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今日の聖書は、有名な「ぶどうの木と枝」のたとえ話です。1節を見ますと、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とあります。ここで、イエス様御自身のことを、「まことのぶどうの木」と言われています。バークレーという神学者が、この「まことの」と、いわれている深い意味について、まず指摘しています。
旧約聖書では、イスラエルは「ぶどうの木」として描かれています。あるいは「神のぶどう畑」として、描かれています。イザヤはイスラエルを、「主のぶどう畑は、イスラエルの家である」と言っています。(イザヤ書5章1~7節)エレミヤは、2章21節で「わたしはあなたを、すぐれたぶどうの木として植えた」と言っています。エゼキエル書15章では、イスラエルをぶどうの木にたとえています。ホセア書は、10章1節に「イスラエルは、実を結ぶ茂ったぶどうの木」である、と述べています。詩編80篇8節で詩人は、「あなたは、ぶどうの木をエジプトから携え出された」と詩っています。
このようにぶどうの木は、実際にイスラエル民族の象徴となっていました。ぶどうの絵が貨幣の紋章として使われたり、神殿の壁書に描かれたりしています。まさにぶどうの木は、ユダヤ人の表象でありました。ところがイエス様は、ご自分こそ正真正銘の、まことのぶどうの木である、と述べておられるのです。旧約聖書では、ぶどうの木の表象は、いつも堕落の概念と一緒に用いられている、ということです。イザヤの描写の中心は、ぶどう畑が荒れはててしまった、という点です。エレミヤは、イスラエルが野生のぶどうの木に退化してしまったことを、嘆いている。ホセアは、イスラエルが偽りのぶどうの木であると、叫んでいるのです。
そこでイエス様は、実際、次のように言われているのです。「あなた方は、イスラエルの民族に属しているから、神のまことのぶどうの木である、と考えている。或は又、あなた方はユダヤ人だから、神の選びの民の一員と考えている。そのように血筋や出生や国柄のゆえに、神のぶどうの木の枝であるというふうに考えているが、とんでもない!のだ。まことのぶどうの木の枝は、民族ではない。イスラエル民族は、預言者たちが言ったように、堕落したぶどうの木である。まことのぶどうの木は、このわたしである」。
あなた方がユダヤ人である、という事実が、あなた方を救うのではないのだ。
わたしと親しい、生きた交わりを持ち、わたしたちを信じることだけが、あなたを救うのである。
なぜなら、わたしは神のぶどうの木であり、あなた方は、わたしにつながれれいる枝でなければならないからである。神の救いに至る道は、ユダヤの血筋ではない。イエスを信じる信仰であると、イエス様は断言されているのです。
さて次に、2節以下を見ますと「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように、手入れをなさる」。この後、3節以下は一貫して、一つの事に集中して語られています。つまり、ぶどうの枝が木につながれていなければ、実を結ぶことができない。
ぶどうの木は、パレスチナ全域で栽培されていましたから、だれでもよく知っていました。よい実を得るには、よく手入れをしなければ、よく実らないこともわかっていました。まず大切なことは、よい土をつくること。荒れ果てたやせた土からは、甘く太い、よい実はみのらないでしょう。念入りに土壌を良くする。次に大切なことは、ぶどうの木は非常な勢いで繁っていくので、徹底的な刈り込みが必要であることでした。実らない枝は、木の力を浪費させてしまうので、徹底的に容赦なく、切り落とされてしまう。イエス様は、こうしたこともよくご存知でした。それで、このぶどうの木が豊かに実るための手入れのことまで、たとえとして語られています。
このたとえで、ぶどうの枝はイエス様の弟子たちのこと、そして又言い換えると、イエス様を信じているすべてのキリスト者、私たちです。そして、そのことは、教会のことでもあります。ですから私たちも弟子たちも、農園の主人である父なる神様は、実らない枝は容赦なく切り落とされて、火に焼かれるだけである。そのように教会は、刈り込まれをされるのだ、ということを言われる。6節をみますとよくわかります。だから、最も大切なことは、5節で言われているように、「人がわたしにつながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」イエス様とつながっていなさい。
ここで言われていることは、いつもキリストの中にいる、ということ。それで神の愛に生きることになる。それで、キリスト者はイエス様を信じて、キリスト者の友人との交わりの中に、あり続けることが、つながっていることなのです。イエス様の生涯は、いつも、父なる神との交わりでありました。イエス様は、いく度も神との交わりを求めて、さびしい場所に退いて祈られた。十字架の前のゲッセマネの祈りは、大変な祈り、父なる神とのあつき交わりでした。霊の世界の深い語らいであったでしょう。
イエス様は、いつも神の中に生きておられたのです。そのように又、私たちも、イエス様との交わりを続けることが必要です。一日たりともイエス様を思わず、その臨在を感ぜずにすごしては、ならない、ということです。朝の祈りで2~3分であっても、その祈りが、その日一日の、神の守りの働きとなります。キリストに接する時、私たちは悪に向かうことはできない。偽りも、憎しみも、ののしりも、敵意も、そこにはない。キリストの中にある、ということが言葉に表わしがたい、神秘的な体験となって、毎日の生活の中で祈りとなっていく、静かな神様との交わりの時をもつことになります。
7節以下のイエス様を読んでみましょう。あなた方が、わたしにつながっており、わたしの言葉があなた方の内に、いつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすれば、かなえられる。あなた方が豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は、栄光をお受けになる。9節、「父がわたしを愛されたように、わたしも、あなた方を愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」
神様が、私たちに要求なさっておられることを、ひとことで言うとするなら、「私にとどまっていなさい」ということです。ヨハネの第一の手紙2章5節には、さらにくわしく書かれています。
2章5節「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には、神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが、神の内にいることが分かります。」
4節の終りには、力強いことばがあります。神の言葉が、あなた方の内に、いつもあり、あなた方が悪い者に打ち勝ったからである。
10節、「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人には、つまづきがありません。」この、とどまっていることは、具体的には、「神のめぐみ」にとどまっていることなんです。神の恵みは、どんな中で実行されるのでしょうか、というと、一つは信仰にとどまっている中で、神の恵みは起こされます。二つには、キリストの教えにとどまっている中で、神の恵みはなされるのです。三つ目には兄弟愛にとどまっていることの中で、神様の恵みはなされるのです。私たちは教会の礼拝の中で、聖書の言葉を聴き、神の恵みの中に生かされて、神の栄光をあらわしていけますように、ぶどうの幹にしっかりと、主イエスにつながっていきたと思います。
ハレルヤ・アーメン
復活後第四主日 2015年5月3(日)