説教「赦しについて」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書18章21節~25節

今日の聖書は、「赦しについて」であります。 ルカ福音書では、17章に短く記してあります。

教会の信徒である兄弟が罪を犯した場合、戒めなさい。そして、悔い改めれば赦してやりなさい。 こういう指示があって、続いて、一日に七度罪を犯しても、その度に悔い改めを口に表すなら、赦してあげなさい。

マタイ福音書においては、弟子たちを代表して、ペテロがイエス様にたずねています。15~18節のところでは、罪を犯した兄弟に対して、忠告するに当たっての指示でしたが、ペテロは、どこに赦しの限界を設けるべきでしょうか、という点に移っています。 ペテロは問いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。 ここには、自分の罪を認めて悔い改めたなら、という条件がいっさいない。

ユダヤ教の「赦し」の考えで、ラビの伝承によれば、人が他の人に罪を犯した場合、相手に赦しを乞うということが、神の赦しにあずかるための、条件とされていた。 つまり、神の赦しにあずかるためにも、人にわびることが必要である、とされた。自然のことです。

ところで、ペテロの質問の中には、悔い改めの条件も、又、ユダヤ教のような神に対する赦しの思いも、この限界を越えて「無条件の赦し」を問題としています。これは驚くべきことでした。 しかも、「赦しは七度までですか」と言ったのです。 ラビの伝承によれば、人が罪を犯した場合、神は三度までは赦してくださるけれども、それ以上の赦しはない。 ペテロも弟子たちも、ユダヤ教のこのことは知っていたでしょう。その上で、三度までを2倍して、なお一つ加えて目いっぱい七度までですかと言ってみたのです。ペテロの大胆な、新しい息吹を感じさせる、おどろきの質問でした。 しかしながら、イエス様のペテロに対しての答えは、もっと驚くべきものでした。22節「イエスは言われた。『あなたに言っておく、七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」。 これは、七の七十倍といった数字で数えるようなものではなくて、これは「無限に赦せ」ということにほかならない。

そこでイエス様は、一つのたとえ話で確かなものとされたのです。23節以下で、「天の国は、次のようにたとえられる」と話されました。

ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 決済を始めたところ、一万タラントンを借金している家来が、王の前につれて来られた。しかし返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も又持ち物も、全部売って返済するように命じた。

さて、この話の中の借金をした家来の額が、一万円とか100万円くらいの額ではないこと、巨大な額であることに注目しなければなりません。 では、どれ位の額であったか。 1タラントンというのは6000デナリでしたから、6000万デナリということになります。1デナリは、当時の労働者一日分の給料と見なされていました。とすると、分かりやすくこれを一万円としたら6000億円という、とてつもない額になります。数字だけ言っても、これはどれ位のものか分からない。

少し分かりやすくするために、この当時の王の年収を見ますと、ヘロデ・アンティパスが、その所領ガリラヤとペレアから得た年収は、200タラントンであった。これはヨセフスという人が書いた「ユダヤ古代誌」に記しています。 又ヘロデ・ピリポが得た年収は100タラントンであった。又、列王記上10章14節を見ると、ソロモン王のもとには年間、666タラントンの金が入って来た、という。

これらのことから比較しても、1万タラントンという借金が、どれ程のものかが分かります。ヘロデ・ピリポ王の100倍です。 これは、たとえ話であります。現実にこの巨額の借金を、どのようにしたか等、考えたら不可能なことでしょう。 たとえの意味として、無限の負債を表現していると言えます。 要するにこの僕にとって、これは返済不可能な負債であった、ということです。 そこで主人は、この僕に全財産を売り払って返済することを命じた。当然のことでしょう。その当時の制度の通り命じたのです。

皆さん、どうでしょうか。この家来のようになったらどうしますでしょうか。

26節を見ますと「家来はひれ伏し、『どうか待って下さい。きっと全部お返しします』と、しきりに願った」。 27節です。すると「その家来の主君は、憐れみに思って彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」。 私たちは、この主君の言葉におどろきます。巨額の借金を全部帳消しにする、ということです。なんと言うことでしょうか。

この家来は主君の前にひれ伏して懇願しています。「どうか待ってください」。 ここの原文を直訳で言うと、次のようになるというのです。 「私に対して寛大であって下さい」と言ったのです。そうして「皆、お返しします」と言っているところを見ると、彼はなんとかして負債をつぐなおうと考えたのでしょう。免除なんて全く念頭になかったでしょう。

ところが思いもかけず主人は、この家来の巨額の負債を全部帳消しにしてやったのです。ここのたとえで示されていることから、ここで私たちは、主の犠牲が払われて、私たちの罪の全部が帳消しにされた。負い切れない罪のすべてを、帳消しにしてもらって、神のみ前に罪なき者として立つことができるのです。 この神の御国での、赦されている恵みというものを、深くふかく、もっとよく知って、理解して、受け入れて了承していくと、どんなに主の恵みがありがたいか、感謝にあふれます。

私たちが、ここでしっかりと覚えなければならないと思うのは、主君は、憐れに思って彼を赦した、とあります。 ここには、いかに深い神の憐れみというものがあるか、すべては、神の支配のもとにあります。神の憐れみの支配によるものであります。 私たちは礼拝のたびに、キリエを唱えます「主よあわれんで下さい。」、「キリストよ、あわれんで下さい。」私の罪の赦しの憐れみです。計り知れない、深く、大きな、神の憐れみと恵みです。

ところが、この赦しにあずかった僕は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に会うと、捕まえて首をしめ、「借金を返せ」と迫った。 百デナリという金額は大きな負債にちがいないが、全く返済できぬほどの巨額ではない。この男は、あの主人に巨額の負債全部をゆるされたことを忘れて、相手を獄に入れた。 すると仲間達は、事の次第を見て非常に心を痛め、主君に事件を残らず告げた。 そこで主人は、その僕を呼び出して言う。「この不埒な僕め、お前が頼んだから私はあの負債をみな免じてやった。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れむべきではないか」。

仲間の負債を赦してやらなかったこの僕の中に、私たちもどうしても、赦さない根性が根付いてあります。 神に対しての、人間の中にある負いきれない無限の罪の負債がある。それに比べ、仲間同志の負債など、ちっぽけなもの。それでも赦せないでいる。 神様の限りない憐れみによる赦しがあっているのに、人間の非情な冷酷さがこのたとえで際立って示されいます。

最後に、この無限の赦しがあるゆえに、神は私たちに全き自己放棄を求めておられる。 どこまでも友をゆるし、、愛をつらぬいてゆく事を、求めておられるのです。 このことを実際行ったら、この世は全き無秩序になっていくのではないか、という疑問が生まれるかもしれない。 しかしこれについては、パウロがローマ人への手紙に明快に記しています。 その言葉に希望の光を見たいのです。 ロマ書12章19節です。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。復讐するのは私のすること、私が報復する」と主は言われる。

紀元前2世紀~1世紀にハスモン王朝の時代、イスラエル12部族の中でガド族への遺言のように言い伝えられた遺訓というものが、次のようにあります。 「互いに、心から愛し合いなさい。もし誰かがあなたに罪を犯したら、その者とおだやかに話し、心に悪だくみを抱いてはならない。もし悔い改めて、それを言い表したなら赦しなさい。しかし、たとえ悔い改めを拒否しても、怒ってはならない」。そして最後は次の言葉で結ばれている。 「しかし、もし恥知らずで悪事を続けたとしても、心からゆるし、復讐は神にまかせなさい。」 この最後の「復讐は神にまかせよ」という言葉をパウロは、ローマ人への手紙の12章の言葉に含めているのです。 義なる神が厳然として、その審きを貫徹して下さる。 だからキリスト者は、安んじて、神の御手に委ねることであります。 この義なる神の愛に支えられてこそ、キリスト者はこの無限に赦す心を、聖霊の賜物として頂くことができるのであります。  アーメン。

 

聖霊降臨後第17主日  2014年10月5(日)

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