お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるとは、一体どういうことか?マルコ1章4節に、ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を人々に宣べ伝えていたとあります。「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」とは、将来罪の赦しを得られるために、今神に背を向けて生きている生き方を方向転換して神の方を向いて生きる、その方向転換の印としての洗礼と言い換えてよいと思います。罪の赦しそのものを与える洗礼は、復活後のイエス様が命じた洗礼なので、洗礼者ヨハネの洗礼はその前段階の洗礼、方向転換の印としての洗礼ということになります。いずれにしても、イエス様のように方向転換するもなにも、そもそも神の霊によって宿り乙女から生まれ、罪の汚れもしみもない神のみ子にどうして洗礼など必要なのでしょうか?マタイ3章をみると、洗礼を受けにやってきたイエス様を目の前にして、洗礼者ヨハネはとまどって言います。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」(14節)と。
なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか?本日はこの問いの答えを明らかにしていこうと思います。
2.なぜイエス様はヨハネから洗礼を受ける必要があったのか?この問いの答えを見つけようとする場合、まず、イエス様が行ったり教えたりしたこと、さらにイエス様に起こった出来事の全ては神の人間救済計画の実現に関係があるということをよく覚えておく必要があります。つまり、イエス様の洗礼も神の人間救済計画の実現に結びついているのです。そこで初めに、神の人間救済計画とは何か、ということがわからなければなりません。それは大体以下のようなことです。
創世記3章にあるように、最初の人間が造り主である神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死する存在となってしまい、神聖な神との結びつきを失って生きていかなければならなくなってしまいました。使徒パウロが、罪の報酬は死である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は罪と不従順がもたらす死の力に従属する存在となってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金をつんでも死の力から自分を買い戻すことはできないのです。そこで、父なるみ神は、人間が再び造り主である自分との結びつきを持ってこの世を生きられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、と計画をたてられ、それを実行しました。これが神の人間救済です。
人間が神聖な神との結びつきを回復できるようになるためには、なによりも人間を罪の奴隷状態と死の力から解放しなければなりません。しかし、肉をまとい肉の思うままに生きる人間には、自身に宿る罪と不従順を取り除くことは不可能です。そこで神は、御自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪と不従順からくる罰を全て負わせて死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦すことにしました。この神のひとり子がゴルガタの十字架の上で血みどろになって流した血が、私たち人間を罪の奴隷状態から解放する身代金となったのです(マルコ10章45節、エフェソ1章7節、1テモテ2章6節、1ペテロ1章18-19節)。さらに、神は、一度死んだイエス様を復活させることで、今度は死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。人間は、神がみ子イエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取ることで、彼の身代わりの死に免じて罪を赦されて、神との結びつきを回復することができるようになったのです。つまり、救われるのです。「罪の赦しの救い」を受け取るというのは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。こうして、神との結びつきを回復できた人間は、この世の人生の段階で、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めることになります。神との結びつきがあるので順境の時にも逆境の時にも常に神から良い導きと助けを得られて生きられるようになり、万が一この世から死んでも、その時は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになります。
以上が、神の人間救済計画とその実現についてでした。それでは、イエス様が洗礼を受けたことが、この神の人間救済計画の実現にどう結びつき、どう役立ったのかをみていきましょう。
神のみ子であるイエス様は、洗礼を受けることで洗礼を必要とする人間たちと同列に加えられることとなりました。「フィリピの信徒の手紙」2章に次のように記されています。「キリストは神の身分でありがなら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。人間と同列に置かれ、人間が被る死の苦しみを自分自身被ることができるようになる。それで人間の不従順と罪から来る罰をまさに罰として引き受けることができるようになる、ということです。このことは、元日礼拝の説教でも触れました。その時は、イエス様の割礼が福音書の箇所でした(ルカ2章21-24節)。イエス様は、割礼を受けることで、外面的な印をもってアブラハムの子孫の一人に加えられ、モーセの律法の効力の下に置かれました。神聖で罪の汚れひとつない神のみ子が、神聖さを欠いて罪の汚れを持つ人間の立場を持たされました。人間の中でも、罪の汚れから贖われるために数多くの宗教的儀式をこなさなければならないユダヤ民族の立場を持たされたのです。本来ならばそうしたことは一切不要な立場にある方なのにもかかわらず、全く逆の立場を持たされることによって神からの罰を罰として本気で受け、死の苦しみを本気で受けて本気で死ぬ者になったのです。もしイエス様がこうした立場を持たされずに、単に神聖な立場のままにいたら、死も苦しみもイエス様に近寄ることはできなかったでしょう。パウロが述べたように、「律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになった」(ガラテア4章4節)のであります。ただ、何度も繰り返すように、我々と同列に加えられ人間と同じ立場を持たされたとは言っても、イエス様は不従順と罪は持たない神聖な神のみ子だったのです(ヘブライ4章15節)。そのような方が、人間と同列に加わることとなり、人間の悩み苦しみと直につきあい、また御自身も人間と同じように苦しみや試練や誘惑に直面しなければならなかったです。それゆえ、「ヘブライ人への手紙」2章18節に言われるように、主は、試練に遭う者たちを本当にわかって助けることができるのです。
人間と同列に加わったというのは、神が人間に寄り添う姿勢を示したとか、人間と連帯しようとしたなどと言うことが出来ます。ただし、ここで一つ忘れてはならないことがあります。それは、この「同列に加わる」というのは、「寄り添う」とか「連帯」という言葉では言い尽くせない、そんな言葉が生易しく聞こえてしまう位もっと大きな意味があるということです。どういうことかと言うと、先ほど、神の人間救済というものは、神が人間に与える「罪の赦しの救い」であると申し上げました。この「罪の赦しの救い」を実現するためには、誰かが人間にかわって罪の罰を受ける犠牲にならなければなりませんでした。もし罰が起きなければ、神は罪を是認したことになるからです。しかし、神は人間が背負いきれない罰を背負って押し潰されて滅んでしまうのを望まなかった。罪は断固として認めないが、しかし人間は救われなければならない。このジレンマを解決するために、神は犠牲を自ら引き受けることにしました。神の人間に対する愛が、自己犠牲の愛であると言われる所以です。しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。なぜなら、人間の罪と不従順の罰を全て受ける以上は、罰を純粋に罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の神聖な意思を示す掟です。それは、神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は、当然、律法の上にたつ存在です。しかし、それでは、罰を罰として受けられません。犠牲を引き受けることは出来ません。罰を罰として受けられるために、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。まさに、このために神の子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。そして割礼を受けて律法の下に置かれ、さらに洗礼者ヨハネから洗礼を受けなければならなかったのです。実に、そうすることで使徒パウロが述べたように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったのです(ガラテア3章13節)。イエス様が人間と同列に加わった、と言う時、私たちは、この「わたしたちのために呪いとなった」ということ、イエス様が人間に降りかかって染みついている呪いを全て自分のものとして請け負って下さったことをいつも心に刻み付けておかなければなりません。私たち人間も困窮した人たちに寄り添ったり、連帯したりします。しかし、神がイエス様を通して示した寄り添いや連帯は、もっともっと根本的なものであるということを忘れてはなりません。
3.イエス様が洗礼を受けたのは、私たち人間と同列に加わるという意味があったということが明らかになりました。同列に加わると言っても、とても深い根本的な意味があることもわかりました。ここで角度を少し変えて、今度は洗礼を受けた時にイエス様に聖霊が降ったり、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声も轟いたという出来事を中心にイエス様の洗礼をみていきましょう。この出来事は、本日の旧約の日課であるイザヤ書42章1-7で言われている預言の成就です。イエス様の洗礼は、預言の成就のためになされる必要があったということが明らかになります。そこで、この預言の内容を見てみる必要があります。
このイザヤ書の箇所で、神は、将来地上で活動する僕(つまりイエス様のこと)が神からの霊、つまり聖霊を受け、同時に神から特別な力を与えられて、何かを実現していくことが預言されています。何を実現するのでしょうか?
私たちの用いる新共同訳を見ると、「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返されて、神の僕が何か裁きに携わることが強調されます。しかし、これは困った訳と言わざるを得ません。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体なんなのでしょう?そもそも「裁き」とは「置く」ものなのでしょうか?裁判官や陪審員が訴訟で「判決を導き出す」という言い方はあるでしょうが、「判決を置く」という言い方はあるでしょうか?私も含めてここにいる皆さんは「裁き」という言葉、「導き出す」という言葉、「置く」という言葉のそれぞれの単語の意味はわかるでしょう。しかし、意味がわかる単語をそのままくっつけて文にした時、その文も同じように意味がわかるかというと必ずしもそうならないことがあるのです。受験の国語の成績が良い人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書のもともとの意味と同じであるという保証はどこにあるのでしょうか?
いずれにしても、私たちは、個々の単語の意味がなまじっかわかるのでそれをつなぎ合わせた文も何となくわかったつもりで読み進んでしまう。すると立ち止まって、振り返ってみるとどうでしょう。これは一体何だったのだろうということが起きてしまうのです。そういうわけで、皆様も聖書を読む際には「この箇所は一体何が言いたいんだ」という追及する姿勢をお持ちになることをお奨めします。理解が難しい箇所は無数に出てくると思います。その中でも、「ここは今の自分にとって何か大きな意味があるのではないか」というような箇所があったら、立ち止まって何度か読み返して考えてみたり、聖書の他の箇所を手掛かりにして理解できるか試みたりして下さい。神からの知恵を祈り求めることも忘れてはなりません。それでも自分の力で解明できない時は、注釈書を繙いたり、牧師先生や宣教師に聞いたりしましょう。そうすることで神の御言葉である聖書と私たち自身の関係は深くなります。逆に言えばそうしないと深くなりません。
少し脱線しましたが、イザヤ書42章の神の僕の活動についてみていきます。神の僕が携わることになると強調されている「裁き」ですが、これはヘブライ語の元の単語はミシュパートמשפטと言い、「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」という広い意味があります。その広い意味から、「裁き」とか「判決」というような限定した意味がでてきます。しかし、広い意味から限定した意味はそれだけに尽きません。「何が正しいかについて決めること」「何が正しいかということについての決定」ということを出発点にすれば、「裁き」や「判決」の他にも、「正当な要求」「正当な主張」という意味にもなるし、そこからさらに「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。他にもまだあります。参考までに、各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の新共同訳の「裁き」をどう言っているか見てみましょう。英語の聖書は大抵justice、ずばり「正しいこと」、「正義」です。「裁き」judgementとは言っていません。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Rechtで「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデンのルター派教会が使用している聖書ではrätten、これは「権利」の意味が強くなります。フィンランドのルター派国教会が使用している聖書ではoikeus、これは「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味します。以上のようなわけで、イザヤ42章の神の僕が携わることは「裁き」ではなく、「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」と理解できます。それから、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞(יצא、שים)も、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と訳して何の問題もありません。以上から、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民、特にイスラエルの民以外の異邦人をさしますが(גוי)、諸国民に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」ということ。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を打ち立てる」ということであります。
そこで、神の僕がもたらしたり、打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何かを明らかにしなければなりません。神の御言葉である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか言ったら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」ということです。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのでしょうか?それは、先ほども申し上げましたように、人間が罪の奴隷状態や死の力から解放されることであり、それらから解放されて神との結びつきを持つ者としてこの世を生きることであり、そして、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻るということであります。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのであります。これらは全て、神のみ子イエス様が十字架の死と死からの復活をもってこの世にもたらし、打ち立てたものであります。
イエス様が洗礼を受けた時、イザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。天から預言どおりの神の声が轟き、聖霊がイエス様に降り、神の人間救済計画を実現するための力が与えられました。もちろん洗礼者ヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神のみ子でした。しかし、洗礼は預言の成就をもたらすために必要な手続きでした。洗礼を通して聖霊と特別な力を得て、イエス様が主体的に神の人間救済計画を実現させる活動を始める出発点となったのでした。
4.以上が、なぜイエス様は洗礼者ヨハネの洗礼を受けなければならなかったかという問いの答えです。洗礼を受けることで、人間と同列に加えられる意味がある。ただし、そこには神の人間救済計画が完全な形で実現されるという深い意味があることがわかりました。加えて、神が預言者を通して約束されたことが成就するという意味がありました。そこから私たちは、神とは真に約束したことを必ず果たされる忠実な方であることを知ることができます。
最後に洗礼者ヨハネがイエス様について、「聖霊をもって洗礼を授ける」(マルコ1章8節)方であると言ったことについて若干申し上げておきたく思います。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、他の人に起こらなかったことが起こりました。聖霊が彼の上に降ったということです。この聖霊の降臨は、私たちの洗礼にも起きます。つまり、イエス様の洗礼は、後のキリスト信仰の洗礼の先駆けになっているのです。私たちは洗礼を受ける時、水をかけられますが、「聖霊をもって」する洗礼、洗礼される人に聖霊が降る洗礼とは、どういう洗礼でしょうか?
私たちは洗礼を受ける時、聖書を朗読して神の御言葉と結びつけられた形で水をかけられます。化学や物理学を用いた計測では、水は御言葉に結びつけられてもられなくても水としての成分は同じです。しかし、御言葉に結びつけられた水は、神の目から見ると、これは聖霊が降る洗礼を可能にする要素に変貌しているのです。聖霊が降るということについて、少し詳しく言うと、人は洗礼を受ける前にも、既にイエス様を救い主と信じ始めます。遥か昔の彼の地で起きた出来事は現代を生きるこの自分のためになされたのだということをわかり始めます。それが起こるのは、聖霊がその人に働き始めたからであります。使徒パウロが教えるように、聖霊の力が働かなければ、人はイエス様を救い主と信じることはできません(第一コリント12章3節)。イエス様を何か歴史上の人物の一人として知識で知ってはいても、それは自分の救い主として信じることとは何の関係もないのです。聖霊が働かなければ、イエス様について知っていることは単なる知識にとどまるだけです。
しかし、洗礼を受けることで、人は持続的に聖霊の影響力のもとに置かれることになります。これは赤ちゃんも同じです。「罪の赦しの救い」は神からの贈り物である以上、赤ちゃんも、親の愛を注がれてただそれを受け取るのと同じように神の贈り物も受け取るのです。赤ちゃんや子供が、その後の人生で聖霊の力が働く受け皿として育っていくかどうかは、あとは家庭や教会がどう育てていくかということに大きくかかってきます。
そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、私たちは聖霊を受けた者として、神のことを「アッバ、お父さん」と呼べるくらい神の子とされていることを忘れないようにしましょう。使徒パウロが随所で教えているように、神の子とされているならば、それはイエス様と兄弟の立場を持たされているということです。イエス様と共に神の御国を継ぐ跡継ぎにされているのです(ローマ8章15-17節、29節、ガラテア3章27-27節、4章5-7節、エフェソ1章11、14節)。そのことを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 主の洗礼日 1月11日の聖書日課 マルコによる福音書1章9節-11節、イザヤ42章1節-7節、使徒言行録10章34-38節