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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
何年か前のヒットソングに「素敵な日曜日」というのがありました。小学生だった息子が区の特別支援学級の連合運動会でこの歌に合わせてダンスを踊ったので、私も歌詞の一部を覚えています。確か、さんさんとお日さま輝く日曜日おでかけしましょう、とか、ざあざあ雨が降ってる日曜日、傘さして長靴はいておしゃれして出かけよう、とか、ニコニコ心が躍る素敵な日曜日、とか。それを聞いていて、教会に来る人もそんな気持ちで来ることができるだろうか、などと思ったものでした。
日曜日は、週7日ある中の休みの日ですが、もちろん、実際にはお店も多く営業しているし、仕事をしている人たちは多くいます。それでも、日曜日にお店や行楽地をやっているのは、やはり休みの人が多いので買い物を多く見込めるということでしょう。ところで、1週間に7日あって七日目が休みと言うのは、多くの方はご存知と思いますが、旧約聖書の創世記の中にある出来事が背景にあります。全知全能かつ天地創造の神が万物を創造した時、6日間仕事をされ、7日目に仕事から離れて休まれ、その日を特別な日、神聖な日に定めたことに由来します(創世記2章1-3節)。その日を旧約聖書の言葉であるヘブライ語でヨーム ハッシャッヴァート(יומ השבת)とか、単に短くしてシャッヴァ―ト(שבת)とか言い、普通「安息日」と訳されています。大学関係者なら誰でも知っている英語のサバティカルという言葉もここから由来しています。
さて、私たちキリスト信仰者は安息日である日曜日に教会の礼拝に参加してこれを守りますが、どれだけ多くの人が礼拝に参加する安息日を素敵と感じているでしょうか?もし礼拝参加に何か重荷感とか束縛感を感じる方があれば、本説教ではそれを少しでも減らせるようにしたく思います。
2.安息日 - 奴隷状態からの解放を記念し霊的に休息する日
安息日に仕事を休んでこれを神聖なものとせよ、という神の掟は、モーセ率いるイスラエルの民が奴隷の国エジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にいた時、十戒の一つとして与えられました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8節)。
「休みなさい」と言ってくれているのはありがたいことですが、ここでポイントになっていることは、この「休め」というのは神がそうしたのでそれに倣えという命令です。つまり、「休む」というのは神の意思に従う行為であり、それをすることで自分は天地創造の神に属する者であると自分に言い聞かせ、かつ他人にも示すことになるのです。仕事を休んで安息日を神聖なものとせよ、と言うのは、仕事のことに心と時間が向けられていたのを中断して、心と時間を神に向けよ、ということです。さらに言えば、週の日に仕事も含めて生活一般のことなどでいろんな心配事があって頭が一杯になっていても、安息日にはそうした心の重荷を一旦肩から下ろして、心を神に向けなさいということです。どうやってそんなことが出来るかと言うと、例えば、次のようにお祈りします。「天の父なるみ神よ。今日は安息日ですから、あなたに心を向けたいので、この重荷を一時あなたにお預けします。どうぞ、受け取って下さい。」そうお祈りして神の足元に投げ出してしまうのです。投げ出して出来た空白を今度は礼拝の中で与えられる賜物で満たしていきます。御言葉や説教の拝聴を通して神が自分に何をしてくれたかを思い起こします。また、讃美歌を歌うことで神への賛美を声に出し、祈りの時に普段抱えている重荷の真の解決を与えてくれるように助けを祈り求めます。聖餐式がある日ならば、イエス様の血と肉を通して神との結びつきを一層強めてもらいます。こうして霊的な癒しを受けて強められた者は、十分な休養を取ったことになり、新しい1週間に臨むことができるのです。
本日の旧約の箇所は申命記でした。エジプトを脱出した後40年間続いたシナイ半島の荒れ野の移動も終わりに近づいた時の記録です。この時、神は民に対して十戒の復習をします。その安息日の掟を見ると、先ほど見ました、出エジプト記の時の掟に少し補足がなされます。安息日を守る理由が一つつけ加えられます。それは、かつてエジプトで奴隷だったイスラエルの民は休むことも許されず安息日を守るどころではなかった、その民を神が解放して下さった、だから安息日を守り神聖なものとしなさい、と言うのです(申命記5章15節)。天地創造の時、6日働いて七日目に休まれた神はまた、御自分の民を奴隷状態から解放して苦役をしなくても良いようにして下さった、それゆえ、安息日には解放された民、奴隷状態ではなくなった民として振る舞わなければならない、というのであります。
イスラエルの民にとって、神が解放してくれた奴隷状態というのは、エジプトにおける境遇からの解放です。神との新しい契約の中で生きるキリスト信仰者からすれば、イスラエルの民のエジプトからの解放はあまり直接関係ないもののように見えます。しかし、実はキリスト信仰者にとっても、もっと重大な奴隷状態からの解放があったことを忘れてはなりません。それは、罪と死の力の下に服していたという奴隷状態です。神はこの奴隷状態から人間を解放するためにイエス様をこの世に送られました。まさにそれゆえに、安息日とは奴隷状態からの解放を記念し霊的に休息する日であるということは、これはキリスト信仰者にとってもしっかり当てはまるのです。
3.安息日と神の意思
本日の福音書の箇所で、イエス様は安息日の間違った守り方を指摘して、正しい守り方を教えます。起きた出来事はこうでした。ある安息日に弟子たちが麦畑を通って進んで行った。その時、皆空腹を覚えて、麦の穂を摘み始めた。これを目撃したファリサイ派の人たちが弟子たちの教師であるイエス様に難癖をつけ始めた。問題となったのは、他人の麦を取ったことではありませんでした。申命記23章25節をみると、隣人の麦畑の麦は自分の空腹を満たすために手で積むのは良いが、それ以上取るために鎌を使ってはいけない、という規定があります。ファリサイ派が問題としたのは、弟子たちが麦の穂を摘んだことが脱穀作業と見なされ、さらに麦の粒を取り出すために手で籾摺りをしたことも作業と見なされたことです。作業である以上は仕事で、それは安息日にしてはいけないことでそれをした、という論理だったのです。
少し馬鹿馬鹿しく思えるような論理ですが、当人たちにとっては真面目な大問題でした。ファリサイ派は、神に約束された神聖な土地に住む民は神聖さをしっかり保たなければならない、ということをとても強調していました。そのためには神の掟を完璧に守らなければならない。安息日に仕事をしてはならないという掟があれば、完璧にその通りにしなければならない。そうしないと神の目に適う者にはなれない。そのように隙が出来ない位に細心の注意を払った結果がこうなったのです。
ファリサイ派の批判に対してイエス様は、サムエル記上21章にある出来事を引き合いに出して反論します。それは、ダビデがサウル王から逃れる途上で祭司にパンを乞うた時の出来事です。ダビデはその時、本当は祭司しか食べることが許されていない聖別された供え物のパンをもらいました。(* 祭司アビアタルとアヒメレクについて後記の注をご覧下さい。)サムエル記上ではイエス様が言われるように、従者にもパンが分け与えられたことは記されていませんが、ダビデと祭司のやりとりを見ると後で分け与えられたと考えられます(サムエル上21章3、4-5節)。将来王の位につくダビデでしたが、この時は猜疑心嫉妬心に憑りつかれたサウル王から逃れる日々を送っていました。実はそれは、神の大いなる導きの中の一コマでした。その中でもがくダビデでしたが、それはそれで神の意思に従う生き方だったのです。彼が祭司にしか許されない食べ物を得られたというのは、神の計らいによるもので、神の御心に適うことでした。さて、イエス様の弟子たちの場合も同じでした。弟子たちは、イエス様と行動を共にし、イエス様から教えを受け、それを各地に伝える役目を果たしました。自分たちの空腹を満たすために鎌ではなく手で麦の穂を摘むのは、安息日であっても神の目から見て何の問題もないことでした。これが、もし許されなければ、弟子たちの空腹が満たされないだけでなく、弟子たちと共に神の国について人々に宣べ伝えるイエス様の活動にも支障をきたしてしまいます。ファリサイ派の人たちが自分たちこそ神の意思を守って実現しているのだと思ってやっていることは、実はその反対のことをもたらしてしまうのです。まさに、人間というのは安息日のために存在するのだ、ということになってしまいます。イエス様の教えは正反対でした。人間のために安息日が存在するのだ、と。
この教えは、本日の福音書の箇所の後にも続きます。イエス様が手の萎えた状態の人を癒したという出来事です(マルコ3章1-6節、ルカ14章1-6節も)。それも、ちょうど安息日でした。もしイエス様が癒しをしたら訴える口実にしてやろうとファリサイ派の人たちが注視しています。それに気づいてイエス様が言います。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」これには誰も答えることができません。イエス様は人々のかたくなな心を悲しみながら(マルコ3章5節)、その人の手を元通りに治してあげました。
ここで、ひとつ注意しなければならないことがあります。イエス様は安息日に好き勝手にあちこちを巡回して人助けだけしていたということではありません。ルカ4章16節を見ますと、ナザレの町で安息日に会堂に入って聖書の朗読をした出来事があります。つまり安息日の礼拝に出席したということですが、この出席が「いつものように」と書いてあります。ギリシャ語原文を見ると、安息日の礼拝に出席するのはイエス様にとって習慣であった、という表現です(κατα τω ειωθος αυτω)。イエス様もちゃんと安息日を守る方でした。そしてその上で病人を癒したりしたのでした。安息日に何をしてはいけないか、何をしなければならないか、ということはイエス様が全て正確にご存知なのです。というのは、彼は神のひとり子なので、父なるみ神の意思を誰よりも一番知りうる立場にあったからです。ファリサイ派の人たちは、自分たちこそが神の意思を一番知っている者であると自惚れがあり、掟をそれこそ人為的に作り変えて、それを守らなければ神の目に失格だと烙印を押すやり方でした。神の意思に従うなどと言いつつ、実は自分たちの意思に従わせるやり方だったのです。
4.安息日の主、律法の主そして罪の奴隷状態からの解放者
本日の福音書の箇所の終わりでイエス様は、「人の子は安息日の主でもある」(28節)と言われます。これは、神のひとり子としての彼が安息日の意味や守り方を正確に知っているという意味です。父なるみ神の意思を正確に知りうる立場にいるので、律法全体についても正確に知っているということになります。イエス様は、安息日の主のみならず、律法の主でもあります。
ところが、安息日の主、律法の主と言う時、それは、イエス様がただ単にそれらについて正確に知っていて、それを人々に教えることができるという意味だけではありません。イエス様が安息日の主、律法の主というのは、律法が人間に加える圧力に人間が押し潰されてしまわないように助けて下さる方という意味もあります。イエス様はそのような力を超える力を持つ方なので、人間を律法の重圧から助けて下さることができるのです。
どういうことかと言うと、十戒の中に「汝殺すなかれ」とか「姦淫するなかれ」という掟があります。イエス様が教えたのは、外面的な行為で掟を破らないということだけでなく、心の状態も潔白でなければならないということでした(マタイ5章21-30節)。人間一人一人を造られて命と人生を与えられた神は、一人一人の心の奥底までもお見通しで、何も隠し立てすることはできない。外面的な行為で罪を犯さなくとも、心の状態まで問われたら誰も罪のない人間などいなくなってしまうのです。そのことを、詩篇の御言葉を引用して(14篇1、3節、53篇2、4節)使徒パウロは言います。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3章11節)。律法とは実は、守ったら神の目に適うものとされる手段ではなく、人間がただただ神の目に適うものではないことを暴露する鏡のようなものだったのです。
このように全ての人間は、一番最初の人間アダムの時から、神の怒りを受ける存在となってしまったのでした。神は神聖そのものなお方です。神聖さというのは、罪の汚れを許さず、それを持つ人間も一緒に焼き滅ぼしてしまう力を持つものです。それが本当の神聖さというものです。しかし神は人間が焼き滅ぼされることを望まなかった。御自分がお造りになり命と人生を与えた人間ですから。しかし、神の神聖さというものは罪の汚れをほってはおけない。ではどうしたらよいか?
そこで神がとった打開策は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、彼に人間全ての罪を請け負わせ、あたかも彼に全ての責任があるようにして全ての罪の罰を受けさせて、十字架の上で死なせた。つまりイエス様を犠牲の生け贄にしたのです。さらに一度死んだイエス様を今度は死から復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開かれた。そこで人間がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、それを見た神はイエス様の犠牲に免じて人間を赦すということにしたのです。罪はお前の心の中に残るかもしれないが、お前はわが子イエスの犠牲に免じて赦されたのだから安心しなさい。お前は、言わば高い犠牲を払って罪の奴隷状態から買い戻されたのだ。新しい命を与えられたのだからそれに相応しい生き方をしなさい。罪を行為で犯さないように注意しなさい。聖書の御言葉を武器にして心の中にある罪と戦いなさい。お前は死と罪の力に勝利したイエスとしっかり結ばれていることを忘れないようにしなさい。こうしたことを神はおっしゃって下さっているのです。
そうは言っても、毎日の生活の中でいろんな課題があり、いろんな人間関係の中で生きなければなりません。それらのことが原因となって、神の意思にそぐわない思いが心の中に渦巻き始めます。また、生活一般の悩み事や心配事が心を縛りつけたりしてしまいます。しかし、キリスト信仰者は、1週間に少なくとも1日は罪の赦しを頂いたことを公けに確認できる日があります。また、心を縛りつけるものから解放されて、神に心を向けることができる日があります。それが安息日です。
先ほども申しましたように、安息日に、悩み事心配事を神の足元に投げ出して、そこで出来た空白を今度は礼拝の中で与えられる賜物で満たしましょう。御言葉や説教の拝聴を通して神が自分に何をしてくれたかを思い起こしましょう。讃美歌を歌って神への賛美を声に出し、祈りの時に普段抱えている重荷の真の解決を与えてくれるように助けを祈り求めましょう。聖餐式がある日には、イエス様の血と肉を通して神との結びつきを一層強めてもらいましょう。こうして霊的な癒しを受けて強められて十分な休養を取った者として、新しい1週間に臨んでいきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
(*)マルコの記述によれば、ダビデが供え物のパンをもらった祭司はアビアタルですが、サムエル記上21章ではこの祭司はアヒメレクとなっています。よく言われるのですが、これはマルコが間違えたのでしょうか?これは、そう単純な問題ではありません。マルコが福音書を書く時に資料として受け取った伝承の中にアビアタルの名があった可能性も考えなければなりません。その際、パピアス伝承を信じれば、ペトロがアビアタルの名を言ったことになります。パピアスを信じなければ、書かれたものか口伝えのものかマルコが受け取った伝承のなかにその名があったことになります。さらに、イエス様自身がアビアタルの名を言った可能性も否定できません。そうなるとイエス様が間違えたことになるのでしょうか?それもそう単純ではありません。今私たちが使っている旧約聖書は紀元1000年頃に集大成された版に基づいています。イエス様の時代から1000年後のものです。イエス様の時代のサムエル記上の記述は今のものとそっくりそのまま同じだったでしょうか?死海文書を研究する人に聞いてみるのもいいですが、それでも決定的な答えがでるかどうか。 以上のような文献成立史の観点からだけでなく、今ある文献の中からもいろんな可能性が考えられます。アビアタルというのは、アヒメレクの息子です。親子ともども祭司です。サムエル記上のアヒメレクがダビデにパンを与えた時、もしアビアタルが同席していて、父親が息子に、お前パンを持ってきなさい、と命じていたならば、渡したのはアビアタルになります。もちろんサムエル記上にはそのようなことは記されていません。しかし、神のひとり子ならその時の出来事を天から見ていて知っている筈です。いずれにしても、マルコが間違えたなどという説明はあまりにも安易すぎます。
主日礼拝説教2015年6月21日 聖霊降臨後第四主日 聖書日課 申命記5章12-15節、第二コリント4章7-18節、マルコ2章23-28節