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主日礼拝説教2015年7月12日 聖霊降臨後第七主日
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
皆さんは自分で種を植えて草花を育てたことがありますか?私は生まれてからずっと集合住宅で、庭付きの家に住んだことがなかったので、あまりそういう経験がありません。それでも小学校の頃、夏休みの課題で朝顔の種を買ってそれを団地のベランダの植木鉢で育てたことがあります。黒くて少しでこぼこした形で固めだったでしょうか、1センチ程もない種から芽が出て、茎が伸びて葉も出て、身の丈50センチから1メートル位になったでしょうか。やがて、花のつぼみも出てきて、もうそろそろかなと朝早く起きて見ると朝日を浴びるようにして咲いている。それを、どんな気持ちだったかは覚えていませんが、ベランダに腰かけて感慨深くしばらく眺めていたことを覚えています。まだほんのり涼しさが漂う夏の朝の、今から思えば、ちょっとした非日常的な体験を味わったのではないかと思います。
本日の福音書の箇所でイエス様は、神の国について教える際にそれを種の成長にたとえて話します。二つあるたとえのうち後のもの、「からし種」のたとえはイエス様のたとえの中で良く知られたものの一つです。蒔かれる時は地上のどんな種よりも小さいが、成長するとどんな野菜よりも大きくなる、これが神の国を連想させるというのであります。ここで言われている「からし種」とは、日本語でクロガラシ、ラテン語の学名でブラッシカ・ニグラと考えられています。その種はほんの1ミリ位で、成長すると大きな葉っぱを伴って2~3メートル位になるそうです。
イエス様のたとえの中では、大きな枝を出してその葉の陰の下に空の鳥が巣を作れるくらいになると言われています。クロガラシは、大きな葉っぱは出てきますが、大きな枝というのはどうでしょうか?少し誇張がないでしょうか?実は、イエス様がそう言われた動機として、先ほど朗読して頂いたエゼキエル書17章が背景にあって、イエス様はそれをたとえに結びつけているのです。
「わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」(22-23節)。
このエゼキエル書の預言に言われている、大きく育ったレバノン杉というのは、今ある世が終わりを告げて新しい世が到来する時に現れる神の国を意味します。(注 エゼキエル書31章やダニエル書4章のように、大きな木がイスラエルの民に敵対する大国を指すこともありますが、それらは切り倒されるとも預言されています。)この預言はもともとは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国帰還と復興を遂げることを預言するものと考えられていました。ところが、民が帰還してエルサレムの町や神殿を再建しても、取り巻く状況は預言の実現には程遠いことが次第に多くの人々の目に明らかになってくる。そうすると、そうした将来の希望についての預言は実はバビロン捕囚からの帰還ではなくて、さらに後の、この世が終わりを告げて新しい世が到来する時のことを指すのだと気づき出されるようになります。
イエス様自身、神の国というのはこの世が終わりを告げて新しい世が到来する時に現れるものであるとの立場をとります(マルコ13章27-27節など、マタイ25章31-46節も)。それにしても神の国をレバノン杉の大木にたとえず、高さ2,3メートルほどのクロガラシにたとえるのはどうしてでしょうか?それは、イエス様がここで神の国について教える時、主眼としていることは、からし種のように砂粒のような種が2,3メートル位の大きさの植物を生み出すという、そういう変化の大きさを強調したいからなのです。もし最終的な大きさだけを強調したければ、レバノン杉の大木がうってつけですが、イエス様としては、最初取るに足らない小さかったものが、そこからまさかこんなに大きな葉や茎が出るとは考えられないという位のものを生み出す、ということを強調したかったのです。それを現実にあるもので誰もが知っているからし種を題材に選んで、イメージがわきやすくなるようにして話をしたのです。
それでは、最初は取るに足らない小さいものがとても大きなものに変化する場合、大きなものとは神の国を指すとして、そうしたら、取るに足らない小さなものとは何を指すでしょうか?からし種にたとえられているものは何なのでしょうか?答えは、マルコ4章を初めからみていくと見つかります。マルコ4章の最初にイエス様のたとえの教えの中で最も有名なものの一つである「種まき人」のたとえがあります(3-8節)。少し後でイエス様は、そのたとえの解き明しをします(14-20節)。そこで、「種まき人は言葉を蒔く」と言います(14節)。つまり、種とは、神の御言葉を指すのです。
これで、からし種のたとえの意味が少し見えてきました。最初に取るに足らないように見える神の御言葉があり、それが出発点となって、最初の小ささからすれば比較にならない大きなものが現れてくる。それが神の国である。神の国とは、そのような見かけは取るに足らない神の御言葉から、そういう大きなものとして現れてくる、というのがたとえの趣旨となります。(注)
本日の福音書の箇所にもう一つ種に因んだたとえがあります。それは、種というのは、一度蒔いたら、蒔いた人が毎日普通に寝起きしている間にも成長していく。種の内部でいろいろ変化が起きて、その変化が外部に現れて、芽になり茎になり葉になり穂が出て実が出来る。蒔いた人は、いちいちその過程を知らなくても、そんなことにおかまいなしに育っていく、という話です。私も今思い起こせば、朝顔の成長も同じだったと思います。ここで、最後に収穫の時が来て「鎌を送る」(29節)と言っていることに注目しましょう。新共同訳では「鎌を入れる」ですが、ギリシャ語の動詞(αποστελλω)は「送る」です。この原文の意味にこだわると、イエス様はヨエル書4章13節を引用していることがわかります。そこでは、「鎌を送れ、刈り入れの時は熟した」という神の託宣があります(新共同訳では「鎌を入れよ」ですが、ヘブライ語の動詞(שלח)は「送る」です)。ヨエル書のこの箇所は終末の日の預言です。イエス様もマタイ13章で、「刈り入れ」とは世の終わりの日を意味し、そこで良い麦は倉に収められると言って、神の目に適う者たちが神の国に迎え入れられることについて教えています(24-30節、36-43節)。
そういうわけで、この蒔かれた土地で「ひとりでに」(αυτοματος)成長して実を結ぶ種のたとえでは、まず種とは、これまで同様に神の御言葉を指します。そして、刈り入れの時というのは、今の世が終わりを告げて新しい世が到来して神の国が現れる時を指します。そこに迎え入れられる人たちが刈り入れられる実にたとえられているのです。このたとえでは、先ほどのからし種のたとえと違って、小さなものが大きなものに変化することがポイントではありません。ここでポイントになっているのは、神の国が到来する日までは、迎え入れられる人は迎え入れられるのに相応しくなるよう成長していく、その成長のもとには神の御言葉が種のようにある。人が神の国に相応しくなるように成長するのは、その人の力や努力によるのではなく、種としての神の御言葉に宿る生命力によるのである、ということです。これで、このたとえの趣旨もわかりました。
2.
以上、本日のイエス様の二つのたとえの趣旨がわかりました。一つは、神の御言葉には、人が神の国に迎え入れられるのに相応しくなるように成長させる力があるということ。もう一つは、最初見かけは取るに足らないように見える神の御言葉であるが、それが出発点となって、最後は大いなるものとして神の国が現れるということです。実は、こうした趣旨がわかっても、もし「神の御言葉」とは何だ、「神の国」とは何だ、ということがわからなければ、この二つのたとえの正確な意味はまだわからないことになります。そういうわけで、まず「神の国」とは何かについてみていきましょう。
神の国とは、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、今あるこの世が終わりを告げて全てのものが揺り動かされて取り除かれるという時、唯一揺り動かされず、取り除かれないものとして現れるものです(26-29節)。この世が終わりを告げるというのは、あまり明るい話に聞こえません。しかし、聖書が伝えていることは、この世が終わりを告げるというのは、同時に次の新しい世が始まることを意味しています。イザヤ書の終わりの方で、神が今ある天と地にとってかわる新しい天と地を創造するという預言が出てきます(65章17節、66章22節)。そのような新しい天と地の創造の時というのは同時に、最後の審判の時であり死者の復活が起きる時でもある、そのことが黙示録の21章と22章の中で預言されています。その時既に死んでいて眠っていた者たちは起こされて、その時に生きている者たちと一緒に神の審判を受け、神の目に適う者は神の国に迎え入れられるというのであります。
そこで目を神の国の中に転じると、それは黙示録21章に言われるように、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、そこに迎え入れた人たちの目から神は涙をことごとく拭い取って下さるところ(4節)です。使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは、朽ち果てる体から朽ちない復活の体に変えられます(第一コリント15章42-55節)。イエス様はそのような者たちを「天使のような者」と呼んでいます(マルコ12章25節)。神の国はまた、黙示録19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。イエス様も神の国を結婚式の祝宴にたとえています(マタイ22章1-14節)。
これらのことを総合して見ると、神の国とは、そこに迎えられた者は朽ち果てない復活の体を与えられ、死も病気もなく皆健康で、前の世の労苦を全て労われ、また前の世で被った不正や不正義が全て神自らの手で最終的に清算されてすっきりするところ、その意味で道徳的倫理的に完成された状態と言うことができます。
本日の旧約の日課の中で、神が「高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせる」(エゼキエル17章24節)と言われていますが、イエス様も多くの箇所で、高いものは低くされ、低いものは高くされる、先のものは後にされ、後のものは先にされる、と教えています(マタイ19章30節、23章12節など多数)。今この世で神の意思に沿わない仕方で高いところにいる者や一番前にいる者は、最終的には全く逆の立場に置かれる。今はそうした者のために低くされ一番後にされている者は、これも最終的には全く逆の立場に置かれる、ということです。イエス様の有名な「山上の説教」のはじめに「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)という教えがあります。これも、ギリシャ語の原文に即して訳せば、今悲しんでいる人たちは幸いである、彼らは将来慰められることになる、という約束の言葉です。この世で起きた不正や不正義は、うまく行けばこの世の段階で補償や救済がなされるかもしれません。もちろん、それは目指さなければならないことですが、いつも実現するとは限りません。また、なされた補償や救済も正義の尺度にぴったり当てはまるものかどうかということも難しい問題です。それで、神の意思が隅から隅まで貫徹されている神の国では、そうした無数の不均衡が最終的にぴったり清算されるところと考えてよいと思います。
神の国は、イエス様が教えたというだけではありません。イエス様が地上にいた時、それはイエス様とくっつくようにして一緒にありました。そのことは、イエス様が起こした無数の奇跡の業に窺えます。イエス様が一声かければ、病は治り、悪霊は出て行き、息を引き取った人が生き返り、大勢の人たちは飢えを免れ、自然の猛威は静まりました。果ては、一声かけなくても、イエス様の服に触っただけで病気が治りました。イエス様から奇跡の業を受けた人たちというのは、神の国の中での存在の仕方が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという存在の仕方が身に降りかかって病気が消えてしまった、飢えなどないという存在の仕方が身に降りかかって空腹が解消された、自然の猛威の危険などないという存在の仕方が身に降りかかって舟が沈まないですんだという具合です。そのようなことが起きたのは、まさに神の国がイエス様とくっつくようにしてあったからですが、奇跡を受けた人たちというのは、自分で気づいていたかどうかはともかく、遠い将来見える形で現れる神の国を垣間見たとか、味わったことになるのです。2週間前の説教でも申し上げましたように、神の国では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。
しかしながら、イエス様が神の国に関して人間に行ったことで最も大切なことは、奇跡の業を通して味あわせたということではありません。そうではなくて、イエス様が行った最も大切なことは、人間が神の国に入れないように邪魔していたものを取り除いて、入れるようにしてくれたということです。それを可能にしたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。人間と神との結びつきを断ち切っていた原因であった人間の罪を、イエス様が全て請け負ってその罰を全て代わりに受けて死なれた。そして今度は三日後に復活させられることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれた。人間は、これらのことが本当に自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神から「罪の赦しの救い」を得られて、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道の上に置かれて、それを歩み始めるようになるのです。今はまだ見えない神の国と目には見えない結びつきができたことになるのです。
3.
2週間前の説教でも申し上げたところですが、キリスト信仰者というのは、この世の人生の出口とその次の永遠の命の人生の入り口の両方がセットになって定まった者です。しかし、それでめでたしめでたしということではない、ということも申し上げました。その出入り口の時までをどう生きるかが大事になってくるからです。永遠の命に至る道に置かれたとは言っても、それで道を踏み外さないという保証は何もありません。踏み外さないで歩めるためにはどうすればいいのか?それは、神の意思に沿う生き方をすることです。それは、どんな生き方か?2週間前の説教でお教えしましたことは、自分は神を全身全霊で愛しているかどうか、またその愛の上に立って隣人を自分を愛する如く愛しているか、絶えずしっかり自己吟味しなさい、ということでした。そして自己吟味の際に、洗礼の時に神が私たちに覆いかけて下さったイエス様の義という、白い神聖な衣を肌身離さずしっかり纏っていなさい、ということを教えました。本説教では、その白い衣をしっかり纏う時に神の御言葉が大切になってくるということをお話しします。
神の御言葉とは何でしょうか?それは、とりもなおさず聖書にある言葉です。聖書にある言葉には、神自身が述べた言葉、神のひとり子イエス様の述べた言葉があり、また預言者や使徒たちの言葉もあります。預言者や使徒は人間なのに、これも神の言葉にしてしまうのか?そうです。それらは、神の霊である聖霊の働きかけによって述べられたり書かれたりしたので、それらも神の言葉です。
それならば、誰かが自分は聖霊に働きかけられたと言って述べた言葉も預言者や使徒に並ぶ神の言葉になるのでしょうか?それはなりません。どうしてか?聖書が今の形にまとまった後も、もちろん聖霊に働きかけられて述べられた言葉はあるでしょう。しかし、注意しなければならないのは、聖書がまとめられた後は、神の意思を伝える言葉は全て、聖書に則っていなければならないということです。聖書の言葉に即しているかどうかを見て、それで、あの人の言葉は聖霊が働いて述べられた、ということがわかるのです。そうでないと、今ある聖書では不足と言わんばかりに、付け足すようなことが行われて聖書が拡大して収拾がつかなくなります。(また逆に、今ある聖書にはいらない余計なことが書いてあると言わんばかりに、削除するようなことが行われて混乱を招きます。)そういうわけで、聖書がまとめられた後で聖霊の働きかけがあったと言って述べられた言葉というものは、実は聖書の確認にしかすぎないのです。まことに聖書は、神の意思を人間に伝える最高の権威なのです。
次に、聖書にある神の御言葉の役割について見てみます。それは一言で言えば、人間に神の意思を伝えることです。天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた神の意思を、造られた側の人間に知らせることです。それでは、神が伝えようとしている意思とは何か?これも一言で言えば、人間は造り主の神との結びつきを失ってしまったので、それを回復させようとすることを神は一番に考えているということです。それで聖書は、罪が人間の内に入り込んで神との結びつきを失ってしまったかということについてずっと述べるのです。そこから始まって神は、結びつきの回復が中途半端なものにならないように人間に律法を与えたこと、そしてイエス様の十字架の死と死からの復活が律法の要求することを全て完全に満たしたということを聖書は明らかにします。さらに聖書は、この結びつきの回復ということがイエス様を救い主と信じる者に起こることを約束します。そして、神との結びつきを回復した者はどう生きなければならないか、また何を覚悟しなければならないかを、そしてそのような時神はどう助け導いてくれるか、励まし慰めてくれるかについても聖書は教えてくれます。実に奥が深い人生の書物です。
ただ神の御言葉というものは、その本質上、人間に罪の自覚を呼び覚ますことをします。そのため、人間に自分は神から遠ざかってしまったことを気づかせます。しかしまさにその瞬間、そのような自分が神のもとに戻れるようにするためにイエス様が十字架にかけられたということを思い起こさせます。なぜなら、神の御言葉の重点はそこにあるからです。それを思い起こせば、神がどれだけ自分を愛しているかがわかって、遠ざかりは消えてなくなります。聖書の神の御言葉を読んだり聞いたりしながら神との結びつきがこのようにして強まっていけば、それは御言葉を「読んだ」というよりは、「摂取した」ということになります。
このように神の御言葉を摂取する時、それは信仰者が神の国に迎え入れられるように成長させる力を発揮します。まさに本日のたとえにあるようにです。神の御言葉は、目に見える形としては、文字が印刷された紙を束ねた本の中にあるだけです(最近は印刷しなくても電子的に見ることが出来ますが)。そこから神の国というとてつもない国が現れるなどとは想像もつきません。GDPとか軍事力とか、そういうものがないのに揺り動かされないというのです。どうして神の御言葉からそのような国が生まれることができるのか?神の国は今既に神のもとにありますが、将来(私たちが生きている状態にいてか復活した状態にいてかどちらで目にするかはわかりませんが)、目に見える形で現れます。神の御言葉で成長を遂げた人たちがそこに迎え入れられますが、その人たちは朽ち果てない復活の体を持ち、死も病苦も何も被らない、永遠に朽ち果てない復活の体を持つ人たちです。そういう人たちを構成員とする国ですから、これは世界最大のGDPや軍事力をもってしても太刀打ちできない史上最強の国です。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちにはこのような国が約束されていることをいつも忘れないようにしましょう。そして神の御言葉には、私たちをそのような国に迎え入れられるように成長させる力があることも忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
(注 マルコ4章の構成やそれぞれの内容の意味ついて、学界でもいろいろな見解があります。4章に出てくる数々のたとえは、イエス様がもともと話されたそのままの形なのか、それともバラバラにあったのをマルコかその前の人が編集して今の形にしたのか、あるいは、もともとはイエス様が違う順番で言っていたのを並び替えたのか、さまざまです。しかし、学者がそれぞれ再構成したものはどれをとっても本当の歴史的事実という保証はありません。ある理論、ある方法論に基づけばこういう結論になります、というだけのことです。そこで、本説教では、私たちが確かなものとして目にすることが出来るのは、今目にしているテキストだけですので、それをもとにして話を進めて行きたいと思います。)
主日礼拝説教2015年7月12日 聖霊降臨後第七主日 聖書日課 エゼキエル17章22-24節、第二コリント6章1-18節、マルコ4章26-34節