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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.三位一体の神
本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。
そうは言っても、わかりそうでわかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?理屈で理解しようとしてもできません。これは、もうこういうことなのだ、とそのまま受け入れるしかありません。そこで、皆さんの理解を助けるために、ひとつのことをお見せしたく思います。フィンランドにいた時、教会学校や堅信礼教育で三位一体を教える時はこうしたらいいと教わり、私もよく使っていました。
ここに大きな三角形があります。それぞれの頂点には、父、御子、聖霊と記されています(写真1)。
この三角形全体が神です。まず、イエス様が地上に送られる前は、三つの頂点は天の御国にいますから、説教壇の表面を地上とすると、三角形は地上に対して上方に平行してあります(写真2)。
ただし、聖霊はずっと天にいっぱなしだったのではなく、旧約を見ると、聖霊がイスラエルの民の指導者に力を与えたり、預言者を空間移動させたりすることがありました。そのように聖霊は、時として地上にいる特定の個人に働きかけることがあったと言えます(士師記6章34節、13章25節、Iサムエル11章6節、エゼキエル2章2節、37章1節)。しかし、聖霊が本格的に地上に送られてそこに留まって大勢の人間に働きかけるようになったのは、やはり、イエス様が天に上げられた10日後に起きた聖霊降臨の時からです。
さて、イエス様が地上に送られました。神の身分でありながら神と等しい者であることに固執せず、自分を無にして僕の身分となり(フィリピ2章6-7節)、乙女マリアから人間として生まれました。三角形は平行でなくなって、イエス様の頂点を下にするようになりました(写真3)。
さて、イエス様が十字架の上で死なれ、死から復活させられ、そして天に上げられる時が来ました。イエス様は、自分が天の父のもとに戻った後は、信仰者が孤児のように一人ぼっちに取り残されることがないように、父のもとから聖霊を送る、と何度も約束されました(ヨハネ14章、15章26節、16章4-15節、ルカ24章49節、使徒1章8節)。さあ、イエス様は天に上げられます。聖霊は本当に送られるでしょうか?どうなるでしょうか?(三角形の御子の頂点を上げると、聖霊の頂点が下がって、父と御子の頂点が上になる。写真4)
ほら、大丈夫でした。ちゃんと聖霊が送られました。イエス様は、ちゃんと約束を守りました。よかったですね。
聖霊が送られたおかげで、人間はイエス様を救い主と信じることができるようになります。そして、信じるようになった者は、聖霊からイエス様についての真理を示してもらったり、罪の悪い力から守ってもらいます。また聖霊は、信じる人たちにいろいろな賜物を与えます。賜物を与えられた人は、それを用いて、まだ信じていない者に信仰への道を示したり、信じている者には信仰をしっかり守れるように助けたりします。どうです、父と御子は天におられるとは言っても、三位一体のおかげで、全然遠くにいる感じがしないでしょう。感じがしないどころか、実は私たちには聖書の御言葉と聖餐式があるので、神はまさに耳元や口元においでになると言うことができるのです。私たちの神はまことに素晴らしい方です。
2.新たに生まれることは可能か?
本日の福音書の箇所は、イエス様とニコデモという男の人の対話のはじめの部分です。ニコデモは、当時のユダヤ教社会の最高自治機関である最高法院の議員でした。位の高い人です。彼はまた、ファリサイ派という、旧約の律法やその他の戒律を非常に重んじたグループの一員でもありました。福音書を繙けばわかるように、ファリサイ派はいつもイエス様に言いがかりをつけて論争を挑んでは、いつも打ち負かされていました。神のひとり子のイエス様は神の意思や計画について一番よく知りえる立場にいるのに、ファリサイ派の人たちは自分たちの理解が正しいと信じこんでいました。イエス様がどんどん人々を惹きつけていくことに対して敵意を抱きます。そのようなグループのメンバーであるニコデモが、ある夜イエス様のところに一人で出かけ、「先生」と言って教えを乞うのです。夜に行ったということですから、人に見つからないようにしたということです。二人の対話は21節まで続きます。その中に、キリスト教の福音のエッセンスが詰まっていると言われるヨハネ3章16節のイエス様の言葉も含まれています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様の逮捕について話し合われた時、ニコデモは、嫌疑をかけられた者を審問なしに裁いてはいけない、と弁護したことに伺えます(ヨハネ7章50-52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられた時、アリマタヤ出身のヨセフと一緒にイエス様の遺体を引き取って丁重に墓に葬ることもしました(19章39-42節)。
さて、本日の箇所にあるイエス様とニコデモの対話で重要なことは、「新たに生まれる」ということです。「新たに生まれる」というのは、どういうことでしょうか?「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。例えば、貧乏な人が、今度生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、病弱な人が、生まれ変わったら健康な者になりたいとか言うことがあると思います。また、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃんかおばあちゃんに似ていると、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだとか言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現する言葉と言うことができます。しかし、時として、自分は前の世には別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを言う人もいます。輪廻転生の考えを持てば、生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や虫にまでなってしまいます。
聖書が教える信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明のこの世での一生は一回限りで、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはありません。ルターの教えによれば、この世から死んだ後は、復活の日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。
それでは、本日の福音書の箇所でイエス様が教える「新たに生まれる」とは、「生まれ変わり」ではないとすると、どういうことなのでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモは、輪廻転生の考えを持っていないと言うことです。もし持っていたならば、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。しかし、イエス様が「イスラエルの教師」と呼んだニコデモ(10節)です。ファリサイ派とは言え、旧約聖書もしっかり勉強しているので、輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と聞いて、年老いた自分が母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。
ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」は、母親の胎内を通って起こる誕生ではなかったのです。それでは、どんな誕生かと言うと、次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5-6節)。イエス様が教える新たな誕生は、「水と霊による誕生」ですが、これは洗礼を受けることと、洗礼を通して神からの霊、聖霊を注がれることを意味します。人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるが、それは単なる肉の塊である。それが、洗礼を受けて聖霊を注がれると、「肉から生まれたもの」が「霊から生まれたもの」に変わる。肉をまとってはいるが、霊的な存在になる。これが、人間が新たに生まれるということなのです。
3.新たに生まれた者として生きる
それでは、肉をまとっているが霊的な存在になる、というのは、どういうことなのかを見ていきましょう。霊的な存在などと言うと、お化けか幽霊になったように聞こえる人もいるかもしれませんが、そうではありません。ここで言う「霊」とは、先ほども申しましたように神の霊、聖霊のことです。聖霊が注がれた結果、人はそれまでの神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになる。神とはそもそも人間の造り主ですから、自分の造り主の方を向いて生きるようになるわけです。そうなると人は、神の意思に沿うように生きようと志向します。そのため、神の意思に反すること、つまり罪を犯さないようにしようと志向します。
このように、新たに生まれて霊的な存在になるというのは、最初に肉として生まれた者が聖霊を注がれた結果、神の方を向いて生きようとすることになるという内面の大きな変化を意味します。その変化は周りには見えますが、聖霊がどう働いてそれが生じたのかは誰も見ることは出来ません。そのことについて、イエス様は8節で次のように述べます。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」空気も、空気の移動である風も、聖霊と同じように目には見えません。しかし、人がイエス様を自分の救い主と信じ、万物の造り主である神の方を向いて生きるのは、風にしなう枝や葉と同じように周りの目に見えることです。風や聖霊は目では見えなくても、それが引き起こす変化は周りには明らかになるのです。
ところで、新たに生まれて霊的な存在になったとは言っても、人間ですから肉をしっかりまとっています。そのために、聖霊が、神の意思はこうですよ、と聖書の御言葉を通して教えてくれるのに、それに反するようなことを考えてしまったり、果ては行ってしまうことがあります。さらには、神の意思そのものをぼやかしてしまうこともあります。人間は霊的な存在になった瞬間、まさに一人の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた聖霊に結びつく新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。
この内面の戦いは、苦しい戦いです。使徒パウロも認めているように、「むさぼってはならない」と十戒の中では命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐむさぼってしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。心の奥底まで、神の意思に完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ、沿えないのなら、神の意思なんかにこだわって生きないことだ、と決めてしまったら、それは、神に背を向けて生きることに戻ってしまいます。心の奥底まで完全に沿えるようしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。
ここで最も重要なことは、まさにこの自分の真実を曝け出されてがっくりするかしないかというその瞬間、心の目をすかさずゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様に向けるのです!聖霊がそれを導いてくれます。あそこにいるのは誰だった忘れたのか?あれは、神が送られたひとり子が、神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか。あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげで、そしてお前があの方を真の救い主と信じたゆえに、神はお前を受け入れて下さったのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから受け入れてくれたのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神は御自分のひとり子を犠牲に供することで、至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。
こうして再び心の目を開けてもらった信仰者は、神のこの深い憐れみと愛の中で生かされていることを確認し、神の意思に沿うようにしなければと心を新たにします。このように信仰者は、聖霊のおかげで、神との結びつきを絶えず持てて、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを与えられて、万が一、この世から死ぬことになっても、永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。イエス様が、霊によって新たに生まれる者が神の国に入れると言っている通りです(5節)。
このように心の目をイエス様の十字架に向けることができた時、洗礼の時に植えつけられた新しい人は一段と重みを増して、肉に結びつく古い人を押し潰していきます。ルターの言葉を借りれば、信仰者というものはこのようにして古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていくのです。このことについてのルターの教えをひとつ、本説教の締めとして見ていきたいと思います。この教えは、「ローマの信徒への手紙」8章13節の聖句「霊によって体の仕業を経つならば、あなたがたは生きます」の解き明しです。ルターを引用する前に少し注釈しますと、日本語で「経つ」と言っているのは、ギリシャ語原文では文字通り「死なせる」です。原文の趣旨を明らかにするように訳すると次のようになります。「あなたがたは聖霊によって体の業を死なせるならば、あなたがたは永遠の命に生きることになります」です。この聖句についてのルターの解き明しは以下の通りです。
「ここで使徒パウロは、キリスト信仰者と言えども、人間としての性質上はまだ、罪がもたらす病理を宿していることを認め、それを死なせなければならないと教えているのである。我々の有り様そのものの中で動き回っているこれらの「体の業」とは、以下のものである。神の命じることに反対しようとするあらゆる欲望や反抗、罪に対する自省の心を肉が弱めること、罪を犯してもなんとも思わない無感覚さ、神の愛について聞かされても何も感じない冷え切った心、神の御言葉を理解しようとする意志の欠如、困難に陥るとすぐ神に対して不平がましくなること、神に対して素直でいられなくなること、隣人との関係で復讐心を抱くこと、妬むこと、憎むこと、欲にはまりすぎて悩みが多くなってしまうこと、ふしだらなこと、その他同様なことすべてが「体の業」である。我々の肉や血の中に流れているこれらの欲望は、人を燃え上がらせたり、神に対する反抗心を掻き立てたりするばかりではない。信仰者と言えども、しっかり目を覚まして注意しないと、人間的な弱さのゆえに、一瞬のうちにそれらの囚われの身となってしまう。その時、人は境界線の中に留まることが出来ず、それを超えてしまう。人は、そうした人の弱みに付け込もうとするものに対してしっかり反対しなければ、またパウロが言うように、体の業を死なせることをしなければ、それらの支配下に置かれてしまうのである。
聖霊によって罪を死なせることは、次のようにして起こる。まず、人が自分の罪と弱さについて学び知ること、そして、罪から来る欲望が燃えるのを感じたらすぐ、我に立ち返って、神の御言葉を心に思い起こすことである。このようにして、人は、「罪の赦しの救い」の信仰にあって自分を強められ、罪に対抗することができ、罪の言いなりにならず、欲望が気持ちの段階から行為の段階に発展するのを阻止することができるのである。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
主日礼拝説教2015年5月31日 三位一体主日聖書日課 イザヤ6章1-8節、ローマ8章14-17節、ヨハネ3章1-12節