説教「奇跡が奇跡でなくなる日」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書3章1-12節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1. 安息日の主イエス様

 本日の福音書の箇所は少し複雑なので、解きほぐすように理解していきたいと思います。

まず、安息日に病気を治すことが安息日に仕事をしてはならないという掟に反するかどうかという問題が起きます。先週の主日も安息日についての掟が問題となりました。少しおさらいをしますと、ある安息日にイエス様と共に町から町へと移動していた弟子たちが空腹に見舞われて通りがかりの麦畑の麦を取って食べ始めました。戒律に厳しいファリサイ派の人たちがそれを見て、脱穀作業をしたのも同然と言いがかりをつけ、仕事をしてはならないという安息日の掟を破ったと先生のイエス様を批判しました。そこでイエス様は、かつてダビデが祭司専用のお供え物を食べたことを引き合いに出して、安息日の守り方の中身も何が神の意思に沿っているかいないかが大事で、人間が自分の見方で決めることではないと教えました。ダビデのサウルから逃げる旅も、またイエス様の弟子たちの宣教旅行もみな神の意思によるものでした。イエス様は神のひとり子ですから、何が神の意思に沿うかは一番ご存知でした。まさに「安息日の主」なのです。それから、安息日というのは、古い契約の民にとっては、エジプトの奴隷状態からの解放を記念して霊的な休息を得る日でした。それが新しい契約のもとで生きるキリスト信仰者にとっては、罪と死の奴隷状態からの解放を記念して霊的な休息を得る日となりました。まさにそのために、「安息日は人のためにある」のです。

さて、本日の福音書の箇所の最初の舞台は安息日の会堂です。人が大勢いるところをみると、礼拝が始まる直前か直後か、あるいは礼拝の最中かはっきりわかりませんが、いずれにしても礼拝の時間帯に重なる場面です。そこでイエス様は、片腕が麻痺状態になっていた人の手を元どおりにするという癒しの奇跡を行いました。周りには、ファリサイ派の人たちがいて、この男はまた安息日の掟を破るかどうか見届けてやろう、破ったら最高法院に訴えてやろう、と注視しています。イエス様はそれを知っての上で癒しました。安息日の掟にしても他の掟にしても、神の意思に沿うように理解し守らなければならないのに、宗教エリートたちは自分たちの見方に基づいて作り変えてしまった。イエス様はそのことをひどく悲しみました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すかとか」というイエス様の問いは、まさにファリサイ派が陥ってしまった矛盾を突くものでした。

ファリサイ派の人たちは、自分の目でイエス様の奇跡の業を目撃したにもかかわらず、そこに神の力が働いたことを素直に認めることもせず、自分たちの見解が覆されたことのくやしさだけで身も心も一杯でした。とうとうイエス様を殺す計画が話し合われ始めました。既に「かたくなな心」であったのが、一層かたくなになったのです。これでイエス様の十字架への道が決定づけられていきます。これは驚くべきことです。というのは、神の意思を正確に知らしめようとすればするほど、それに反対する力を呼び起こし、神の意思の実現を阻止しようとするからです。しかし、阻止があればあるほど、最後には反対する力が木端微塵に打ち砕かれるくらいに神の意思が完全に実現することになる。まさに反対する力があったおかげとさえ言えるような勝利がもたらされる。イエス様の十字架の死と死からの復活は、まさにそのようなものだったのです。

 

2.奇跡のパニック

 会堂の出来事の後、イエス様と弟子たちはガリラヤ湖に移動します。すると、その日の出来事の噂がどんどん広まっていったのでしょう。まず地元ガリラヤ地方の人たちがぞろぞろついて来ました。皆簡単には治らない病気を抱えていたり悪霊に憑りつかれた人たちでした。集まる人たちの群れは日に日に拡大していきました。ユダヤ地方とその中心地エルサレムからも、さらに南のイドマヤ地方からも、東のヨルダン川の対岸の地方からも、さらに北にあるローマ帝国シリア州の都市シドンとティルス周辺からも集まってきました。皆イエス様から病気を癒していただこうと、また悪霊を追い出してもらおうと集まって来たのです。群衆の押し寄せる圧力というのは相当なものです。とにかく、後ろの方から大勢の人が押してきますので、前の方でもう止まってと言っても、後ろの人たちにはわかりません。ただただ前に進もうとするので、前にいる人は本当に押し潰される危険に晒されます。イエス様が舟に乗って、少し岸から離れようとしたのも無理はありません。一人一人を相手にして語りかけたり手を取ったりして癒す余裕などありません。人々はイエス様の服に触れただけでも癒されるとわかると(マルコ5章29節、6章56節)、もう見境なくなりました。ただ我も我もと押し寄せるだけになりました。

イエス様が癒したのは病気だけではありません。汚れた霊に憑りつかれた人たちからそれを追い出すこともしました。汚れた霊とか悪霊というものは、人間を様々な仕方で苦しめることで、自分は神から見放されたとか、また神など何の役にも立たないとか存在しないと思わせて、人間と神の間を引き裂くことを目的とする存在です。イエス様がそのような霊に苦しめられている人の前に立つと、霊は皆パニック状態に陥ったことが福音書の中で伝えられています。本日の箇所では、霊がイエス様にひれ伏して「あなたは神の子です」と叫びました。マルコ1章では、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ」(24節)。ガリラヤ湖の東側のゲラサ地方でも霊は、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」(5章7節)と叫びました。

興味深いことに、汚れた霊たちはイエス様が誰であるかを正確に知っていました(マルコ1章34節も)。人間たちは、この時点ではおそらくまだイエス様のことを「神の子」とは告白しなかったでしょう。ペテロがイエス様のことをメシアと告白するのはもっと後のことです(マルコ8章29節)。イエス様のことを人々は、神から力を授かった預言者の一人と考えていたようです。

さらに興味深いのは、群衆のいる前でイエス様の正体を言い当てた霊に対して、イエス様が「黙れ」と言って話すことを許さなかったことです(マルコ1章25節)。本日の箇所でイエス様は、自分のことを言いふらしてはならないと霊たちに厳しく戒めました(12節)。マルコ1章34節によれば、イエス様が霊たちに黙るように命じたのは、イエス様について人々に言いふらさないようにするためでした。なぜイエス様は、自分のことを人間よりも正確に知っている汚れた霊や悪霊に自分のことを言い広めてはいけないと禁止したのでしょうか?相手が霊ではなくて人間の場合でも、イエス様が言いふらさないように命じたことが沢山あります(マタイ8章4節、30節、9章9節、30節、16章20節、マルコ7章16節、ルカ5章14節など)。なぜ、イエス様は、御自分のことを公けにしたがらなかったのでしょうか?

これはいわゆる「メシアの秘密」という新約聖書学の学説にも関係することなのですが、それは一つの学説ですので学界には賛否両論があります。学界の議論は脇に置いて、福音書に書かれていることをもとにしてこの疑問に答えることが出来ます。なぜ、イエス様は、御自分のことを公けにしたがらなかったのか?それは、イエス様がこの世に送られた目的の一つは、神の国と神の意思について人々に正しい理解を与えることがありました。旧約聖書の中にそれらについて記されているのですが、それが間違って理解されていたのです。イエス様は神のひとり子ですから、それらについて正しく知りうる立場にありました。それ故、正しく教えることのできる唯一の方だったのです。しかし、イエス様の目的は実は、正しい知識の提供だけではありませんでした。神と人間の間に出来てしまった断絶をなくして、両者の結びつきを回復するという大事業、そのために自分を犠牲の生け贄にして人間に真の救いを提供するという大事業があったのです。この大事業は、イエス様の十字架の死と死からの復活によって成し遂げられました。

しかしながら、人間の方はと言えば、病気を治してくれたり空腹を満たしてくれるありがたいイエス様に関心が集中していました。5千人の人たちの空腹を僅かな食物で満たす奇跡を行った後で群衆がイエス様の後を追いかけて行きました。イエス様は彼らの本当の目的を見透かして言いました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(ヨハネ6章26節)。神と人間の間の断絶を解消するために、まず人々に教え、最後には命を捧げるために来たのに、人々はもっと身近なことにしか関心を持たない。そこにイエス様の直面したジレンマがありました。

イエス様がメシアであることを公けにしてはならないと言うのも、当時の政治状況から理解できます。メシア救世主とは、人間を罪と死の奴隷状態から解放して、最後の審判の日に神の意思に沿う人を集めて神の国に迎え入れる人物という理解がはっきりするのは、イエス様の十字架と復活の出来事の後です。十字架と復活が起きる前の段階では、大半の人はメシアというものを、ユダヤ民族を異民族支配から解放して民族自決国家を実現させてくれる王様という理解をしていました。そういう時に、イエス様はメシアだ、と言い広めたら、どうなったでしょうか?ガリラヤにいてもどこにいても、すぐ占領者ローマ帝国に反乱を企てる者との嫌疑をかけられて逮捕されてしまったでしょう。エルサレムに入城するまではそのようなことは避けなければならなかったのです。

それでは、なぜイエス様は悪霊たちに自分の正体を言い広めることを禁じたのでしょうか?それは、悪霊のそもそもの目的を思い出せば簡単です。先ほども申しましたように、悪霊の目的は、人間を様々な仕方で苦しめることで、自分は神から見放されたとか、また神など何の役にも立たない、存在しない、と思わせて、人間と神の間を引き裂くことです。端的に言って、いくら悪霊がイエス様の正体を正しく知っているとは言っても、そのまま人間に正しく伝えるということは絶対にありえません。そんなことをしたら自分たちの本来の目的に反することをしてしまうからです。それでイエス様は悪霊に話すことを禁じたのです。

ルターも教えているように、悪霊は聖書をよく知っていて、どこの部分で誤った理解を与えれば人を絶望に追い込めるかも知っています。悪霊が次のように言ってきたとします。「神はお前が罪の汚れを持っていることをよくご存知だ。だから神はお前に対して怒り、それでお前は今のような悲惨な状態に陥ったのだ。」そのような場合、ルターにならって次のように言い返します。「確かにお前の言うように私は罪の汚れを持つ者だ。しかし、まさにそのために神はイエス様をこの世に送られ、十字架の死に引き渡されたのだ。もし神が罪の汚れを持つ人間を怒っているのであれば、イエス様を送られることも、十字架の死に引き渡すこともしなかったであろう。」こう言えば、相手は何も言えなくなります。

 

3.神の国を垣間見せた奇跡

 以上、本日の福音書の箇所が教えていることについて述べてきました。ここで、少し見方を広くして、そもそもイエス様はなぜ奇跡の業を行ったのかについて考えてみたく思います。

 イエス様は数多くの奇跡の業を行いました。無数の不治の病を治したり、悪霊を追い出したり、何千人もの人の空腹を僅かな食べ物で満たしたり、嵐のような自然の猛威を静めたりしました。嵐の中を湖の水の上を歩いて移動したり、既に息を引き取った人を生き返らせたりしました。イエス様の服に触れただけで病気が治ったということを読むと、奇跡というのはイエス様が自分から働きかけなくとも、彼から何か不思議な力が放出されて、人がそれに接触しただけでも起きるものと言うことができます。自分から働きかけをしてもしなくてもイエス様から何か力が人間に及ぼされるというのは、一体どういうことなのでしょうか?これは、イエス様が教えていた神の国というものに関係があります。

 イエス様が活動を開始した時、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と公けに言われました(マルコ1章15節)。この「神の国は近づいた」の「近づいた」は、ギリシャ語の動詞エーンギケンηγγικενですが、本当は「もう既に来た」とか「もうここにある」という意味です。これは、ちょっとおかしなことです。と言うのは、神の国とは、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、本当ならば、今あるこの世が終わりを告げて全てのものが揺り動かされて取り除かれる時、唯一取り除かれないものとして現れるものだからです(26-29節)。つまり、終末の時、最後の審判の日、死者の復活が起こる日に見える形で現れる国です。そうすると、まだこの世の終わりでない時に、イエス様が神の国は既に来ている、と言ったのはどういうことなのでしょうか?

それは、神の国が人間の目には見えない形ではあるがイエス様と一体となって来たということです。神の国は、黙示録21章にあるように、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、神が迎え入れた人たちの目から涙をことごとく拭い取って下さるところ(4節)です。また19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは朽ちるものから朽ちないものに変えられ(第一コリント15章42-55節)、そのような人たちをイエス様は「天使のような者」と呼びました(マルコ12章25節)。こうして見ると神の国とは、病気がなく皆完全に健康な者となり、この世での労苦が全て労われ、また被った不正義が最終的に全て償われるところです。悪霊たちにとっても、神の国が到来する日は自分たちがまっさきに永遠の炎に投げ込まれると知っているので、何よりも来てほしくないものです。イエス様から奇跡の業を受けた人たちというのは、このような神の国の中での存在の仕方が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという存在の仕方が身に降りかかって病気が消えてしまったということです。そのようなことが起きたのは、まさに神の国がイエス様とくっつくようにして一緒にあったからです。それで、奇跡を受けた人たちは、自分で気づいていたかどうかはともかく、遠い将来に見える形で現れる神の国を垣間見たとか、味わったことになるのです。神の国では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。

ところが、イエス様が神の国ということで人間に行ったことで最も大切なことは、奇跡の業を通して味あわせたということではありません。そうではなくて、イエス様が行ったのは、人間が神の国に入れないように邪魔していたものを取り除いて、入れるようにしてくれたということです。それを可能にしたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事でした。人間と神との結びつきを断ちきる原因であった人間の罪を、イエス様が全て請け負ってその罰を代わりに受けて死なれた。そして三日後に復活させられることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれた。人間は、これらのことが本当に自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神から「罪の赦しの救い」を得て、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道の上に置かれて、それを歩み始めることとなります。今はまだ見えない神の国と目には見えない結びつきができたのです。

 

4.神の国に結ばれた者として生きる

 こうして見るとキリスト信仰者というのは、この世の人生の出口とその次の永遠の命の人生の入り口の両方がセットになって定まった者ということができます。しかし、それでめでたしめでたしということではありません。これからその時までをどう生きるかが大事になってきます。永遠の命に至る道に置かれたとは言っても、それで道を踏み外さないという保証は何もありません。踏み外さないで歩めるためにはどうすればいいのか?それは、神の意思に沿う生き方をすることです。それは、どんな生き方でしょうか?

イエス様は神の意思を簡潔に要約して、神を全身全霊で愛すること、そしてその上に立って隣人を自分を愛する如く愛することであると教えました。そこで、果たして自分は神をそのように愛しているか、隣人をそのように愛しているか、自己吟味しますと、人によっては、自分はこれこれのことを成したと言って、出来たことに目が向いて誇らしくなる人がいるでしょう。また人によっては、これこれのことが出来なかったと言って、出来なかったことに目が向いて自己嫌悪に陥ってしまう人もいるかもしれません。両方ともそこで終わってはいけません。そこで終わったら、前者は砂の上にお城を建てるようなものになってしまい、後者は大きな砂の穴から出ようとしてさらに砂を掘るようなものです。では、どうすればよいのでしょうか?

ここで、原罪という罪の大元、罪の罪が神によって赦されているのを思い起こすのがよいと思います。原罪とは、たとえ行為として罪を犯さなくても、常に人間だれにでも根底に横たわっている罪です。境遇や環境の変化でもあれば、行為に現れるかもしれないし、現れなくとも思考の中で形を取るかもしれない、まさに罪の種です。それは、人間が自分の力で取り除こうとしても、また神に対して何か償いをして取り消そうとしてもできない、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時から全ての人間が受け継いでいる罪です。そのような奥深くて除去不可能なものが、洗礼を受けることでイエス様の神聖さを頭から被せられて覆い隠されて、神はそのような衣をまとった者としてキリスト信仰者を見て下さいます。

しかしながら、それで終わったわけではありません。今度は信仰者がその衣を手放さないようにしっかりそれを握って纏っていなければなりません。洗礼を受けたのが赤ちゃんであれば、白い衣を被せられただけで、まだそれを自分で脱ぎ捨てる力はありません。しかし、人間は堕罪の時に善悪を知る実を食べたので、何もしなければ赤ちゃんも成長すれば衣を脱ぎ捨てる力が出て来ます。両親や教保や教会が神様のことをしっかり教えて、衣を脱ぎ捨てない力を育てるようにしなければなりません。大きくなってから洗礼を受ける場合も同じです。白い衣を脱ぎ捨てない力はどうやって得られるかと言うと、イエス様が十字架で私の原罪を請け負って死なれた、そして復活されたことで私にも永遠の命に至る扉が開かれた、と絶えず思い起こすことです。それが信仰です。そうする時、原罪は残ってはいても、神は白い衣をしっかり纏っていると認めて下さり、お前は道をしっかり歩んでいるから安心しなさいと言って下さるのです。そうすれば、自分を誇っていた人も、へりくだって神を誇るようになります。また、意気消沈していた人も神を誇るようになって、もう心配しないで済むようになります。神はまことに愛と恵みに満ちた方であることがわかり、どんな時でもどんな状況にあっても神に感謝する心が生まれるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教2015年6月28日 聖霊降臨後第五主日
聖書日課   イザヤ58章11-14節、第二コリント5章1-10節、マルコ3章1-12節


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