪の問題でした。それでは、罪を犯す者が教会外の者、キリスト信仰者でない場合は、信仰者はどう向き合ったらよいのでしょうか?

この問題は本日の説教のテーマには直接関係はないのですが、一言だけ申しますと、神が御子イエス様を用いて実現した人間の救いは、実は全人類に対して、どうぞ受け取って下さい、と提供されているものです。それを受け取った者がキリスト信仰者です。世界には、いろいろな事情でそれを受け取っていない人が大勢います。神が御子イエス様をこの世に送ったのは全ての人が救いを受け取るためでした。だから、それを既に受け取った信仰者はまだ受け取っていない人が受け取ることが出来るようになるために各々働きをしていかなければなりません。その意味で、先ほど申し上げた「赦す」ということは、相手が信仰者でない場合にもあてはまるのであります。罪を犯した相手に対して、あいつなど神の罰を受ければいいのだ、などと思ってはならない。そうではなくて、どうすれば罰を受けないですむようになるかを考えてあげなければならない。罪を犯した信仰の兄弟姉妹の場合は、神のもとへの立ち返りを願い祈り、そうなるよう働きかけをしなければならないと申しました。相手が信仰者でない場合は、働きかけは一層困難とは思いますが、少なくとも願い祈ることは誰にでもできます。先主日の使徒書の箇所であった「ローマの信徒への手紙」12章14節で、使徒パウロは「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と教えていますが、その通りです。

しかしながら、相手の人が神の罰を受けないようにと願い祈っても、その人がこちらの祈り願いを無にするような挙動を取り、それについて悔いることも赦しの願いもあり得ないという態度を取り続ける場合はどうするか?これは、本日の使徒書の箇所「ローマの信徒への手紙」12章の終わりでパウロが教えていることが重要になると思います。まず、神は、最後の審判の時に最終的に、悔いも赦しの願いもしなかった者に対して、その者がもたらした悪について全責任を負わせる。それゆえ、信仰者は復讐や報復に心を奪われてはならない。全ては神の怒りに任せる。そのかわり、信仰者は、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませなければならない。そうすることで、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。つまり、敵に対してただ善を行う。もし敵がそれでも悪を続ければ続けるほど、最後の審判の日にその者が負う責任は一層重くなるだけで、自分に下される罰を自ら重くするだけである。このように、最後の審判の日に最終的に悪は滅びる。他方で、もし敵になされた善がその者の心を動かして、罪の悔いと赦しの願いをもたらせば、その時一つの悪が滅びる。つまり、善をもって悪に報いる限りは、悪はいずれにしても必ず滅びる運命にあるということであります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 聖霊降臨後第16主日

 

 礼拝の中でSLEYから派遣されたミルヤム・ハルユさんの歌唱と吉村ヨハンナさんのヴァイオリン演奏が行われました。

 

 

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