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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に高々と晒すというものでした。イエス様は、十字架に打ち付けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が打ち付けられることになる十字架の材木を処刑場まで自ら担いで歩かされました。これは途中で通りがかりの人が手伝わされることになりましたが、イエス様の体力は本当に限界だったのでしょう。そして、やっとたどり着いたところで痛ましい釘打ちが始まりました。数多くの宗教画に描かれた十字架のイエス様というのは、釘を打ちつけられた手足から血を流し、血の気を失った体は全体的に色白な感じのものが多かったような印象があります。しかし、兵隊たちから暴行を受けた後ですので、本当は全身血まみれだったのでしょう。ちょうど10年程前にアメリカの映画で「キリストの受難The Passion of Christ」という映画が上映され、残酷なシーンが多くて世界中で話題になりました。実際はあれくらいのことが起こっていたのではないかと思います。いずれにしても、一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦痛や激痛で満ちています。
イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に掛けられていました。何も罪を犯していないイエス様は、極悪人の扱いを受けたのです。十字架の近くでは、人間の痛みや苦しみに全く無関心な兵隊たちが、処刑者たちが息を引き取るのを待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始めました。十字架の周りを大勢の群衆が見守っています。近くの街道を通る人たちも立ち止って様子を窺います。そのほとんどの者は、イエス様に嘲笑を浴びせかけました。ユダヤ民族の解放者のように振る舞いながら、なんだ、あのざまは、なんという期待外れな男だったか、と。群衆の中には、イエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛の中でイエス様がかすれていく意識の中で目にした光景でした。
このイエス様の悲惨な十字架の死は、一体何だったのでしょうか?言うまでもなく、十字架はキリスト信仰のシンボルになっています。キリスト教会に掲げられた十字架、礼拝堂の正面に飾られた十字架、そういうシンボルとしての十字架はただ単に、イエス様が十字架にかけられて死んだという見かけの事実を伝えるだけのものではありません。シンボルとしての十字架は、見かけの事実の背後にそびえる大いなる真実を象徴しています。それは何かと言うと、イエス様が十字架の上で死なれたことで逆に人間が救われる道が開かれたということです。このことを十字架は象徴しているのです。「人間が救われる」と言う時の「人間」とは、欧米人だろうがアジア人だろうがアフリカ人だろうが、とにかく人間なら誰でも救われる道が開かれたということです。
それでは、なぜイエス様が十字架で死なれたことが、人間が救われる道を開くことになったのでしょうか?そもそも、「救い」とは何から救われることを意味するのでしょうか?そうした疑問を明らかにする最初の手掛かりとして、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所がちょうどよいでしょう。
イザヤ書52章13節から53章12節までの箇所は、明らかにイエス様の受難と死の出来事を指しているとわかります。そこでは、彼の受難と死の目的について詳しく述べられています。話が少しそれますが、この預言の言葉が紀元前700年代に由来すると見てよいのか、それとも紀元前500年代に由来するかについては、キリスト信仰者の間でも議論されるところではありますが、いずれにしてもイエス様が歴史の舞台に登場する数百年前に由来することは否定できないのであります。以下、この箇所から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。
イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした(53章4節)。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした(同5節)。なぜこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした(同5節)。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わせたのであり(同6節)、人間の神に対する背きのゆえに、イエス様は神の手にかかり、命ある者の地から断たれたのです(同8節)。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかった。それなのに、その墓は神に逆らう者と共にされた(同9節)。苦しむイエス様を打ち砕こうと主である神は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした(同10節)。神の僕であるイエス様は、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(同11節)。イエス様は、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたが、実は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのであった(同12節)。
以上から、イエス様が罪ある私たち人間のかわりに神から罪の罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜイエス様はそのような身代わりの死を遂げなければならなかったのか?私たち人間に、一体何が神に対して落ち度があったというのでしょうか?多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った、と言うが、私たちのどこが正しくないというのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって、私たちが癒されるというのは、私たちが何か特別な病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。結論から申しますと、聖書は、私たち人間が天と地と人間を造られた神の前に正しい者ではありえず、落ち度だらけの者であると明らかにしています。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気があるということも明らかにしています。どういうことか、さらに見ていきましょう。
人間はもともとは神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、禁じられていたことをしてしまう。このように、造り主である神と張り合いたいという傲慢さをもったことが、人間が神に対して不従順となり、人間内部に罪が入り込む原因となったのであります。この結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、人間と造り主である神との結びつきが壊れてしまいました。神との平和な関係が失われてしまったのです。しかし、神は、人間に対して、身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはせず、正反対に、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えたのであります。
ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にして、人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力で罪を除去することはできず、罪の支配力を無力化する力もない。そこで、神が編み出した解決策は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を諸悪の根源にして、人間の全ての罪の罰を全部受けさせる。それこそ、償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下し尽くす。そして人間は、この身代わりの犠牲を本当だと信じる時に、文字通りこの犠牲に免じて罪を赦される。このように罪を赦された者として、人間は神との結びつきを回復させることができる。このような解決策を神は立てたのです。
それでは、一体誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせること自体は不可能である。自分の分さえ背負いきれないのだから。そうなれば、罪の重荷も汚れも持たない、神聖な神のひとり子しか適役はいない。それで、この重い役目を引き受ける者としてひとり子イエス様に白羽の矢が当たったのでした。
ところで、この身代わりの犠牲の役目は、人間の具体的な歴史状況の中で実行されなければなりません。なぜなら、そうしないと、目撃者も証言者も生まれず、彼らが残すことになる記録も生まれません。証言や記録がなければ、同時代の人たちも後世の人たちも神の人間救済計画が実現したことを信じる手がかりがなくなってしまいます。そういうわけで、神のひとり子の身代わりの犠牲は、人間の具体的な歴史の中で出来事として起こらなければならなかったのです。
さて、神のひとり子は歴史を超えた無限のところにおられます。その方が有限な人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が神の形を捨てて、人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみもそれこそ人並みに感じられるようになります。まことに本日の使徒書の日課で述べられている通りです(ヘブライ4章15節)。しかも、自分のあずかりしらない、自分以外の全ての人間の罪を請け負い、その罰がもたらす痛みと苦しみを受けなければならないのです。それをしなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのです。
そうして、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、今の世の終わりに出現する神の国がどのような世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。こうしたイエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発と憎悪を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったおかげで、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全部身代わりに引き受けることが具体的な形を取ることができたのでした。
このようなわけで、イエス様の十字架上の死というのは、神が人間との結びつきを回復しようとした救いの計画が成就したことを示しているのです。私たちに向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。また、人間を死ぬ存在に陥れていた罪は、これも神がイエス様ともども刺し貫いてしまったので、人間を牛耳る力が粉砕されてしまいました。このようにして、神の人間救済計画はひとり子イエス様を用いて実現されました。神はこの実現済みの救いを全ての人間に向けて、どうぞ受け取りなさい、と提供してくれているのです。そこで、人間の方が、イエス様の十字架の死は2000年後の今を生きる自分のためにもなされたのだとわかり、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を自分のものとして受け取ることができるのです。こうして神から罪の赦しを受けた人は、神との結びつきが回復し、そのような者としてこの世の人生を歩み始め、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死んでも、その時は御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとに戻ることができるのです。
このように「罪の赦しの救い」を受け取った人は、神に対する感謝の気持ちに満たされ、神の意思に沿うような生き方をしようと志向し始めます。つまり、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する、という生き方です。ところが、それはそう簡単なことではないと気づかされることになります。この生き方をできなくなるようにしてやろうという力に絶えず直面することになるからです。とにかく現実の世界で生きていると、いろんなことがあります。ですから、神の意思に沿う生き方に反対する力に遭遇したら、兎にも角にも神に助けを祈り求めることから始めなければなりません。
加えてイエス様は、神の意思に沿う生き方というものは、外面的な行為だけでなく内面的な心の有り様まで問われるのだと教えました。例えば、自分や他人の結婚生活をしっかり尊重し守っていても、もし淫らな目で女性を見たら姦淫を犯したのも同然(マタイ5章27-28節)とか、殺人を犯していなくとも、もし隣人を憎んだり悪く言ったりしたら同罪(同5章21-22節)という具合です。ここまで見抜かれたら、誰も神の意思に沿う生き方などできません。しかし、神は人間がそこまで完全になれないことを知っておられるので、私たちがイエス様の身代わりの死に免じて罪を赦して下さいと祈ると、神は、私たちがイエス様を自分の救い主として信じていることを確認できて、「このことはもう取沙汰しないから、心配しないで前に向かって進みなさい」と言って、この世に送り出して下さるのです。
キリスト信仰者は、もし神の前にへりくだって包み隠さずに罪を告白すれば、神はイエス様の身代わりの死に免じて必ず赦して下さると知っています。しかしながら、それでも、赦しが得られるかどうか、確信が得られないこともあります。特に死が間近に迫った時、信仰者でも、果たして神は自分を御許に引き上げてくれるだろうか、それとも自分はまだ罪の汚れが多く残っているのでだめなのだろうか、と心配することがあります。そのような時は、ルターにならって、ゴルゴタの丘の十字架を心に思い浮かべるとよいでしょう。あそこに、首を垂れたイエス様がかかっている。あの方の肩には全世界の人々の罪が重くのしかかっている。私の罪もああして全部、あの方の肩に貼りつけられている。このことを心の目で目撃できれば、罪の赦しを確信できるはずです。
十字架上のイエス様というのは、イエス様を自分の救い主と信じて既に救いを受け取った者にとっては、絶えず立ち返るべき原点なのであります。その者にとって内在する罪は、もはや死と罰に追いやる力はなく、逆に絶えず十字架のもとに引き戻す契機に変わったのです。まだ救いを受け取っていない人たちにとって、十字架は言うまでもなく目指すべき目的地であります。目的地に到達するや否や、それは今度は立ち返るべき原点にかわる、それが十字架上のイエス様であります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 2015年4月3日 聖金曜日