説教「全てを新しくする信仰」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書2章18-22節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所のイエス様の教えは少しわかりにくいかもしれません。まず、断食についての教えがあります。ファリサイ派や洗礼者ヨハネの弟子たちは断食をするのに、なぜイエス様の弟子たちはしないのか、と問われて、イエス様が答えたのは、花婿が一緒にいる時に婚礼の客たちは断食などできない、ということでした。つまり、イエス様が花婿、イエス様の弟子たちが婚礼の客ということで、それで断食する必要はない、というのです。これは一体、どういう意味でしょうか?

 イエス様はまた、花婿がいなくなってしまう日が来て、その時に婚礼の客たちは断食することになる、とも言われます。つまり、イエス様がいなくなって弟子たちが断食することになる、ということです。新共同訳では「花婿が奪い取られる」となっていて、イエス様が「奪い取られる」ということですが、ギリシャ語原文の動詞(απαιρω)はそんな略奪のような強い意味で訳する必要はなく、イエス様が私たちのもとから「取り去られてしまう」程度でよいと思います。英語のNIV訳もドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の訳もそうです。そうであるならば、この箇所は、イエス様が天に上げられて弟子たちのもとを離れていくことを意味します。そうなると、イエス様が天の父なるみ神のもとにいる時が断食をする時だということになります。それでは、私たちも断食をしなければならないのでしょうか?後ほど、これらの疑問を明らかにしていきましょう。

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 次にイエス様は、織りたての新しい布を古い服の継ぎあてに使う人はいない、そんなことをしたら新しい布切れが古い服を引き裂いてしまう、と教えられます。これはもっともなことです。織りたての布はまだ洗濯して乾かしていないので縮んでいません。古い服は何度も洗濯して乾かしているので既に縮んでいるし、生地も使い古されて弱くなっています。そんな服に新しい布きれを継ぎあてにして縫い付けて洗濯して乾かしたら、どうなるでしょうか?新しい布はギュッと縮んで、古い弱くなった周りの布を引っ張って、ひどい時は引き裂いてしまいます。イエス様は、何か実生活に役立つ知恵を教えているのでしょうか?

新しいぶどう酒 新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはいけないという教えも同じように聞こえます。熟成した古いぶどう酒とは異なり、新しいぶどう酒というのは酸味が強いです。古い革袋というのは、弾力性もなくなって硬直していたり擦り切れたりしています。そこに酸味の強い液体を流し込んだら、すぐ裂け目ができてぶどう酒は漏れ出してしまうでしょう。これも生活に役立つ知恵です。

 ところが、この箇所をよく目を凝らして読んでみると、イエス様は実生活に役立つ知恵を教えているのではないことがわかります。イエス様はこう言います。誰も古い服に新しい布を継ぎあてしない、誰も新しいぶどう酒を古い革袋に入れない、と。つまり、こんなことは誰でも知っている当たり前の話である、と言っているのです。それでは、なぜイエス様は誰でも知っていることをわざわざ話すのでしょうか?それは、こうした日常生活の当たり前のことを話しながらも、それを何かにたとえているのです。そのたとえられたことも同じくらいに当然のことなのだと言おうとしているのです。それでは、イエス様は何のたとえを話されているのでしょうか?以下にそのことも見ていこうと思います。

2.神の国の祝宴と断食

 最初に断食についてのイエス様の教えを見てみましょう。断食と言うのは、多くの宗教に見られる行為です。ある決められた期間とか、何か特別なことが起きた時に、食べ物を摂らない、ないしは食べ物飲み物双方を摂らないということをします。断食と聞いて私たちがよく耳にするのは、イスラム教でラマダーンと呼ばれる月に日の出から日没までの間毎日行われる断食があります。断食の目的はそれぞれの宗教により様々ですが、おおざっぱに言えば、食べる飲むという人間の基本的な欲求を制限することを通して、それぞれの宗教が崇拝しているものと近づきになるということがあるのではないかと思います。

旧約聖書の世界では、断食のなかで大きなものは、レビ記16章に定められている、毎年秋の第七月の十日の贖罪日、イスラエルの民全体の罪を贖う儀式の日、これが民全体の断食の日と定められていました。これとは別に、ダビデ王がサウル王とヨナタンの戦死を聞いて悲しんで断食したということがあります。深い悲しみの心を個人的に神に捧げる意味合いで断食することがあったと思われます(サムエル記下1章12節、サムエル記上31章13節も)。

時代が下ってイエス様の時代のユダヤ教社会では、前述の贖罪日の他には、ファリサイ派の人たちが週二回断食していたことが知られています(ルカ18章12節)。洗礼者ヨハネの弟子たちも、週何回かはわかりませんが、本日の福音書の箇所から断食をしていたことが窺われます。イエス様自身は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、荒野で悪魔から試練を受けた時に40日断食をしました。しかし、彼は特に弟子たちには断食を命じることはありませんでした。その理由が、先ほど見ました花婿と婚礼の客たちのたとえだったのです。このたとえについて見てみましょう。

イエス様を花婿とする婚礼というのは何か?これは、黙示録19章や21章に記されていますが、将来イエス様が再臨し、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられて神の国が目に見える形で現れる日の祝宴を指します。その日、死者の中から復活させられた者たちとその時点で生きていた者たちの中から選ばれた者たちがこの祝宴に招かれて、前世の労苦を百倍にもされて(マタイ19章29節)労われます。その祝宴の席につく者は皆、天地創造の神のもとに永遠にいることが出来る者たちです。わざわざ断食などして神とお近づきになる必要などありません。祝宴に招かれたのに、断食しますと言うのは招待を断るようなものです。それでは、イエス様が地上におられた時、あたかもそのような祝宴があるかのように振る舞って、断食など必要ない、などと言ったのはなぜでしょうか?まだ今ある天と地はそのままで神の国も到来していなかったのにもかかわらず。

イエス様が地上で活動していた時、神の国は将来のように見える形ではないが、実はイエス様にくっつくようにして一緒だったのです。どういうことかと言うと、将来現れる神の国は、黙示録にも記されているように、嘆きも苦しみもなく死さえないところです。また、前世の労苦が全て労われ、前世に被った不正義が最終的に清算され、神の愛と恵みと正義が完全に実現されるところです(黙示録19章5-9節、21章1-4節、マタイ25章31-46節、ルカ16章19-31節、ダニエル12章1-3節等々)。イエス様が地上で活動していた時、数多くの奇跡の業を成し遂げられました。病気の人に治れと命じると病気は治り、悪霊に出て来けと命じると言われるままに出て行きました。また嵐に静まれと命じれば静まり、何千人もの人たちの空腹を僅かな食糧で満たしたりました。

イエス様のこうした奇跡の業は、将来現れる神の国がどういうところであるかを、今ある天と地の下でという条件のもとで、人々に体験させる意味がありました。奇跡の業を受けた人たちは、嘆きや苦しみや死もない神の国を垣間見たというか、味わうことができたのです。このようにイエス様が弟子たちと共に行動し、群衆に教え、奇跡の業を行ったというのは、将来現れる神の国の祝宴の予行演習のようなものだったのです。将来断食など不要になる大いなる祝宴の日が来る、今自分が地上にいるのはその前触れなのだ、ということなのであります。

しかしながら、イエス様は昇天日に天に上げられ、再臨の日までは天の父なるみ神の右に座しています。そのため私たちは今、イエス様の一回目の降臨と二回目の降臨の間の時代を生きています。このイエス様が地上におられない期間は断食することもある、とイエス様は教えるのですが、ここで注意しなければならないことも教えられます。それは、マタイ6章11節にあります。断食をする場合、自分はどれだけ苦行を積んでいるかを周りの人にひけらしてはいけない、自分がどれだけ信心深いかを他人に見てもらうために行ってはならないということです。同じような教えは、既に旧約聖書の中にもあります。イザヤ書58章やエレミア書14章の中で神は、いくら断食や祈りをしても、する者たちが神の意思に背くような生き方をしていれば、そうした苦行は何の意味も持たない、と言われます。神の意思に背くような生き方をする者が神の恩寵を得ようとして断食したり祈っても顧みてもらえない。神に顧みてもらえる断食とか祈りというものは、まず神の意思に沿う生き方をして、既に神から恩寵を受けている者ができるということです。

いろいろな宗教の中で、神と呼ばれるものから恩寵や恩恵を得ようとして、様々な苦行を積んだり、掟や戒律を守るということはよくあることではないかと思います。ところが、イエス様の場合はどうやら逆で、最初に神から恩寵や恩恵を受けた者が、その結果苦行したり掟を守るという順序になっているようです。最初に断食のような苦行をして神から特段目をかけられて褒美をもらえる、ということではない。そうではなくて、既に目をかけられて恩恵を与えられた者がその結果、いろいろな業を行うということです。そうなると焦点になってくる質問は、どうすれば、業を行う前の段階で神から、お前は私の目に適う者だ、と言ってもらえるのか、ということになります。そこで、本日の福音書の箇所のもう一つの教え、新しい布きれと新しいぶどう酒のたとえが答えの鍵になります。以下にそれを見ていきましょう。

3.古い服から新しい服へ、古い革袋から新しい革袋へ変える信仰

先ほど、イエス様の新しい布きれと新しいぶどう酒の教えは、実生活の知恵を教えているのではなく、何かをたとえる教えであると申しました。何のたとえなのでしょうか?ここのイエス様の教えのポイントは、最後の節22節で「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言ってところにあります。どういうことかと言うと、古い服や古い革袋を引き裂く力を持つ新しい布きれとか新しいぶどう酒というのは、イエス様自身のことを指します。引き裂かれてしまう古い服や古い革袋とは、ある状態にある人間を指します。つまり、イエス様は私たちに、新しいぶどう酒である彼を入れてもずたずたにならない新しい革袋になれ、とおっしゃっているのです。イエス様を内に入れられないままだと、古い革袋は古い革袋のままで、ただ硬直した、やがて擦り切れて使い物にならなくなってしまうものでしかない。しかし、そのままの状態で新しいぶどう酒を入れたら耐えられるような代物でもない。新しい革袋に変身しなければ、イエス様をしっかり内に留めて置くことはできない。どうしたら古い革袋がそのような革袋になることできるのでしょうか?苦行を積んだり、掟や戒律を守ったりすることで、自分をそのように新しく変身させることができるでしょうか?

先ほど、そういうことをしても、まず最初に神の方から、お前は私の目に適う者、と認めてもらわなければ、意味がないと申しました。神から、お前は私の目に適う者、と認められるというのは、実は新しい革袋になったということです。人間が自分の力で新しくなれないのは明白です。父なるみ神とそのひとり子であるイエス様の力によって、私たちを新しい服、新しい革袋に変えてもらわなければなりません。どのようにして、そのようなことが可能でしょうか?

実は、父なるみ神とひとり子イエス様は、私たちが新しく変えられるための大きな業を既に成し遂げて下さったのです。多くの人たちは、まだこのことに気づいていません。いつ、どこで成し遂げて下さったのでしょうか?
それは、ゴルゴタの丘の十字架の上で起きました。人間の造り主である神と造られた人間との間を引き裂いていた原因である罪、この罪の支配から人間を救い出して神との結びつきを回復させるために、イエス様は人間の全ての罪をご自分で請け負って、十字架の上で私たちの身代わりとなって罪の罰を受けられました。それは、あたかも自分が神に対して全ての罪の責任があるかのように振る舞ったのです。神聖な神のひとり子ですから、本当はそうする必要はなかったのに。しかし、人間は罪の罰を背負いきれないので、あえてそうしたのです。イエス様は、真に犠牲の生け贄になったのです。私たち人間は、このことが本当に自分のために起こって、それでイエス様こそが自分の救い主だとわかって信じると、すかさず神はイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦して下さるのです。こうして、人間と神の間の結びつきが回復します。つまり、イエス様を救い主と信じる信仰によって、人間は神の目に適う者とされるのです。

 これらの出来事がこの自分のためになされた、イエス様こそは自分の本当の救い主だ、と信じることができるのは、これは神の霊である聖霊の力が働いたことによります。それで、信仰に至った人は洗礼を受けることで、完全に聖霊の影響力の下で生きることになります。信仰者がしっかりしていれば、もう他の霊が入り込む余地はありません。聖霊の影響力の下で生きることは大事です。そうしないと、人はイエス様が救い主であることがわからないし、わかってもすぐ見失ってしまいます。また現実問題として、信仰に至って洗礼を受けた人でもその後の人生の中でイエス様が救い主であるということを忘れさせる力に何度も直面します。それで、聖霊の影響力の下にあることを自覚して生きることは大事です。

 以上から、どうすれば、人間は神の目に適う者とされて、イエス様という新しい布きれを継ぎあてられても大丈夫な服となり、イエス様という新しいぶどう酒を注がれても大丈夫な革袋に変えられるかが明らかになりました。イエス様を救い主と信じる信仰と聖霊の影響力の下で生きられるようにする洗礼の二つです。この二つのことによって、人間は神の目に適う者とされ、新しくされるのです。信仰と洗礼が人間を新しくするということについて、使徒パウロは次のように述べています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテア3章26-27節)。このように新しくされた者は、神の意思に沿って生きることが当然という心になって、神を全身全霊をもって愛しよう、隣人を自分を愛するが如く愛しようということを志向するようになります。新しく変えてもらうために、そうしようとするのではなく、変えてもらったから、そうするのです。

 ここで注意しなければならないことは、新しく変えてもらったとは言っても、それは出発点に立ったことで完結したのではありません。そのことについて、ルターは次のように教えています。
「主イエス・キリスト以外に汚れなき手、清い心を持つ者はいない。それ以外の者は全て汚れに満ち、自分の能力や努力によっては清くなることはできないのである。神がイエス様を通して示した恵みとそのイエス様を救い主と信じる信仰によってしか、人は清くなることはできないのである。キリスト信仰者が清い心の持ち主であるという意味は、彼または彼女が清くなり始めたということである。キリスト信仰者は、まだまだ多くの点で汚れている。彼または彼女はイエス様の清さを被せられて清いのであるが、清くされていく存在でもあるのである。」

最後に、キリスト信仰者は断食をすべきかどうかということについて、一言述べたく思います。キリスト教のいろんな教派にそれぞれの考え方と思いますが、これまで述べたことに即してみると、私がフィランドで見聞きしたことがちょうどよいように思われます。どういうことかと言うと、復活祭の前の主日を除く40日間は四旬節と呼ばれる期間ですが、古いキリスト教会の伝統として、この期間に断食をすることが行われていました。40日というのは、イエス様が荒野で悪魔から試練を受けた時に40日間何も食べなかったことに由来します。昔のキリスト教徒たちはこの期間の断食を通して、イエス様が御自身を生け贄にすることに備えようとした生涯というものを身近なものにしようとしました。

日本語で「四旬節」と呼ばれる期間ですが、フィンランドやスウェーデンでは、ずばり「断食の時期」paastonaika、fastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国ですから、外面的な規則の順守が救いを左右するという考えはとりません。それに「断食」と言っても、名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物のものを食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師先生にもそのようなことを勧める人もいます。こういうことをしたり、勧めたりするのは、もちろん、それをすることで神に認められるとか、お近づきになれるとか、救いを確実なものにするとか、そんなことは全く関係ないとみんながわかっています。それに、好物を食べなくても、食事はちゃんととるので断食には程遠いものです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常の生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングと言っていいと思います。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくて注意が向くのなら、しなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、それをすると決めた理由であるイエス様のことにいつも心が向くようになるのであります。

兄弟姉妹の皆さん、私たちは四旬節であるなしにかかわらず、どんな時でも、心を絶えずイエス様に向けるようにしましょう。日々の生活ではいろんなことがあり、心はいろんなものに向けられてしまいますが、こうして主日に教会に集まって一緒に礼拝を守れるというのは、1週間の中で一番心をイエス様に向けられる機会だということは、皆さんもよくご存知でしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教2015年6月14日 聖霊降臨後第三主日
聖書日課   ホセア2章16-22節、第二コリント3章1-6節、マルコ2章18-22節


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