ニュースブログ

2025年1月19日(日)顕現後第二主日 主日礼拝

司式 吉村博明 牧師 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会) 聖書日課 イザヤ62章1~5節、第一コリント12章1~11節、ヨハネ2章1~11節 説教題 「カナの婚宴での奇跡」 讃美歌 49、151、358、260、352 特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたはみ子イエス様をこの世に贈られて、彼の教えと業そして十字架の死と死からの復活を通して、あなたの愛と栄光を現わし、私たちに信仰を賜物として与えて下さいました。どうか私たちが、頂いた信仰を携えてこの世を生きられるように、まだイエス様を知らない人たちに信仰を証しすることができるように知恵と力と勇気をお与え下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。 アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

牧師の週報コラム 

アブラハムの信仰の足跡をたどる学び
今年のスオミ教会の月第三主日の聖書研究会は「アブラハムの生涯」をテーマに創世記11章27節から25章11節までを学びます。宗教改革のルターはアブラハムのことを、イエス・キリストが現れる以前に既にキリスト信仰者であった者と言います。それはどんな意味なのか、学びを通して明らかになり、私たちの信仰の成長に資することができればと思います。以下は、アブラハムの信仰について記した「ヘブライ人への手紙」11章8節の御言葉のルターによる説き明かしです(フィンランドの聖書日課「神の子たちへのマンナ」11月26日の日課)。
「アブラハムは、嗣業の地となる土地へ旅立つようにと神の招きを受けて、それに聞き従った。それはまさしく信仰を通してであった。どこに到着するのかも知らないまま出発したのだから(ヘブライ11章8節、フィンランド語の聖書に基づく)。」
以下はルータの説き明かし。
「どこに到着するかも知らずにアブラハムは出発した。それは彼にとって困難かつ途轍もない信仰の戦いであり試練だったに違いない。しかし結局、彼は旅立った。風が行き先もわからず吹いていくように。
神からの招きに対してアブラハムはどのように応じたであろうか?彼がしたことと言えば、次の神の御言葉だけを心に携えて旅立ったということである。すなわち、「私はお前に祝福を与える」という御言葉である。ここからもわかるように、信仰には見極めの目が伴う。光が全くない暗闇の中でも信仰は見ることができる目を持つ。信仰は、何も見えないところで見、何も感じられないところで感じるのである。
アブラハムの旅立ちが聖書に記されているのは、私たちのために他ならない。私たちも同じように神の御言葉を信仰の中軸に据えて御言葉の中に踏みとどまることを習得するためである。まさに御言葉の中で神は、私たちの身体と命そして魂までも世話し守って下さると約束されている。たとえ現実にはそう見えずそう感じられなくても、神はそうすると約束されている。だから、あなたは神が御言葉の中で約束されたことに信頼することだけに努めなさい。たとえ周りが全く逆の方向に進んでいるかのように見える時でも努めなさい。神はアブラハムに約束の成就まで長い年月を待たせたのだ。たとえ今、私たちに対しても時間がかかっても、信じることを止めてはならない。なぜなら、神は、あなたの信仰に忍耐が備って成長するように約束の成就を待たせているだけなのだから。」

DSC_3767

手芸クラブのご案内 1月29日(水)10時~13時

ストールを編んでみませんか。

1月の手芸クラブは表面が網のようになるテクニックを使ってストールを編みます。

フィンランド語で「Silmukannostoneule」という編み方です。詳しくはクラブでご説明します。

持ち物: モヘア毛糸40g

メリノ毛糸または他のウールの毛糸30g

毛糸に合わせて編み棒2本

参加費: 1000円

もし毛糸の用意が難しかったら、こちらで用意しますので、好みの色をお知らせ下さい。申し込みの際にご連絡くだされば幸いです。

手芸クラブは、お子さん連れの参加も歓迎です。

皆様のご参加をお待ちしています。

おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!

聖書のお話もあります。

お問い合わせ お申し込み

福音ルーテルスオミ・キリスト教会
電話03-6233-7109

 

歳時記

尾根幹道路・横山の道

 <讃美歌392番「神のみ声は」

2)小屋に小みちに 市に里に ひとのもだえの こえはきこゆ、 「やみのちからの せまりくるに
  うちやぶるベき つかいなきか」 >

多摩ニュータウンの南側に通称「尾根幹」と呼ばれている幹線道路があります。現在は中央分離帯のグリンベルトを挟んで両側各1車線の側道のような道路ですがこのグリンベルトを4車線道路に造り替える工事が始まりました。多摩ニュータウンは1965年から工事が始まり2006年に完成した大きな団地です、このグリンベルトは関係者以外は立ち入ることの出来ないために多摩の原風景を色濃く残していてちょっとした小公園のようです、教会の帰りには何時も目を楽しませてくていました。しかし道路工事は容赦なく進められています、古くから此処に住んでいた兎や狸らの小動物たちも住み家を追われて更に奥の丘陵地帯に逃げ込んでいるかも知れません。また尾根幹とほぼ並行して横山の道という古道もあります。古代防人たちが隊伍を組み西に向かって進軍したこの道を任務を解かれた防人たちは現地解散で帰りは自力でという過酷な定めに合いました、この横山の道に辿り着いたのは如何ばかりだったでしょうか、王維の詩を思い出します「・・・・古来征戦幾人回 (こらいせいせん いくにんか かえる)」と。

牧師の週報コラム

これぞ、キリスト信仰の死生観

イエス様が死者を蘇らせる奇跡を行ったことは、会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)やラザロ(ヨハネ11章)等々の事例があります。 ヤイロの娘とラザロの蘇らせの時、イエス様は死んだ者を「眠っているにすぎない」と言って生き返らせました。ただし、彼らには、将来の復活の日に起こる復活が起こったのではありません。なぜなら、二人ともその後で寿命が来てまた「眠り」についたのであり、今、本当の復活を待っているからです。それではなぜイエス様はこれらの奇跡を行ったのでしょうか?それは、復活させられる者にとって死は「眠り」にすぎないということと、その「眠り」から目覚めさせる力があるのは彼をおいて他にはないということを前もって具体的に人々にわからせるためでした。

以下は、マタイ9章24節のイエス様の言葉「娘は死んではいない。眠っているだけだ」についてのルターの説き明かしです(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月8日の日課から)。これぞキリスト信仰の死生観の真髄!

「我々は、自分の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストと固く結びついている者にとっては、死とは全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休息用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。

死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって墓から飛び出し、天上にいます我々の主、救い主に迎え入れられるのである。

我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の約束の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、眠っている間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただくことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

主の約束の言葉「私は復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない。」ヨハネ傳福音書11章25節

DSC_3767

 

2025年1月12日(日)顕現後第一主日(主の洗礼の主日)主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書3章15−17節、21−22節

「ヨハネが「私より優れた方が来られる」と指し示すお方」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の箇所は、3章の部分部分だけピックアップされており、バプテスマのヨハネのこと、そしてイエスの洗礼のことが書かれていますが、私は3章全体を通して今日の箇所にあるイエス・キリストの恵みを見ていきたいと思います。まず文脈を見てみますと2章では、ルカは、イエスの誕生と成長を通して、イエスは真の人であり、同時に真の神であるということを証ししてきました。そして、この3章でルカは、もちろんバプテスマのヨハネのことを書いていますが、そのヨハネはイエスを指し示すために約束された預言者であるのですから、中心はどこまでもイエス・キリストです。そしてその世にお生まれ手になった救い主イエスが、架空の人物だとか、イエスの話しが弟子たちの作り話だということでは決してなくて、イエスは確かに、人類の歴史の中に来られ、生まれ、生きられた真の神、真の救い主であるということを伝えることから始めるのです。

2、「歴史に確かに存在されたイエス:歴史の事実に基づいて」

 このルカの福音書は、「1章の喜びに始まり、終わりの24章も喜びで結ばれる」とよく言われるように、イエスの憐れみと恵みを伝えていて、慰めと喜びを与えてくれる福音の記録です。しかしそれは決してただ感情的に訴えるような伝え方ではありません。医者でもあった彼は証拠だててイエスの出来事が真実である事を説明しようと気をつけていることがわかります。このところでは、まず、彼は1〜2節で「皇帝ティベリウスの治世の第15年」と、その時代にイエスを指し示す預言者ヨハネが荒野に下ったと、きちんと歴史の事実をあげて伝えていることを見ることができます。ここでは、皇帝の名前だけでなく、パレスチナ地方の各地域の国主の名前も出て来るのですが、これは当時の、政治状況の歴史的な背景であり事実です。ローマ皇帝ティベリウス、そしてローマから任命されるユダヤの総督は、ポンティオ・ピラト。等々。正確に伝えようとしています。そして政治の面だけではありません。宗教面については、当時は、アンナスとカイアファが大祭司であったことも歴史的に説明するのです。ルカはこのように、この福音書に書かれているこの出来事、更に、ここでは旧約の預言の通り、神のことばが、荒野でザカリヤの子、バプテスマのヨハネに下ったという出来事ですが、それは、決して、作り話や物語、空想ではなくて、歴史のこの時に確かに起こったという事を、ルカは伝えているのです。一般的にも、このような歴史の事実から説明するということは、正しく情報を伝える時には大事なことで、それがどんな時に、どんな状況で、誰の時代、そこで何が起こったのかを示すことで、出来事が真実であることを私たちも確かに認めやすくなるでしょう。ルカはまさにそのことをしています。ある意味、1〜2節は預言者ヨハネの出来事と関係ないような支配者の羅列のように見えるのですが、ルカがそれを非常に詳しく書くのは、キリストの福音の記録が確かに歴史的な事実である事を証しするためなのです。

3、「それは救いの歴史の初めから連なる」

 それは3章の後半部分でも同じです。そこには、イエス様の系図が書かれています。皆さんがよく知っているのはマタイの1章が系図に始まっているのを知っているかもしれません。違う点は、マタイはアダムからイエスへと始まって説明していきますが、ルカはその逆で、イエスからアダムへと遡っているのが特徴です。一見、この系図はつまらなくて、意味がないかのように思うのですが、系図は大変、意味のあることです。それは先ず第一に、先程とおなじです。イエスは架空の人物ではなくて、イエスが確かにヨセフの家に、ヨセフの子として存在していたという事実です。歴史の事実であったということです。そしてもちろん、このイエスの系図はそれだけでなく、イエスが、確かに、神が約束されたダビデの子であり、アブラハムの子孫であるということまでを証明するものとして書かれているのです。旧約聖書の創世記では皆さん、神様からアブラハムに与えられた、「アブラハムの子孫によって世は祝福される」という契約を知っていると思います。まさにそのアブラハムの子孫として御子イエス・キリストは存在されているということ、そしてさらにはダビデの家にメシヤ、救い主、キリストが生まれるとも預言されていましたが、いずれの系図もその約束の通りであることを証明するための記録として書かれているのです。つまり、このイエスに成就した歴史の線を遡ると、神様が「女の子孫がサタンを砕く」と告げた、あの人類への罪からの救いの約束が確かにあり、イエスはその成就であり、イエスにおいて救いの歴史の線が確かに一本につながっていることの明確な証しなのです。

 このように、イエス・キリスト、そして聖書の福音書の記録。そこに書かれている一つ一つ、奇跡の一つ一つも、そして何より、十字架も復活も、それら全ては、決して、有名な神学者がいうような迷信、作り話、神話ではない、確かに人類の歴史、約2000年前のある所に確かに存在し、起こったことなのだと、今日のところは私たちに語りかけています。私たちの救い主、この聖書から聞くイエスのことばも奇跡も、そして罪からの救い、罪の赦しも、それらは決して空想話、作り話ではありません。イエスが、歴史に、人と人との間に、確かに存在している救い主であるということは、私達にとっては、とても意味があることでしょう。もしイエスが存在しないお方なら、あるいは、もしイエスが単なる良い話、良い物語の世界の架空のヒーローに過ぎず、私たちがそのような架空の物語の、良い話を聞いているだけなら、図書館の朗読会と何ら代わりがありません。もちろん、そこから学ぶことは多いでしょう。しかしそれは「神の前」にあっての「私たちの救い」ということ、あるいは、「神との関係」ということについて、あるいは、「神の前」でのことにおいては、全く何の意味ももちません。神がこの私たちの間に、歴史に、確かにイエス様を送ってくださった。イエス様は確かに人として救い主として事実、存在された。しかもそれは、遥か昔の神様の「救い」の約束からつながる事実としてこの人類の歴史に成就したということ。イエスのこの十字架は確かにこの歴史に立っていた。そこでイエスは死なれた。そしてイエス様はその三日目に確かによみがえって存在していた。さらには確かに、歴史のある時に、幻でも空想でも嘘でもなく、確かに弟子達のまえで天にあげられた。その時、イエスは確かに、いつまでもあなたがたとともにいると言われた。そして確かにこの私たちに歴史の事実として聖霊を与えて下さった。そのように全てが事実として示されるからこそ、その神が確かに、世に、私たちに働いてくださった、いや今も働いておられる、ここに書かれている救いの歴史の事実の線の上にこそ、私たちは、今確かに存在している。そのことに希望と平安を得て、今私たちは確かに、神様の前にある。救いが確かに今私たちにあると、確信を持って言うことができるはずです。その救い主は今も生きて歴史に、私たちの間に確かに存在しているからこそ、私たちは今日もこのように、これはその神のことばであると、生ける神のことばを信仰をもって聞いているし、そう信じるからこそ、この礼拝もみことばも喜びであり力であるとわかるはずです。逆に、これがまことの存在する救いの記録であり、これは今も生きる神のことばであると、思わないならば、このことばには意味等見いだせないのは当然ですし、礼拝も説教にも意味がない、力がないとなるのも当然なのです。みことば以外の他の物事に、重きがおかれていくでしょう。聖書は私たちに伝えています。書かれているすべてが事実であり、その約束は今も事実であると。このイエスも、その救いも、みことばも、聖霊も、そして神の恵みもすべて、真実であると。それこそを信じ、祈り、求めなさいと。これがこの3章から示される第一の福音であると教えられます。

4、「バプテスマのヨハネが指し示すお方」

A,「バプテスマのヨハネ:救い主、神、光ではない」

 3章の第二の恵みですが、ルカは今度は、イエス様がまことの神であり救い主であることを伝えるために、この時、非常にすぐれた預言者であり、人々から尊敬され、「キリストでは?」とまで言われた、バプテスマのヨハネの出来事を事実としてとりあげるのです。バプテスマのヨハネは、神が旧約聖書の預言で約束した、イエスの前に来ると約束された預言者でした。4節以下を見ますと、旧約聖書のイザヤ書の言葉が引用されて、この神様の約束の言葉の通りに、それが成就したと伝えています。この預言にある通りに、ヨハネは荒野で人々に、悔い改めを叫び、救い主の到来を教え示すのです。まさに主の道が救い主によって開かれる。その預言者はその道であるイエス様をまっすぐと指差し、指し示すというのが約束の預言でした。6節を見ますと、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る。

とあるように、ヨハネが示す先に人々はイエス・キリストを見るのです。確かにこのバプテスマのヨハネはすぐれた神の預言者であり、ここでは10節では「群衆」、12節では「徴税人たち」、そして14節では「兵士も」、彼らは皆、ヨハネを「先生」と呼んでいて「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と皆この先生に救いを聞いているのです。そして15節では皆、「もしかすると、この方がキリストではないか」と思った程なのです。 そのように彼は尊敬されたすぐれた先生であったのです。

 しかし聖書が私たちに伝える大事なことは、彼は神、救い主ではなかったということです。すぐれた立派な人ではあったでしょう。しかし、地上に生まれ、朽ちるものから生まれたものは、どんなにすぐれた人、どんなに優れた先生であっても、決して神、救い主とはなり得ないのです。人は、その肉の性質として確かに「見えない神に

ではなく、優れた並外れた人間を神のように、あるいは王のように求めたり崇め立てようとするものです。サムエルの時代、イスラエルには彼らのために常に神がおり神の言葉があり、裁き司であるサムエルを通して神のことばがあって正しく導いていました。しかし、イスラエルの人々は、他の周りの国々と比べて、周りの人々と同じように、人間の王様をもとめて、自分たちもその人間の王様によって戦争に勝ち、パンが満たされ、国の繁栄を見たいと求めたのでした。それに対して神が警告しても、それでも彼らは王様を求めました。そのように目の前の人間中心の欲求のままに彼らは背が高くハンサムな好青年、立派でたくましいサウルを選んで、彼が王様として立てられましたが、しかしその王は、やがて民のパンを満たすどころか、パンを奪うものになりました。彼は神の言葉を軽んじ退けました。そのイスラエルの王様の子孫たちは、ダビデ以外は、皆、神を捨て、偶像礼拝に走り、結局は、民が自由に偶像礼拝するような国を造りました。そのダビデでさえも、神でも聖人でもなく、罪深い王であり不完全であったことが沢山書かれています。その結果、黄金のイスラエルは滅んでいったのです。地の塵から生まれ、そして堕落し罪人となった人間は、それが、いかに、どんなに優れて立派でカリスマのある先生であったとしても、たとえ約束の預言者であったとしても、どこまでも人であり一人の罪人です。神ではありません。決して救い主にはなれません。

B,「ヨハネは証しする:真の光、救い主は天から」

 聖書は何といっているでしょうか?救いは神から、救い主は天から来る。天から与えられる。聖書ははっきりと伝えているでしょう。使徒ヨハネはその福音書で、どのように私たちに伝えているでしょう。ヨハネによる福音書1章6節からですが、

「6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:6〜9節)

 「彼は光ではなかった」とあります。そしてその光は、そのお方、救い主は、天から来られることを示しています。さらにヨハネの福音書3章27〜30節ではバプテスマのヨハネ自身がこうイエスを指し示しているでしょう。

「27ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。 28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」」(ヨハネ3:27〜30)

 「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」、「私はメシアではない。」、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」ヨハネ自身がそう伝えるのです。ルカの福音書でも一致しています。3章16節

「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

 ヨハネは自分でも言うように、救い主ではありませんでした。彼自身授けている洗礼さえも、人を救う洗礼ではありませんでした。彼は立派な先生でした。彼の語る言葉は立派な「律法の」ことばでした。模範的な聖い生活もしていたでしょう。しかしそのバプテスマのヨハネ自身も、彼の言葉も、彼の洗礼も決して人を救いません。たとえ彼のアドバイスするその通りに完全に行いができたとしても、それが人を救うのでは決してありません。いや、救うことは出来ないのです。律法は人の不完全さ、神の前にあってどこまでも罪人であることを示すだけであり、決して人を救わないのと同じです。私たちの救いは、バプテスマのヨハネが、そのように道を備え、指し示す、福音、天から来られた神の御子「イエス・キリスト」のみである。その天の御子があたえる、聖霊と火のみことばによる洗礼によってこそ、あなたがたは救われるんだ。バプテスマのヨハネ自身がそのようにイエスを教え、イエスを指し示し、ルカはそのことを私たちに書き記しているのです。

5、「この方を見よ:神からの約束の成就:ヨハネはその方を指し示す」

 さらには、22節では、イエスが洗礼を受けたとき、天からイエスに呼ぶ声がしたことが書かれているでしょう。「あなたは私の愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と。まさに、天からです。そしてヨハネはこのことを証してイエスを指し示しました。ヨハネ1章29節以下ですが、

「29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。〜「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」」(ヨハネ1:29〜34)

 バプテスマのヨハネが指し示す先、そして使徒ヨハネも、そしてルカもこの3章で、ヨハネのその指し示す指を用いて、私たちに指し示しているでしょう。すぐれた先生であるヨハネがキリストではない。私たちが捜し求め、信じるのは、地から生まれ出た王や優れた先生ではない。王も優れた先生も人であり神の前にどこまでも罪人であり、人は誰も自分自身でさえも誰も救うことは出来ない。彼らは救い主ではない。このバプテスマのヨハネであっても。彼は「自分はますます衰えなければならない」とまで断言しています。では、救いはどこにいるのか。救い主はだれか。それは、このイエス・キリストこそ、まことの救い主であると、彼は指し示し、ルカもそのことを示すのです。その方は確かに歴史に存在し、その十字架は確かに立っていた。その方は確かに復活されて、今もこの歴史に、私たちの間に生きておられる。だから、このイエス・キリストの救いも、みことばも、聖霊も、まさに真実であり、力があり、それが私たちに事実として与えられている。存在している事実なのだと。だからこの預言者が、聖書が指し示すお方を見よ。と。これが今日も、神が私たちにみ言葉を通して伝えるの福音のことばに他なりません。使徒たちは世界の人々にはっきりと言いました。

「12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12節)

6、「あなたはどこに救いとその確信を見るか?」

 私たちは何に救いを見るでしょうか?求めるでしょうか?何に救いの確信をおくでしょうか?自分の行いですか?自分の立派さですか?すぐれた先生ですか?王様ですか?バプテスマのヨハネですか?すぐれた先生のわざ、人間のことばや理性に救いの力があるのですか?確信があるのですか?道があるのですか?そうではないでしょう。バプテスマのヨハネはイエス・キリストを指し示しました。使徒たちも、そして歩き出したばかりの教会も、この「イエス・キリスト以外には、誰によっても救いはありません。私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていない」と、イエス・キリストを指し示しました。私たちは神ではない。イエス・キリストにこそ、あなたがたの救いがあると。ですから答えは簡単です。この方、イエス・キリストを見ましょう。その救いの約束、その成就でありキリスト自身が成し遂げたこの十字架と復活を見ましょう。人の何か、自分の何かではなく、イエス・キリストにあって確信をもちましょう。イエス・キリストのみことばと聖餐を受け続けましょう。その約束のうちに今日もイエス様は私たちに宣言し遣わしてくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひイエス・キリストに祈り、イエス・キリストにどこまでも期待し、信頼して歩んでいこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

聖餐式

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

歳時記

 <神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。 コヘレト311

柳田国男の「雪国の春」という本の中の一説に「神はなお大昔の契約のままに、定まった時をもってお降りなされることを疑わず、すなわち冬籠りする門の戸を押し開いて、欣然としてまぼろしの春を待ったのである。 」というくだりがあります。柳田はクリスチャンではありませんでした、が神のみ業を知っていたのでしょうか。雪の殆ど降らない暖国で作られた新しい暦は雪国の人々からみれば何と不適切な暦だったかと思います。確かに暦上の季節と実際の季節との乖離がとても気になることがあります。

牧師の週報コラム

ルターの御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月2日の日課から)

新年の新聞の特集に、20世紀に出現した大衆社会は国を戦争に引き込むような「勢い」を生み出してしまうことを識者たちが論じていました(朝日㋀㏢)。 「大衆」の特徴の一つに「自己懐疑の欠如」をあげる識者も。ひょっとしたらSNSはそれを助長するのではないかなどと心配になりました。そこで以下のルターの説き明かしを見れば、キリスト信仰とはいかに自己懐疑の信仰であるか、しかし、徹底した自己懐疑でありながら自己否定には向かわず自己形成に向かう信仰であるかがわかります。

「私はあなたに感謝を捧げます。私の祈りに応え、私の救い主になって下さったあなたに。」(詩篇118篇21節 フィンランドの聖書の訳から)

「神はまず初めに御言葉をもって私たちの全ての行いを裁き、私たちが持っていると思い込んでいる神聖さと知恵と力を無にされる。これほど大きな恵みがあるだろうか!神がこのようにされるのは、私たちが自身の罪性からくる罰を見ることができるためであり、また私たちの良心が震えるためであり、そして神の前に無力となった私たちがあらゆる不安と心配に晒されるためなのである。神はこのように私たちを徹底的にヘリ下させ、自分の業や知識に対する私たちの驕りと盲目な信頼を一回また一回ともみ消される。そして、それらが完全にもみ消される時が来る。私たちのこの世の人生が終わる時だ。このプロセスを忍耐強く歩み続けられる者は、神は自分にとって最善なことをされているとわかっている。それで神に感謝し賛美を捧げ、預言者イザヤと共に次のように口ずさむ。『主よ、あなたに感謝します。なぜなら、あなたはかつて私に怒りを示されましたが、今はそれを収め、私を慰めて力づけて下さったからです。』(イザヤ12章1節 フィンランド語の聖書から)

そう、怒りを転じた神は今度は私たちを慰め助けを与えて下さるのだ。それは、私たちの内にある霊と新しい人が滅びゆく肉と古い人に代わって成長するためである。このプロセスにおいて神は私たちにますます大きな豊かな賜物を与え、私たちが彼の御前でまた彼の中にあって勇気を持って立つことが出来、喜びをかみしめることができるようにと助けて下さるのだ。このように古きを脱ぎ捨て新しきを身にまとう者は次のように歌うであろう。『私はあなたに感謝を捧げます。私の祈りに応え、私の救い主になって下さったあなたに。』

このように神は私たちをヘリ下させる時、高く上げて下さるのあり、私たちを罪びとにする時、神の義を持つ者にして下さるのであり、私たちが打ち負かされるようにする時、勝利を与えて下さるのであり、私たちが泣くようにする時、喜ぶようにして下さるのであり、私たちを死に直面させる時、生ける者として下さるのである。」

DSC_3767

歳時記

繊月・二日月

<昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。詩編121:6>

大晦日が新月で元旦が初月、2日は二日月・繊月です、藤原定家も「初月糸ヨリモ繊(ホソ)ク、山ヲ去ルコト纔(ワズカ)ニ五尺」と明月記の中で述べています。実際に繊月を見るのは難しく大抵三日目の三日月を代用しています。理由はとにかく細いのです、タイミングも日没後僅かな時間にしか見る事が出来ません。定家の時代は現代と違って人工の灯りも無く夜空の観察には十分な環境だったのでしょう。

(振り放《さ》けて三日月見れば 一目見し人の眉《まよ》引き思ほゆるかな 大伴家持  万葉集 巻6-0994 雑歌 訳:振り向いて三日月を見ると一目見たあの人の眉のさまが思い出されます。)

「新年明けましておめでとうございます、本年も宜しくお願い致します。」