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今日与えられている福音書でマルコは、イエス様が弟子とされたペテロの姑の癒しの話を記しています。1章29節から34節までを見ますと、読んだだけでわかります。30節
「シモンの姑が熱を出して寝ていたので人々は早速彼女のことをイエスにはなした。イエスがそばに行き手をとって起こされると熱は去り彼女は一同をもてなした。」マルコは、まことに簡潔に書いています。16節から20節のところではシモン・ペテロとアンデデレそして、ヤコブとヨハネの2組の兄弟をイエス様は弟子に招かれました。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。こうして、イエス様の弟子となった者は、みな、それまでの仕事をやめて、家族とも別れて、イエス様の伝道の働きに従って行ったわけです。イエス様は、彼らのこと、彼らの家族のこともちゃんと心にとめていかれている事が、このペテロの姑の熱を出していることを知ってかけつけて、癒されたことで、よくわかります。
ここの記事を読むたびに、私はガリラヤのカナペウムの町を訪れた時のことを思い出します。4月のはじめの暖かい春風の吹く時でした。あたり一面、菜の花が黄色一色に咲き乱れていました。ちょっと上を見上げると、そこには山上の垂訓の教会が見えます。目の前はガリラヤの湖であります。おだやかな漁師の村であります。山上の垂訓の教会は小高い丘の上にあります。そこで、イエス様は大切な「教え」をなさったのです。その「教え」はマタイ福音書の5章~7章に記されています。さて、イエス様が手を触れられただけで姑の熱はたちまち下がり、みんなは、おもてなしをしたのです。考えてみますと、それは何かとてつもなく大変なことが起こっているのではない。ごくごく日常生活の只中で、ペテロの姑の熱を下げられた。いう、ただそれだけの事でありますが、マルコはここに、どうして記ししたのでしょうか。
続いて32節を見ますと「夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取り付かれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒し、また多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。」ここで、わかりますように、イエス様は、とにかく大勢の人たちを癒されたのです。そして、とても誰もなし得ないような悪霊を追い出されたのです。ここで1つ注目しなければならないのは、イエス様は病気を治すことだけをなさったのではありません。それ以上に大切に行われたのは神の御国の福音の「教え」されていった、ということです。マルコはこの一点を私たちにメッセージとして語っているのです。1章14節でイエス様はガリラヤでの福音宣教の第一声をあげられています。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」時は満ちた。神の国は近づいた歴史の終わりの日が近づいた、終末が来るとユダヤ人たちは、その時に神が神としての御姿を顕わして、新天・新地を創造し生ける神の支配が実現するのだ、と信じていたのですが。今、イエス様はもう、ここに、その時が来ているのだ。神が臨在しておられる。人々がその神との生ける交わりの中に、自らを見出すことができるのだ。そのためには、神の御前に立つにふさわしい自分自身の姿を悔い改めなさい。このように宣言しておられるのです。
ここで、大事なのはイエス様が次のように言っておられる、ということです。時間の流れの上では歴史の終末が来ているのではない。いわば、歴史の真只中にある「今日」という日、この歴史内の具体的な日常生活は、すでにイエス様が来られたからには終末の日、最期の審判の座と同じである、ということであります。つまり、イエス様の働きを通して今も神が姿を顕し生ける神として厳然と臨在しておられる。この事実に私共の目を開かせようとしておられるのです。その神はたしかに「悔い改め」を求めておられるが、それは裁くためではなく、限りない愛をもって、罪びとの罪を赦す神として、私たちに関わろうとしておられるのです。神の国とは、イエス様によれば、神と神の愛や信頼に応える人々との交わりであります。
その神の国、神の支配は歴史の終末の日に完成、成就するものであるが、同時、今この私共の地上の生活から始まっている。と宣言しておられるのです。そこに今までとは全く違う新しさがあり、これまで人が聞いたこともない、この世のレベルとは別格の権威があふれ満ちていたのです。ユダヤの人々がイエス様の「教え」えお聞いて「これは新しい権威ある教えだ」とおどろいたのです。それはイエス様のガリラヤに於ける最初の活動によって受けた、彼らの印象でした。ここで特に注目したいのは、汚れた霊に取りつかれた男から悪霊を追い出すという目覚しいイエス様のなさった「わざ」です。この「わざ」を見た人々が「権威ある新しいわざだ」とは言っていないのです。
彼らが言ったのは「権威ある新しい教えだ」と言っている点です。たしかに奇跡と呼ばれるような、癒しのわざを次々とイエス様はなさいました。みんなイエス様の活動ですが、その中心はあくまでもイエス様が語られた神の国の福音であります。民衆は癒しの奇跡よりも福音のことばに驚いています。しかし、マルコはイエス様が何を語られたのか、その教えが、どんな内容だったのか 1章21節から39節までに全く記していません。39節には「そして、ガリラヤの会堂に行き、宣教し悪霊を追い出された」とあります。ですから、明らかにイエス様の活動は「教え」と「わざ」という二つから成り立っている。そして、中心は「教え」なのです。そこに至るまでにシモンペテロの姑の熱病を癒されたり多くの人々の病気を癒されました。そして、それらは目に見える「しるし」であります。マルコは21節から27節にしっかり記しているわけです。イエス様の権威ある新しい教えは目に見えない「しるし」であります。
マルコ2章13節~17節に徴税人レビがイエス様の弟子に招かれたことが記されています。ユダヤの社会でみんなから、嫌われていた職業であるレビがここで、罪人レビと言われた彼が赦されて神の支配に加えられたことがえがたれています。そこには、神の御国の食卓に集う罪人たちの中心にイエス様が座しておられる。そうして、律法学者に向かって「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく罪人を招くためである」と言われました。この言葉でこの出来事は締めくくられています。こう見ていきますと1章14節から2章17節までの一連のイエス様の伝道活動の中心が「罪の赦し」を内容とする「神の愛の支配が到来した」と言う「教え」であったということです。マルコは35節に、朝早くまだ暗いうちにイエスは起きて人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。と記しています。特別に福音書にどうしても記さなくともいいと思われますがマルコはイエス様ご自身が祈られた光景はここの場面とゲッセマネの園での祈りだけです。
イエス様の生涯の最後の夜に、「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしが願うことでなく御心に適うことが行われますように」と祈られた。イエス様が次々になさった「わざ」は罪の赦しの「しるし」として行われた。としますならばイエス様ご自身が人々の罪を身に引き受けて購いとなって苦い杯を飲み干す、という決断なしに罪の赦しは実現しないのであります。
ご自分の身を罪の購いとして十字架に捧げられることなしには、罪の赦しを内容とする、神の愛の行為は不可能だったのです。そうだとすればマルコが35節で短く記していますが、この祈りがあって初めてイエス様の教えが力ある権威に満ち新しい教えとして人々の心に衝撃を与えたのであります。何よりも明らかになりましたことは、今イエス様がいろいろな「わざ」をなさって、それが神から罪を赦す権威を託された人の子として振舞っておられるという事実であります。神の御子イエス様は今も私たちの中にあって、生きて働いてくださる。このことに感謝を持って、また希望を持っていきたいと思います。 アーメン
顕現説 第五主日(緑) 2015年2月1日