説教「イエス・キリストという光に照らされて生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書12章36b-50節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様は永遠の命に至る道を照らす光

 ヨハネ福音書では、イエス様が「光」であるということがよく言われます。本日の箇所や先週の箇所のようにイエス様が「自分はこの世に来た光である」(3章19節、12章46節)とか「この世の光である」(8章12節、9章5節、12章35-36節)と自分で言う場合もあるし、この福音書を記述したヨハネが、イエス様は光であったと総括する場合もあります(1章4-5、9節)。イエス様が光であるとは、どんな意味でしょうか?

 ひとつには、闇の中を照らして、私たちが道を誤らず正しい道を歩めるようにするという意味があります。ヨハネ8章12節で、イエス様は「私は世の光である。私に従って来る者は闇の中を歩むことがなく、命の光を持つに至る」と言います。また、12章35節では、「もう少しの間、光はあなたがたと共にいる。あなたがたが光を持っている間に歩みなさい。闇に捕らわれてしまわないように。闇の中を歩む者は、自分がどこへ向かっているかわからないのだ」と言います。

 それでは、イエス様という光を持った時、人はどこへ向かって歩むのでしょうか?何か目的地があって、そこへ道を誤らないで行けるようにとイエス様が光となって道を照らして下さっている。イエス様という光が照らなければ、周りは全くの暗闇で誰も道が見えず目的地に到達できない。その目的地とはどこなのでしょうか?

 それは、神の国です。天の御国とか、短くして天国とも呼ばれます。日本語で普通、天国と言うと、死んだ人が行くところで、亡くなった人たちがそこからこの世にいる私たちを見守ってくれている場所という意味で使われます。興味深いことに一般の仏教関係の人たちも、亡くなった人が極楽浄土から私たちを見守ってくれているとはあまり言わないのではないか、天国から見守ってくれているというのが一般的ではないかと思います。恐らく、極楽浄土も天国も同じものという理解がされていると考えられます。(あるいは、極楽浄土に到達するまでは33年くらいかかると考えられているので、それまでは極楽浄土から見守ってくれている、とは言えません。それで、亡くなった方が見守りをしてくれる場所として天国が引き合いに出されるのかもしれません。)

ところが、キリスト教でいう天国とか神の国というものは、今どこか上の方にあってそこから亡くなった人たちが見下ろすようにして見守ってくれているところではありません。確かに神の国は今、私たち人間のあずかり知らないところ、天地・人間を造られた神がおられるところにあります。しかし、その神の国に人間が迎え入れられるのは、まだ先のことです。いつのことになるかというと、「ヘブライ人への手紙」12章26-28節に答えがあります。「(神は)今は次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。」

つまり、今私たちの周りにある森羅万象が揺り動かされ取り除かれる時、唯一揺り動かされず取り除かれないものが現れてくる。それが神の国であります。このような森羅万象の大変動について、イザヤ書を見ると、神が今ある天と地にかわる新しい天と地を造るという預言があります(65章17節、66章22節)。このような新しい天と地のもとで神の国が現れるということが、黙示録21章のはじめに預言されています。このようにキリスト信仰では、神の国とか天国というものが人間にとって具体的なものになるのはいつかと言うと、それは、今のこの世が終わりを告げる終末の日のことなのです。ここで一つ付け加えますと、キリスト信仰では、この世の終わりの日に死者の復活ということが起こり、イエス様を救い主と信じる者が神の御心に適う者として神の国に迎え入れられるということです。(こういう教えは近年では、他の宗教に失礼と言わんばかり、あまり言わなくなってきたように見受けられますが、でもこれはキリスト教の主眼なのであります。)

さきほど、一般の仏教関係者の天国観がはっきりしないというようなことを申し上げましたが、はっきりしない点ではキリスト教会も同じではないかと思います。いつだか、某教会の総会に顔を出したら、教会がこの世に神の国を建設する、などと言っていて、ルターが聞いたらびっくりするのではないかと思いました。小教理問答を見てもわかるように、ルターに言わせれば、神の国は、つくるも何も、既に神のもとにあり、いつか私たちのもとに来るものだからです。そう言っても、今現在の私たちが神の国と無関係ということではありません。神の国とは、ルターの言葉を借りるまでもなく、完全な罪の赦しがある世界です。もし、私たちが、神に罪の告白をし、洗礼、聖餐そしてイエス様を救い主と信じる信仰を手掛かりとして神から赦しをいただければ、それはもう、神の国と見えない形でつながっていることになるのです。それが、この世が終わりを告げる終末の日、復活の日につながりが見える形になるということです。

以上のように、キリスト教では神の国とか天国というものは将来に関係するものということになります。そうすると、それでは既に亡くなった方たちはその日まではどこでどうしているのか、という疑問が起きてきます。これについては、当教会の説教や聖書の学びでも度々触れたところでありますが、ルターによれば、亡くなった人は復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということであります。復活の日に目覚めさせられて復活の新しい命と体を与えられて、もともと自分を造られた神のもとに永遠に迎え入れられるということであります。たとえ眠っていた時間がこの世の時間単位では100年であっても1000年であっても、眠っていた本人にすれば目を閉じて再び開けるまではほんの一瞬にしか感じられないとルターは教えています。

復活の日まで亡くなった方がただ安らかに眠っているだけというのは、この世に残された側にしてみれば寂しいものがあると思います。そうしたら、今起きていて目を覚まして自分たちのことを見守ってくれる者がいなくなってしまうではないか、と。それが、キリスト信仰ではちゃんと今起きていて目を覚まして見守ってくれる方がいるのです。誰かと言うと、天と地と人間を造られた神がそれです。神は、今この世を生きている者だけでなく、この世から離れて今安らかに眠っている方も同様に造られた方で、その神が私たちを見守って下さるのです。誰でも最愛の人に先立たれたら悲しみのどん底に突き落とされます。そういう時、日本では一般に、亡くなった方が天国から見守ってくれるという思いが励ましになっています。キリスト信仰では、見守りは自分の造り主である神がしてくれて、亡くなった方に関しては復活の日に再会できるという希望が励ましになっています。

それでは、復活の新しい命と体を与えられた者が迎え入れられるという神の国、天国とはどういうところかについて、聖書に沿って少し具体的にみてみましょう。黙示録21章3-4節に次のように記されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」つまり天国とは、この世で私たちの身に降りかかっていた苦難や害悪を、もうこれで涙は流さなくてもいいんだよ、というくらいにまで神が全てを清算してくれるところです。天国はまた、黙示録19章7、9節で盛大な結婚式の祝宴にたとえられます。それは、新しい天と地のもとでは、以前生きていた世の労苦を全て労われるということです。そして、神のもとに永遠にいることになるので、死というものがありません。

 それでは、このような天国に行けるために、なぜイエス様という光がなければならないのでしょうか?それは、私たち人間の状態が、神と永遠に一緒にいられる状態にはないからです。創世記3章に堕罪の出来事が記されています。最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死ぬ存在となってしまいました。神聖な神と神に造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。人間は自分の力でこの断絶を埋めることはできません。なぜなら、そうするためには人間は神と同じくらい神聖な存在にならなければならないからです。この神との断絶をそのままにしておくと、人間はこの世から死んだ後、永遠に造り主から離れ離れになります。そうなると、天国での完全な清算からも完全な労いからも永遠に遠ざけられてしまいます。そればかりか、黙示録20章やマタイ25章に出てくる永遠の火に投げ込まれてしまうかどうかという問題も迫ってきます。

しかしながら神は、人間が永遠に自分のもとに戻ることができるようにと、つまり人間がそれくらい神の目に相応しいものになれるようにと、そのための手筈を全て整えて下さいました。どのようにしてかと言うと、ひとり子イエス様をこの世に送り、全人類分の罪と不従順の罰を全て彼に負わせて、私たちの身代わりとして十字架の上で死なせたのです。人間に向けられていた罰は全部イエス様が吸収・消化してしまったので、人間からすれば誰か他人の犠牲で罰を帳消しにしてもらえる状況が生まれました。それだけでなく神は、一度死んだイエス様を復活させて、今度は死を超えた永遠の命に至る扉をも人間のために開いて下さいました。

このように神は、イエス様を用いて人間のために「罪の赦しの救い」を用意して下さいました。この知らせ ― この良い知らせを福音と呼びますが、これを聞いた人が、これらのことは全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主と信じて洗礼を受けると、人間はこの「罪の赦しの救い」を自分のものとして受け取ることができるのです。そして、その人は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることとなり、神との結びつきを回復した者として、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分の造り主のもとにもどることができるようになったのであります。

もし、イエス様という光を持たなければ、誰も目的地がどこにあるか見えません。また、そこに到達する道も見えません。全てが闇の中です。ヨハネ14章6節で、イエス様は自分のことを、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われますが、まさにその通りなのです。

 

2.イエス様は人間を照らし出す光

以上、イエス様が光であると言う時、それは神の国、天国という目的地とそこに至る道を私たちに照らしてくれる光という意味があることをお教えしました。もう一つの意味があることを忘れてはなりません。それは、ヨハネ1章9節で言われるように、人間を照らし出す光という意味です。人間を照らし出してどうするのかと言うと、人間に宿る罪や神への不従順を白日の下に晒すということであります。

人間に宿る罪や不従順というものは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者といえども免れていません。キリスト信仰者とは、イエス様が持っている神の義という純白な衣を頭から被せられただけの者なので、実はまだ内側に罪と不従順を宿したままなのです。神を全身全霊で愛すること、隣人を自分を愛するが如く愛することが神の神聖な御心であると知っていながら、この内在する罪と不従順のためにそうしないことがよく起こります。けれども、そのたびに悔い改めの心を持って罪の告白をすれば、神は私たちに被せられているイエス様の純白の衣を見て、「この者は私が整えた救いをしっかり受け取っている」と確認して、私たちを赦して下さいます。まさにこのために、毎週行われる礼拝のはじめに罪の告白と罪の赦しの宣言があるのです。

このように罪の告白と赦しの宣言を繰り返しながら、私たちは永遠の命に至る道を歩みますが、ここには実に内面の戦いが不断に続きます。かたや、肉に結びつく古い人が悪魔と組んで、「神を全身全霊で愛さなくてもいい。隣人を自分を愛するが如く愛さなくてもいい」とそそのかし、そのようになってしまった時には、「それをわざわざ神に打ち明ける必要はない」とたぶらかし、私たちと造り主との関係をどんどん引き裂いていきます。この引き裂きを通して、私たちが造り主である神から独立した存在のように見せかけ、やがてはさも造り主など存在しないかのように、人間が自分こそ自分の主人であると錯覚させていきます。

これに対して、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく新しい人は、「神を全身全霊で愛すること、隣人を自分を愛するが如く愛することは、神が望んでおられることである」と知っており、もしそれに反してしまった場合には、すぐ神の方に向き直って赦しを乞わなければならないとわかっています。このように新しい人は、造り主である神に従属して、神との結びつきの中で生きていくことを志向します。この内面の戦いは苦しい戦いですが、私たちには、十字架の上で罪と死の力を無にし全てに勝利した主イエス様が常についていて下さることを忘れないようにしましょう。

このように、イエス様の光が私たちを照らし出すというのは、人間の真の姿を晒しだしながら、私たちが神との結びつきの中で生きられるようにするためであることが明らかになりました。先週の主日の福音書の箇所にあったヨハネ3章21節で、イエス様は「真理を行う者は光のもとに来る。それは、その人の行いが明るみに出て、それが神に導かれてなされたことが明らかになるためである」と言われていました。先週の説教でも申し上げましたが、「真理を行う」というのは、まさに、自分の罪と不従順を神の前に晒しだし、悔い改めの心を持って光のもとに行き、そこで罪の告白をし、罪の赦しを得ること、これが「真理を行うこと」です。「ヘブライ人への手紙」4章15節には、罪の赦しという恵みの王座の前に勇気を持って進み出ること、これが、神から憐れみと恵みを受けて、時宜にかなった助けを頂けるために必要なことである、と言われています。キリスト信仰者の生きる力の源は、こうした「罪の赦しの救い」を土台とする神との結びつきにあると言えましょう。

 

3.どうしたら人々をイエス・キリストという光のもとに導けるか

 以上みてきたように、私たちは、イエス・キリストという光に照らされて、神の国、天国への道を誤らずに進むことができ、かつ自分の真実の姿を神に晒しだすことで神との絆、罪の赦しの絆を日々強めることができます。ヨハネ12章47節で、イエス様は、自分の教えの言葉を聞いてそれを守れない人がいても、そのような人を裁くのではなく救うのだと言われます。私たちが、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようになるというのは、そうしないと罰せられるからという恐怖心からそうするのではありません。そうではなくて、「罪の赦しの救い」を頂いたことによる感謝から、そうするのです。これが、本日の旧約の日課の中で言われていた「神の律法が心に記された」(エレミア31章33節)ということです。心に記されていなければ、律法は単に私たちの外部にある規則でいやいや守るものにとどまります。ところが心に記されると、律法は私たちの心身の一部になり、守ることが当たり前のようになります。しかし、しょっちゅう守れない自分に気づかされて、それで罪の告白と赦しの宣言が必要となるのです。このようにキリスト信仰者は、イエス様の教えの言葉を受け取って、また神からも赦しを受け取って、日々イエス・キリストという光に照らされながら、この世を生きていくのであります。

ところが、こうした生き方と反対の生き方もあります。ヨハネ12章48節で言われるように、イエス様という光自体を拒否し、彼の教えの言葉を受け取ろうとしない者がいます。その場合は、天国に行く道が照らされないので、そのような人にとって人生はただこの世だけで終わるか、または続きがあるとしてもそれは闇の世界です。また、自分の真実の姿を晒し出すこともしないので、自分の行い、思い、考え、発する言葉が造り主の意思とどれくらい離れているか知る由もないし、知りたくもない。そうなると、自分の主人は自分自身という自分中心の生き方になります。

 神が人間の救いを整えられ、そのためにイエス様を救い主としてお送りになったのに、なぜ人間は信じないで闇にとどまることを選ぶのでしょうか?本日の箇所の初めの方にある40節で、ヨハネ福音書の記者ヨハネは、ユダヤ人がイエス様を信じなかったのは、神がそうさせなかったからだと言います。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」ギリシャ語の原文はもっと強い調子で、「彼らが目で見ることがないように、心で悟らないように、立ち返らず、わたしが彼らを癒すことがないように、そのために神は彼らの目を見えなくした云々」です。

これは、イザヤ書6章10節にある神の言葉の引用です。引用元をみると、裁きの調子はもっと強く、「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」となっています。イザヤ書では、神は預言者イザヤに、これから出て行ってイスラエルの民の心をかたくなにせよ、目が見えないようにせよ、と命じます。ヨハネ福音書の引用では、心のかたくなさや目の見えなさは、もう実現されたことになっています。いずれにしても、人が神を信じないのは神がそうさせないようにするからだ、と言っているように見えます。もしそれが本当なら、イエス様を救い主と信じない人が出るのは神がそうさせないからということで、不信仰はその人のせいではなくて神のせいということになります。そうなれば、神が人を信じないようにさせておきながら、そういうふうになった人を裁いて、天国に行けないようにするというのはなんという理不尽なことかということになります。

しかしながら、イザヤ書6章10節はそれだけ取り出してみるべきではなく、同書のもっと広い文脈と神のその言葉が出た歴史的状況とをあわせて理解する必要があります。預言者イザヤが神のこの厳しい裁きの託宣を受けたのは、紀元前700年代の後半ユダ王国の王ウジヤが死んだ年です(イザヤ6章1節)。ウジヤ王の次にヨタム王が即位します。列王記下によると、ウジヤ王とヨタム王の二人の王自身は神の目に正しいことを行ったとのことですが(列王記下15章34節)、国民の方はどうかというと、200年程前にさかのぼるレハブアム王の時代に異教の神崇拝をまねて国内各地に高台が築かれてアシェラ像なる像に生け贄を捧げることが始められ、天地創造の神の怒りを招くこととなりました(列王記上14章22-24節)。この高台での生け贄の捧げはユダ王国の伝統となってしまったのです。イザヤの時代にもこれは続けられ、ウジヤ王もヨタム王も生け贄の高台は廃止できませんでした(列王記下15章35節)。歴代誌下には、ヨタム王の時代の国民は「依然として堕落していた」と記されています(27章2節)。ヨタム王の次に即位したアハズ王はついに王自らこの高台の生け贄を推進する者となってしまいます(列王記下16章3-4節)。

 このようにユダ王国の王と国民は、若干の王を除いて神の意思に背き続けていました。イザヤ書1章をみると、イザヤが活動し始めた頃のユダ王国の社会の混乱ぶり、道徳の退廃ぶり、そのくせ宗教的な行事や礼拝は外面的には守り続けている欺瞞性を糾弾する神の言葉が記されています。預言者イザヤが6章10節にある神の裁きの託宣を受けた時、彼はその目で神の姿を目撃してしまいます。彼はその時、汚れた唇を持つ民の中に住み自ら汚れた唇を持つ自分は神聖な神を見てしまった以上、自分は消滅してしまう、と恐れおののきます(イザヤ6章5節)。

つまり、神が民の心をかたくなにせよ、目が見えないようにせよ、と命じたのは、心が清い無垢な民の心をかたくなにすることでも、目が見える民の目を見えなくすることでもなかったのです。既に心がかたくなになっていて目が見えなくなっていた民に対して、もう何度言っても無駄だ、救いようがない、そんなに心をかたくなにしていたいのなら勝手にするがよい、そんなに目が見えないのが好きなら勝手にそうするがよい、と突き放したのであります。

神は、人間が再び造り主である御自分のもとに永遠に戻ることができるようにと、イエス様を用いて人間のために救いを整えられました。人間に対して、さあ、この救いを受け取りなさい、と提供して下さっているのです。救われるために人間がすることと言えば、それを受け取るだけです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ受け取りは完了です。しかし、どうぞと提供されて、いりません、と背を向けて受け取りを拒否した場合は、神はそのままにされます。拒否した人が自分の道をそのまま行くのにまかせます。しかし、神は、拒否した人に対して、それならもう提供なんかしてやるもんか、というスケールの小さいことは言いません。その人が考え直して受け取りに来る日を待っているのです。本当に受け取りに戻ってきたら、あの時拒否したくせに、などと嫌味になることもありません。戻ってきてくれたことを本心から喜んで下さるのです。その時の神の本心からの喜びがどのようなものであるかは、イエス様の有名な「放蕩息子」(ルカ15章11-32節)のたとえに出てくる父親が息子の帰宅をどれほど喜んだかを思い出していただければ十分でしょう。

 先週の説教でも教えたところですが、私たちも、できるだけ多くの人が、神の整えられた救いを受け取ることができるように祈り、かつその受け取りを助けてあげることができるような知恵と力を、神に祈り求めていきましょう。もし、愛する肉親や隣人がまだ救いを受け取っていないのであれば、キリスト信仰者としては受け取ってほしいと願うのが本当でしょう。もし相手の方が、結構です、とか、他でやって下さい、という態度なら、まず、父なるみ神にお祈りして今の状況を説明して助けをお願いすることから始めます。先週申し上げたお祈りの一例をまた繰り返します。「天の父なるみ神よ、どうか、私にとって大事なあの人も、あなたとの結びつきを回復できて、その結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠にあなたのもとに戻ることができるように、イエス様を救い主と信じることができるようにして下さい。そのために、もし私が福音を伝える適任者とお思いでしたら、伝える機会をお与えください。私でなければ別の適任者を送ってください。もし、私に機会をお与えになる場合は、しっかり伝えられるようにあなたからの知恵と聖霊の導きをお与えください。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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<p>主日礼拝説教 四旬節第五主日
4月22日の聖書日課  ヨハネ12章36b-50節、エレミア31章31-34節、エフェソ3章14-21節</p>
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