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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日は二つのテーマについてお話ししたく思います。一つ目は、本日の福音書の箇所でイエス様が、ペトロがどのような死に方をするのかを預言していますが、この福音書の記者ヨハネはその死に方を神の栄光を現すものと解説しています。この「神の栄光を現す」ということについて考えてみたく思います。二つ目のテーマは、イエス様を愛するとはどういうことか、という本日の説教題に直接かかわることです。それでは、まず「神の栄光を現すこと」についてみていきましょう。
キリスト教の古い言い伝えによれば、使徒ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、自分は主と同じ死に方をする値打ちはない、と兵隊たちに言ったところ、それじゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架につけられたということです。本日の箇所にあるイエス様の預言「お前は若かった時には腰に帯びを縛って行きたいところを歩き回ったが、年を取った時、お前は両手を広げ、別の者がお前を縛って、行きたくないところに連れて行く」(ヨハネ21章18節)、これは、起きた出来事を知っている後世の人からすれば、十字架刑に処せられることだな、とわかります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわかりにくいものだったでしょう。福音書記者ヨハネはペトロの処刑を目撃したか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。その時、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことは、このことを意味していたのだ、と事後的にわかったのです。こうしてみると、ヨハネがいったん20章で書き終えた福音書にどうしても21章を付け加えたくなった理由が見えてきます。ペトロ殉教の報に接して、イエス様の預言を書き記さないではいられなくなったのであります。
さて、ペトロの殉教の死は、ヨハネが19節で解説しているように、神の栄光を現すものでした。これは、私たちをしばし考えさせます。神の栄光を現すというのは、これくらいのことをすることなのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないことは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されない、ということです。私たちの業績や達成が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちた方であります。それならば、私たちが神の栄光を現す、というのはどういうことでしょうか?
それは、動かすことのできない神の真理を、私たちが自分の生き方を通して人前で証しし明らかにすることです。つまり、あなたは何者かと問われたら、私は次の三つの者である、と答えることです。三つの者とは、まず、私は、天地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者である、と答えること。次に、その造り主が送られたひとり子イエス・キリストの身代わりの死によって罪と不従順の奴隷状態から解放された者である、と答えること。三つ目は、この世の人生の向こうで永遠に造り主のもとに戻ることができる道を今歩んでいる者である、以上のことを胸をはって答えることです。何も問われない時は、そのような者として胸をはって生きるだけです。
このような神の真理に従って胸をはって生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。神の真理を取り下げないと命はないぞ、という時代だったら、この世の人生の終わり方は殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?また、自分は造り主が送られたひとり子の身代わりの死によって罪の奴隷状態から贖われたということをどうして取り下げられましょうか?そして、自分は贖われた者として永遠に造り主のもとに戻ることができる道を今歩んでいるということをどうして取り下げられましょうか?ペトロは自分の生きた時代状況のなかで、「取り下げない」生き方をしたら一巻の終わりになるのに、それを貫いてこの世の人生を終えたのであります。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのであります。私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理を取り下げない生き方をしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?「イスラム国」のようなところでなければ、命を落とすことはないでしょうが、それでもいろいろ不自由を感じたり窮屈な思いをすることがあるのではないかと思います。でも、それが神の栄光を現わすことになるのです。
次に二つ目のテーマ「イエス様を愛するとはどういうことか?」についてみていきましょう。まず初めに、イエス様とペトロの対話をみてみましょう。イエス様が「私を愛しているか?」と三度ペトロに同じ質問をしたことは、ペトロがイエス様のことを人前で三度拒否したことに対応すると言われています。「私はあなたを愛しています」とペテロに三回言わせることで、拒否したことを赦す意味合いがあるとみなされています。ここでは、もう少し詳しくこの対話をみていきます。 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞「愛する」と、ペトロが「私はあなたを愛しています」と答える時の動詞「愛する」が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωという動詞を使いますが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωという動詞を使います。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。三回目になると今度は、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じ動詞フィレオ―で聞きます。そしてペトロは、フィレオ―で答えます。ここで、この二つの動詞の違いを見てみましょう。
「愛」とか「愛する」という言葉は厄介なものです。というのは、この言葉は、一般には男女の情愛とか性愛の意味が強くこめられることが多いので、それ以外の愛の形が背景に退きがちになるからです。あるフィンランド人の牧師先生が言っていたのですが、日本で中学生の女の子ばかりが集まる聖書の学びの会で、「イエス様は私たちを愛されました。私たちもイエス様を愛して、互いに愛し合いましょう!」と言ったら、女の子たちはみな顔を下に向けてくすくす笑い出したということです。
古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の情愛とか性愛に関係する愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものとしてフィラデルフィアφιλαδελφιαという語がありました。対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという語が使われました。本日の箇所のペトロの答え「愛しています」に出てくるフィレオーφιλεωという動詞は、この兄弟愛、同志愛、人間愛に結びついた愛です。
それでは、イエス様が聞く時に使った「愛する」アガパオーαγαπαωはどんな意味があるのでしょうか?ヨハネ福音書13章34節と15章12節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与える、と言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。その時、イエス様の弟子たちに対する愛も、またそれを模範として弟子たちが互いにしなければならない愛もアガパオーαγαπαωです。それでは、イエス様が弟子たちを模範的に愛する愛とはどんな愛でしょうか?15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーαγαπαωも名詞のアガペーαγαπηも同じ愛の形を意味します。ここで、アガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛の形は、自分の命を犠牲にすることも厭わないことが関係してくることが明らかになります。
そこで、自己犠牲をも厭わない愛の形という場合、それは誰による誰のための何のための犠牲かということをはっきりさせなければなりません。「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」は、アガペーαγαπη、アガパオーαγαπαωです。ここから明らかなように、アガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛の形は、神の愛に特有な愛、神に由来する愛です。その愛の内容は、人間が造り主である神のもとに戻れるのを妨げていたものを、神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。人間は堕罪の時に、神に対して不従順に陥り罪に陥ったために死ぬ存在となり、造り主である神と造られた人間との間に深い断絶が生じてしまいました。人間は代々死んできたように代々罪と不従順を受け継いできました。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるように、万が一この世から死んでもその時は永遠に自分のもとに戻ることが出来るようにと、それでひとり子イエス様をこの世に送りました。もし人間が罪と不従順を背負い続けてしまったら、この世から死ぬ時にその重みで滅びの世界に落ちてしまいます。そこで、神はイエス様に人間の罪を全て請け負わせて、十字架の上で滅びの罰を全て人間に代わって受けさせました。それだけに終わらず、死んだイエス様を今度は復活させることで、永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。永遠の滅びから救われるために人間がすることと言えば、この神がひとり子を用いて整えた救いをただ受け取ることだけです。イエス様を自分の救い主と信じて、洗礼を受けることで受け取りは完了となります。
さて、イエス様とペトロの対話に戻りましょう。イエス様は、ペトロに神由来の愛の形で「愛しているか」と聞きました。ペトロはどうしたかというと、先ほど見た兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛、つまり人間に由来する愛の形で「愛しています」と答えました。たとえ他の弟子が見捨てても自分は主を見捨てない、と言っておきながら見捨ててしまい、自己犠牲などからほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。かと言って、主を愛してやまないことも偽りのない真実である。そんなジレンマのゆえに、ペトロが神由来の愛を避けて人間由来の愛をもって答えたことが窺われます。イエス様はペトロに、「お前は神由来の愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい愛します。ただし、人間由来の愛ですが」と答えるのです。イエス様は二度同じ質問を繰り返し、ペトロは同じ答え方をします。そして三度目の質問で、イエス様は今度は神由来の愛の形のアガパオーαγαπαωを使わず、ペトロと同じ人間由来の愛の形フィレオーφιλεωを使います。つまり、「それじゃ、お前は人間由来の愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応と答えには彼が窮地に陥ったことが窺われます。
(ひとつ余計な注ですが、イエス様とペトロのやりとりはほぼ確実にアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、イエス様ご自身が目撃者、証言者として働くべく選んだ者たちです。それゆえ、そんな使徒を信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト教信仰の基本です。)
さて、イエス様が同じ質問を三回したのはなぜか?ペトロに三回拒否されたので、一回の答えでは信用できなかったからか?実は、イエス様は既に一回目の答えで、ペトロがイエス様を愛していることを信用していたのです。どうしてそんなことが言えるのかというと、ペトロの答えの後に、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言います。イエス様を救い主と信じる者たちが信仰をしっかり携えてこの世を道を歩めるように彼らを守りかつ指導しなさい、つまり牧会しなさいという意味です。「わたしの小羊」と言われているように、牧会者は信徒をイエス様からあずかって牧会するのですから、その責務ははかりしれないものがあります。ペトロにこのような責務を委ねたのです。もし、イエス様がペトロを信頼していなかったら、こんな重要な命令は下さなかったでしょう。
それほどペトロを信頼していたのであれば、なぜイエス様はペトロの愛を三度も確認させたのか?それは、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならない、ということを強調したかったからであります。それでは、イエス様に対する愛が牧会の土台を成すという場合、その肝心なイエス様を愛するというのはどんな愛なのでしょうか?
イエス様を愛するとは、神由来の愛、アガパオーαγαπαωアガペーαγαπηの愛で愛することですが、この愛は人間が自分の力で持つことはできません。これは、先にも申し上げたように、人間の自然に由来する愛の形とは異なる神由来の愛の形だからです。男女間の情愛・性愛、兄弟愛、同志愛、人間愛というものは、人間が自分は神に造られたということを知らなくても、またイエス様に罪の奴隷状態から贖ってもらったことを知らなくても、持つことができる愛の形です。人間に先天的に備わっているとも言えるし、また後天的に生まれ育った文化や伝統や国の中で形作られてくるものもあります。東日本大震災で何十万のボランティアが復興支援のために東北に赴きました。彼らの大部分はキリスト教徒でない人たちです。キリスト教徒でなくても、兄弟愛、同志愛、人間愛を持つと言うのは何の不思議もないことです。
しかしながら、そうした人間由来の愛は、造り主である神と造られた人間の壊れた結びつきを回復して、人間を神のもとに戻す力はありません。そのような力を持つのは神由来の愛しかありません。しかし、神由来の愛は、神からいただかないと持つことができません。人間に先天的に備わっていないし、国や文化や伝統がつくることもできません。どうすればそれを持つことができるのか?それは、先ほども申し上げましたように、神がひとり子イエス様を用いて人間の救いを整えられたということを聞いて、それが自分のためにもなされたのだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることを通してです。
イエス様は、こうして神由来の愛を受け取った私たちも同じアガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛の形で愛するよう命じられます(ヨハネ13章34節、15章12節)。ただしそうは言っても、これは、人間を罪の奴隷状態から贖ったイエス様と同じような犠牲の業をしろ、ということでは全くありません。それは既に神のひとり子が実現したので、新たな犠牲はもう必要ありませんし、そのような犠牲は私たち人間が出来ることではないのです。他方で、イエス様が払った犠牲と異なるレベルですが、私たちが払わねばならない犠牲もあります。それは隣人愛の実践においてです。もし隣人がキリスト信仰を持つ人である場合、その方が既に受け取った救いを失わないように助けることにおいて、自分の持てる力や時間を多く割かなければならない時がある、ということを肝に銘じておきましょう。それでは、隣人がキリスト信仰を持たない人の場合はどうでしょうか?それは、その方が私たちと同じ救いを受け取ることができるようにと助けることにおいて、自分の持てる力や時間を多く割かなければならない時がある、そのこともあわせて肝に銘じておきましょう。ルターは、そのような隣人愛の実践において、財産や命を失う可能性もあることを覚悟せよ、と言っています。
信仰と洗礼を通して私たちは、神由来の愛、アガパオーαγαπαω、アガペーαγαπηの愛を持って生きることになります。他方で、人間が自然に持っている愛の形も、私たちが肉をまとって生きる以上は残り続けます。人間由来の愛を打ち消して、全てを神由来の愛に置き換えることは不可能です。実はそれが問題なのではなく、問題は、人間由来の愛を神由来の愛がいかに方向付け秩序立てていくかということにあります。例えば、男女の情愛や性愛というものも、人間を男と女に造った神の創造の趣旨をしっかり踏まえれば、夫婦の絆を強めるという大切な役割を持っていることが明らかになります。逆に、神の創造の趣旨をわきまえなければ、情愛や性愛は方向性を失い無秩序になる危険があります。これは、この世で私たちがよく見聞きすることです。
さてイエス様は、彼を愛する人は彼の教えたことを守る人であると言います(ヨハネ14章21、23節)。イエス様の教えを守ることが彼を愛することになるというのは、結局のところ、人間が神由来の愛を受け取って、それに基づいて人間に由来する愛を方向付け秩序立てていくということになるでしょう。
最後に、私たちは信仰と洗礼を通して神の愛を受け取ったとは言いますが、この世では私たちは肉をまとって生きていますから、神由来の愛の形をもって愛そうと思っても、またその愛で肉の欲するところを方向付けたり秩序立てたりしようとしても、いつも間に立たされて、失敗ばかりします。神を全身全霊で愛さなかったり、隣人を自分を愛するが如く愛さなかったりする自分に直面します。失敗の連続でしょう。しかし、そのような時はいつも、罪の奴隷状態からの解放が実現したゴルゴタの十字架に心の目を向けましょう。「罪の赦しの救い」はそこで完全に打ち立てられ、天地創造の神の後ろ盾の下、微動だにしていないのです。
加えて、私たちが洗礼を通して受け取った救いは、私たち個人の思いや感情や動向如何に全く関係なく、全く微動だにせず私たちをしっかり支えてくれるものであるということを、聖書の数多くの御言葉から体得しましょう。例えば、イザヤ書54章10節で神は次のように言われます。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと」。私たちが微動だにしない神の「罪の赦しの救い」の中にしっかりとどまれていることは、聖餐式で受ける主の血と肉を通して体得されます。このことも忘れずにこの世の人生の歩みを共に歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
主日礼拝説教(八王子教会)2015年4月26日 復活後第三主日
4月26日の聖書日課 ヨハネ21章15-19節、使徒言行録4章23-33節、第一ヨハネ3章1-2節