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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1. キリスト教会の暦は、この間の水曜日から四旬節に入りました。本日はその最初の主日礼拝です。いつも申し上げているところですが、教会の暦というものは、月日や季節の移り変わりを通しても私たちに父なるみ神の愛と恵みを思い起こさせてくれるものです。ですから、教会の暦を覚えながら日々を生き過ごすことは、私たちの信仰生活や教会生活にとってとても大事です。
本日の福音書の箇所は、イエス様の荒野での試練についてです。この出来事は、マタイ福音書とルカ福音書では詳細に記述されていますが、マルコ福音書ではたったの二節しかありません。荒野の試練の時、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がおらず、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語られたものと考えられます。マタイ福音書とルカ福音書には詳細に語られたものが伝承されて記載されましたが、マルコ福音書には要約された形のものが伝承されて記載されたと言えます。たった2節だけから説教をしなければならないというのは、少し酷な感じもしますが、しかしよく考えてみると、ルターだったら、仮に1節しかなくても1時間位は説教できたでしょう。しかも、その内容ときたら聖書のことばかりです。これは驚くべきことです。というのは、説教者の中には、自分の思い出話を語ったり、また自分が読んで感銘を受けた本の紹介をして会衆と感動を分かち合うことを通して、上手く時間を埋める方もいらっしゃいます。もちろん、思い出話や読書感想がその日の聖句をしっかり解き明かすものであれば問題はないのですが、私としてはルターを見習って行きたいと思います。
さて、話をもとに戻します。本日のマルコ福音書の記述は要約された形ですが、それでも、マタイ福音書やルカ福音書にはないことが含まれていますので、それを見てみましょう。
「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日の間、サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒におられ、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合に、いろんな出来事が同時に入り混じっています。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形なので、そんな訳になってしまったのでしょう。そこで、マタイ福音書の記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、イエス様がサタンの誘惑を受けてそれを撃退した後に起きるという順番です(マタイ4章11節)。
そこで、これを踏まえてマルコの記述をわかりやすくすると、次のようになります。「イエスは荒野で40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後、野獣のただ中にいたが、天使たちに仕えられていた。」新共同訳にある「野獣と一緒におられた」というのは、野獣と仲よく暮らしたみたいですが、ここではそうではなく、荒野で野獣のただ中という危険な状態に置かれたということです。日本語で「~と一緒に」と訳されているギリシャ語の言葉(μετα)は「~の間に、~の中に」とも訳すことができるからです。ちなみに、フィンランド語とスウェーデン語の聖書では「野獣のただ中に」です。ルター版のドイツ語訳は「野獣のところに」、英語のNIVは日本語と同じ「野獣と一緒に」でした。
さてイエス様は、荒野で野獣のただ中という危険な状態に置かれたが、天使たちに仕えられ守られたので何も危害は及ばなかったのであります。荒野の野獣というのは、目に見える具体的な危険です。天使というのは、人間同様、神に造られたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在です。つまり、イエス様は悪魔からの誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は何も及ばなかったということです。このように理解すると、この13節の野獣の危険と天使の見守りというのは、ただ単に荒野の出来事だけでなく、その後イエス様が置かれていった状況全般を指しているとも考えられます。つまり、野獣のような危険な敵対者に何度も遭遇するが、目には見えない天使という霊的な守りの中にあったということです。
マタイ福音書とルカ福音書の記述では、イエス様が悪魔からどんな試練を受け、どうそれに打ち勝ったかということが詳しく記されていますが、その後の野獣の危険と天使の見守りについては何も触れられていません。このことについては、本説教の終わりの方で明らかにしていこうと思います。まずは、イエス様が悪魔からどんな試練を受けて、それにどう打ち勝ったのかということについて、マタイとルカの記述に基づいてみることとします。
2.マタイとルカの記述によると、イエス様は、40日間飲まず食わずの状態で悪魔から誘惑を受け続け(特にルカ4章2節)、最後に三つの誘惑を受けます。そのうちの二つは、「お前が神の子なら、石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」というのと、「お前が神の子なら、エルサレム神殿の屋根の上から神殿の背後にまっさかさまに切り落ちている谷に向かって身を投げて、天使に助けさせてみろ」というものでした。イエス様は多くの人の不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神の子です。だから、パンを石に変えたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらうことなど容易に出来たはずです。それなのになぜ、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選んだのでしょうか?
それは、もしそうしていれば確かに神の子としての力を見せつけることができたでしょうが、しかしその瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従うことになってしまうからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ、お前が神の子ならわけないだろ、それとも逃れられないのか、だったらお前は神の子でもなんでもないんだ、というように、苦しみからの逃れと神の子であることの証明を結びつけて自分の意思に従わせようとしたのです。ここまで追い詰められ言われたら普通はやるしかありません。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはならないということを貫きました。たとえそれが空腹と恐怖の中に留まることを意味しようとも。
三つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というものでした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、先の二つに増して、私たち人間の救いにとってとても重要な意味を持ちました。というのは、イエス様は、この荒野の試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりで、その時、神から聖霊を受け、また神の子であるとの認証を神から受けていたのです(マルコ1章10-11節)。もし、その神の子が悪魔にひれ伏してしまったならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともしない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺るぐことなく保たれました。実に際どかったと言えます。
3.それでは次に、イエス様はどのようにして悪魔の誘惑に打ち勝ったかをみていきましょう。結論から申しますと、三つの誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのに、イエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器に用います。
まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記8章3節の言葉をもって誘惑を無力にします。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神のみ言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験するのであります。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく実体のある真実の言葉であります。もし、悪魔が空腹の満たしのような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを自分の言いなりにしようとしたら、私たちはこの申命記の言葉を突き出すことで悪魔に対して次のように反論することができます。「悪魔よ、私の空腹が満たされることも満たされないことも全てはみ神次第である。満たされる時も満たされない時も私の命は神の御言葉を拠りどころとして立つ。だから、悪魔よ、お前は私の空腹の問題解決には何の関係もないのだ。」
次に、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと誘惑した時、今度は巧妙にも聖書の御言葉を使います。それは詩篇91篇11-12節「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのであります。それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑を無力にします。それは、こういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって、指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。実にシナイ半島の荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満をぶつけ早急に解決を求めました。彼らは、神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに、新たな困難が生じる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神の権威と力を疑い、言うことを聞いてくれないなら、もう知らない、エジプトに帰ってやるからと、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記の6章で、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時に、神は40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と命じるのです。
それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?期待した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、また祈りを通して得られた解決が自分の意にそぐわないものでも、それを最上の解決として受け取る、それくらいに神を信頼する、ということです。この申命記6章16節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への深い信頼を示すものです。実は、このイエス様の神への深い信頼というものは、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨だったのです。この篇の最初をみると次のように記されています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2-3節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は、詩篇91篇全体に神への深い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分だけをちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。これなどは、“コピペ”(コピー・アンド・ペースト)の先駆けではないでしょうか?しかし、そんなやり方で真理と張り合えるなどと思うのは、愚の骨頂です。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちが本当の真理の上にしっかり踏みとどまれるように、日々の聖書の繙きと学びを怠らないようにしましょう。
さて、三つ目の誘惑「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」に対して、イエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑を無力にします。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神をまさに天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えた創造主として仰ぐことです。そして、天においても地においても神より力ある者は存在しない、と敬うことです。たとえ、神の力が働いていないように見える時であっても、神の力が目に見えて働く時と同じくらいに、神は変わることなく全てに優る力を持つ方である、と恐れることです。神より力ある者は存在しないということは、神に敵対する者からすれば恐怖以外の何ものでもなく、そのような者は神から逃避しなければなりません。しかし、神との結びつきを持って生きる者からみれば、神以外には何も恐れるものはなく、神は全ての恐れから私たちを守って下さるので、私たちは神のもとにいて大きな安心を得ることができます。つまり、神に結ばれた者にとって神は、恐怖の的とか、逃避する相手ではなく、安心の源、とどまる場所なのであります。
悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持拡大できたとしても、神に敵対していれば、死んだ後は造り主から永遠に引き裂かれてしまい、永遠に止むことのない滅びの世界に投げ込まれます。そこには権力も富も持ち運ぶことはできません。しかし神との結びつきをもって生きる者は、死んだ後はそれこそ手ぶらで永遠に造り主のもとに戻ることができるのです。この世にいる時は安心の源から安心を得、次の世ではその源に戻ることができるのであります。このように神を畏れるということは、神との結びつきをもって今の世と次の世をあわせた一つの大きな人生を歩むということであります。それに比べたら、悪魔がやると言った権力や富はなんと小さなものでしょうか?そんなもののために神との結びつきを捨ててみろなどとは、なんと情けないことを聞くのでしょうか?
4.以上のように、イエス様は聖書にある神の御言葉を用いて、悪魔の誘惑を無力にしました。これからもわかるように、神の御言葉をしっかり携えていくことは、悪魔の攻撃を無力化するのにとても大事です。私たちも聖書の御言葉を日々の栄養にして摂取していきましょう。
さて、悪魔はイエス様のもとから退散しましたが、イエス様は今度は野獣のただ中にいて、天使に仕えられて守られた状態に入られました。これは、ユダヤの荒野にいた時の状況を指しているのか、それともその時から十字架の受難の道に入るまでの全ての状況を指しているのか、どっちを指すかということについては、ここでは決着をつけることはしません。どちらをとっても、この「野獣の危険と天使の見守り」というのは、よく見るとこれは、先ほども触れました詩篇91篇で言われていることの実現です。悪魔が愚かなコピペをした11-12節に天使の見守りについて言われており、それに続く13節に野獣の危険から守られることが言われています。11節から13節までを引用します。
「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道をどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んでいく。」
悪魔から誘惑を受けている時のイエス様は、悪魔の魂胆を見抜いたので、天使を呼び寄せて自分を助けさせることはしませんでした。あたかも天使たちに次のように命じた如くです。「天使たちよ、お前たちは今は来なくて良い。私は神の御言葉で悪魔に打ち勝つから心配はいらない。もしお前たちが来たら、私が助かった瞬間に私は悪魔に従ったことになってしまう。」そして、イエス様は、見事に一人で悪魔に打ち勝ちました。悪魔が退散した後で、野獣の危険の中に入りましたが、今度は天使たちに来るのを許して仕えさせたのであります。ユダヤの荒野でも、またその後でガリラヤ地方にいた時も、いろいろな危険が身に迫りましたが、イエス様は天使に仕えられ守られていました。
ところが、十字架の受難が始まると、イエス様は守りが全くない状態に陥ってしまいました。イエス様が逮捕される時、弟子のある者が剣を抜いて官憲に抵抗しようとしました。これに対してイエス様は、剣をさやに納めろと命じて言いました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26章53-54節)。つまり、イエス様は天使の軍勢の助けを得られる可能性を持ちながら、あえてそれを用いず、逮捕されるにまかせたのです。なぜでしょうか?それは彼自身が言った通り、聖書の言葉が実現するためでした。それでは、聖書の言葉が実現するとはどういうことかと言うと、それは、父なるみ神が計画した人間救済計画を実現することです。神が計画した人間救済計画とは何か?それは、罪と神への不従順がもたらす永遠の死の滅びから人間を救い出すことです。この救いを実現するために、神のひとり子が私たちの身代わりとなって罪と不従順の罰を請け負い、十字架の上で死なれたのです。もしイエス様が天使の軍勢を呼び寄せて十字架の死を回避してしまったら、人間の救いは起こらなかったのです。それでイエス様は、あえて十字架の道を選ばれたのであります。ちょうど本日の福音書の出来事のように、本当は回避出来るけれども、悪魔の言いなりにならないために、あえて空腹と恐怖を選んだのと同じなのであります。
5.それでは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者の場合はどうでしょうか?神との結びつきがありますから、詩篇91篇に言われているように神に守られていると言えるでしょうか?例えば、ライオンと毒蛇を踏みつけて何事もなくて済むでしょうか?ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、自分がどれだけ神に守られているかを周囲にみせて驚かせてやろう、とか、「神様、あなたは私を助けてくれて当然でしょ」という気持ちでライオンと毒蛇を踏みつけたら、まずは助からないということです。なぜなら、それは文字通り神を試すことになるからです。
反対に、神を試すことをせず、周囲に見せつける意図も持たず、またどんな状況にあっても神は信頼するに値する方と信じて疑わない時、神は私たちの心からの助けの叫びを聞いて下さいます。ここでもう一つ注意しなければならないことがあります。それは、ライオンや毒蛇を誤って踏んでしまい、心から助けを求める時、奇跡が起こって助かる場合もありますが、奇跡が起きず助からない場合もあるということです。助からない場合があるとは、神は助ける力がなかったということでしょうか?
いいえ、そうではありません。そのことがわかるために、ここで、ダニエルと二人の友人が火の燃え盛る炉に投げ込まれる直前にバビロン帝国のネブカドネツァル王に対して言った言葉をみてみると良いでしょう。王は三人に対して自分の神々を拝むよう強要し、それを拒否されたために三人を炉に投げ込むことを決定しました。
「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救って下さいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」(ダニエル3章17-18節)。
ここで明らかなことは、ダニエルたちは、神は基本的には彼らを救う力を持っていると固く信じていることです。その時、「そうでなくとも」というのは、ひょっとしたら救ってくれない場合もあるかもしれない。しかし、それは神に力がないからでなく、神はなんらかの意図があって救わないということである。反対に神が救う場合も同じで、神はなんらかの目的をもって救う。それなので、救われた者は、これからは神について周囲の人々に証ししていかなければならなくなるでしょう。翻って救われなかった者については、神は、よくそこまで頑張った、もう十分だ、お前の労苦は必ず報いて労ってやろう、またお前が被った損害は百倍以上にして回復してやろう、今はただ、それが起きる復活の日まではゆっくり休んでいなさい、ということで、神はその人を一足早くこの世から導き出した、ということです。いずれにしても、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを持って生きる者は、どっちに転んでも、神に見守られ天使の護衛をつけてもらっていることに何の変更もないのです。それで何があっても、神から見捨てられたなどと不安になったり心配になったりする理由も必要もないのです。
最後に、私たちを見守る父なるみ神は、私たちに天使の護衛をつけてくれているということを、ルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めにしたいと思います。あるフィンランド人の宣教師が私に言っていたのですが、彼女が日本のあるルター派教会で天使について話しをしたところ、クスクス笑われてしまったそうです。へぇー、フィンランドのクリスチャンって、天使なんか信じているんですか、と。以下は私の言葉ではないので、私に笑わないで下さい。
「ヘブライ人への手紙1章14節」の御言葉「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」についてのルターの解き明し
「もちろん、神は、天使の仕えなしでも、我々を悪魔やその他のあらゆる苦難から直接守ることができる。しかし、神はそうせずに、被造物である天使をもって別の被造物である人間に仕えさせることに決められたのである。それゆえ我々としては、神は天使を通して我々を守り助けて下さるということを知るようにしよう。そして、そのような仕方で助けて下さる神に感謝しよう。神という方は、私たちが助けを必要としている時、どのような仕方であれ、助ける決意でいらっしゃるまさに命の神なのだから。
しかしながら、もし我々が神の御言葉を心に留めず、神の父親的な見守りに感謝をしなければ、神は天使を自分のもとに留めてしまい、かわりに悪魔を送って悪に染まった我々が神の言うことを聞くようにと再教育するであろう。その時の惨めな状態といったらないであろう。我々が覚えていなければならないことは、神は悪魔の怒り狂う攻撃から我々を守り、我々に仕えるために愛すべき天使を造られたということである。この神の御心は、我々を勇気づけてくれる。天使は、親切で寛大で善意溢れる霊であり、悪魔の攻撃を撃退する時には、いつも我々のために身を投げ出してくれる。もう一つ忘れてはならないのは、神は一人のキリスト信仰者を守るために一人の天使を送るのではなく、大勢の天使を送って下さるということである。そういうわけで我々は、無信仰者のように何か守りがあった時はすぐ全ては偶然の産物だったなどと納得する生き方をしてはならない。例えば、誰かがあやうく溺れかかったところを助かったとか、大きな石が当たってもけがをしないですんだとか、そういうことが起こった時、運がよかったなどと言ってはならない。それは、愛すべき天使の仕業なのである。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
主日礼拝説教 2015年2月22日 四旬節第一主日 2月22日の聖書日課 マルコによる福音書1章12-13節、創世記9章8節-17節、第一ペテロ3章18-22節