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主日礼拝説教 2025年2月23日顕現節第7主日 スオミ教会
創世記45章3-11、15節
第一コリント15章35-38、42-50節
ルカ6章27-38節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日のイエス様の教えはとても難しいです。どれも実行不可能なことばかりです。まず、汝らの敵を愛せよ、汝らを憎む者に良くしてあげよ、これは崇高な理想に聞こえます。実行は難しくとも理想としてなら受け入れられると多くの人は考えるでしょう。ところが、その後から大変になってきます。汝らを呪う者を祝福せよとか、汝らを侮辱する者のために祈れとか。お前なんか地獄に落ちろと罵る奴になんでまた、神様あの人を祝福してあげて下さいなどと祈らないといけないのか?言葉や暴力で傷つける奴のためになんでまた祈ってあげないといけないのか?極めつきは29節です。汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返ししないどころか、こっちの頬もどうぞ、とは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分のしたことの愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなればいいですが、果たしてそんなにうまくいくものだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちの頬も殴ってやろう、となってしまわないか?イエス様は少し考えが甘いのではないか?
これに続く教えも無茶苦茶です。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者には与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。そんなことでは泥棒や強盗にさせたい放題ではないか?十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを守らない者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければならないと言ったら、誰もキリスト信仰者になりたいとは思わないでしょう。さあ、困りました、どうしましょう。実は、イエス様はこれらの難しい教えを通してキリスト信仰者が物事を見る視点、キリスト信仰に特有な視点について教えているのです。自分には出来ないと言ってここをスルーするのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様が教えようとしている視点とは何か、考えなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。
イエス様の実行困難な教えは他にもいろいろあります。どれも聞く人読む人にショックを与えます。一つの例として、金持ちの青年がイエス様に永遠の命を得て天の御国に入れるために何をすべきかと聞いた出来事があります(マタイ19章、マルコ10章、ルカ18章)。本日の日課ではありませんが、その出来事でイエス様が教えていることがわかると今日のところで教えようとしていることがわかってきます。これは、聖書を理解する際には聖書の他の個所を基にして理解するというやり方です。聖書の解釈は聖書にさせるやり方です。
イエス様は金持ちの青年に十戒を守れと言います。青年はそんなものは子供の時から守ってきた、まだ何が足りないのかと聞き返します。それに対してイエス様はこう返しました。「お前には足りないことが一つある。全財産を売り払って貧しい人に分け与えよ。そうすればお前は天に富を積むことになる。それから私に従ってきなさい。」青年は悲嘆にくれて立ち去って行きました。
このイエス様の教えは2つのことを明らかにしています。その2つのことが本日の箇所を理解する鍵になります。一つは、人間は救いを自分の力で獲得することはできないということ。神が用意して下さったものを受け取ることでしか救いは得られないということです。もう一つは、人間は賜物を賜った神よりも賜ってもらったものに固執してしまうということ。賜ってもらったものに固執して賜ったお方を忘れるようになったら神は賜物を取り上げることも辞さないということです。
まず、人間は救いを自分の力で獲得できないということについて。それならば救いはどうやって得られるのでしょうか?それに答える前に、そもそも「救い」とは何かわからないと話になりません。重い病気が治ったりすると、大抵の人は「救われた」と言います。もちろん、そういう切実な願いが叶うのは大事なことです。ただ、キリスト信仰で「救い」と言ったら、もっとスケールの大きな話です。それは、いつか将来今ある天と地がなくなって新しい天と地が創造されて復活の日という日が来る、その時に死の眠り復活させられて、本日の使徒書の日課(第一コリント15章)で言われるように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる。これがキリスト信仰の救いです。
そう言うと、救いとは遠い将来のことで新しい天と地が出来た時のことか、それじゃ今のこの世の人生には救いはないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かって進む日々になります。復活させられて神の御国に迎え入れらえる日を目指して、今はこの世で父なるみ神の守りと導きの中で日々を進んでいきます。ただ、神が守って導いて下さるとは言うものの、苦難や困難に出くわすと守りなんかないと疑ってしまいます。しかし、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることです。それなので、神の守りと導きは時として私たち人間の理解を超えた仕方で現れます。そのことについて本日の旧約の日課、創世記45章でヨセフが最高の信仰の証しをしています。それについては後で見てみましょう。
キリスト信仰では救いとは、将来の復活の日に復活の体を着せられて永遠に神の御国に迎え入れらえる、それで今のこの世ではそこに至る道を神の守りと導きを受けながら進むことができる、これがキリスト信仰の救いです。
この救いは人間の力では獲得できません。それを肝に銘じておかないと金持ちの青年のようにしっぺ返しを喰らってしまいます。それでは、なぜ人間の力では獲得できないのか?それは、人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持っているために神との結びつきを絶たれて復活に与れない状態になっているためです。その状態を神のひとり子であるイエス様が解消してくれたことによって人間は救いを獲得できるようになったのです。イエス様はどうやって解消したのでしょうか?それは、人間が受けるはずの罪の神罰をゴルゴタの十字架で私たちの代わりに受けて下さったことによってです。そこで、今度は私たち人間がイエス様の死は本当に自分のための犠牲の死だったとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様の果たしてくれた罪の償いがそのままその人に入ります。それでその人は罪を償われた者になって、神との結びつきを回復できて復活の日に向かって神の守りと導きの中で進んでいくことになります。このようにイエス様が果たして下さった罪の償いを信仰と洗礼で自分のものにする。このようにキリスト信仰では救いは神主導です。人間はヘリ下って受け取る立場です。
金持ちの青年の出来事が教えているもう一つの大事なこと、人間は賜物を賜った神よりも賜物の方に固執してしまうことについて。神は固執する対象を訂正するために手荒いことをします。賜物に対する執着が強ければ強いほど、神の是正は痛いものになります。金持ちの青年の場合がそうでした。たとえ賜物を持っていてもそれに固執しないで神に固執する心を持っていなければならないのです。宗教改革のルターはその心は次のようなものだと教えます。
「私には神が与えて下さった良い賜物が沢山ある。しかし、それらは私が喜びをそこからしか得られないと思ってしまう位に愛しいものになってはいけない。私はそれらを、神がお許しになる期間大事に用いよう、神の栄光が増し加わるように用いよう、自分の必要を満たす以上には用いず、隣人の役に立つように用いよう。もし神が賜物をお与えになるのをやめると言われるのなら、私はそのために起こる危険や不名誉を甘んじて受けよう。というのは、賜物を与えて下さった神を持たないというのは恐るべきことで、それに比べたら賜物を持たない方がましなのだから。」
本日の福音書のイエス様の教え、奪う者から取り返すな等の教えは、十戒を思い出せば神が盗みや強奪を放置せよなどと言うつもりはないことは明らかです。それでここは、人間が神を脇に追いやって賜物に執着してはならない、終着している限りそんな賜物は取られ奪われて当然だということをショッキングな言い方で教えていると理解すべきです。そこで、もし逆にルターが教えるように神に固執して賜物を持っていたのに、不当な取られ方、奪われ方をされたらどうするのか?つまり、賜物が取られ奪われるのが当然ではない場合です。それは正義の問題になります。次にそれを考えます。
まず、敵を愛せよ、頬を差し出せという教えを見ます。これらも、この箇所だけで考えず、広く聖書の観点で考えます。イエス様はマタイ5章でも同じことを教えていました。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせるとも言っていました。これを聞いたり読んだりした人は、神の寛大さ、心の広さに驚くでしょう。しかし、よく考えるとこれはどうだろうか、こんなに悪人に気前よくすると悪人をいい気にさせてしまわないか、神は罰を下さず見逃してくれるとつけあがってしまわないか?これでは正義がなさすぎるのではないか?
しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです(神がそのような考えを持っていることはエゼキエル書18章23節と33章11節を見れば明らかです)。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを台無しにすることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。
敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に向かって、あなたを愛しています、などと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。目を覚まさなければなりません。神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、あの人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るようにしてあげて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。
ここで一つ気になることが出てきます。それは、こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、危害を及ぼすこと自体に対しては何もしなくてもいいのかということです。そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けがなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけないというのが神の意思である以上は、傷つけることを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論が起きてきます。そんな程度では納得できないということも出てきます。逆に、それは行き過ぎだということも出てきます。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の考え方の土台にあるのは、自分で復讐しないということです。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分だった補償は完全なものにされて永遠に続きます。逆に不十分だった罰も完全なものにされて永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。
キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それは復活と最後の審判で神が実現する完全な正義を信じているからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからそうしてあげる、ということもあるかもしれません。しかし、危害が大きければそんな気持ちは起きないでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。
復讐心で行わないということには、神がそうせよという命令があるからですが、もう一つ大事なことがあります。それは、キリスト信仰者が神から罪の赦しを受けた立場にあるということです。神から罪の赦しを受けたことがどれほど大きなことかがわかると復讐心が膨張するのを抑える力になります。神聖な神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで私は神の意思に反する罪を持っているにも関わらず、神は復活の日に向って進む私を毎日支え守り、道を迷わないように導いて下さっている。そこはこの世の不完全な正義が完全にされて全ての涙が拭われるところだ。至らないところが沢山ある私だが、イエス様がこの私のためにも成し遂げて下さった罪の償いを肌身離さずつけて生きている。その私を父なるみ神は毎日支え守り導いて下さる。
本日の福音書の日課の後半で、「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」この教えはまさにキリスト信仰者に向けられています。十字架と復活の出来事が起きる前にこれを聞いた人たちは何のことか全然意味が分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後で、この地上に罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は神から復活と完全な正義に至ることができる大いなる赦しを頂いたのです。この信仰に留まり復活の希望を携えて神の守りと導きの中で進む者は、もう裁かれず罪びとに定められず赦されているのです。そのような人が、私はあいつを裁く、罪びとに定めてやる、赦さないなどと言ったら、神はがっかりでしょう。私がお前にしたようにお前も周りの人たちにすべきではないか、と言われるでしょう。イエス様の教えは、私はできない、できない、絶対できない、と言い張る人への警告です。もちろん、受けた危害の大きさが甚大ならば赦すなんて簡単なことではありません。しかし、罪を赦すとは罪を許可するという意味ではありません。罪は罪として、この世では不完全かもしれないが罰せられねばなりません。これはキリスト信仰者も否定しません。ただそれを復讐心と無関係に行えるようにする、心と目を復活に向けて復讐心から解放されて行えるようにするということです。そのために神がイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせて下さったのです。この世では正義は不完全なものだが、キリスト信仰に立って最善を尽くし、足りない部分は後で神に清算してもらうということです。
本説教で、キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かって進む日々である、復活させられて神の御国に迎え入れられる日を目指して、今はこの世で神の守りと導きを受けながら進む日々であると申しました。苦難や困難に遭遇すると守りや導きを疑ってしまうかもしれませんが、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることである、それなので神の守りと導きは時として私たちの理解を超えた仕方で現れることがあるとも申しました。本日の旧約の日課、創世記45章のヨセフの信仰の証しがそれを示しています。愛のない兄弟たちの策略でヨセフはエジプトに奴隷として売り飛ばされ、苦難に次ぐ苦難を受けます。しかし、最後にはエジプトの王ファラオに次ぐ高官に任命されるまでに至ります。その時、カナン地方を大飢饉が襲い、兄弟たちは食糧援助を求めてエジプトに来ました。今自分たちの目の前にいる高官がヨセフとわかって彼らは激しく動揺します。しかし、ヨセフは言います。あなたたちが私をエジプトに追放したのではない。後にあなたたちを救うために神が私をエジプトに送ったのだと。ヨセフは、兄弟たちに裏切られて売り飛ばされた時も、その後のエジプトでの様々な苦難の中にあっても、神がそばにおられることを信じて疑わなかったのです。もし疑っていたら、様々な誘惑があった時、神の意思に沿うなど意味がないと背いてしまったでしょう。しかし、背きませんでした。それは、まさに今日の詩篇の日課37篇にある、「主に信頼し、善を行え」という御言葉、「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように輝かせて下さる」という御言葉の通り、神に信頼して善を行い、そしてその正しさが光のように輝いたのでした。
こう言うと、ヨセフの場合は運よくそうなったが、神に信頼して善を行ってもみんながみんなハッピーエンドにはならないと言う人も出てくるでしょう。ああ、信仰の薄い者たちよ、そんなことを言うあなたがたは、なぜイエス様が十字架と復活の業を成し遂げられたのかまだわからないのか?復活というものが本当に起きることが明らかになった以上は、正しさが光のように輝くのはたとえこの世の段階でなくても遅くとも復活の日に完全に起こるということがわからないのか?
だから、神を信頼して善を行うことは何も心配しないで行って大丈夫なのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
聖餐式
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
Huhtinen夫妻
2月2日のヘルシンキ聖心教会のミサの様子をビデオを観ていたら最後のところでHuhtinen夫妻が「この青い空の下に」を合唱されていました、始めは聞き慣れないメロディーでしたが直ぐにあの「この青い空の下に」と気がつきました。お二人の見事なデユエットに耳を澄ませて聞き入っておりました。
ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月14日の日課から
重い皮膚病を患っていた10人をイエス様が癒す奇跡を行った時のこと。
「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。」ルカ福音書17章15節
以下、ルターの説き明かし
『福音書は、鍛えられて経験を積んだ信仰がどんな業を行うかについて教えてくれる。ある人たちは神のために教会を建て、別の人たちは神のために教会の鐘をならし、他の人たちは神のためにロウソクに火を灯す。あたかもそうすることで神がよく見えるようになるかのように。彼らが行う業は実は、神というのは我々から良いものとお仕えを必要とし、それらがないと何もできないような子供扱いでそうするのである。
神への正しいお仕え、正しい礼拝とはそのようなものではない。神のもとに戻り、声高に神を賛美することが神への正しいお仕えであり礼拝である。それこそ、天においてもこの地上においても最も偉大な業であり、我々が神に対して成しえる唯一の業なのである。その他のものを神は必要とはしていない。神がなさることは、我々の神に対する愛と賛美を受け取ることだけである。
神のもとに戻るというのは、神から頂いた恵みとその他の良いものを神のもとに持ち帰ることである。それらのものを自分のもとに留めないことである。それらにしがみつかないことである。それらのゆえに他人に対して優越感を抱かないことである。それらをもとにして栄光を求めないことである。いかなる点においても他の人たちよりも優れた者として立ち振る舞わないことである。それらをもとにして自分を愛することをしないことである。そういう自己愛を享受しないことである。享受、自己愛、誇り、栄光は全て、それらを与えて下さった神のところにあるのが当然である。我々のところにあるべきものではない。だから我々は、神は私たちに与えた賜物をまたご自分のもとに引き戻される方でもおられるのだということを心に留めてこの真実に下に自分を服させていよう。そして神がそうされる時も、賜物があった時と同じ位に神を賛美し愛そう。しかし、実際どれくらいの者がこのように神のもとに戻るだろうか?10人のうち一人でもいたらいい方だろう。』
ストールを編んでみませんか。
2月の手芸クラブは1月に始めたストール編みの続きです。表面が網のようになるテクニックを使ってストールを編みます。
フィンランド語で「Silmukannostoneule」という編み方です。詳しくはクラブでご説明します。
持ち物: モヘア毛糸40g
メリノ毛糸または他のウールの毛糸30g
毛糸に合わせて編み棒2本
参加費: 1000円
毛糸のご用意が難しければ、こちらで用意しますので、お好みの色をお知らせ下さい。申し込みの際にご連絡くだされば幸いです。
手芸クラブは、お子さん連れの参加も歓迎です。 皆様のご参加をお待ちしています。
おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話もあります。
お問い合わせ お申し込み if.ye1744958991ls@ar1744958991umihs1744958991oy.iv1744958991iap1744958991
電話03-6233-7109 福音ルーテルスオミ・キリスト教会
聖書ルカ6章17~26節 2025年2月16日(日)
題:「まことの幸に生かされる」
今日の聖書はルカ福音書6章17節~26節です。17節を見ますと「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」とあります。山から下りてこられ、とあるのは、その少し前の12節を見ますと、その事情がよくわかります。12せつには「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」とありますようにイエス様は人里離れた山に登って夜を明かして祈りに没頭されたのです。何を祈られたのでしょうか。今日の聖書のところで多くの病人や精神的に苦しみの中にある悪霊に取り付かれた人々をも、次々と病を治されていますから、多くの人々の救いを求めるのに対する哀れみの思いがいっぱいにあって夜通し父なる神にお祈りをされたのではないでしょうか。一人の人間では限界があり、そこにイエス様と共に協力して働きまたご自分の後を次いで行く弟子という者を12人選んで使徒と名付けられた。ルカはその弟子と選ばれた人の名をきちんと書き記しています。(6:14)にあります。
さて、夜が明けてイエス様は山を下り山腹の平らな所にお立ちになった。そこには数多くの弟子たちとユダヤ全土から、また都のエルサレムから、そして異邦人の地ツロやシドンの海辺の地からも群集がイエス様のもとに集まって来た。そうしてイエス様から病を癒してもらいたい、またイエス様の教えを聴きたいと群集は我も我もとひしめき合ったのです。そして、汚れた霊に悩まされた精神病者さえもが、たちどころに癒されていったのです。飼う者のいない羊のような群衆の様を哀れんでイエス様はそのひと時を病の治療の業に超多忙な時を過ごされたでしょう。それが一段落ついたところでイエス様は目を天にあげ、そして弟子たちを見て語りだされたのです。それが「山上の垂訓」として知られる教えでありました。イエス様は、まずどんな人が幸福であるか、どんな人が不幸であるか、というこの問題から語り始められたのです。
幸福な人はどんな人か、「貧しい人々」「いま飢えている人々」「いま泣いている人々」「人々に憎まれ、また人の子のために追い出され、罵られ汚名を着せられている人々」であると言われます。これに反して不幸な人は「富める人々」「いま満腹している人々」「いま笑っている人々」「全ての人々から褒められている人々」であります。以上ここで上げられた人々に対するイエス様の痛烈な言葉は甚だしく常識とは異なるもので意表をついた言葉でありました。しかもそれは余りにも人々の持っていた人間の常識とは異なる内容でありましたから人々の魂に深く突き刺さった言葉であります。これらのイエス様の教えの語り方というものが逆説的な言い方で人々の注意をひく語り方でありました。一言で言えばイエス様の教えは人々の常識とはとても似ているとは言えない厳しい断言であります。更には幸福な人々と不幸な人々についてその理由がずばりと単純に示して語っておられるのであります。
まず幸福の方では。
次に不幸となる人々について。
こうして見て来ると現在と将来に於ける位置が転倒しているのです。ここでイエス様が言っておられる「いま」と言うのは何時であろうか。また将来とは何時のことであろうか。
<例えば>
2)番目に言われた、いま飢えている人々と言っても現在はそうであるかもしれない…で
も後に将来には食物を得ているかもしれない。同じように、いま泣いている人についても色々変化するかもしれない。…様々です。端的に言って「いま」と言われる事はこの世の事です。「将来」は天の御国であります。この世での貧しき人々が所有するのは結局「神の国」です。また迫害される者の受ける報酬は天に於いて大きな測り知れない報酬を受ける事もなります。不幸となる人々はこの世で富める者、満腹している者、笑っている者、これらの人々はやがて将来、死後に於いて満腹していた者が飢えるようになり、笑って威張っている者たちは泣き悲しみ苦しむ事になる。確かにいま現実のこの世で貧しい人々はまず食べる事に困っている。着るもの衣服も充分でなく、住む所も困っています。お金さえあれば…と嘆きます。しかしこの世でのものは天の国に於いて逆転ししまう。ここで思い出しますのは、ルカ福音書16章19節から31節にあります、「金持ちとラザロ」のたとえ話です。この例えでみられます、金持ちは金で自分の欲するものは何でも手に入れられ贅沢に暮らしていた。けれども死んだ後の世界では金で買えるもの、欲望を満たす全ての物という物は何も無いのです。人がこの世を終え死んだ後あるのは魂だけです。まことの幸せは聖なる霊の愛に生きる事です。そこでこの世でいま生きている者に向かってイエス様は教えられます。弟子たちに向かって語られています。権力がなくても、お金がなくても、貧しい人々よ耐え忍びなさい。やがて天のン野国はあなた方のものです。真の幸福そのものです。
いま、イエス様は押し寄せてくる群衆の病を癒し、力を与えて言われました。弟子たちに向かってはこの世の困窮には耐え忍び、また迫害されても、その苦しみに耐え、天の御国のまことの幸いを宣べ伝える者になりなさいと、教え給うたのであります。群集は病の治療を求めて来ます。しかし一時的な救いであります。結局は人の肉体は病気の前に屈服して死ぬ事は免れない、誰でもいつかは死を迎えます。一方イエス様が弟子たちに与えて行かれるものは永遠的なもの、絶対的なもの、天国の福音であります。弟子たちはこの福音を教えられ、自らまことの幸福者になって人々にその福音を伝え、まことの幸福者とらせること。彼らはその使命をイエス様から託されたのです。イエス様はユダヤ全土から続々と集まって来ていま身許にいる群衆を哀れみ、その苦しみ、病を癒し教えを語り給うた。これらの民衆はその身に負うている病と、その貧しさ、その人生の様々な苦難を背負っていま救い主イエスのもとに来てイエス様に触れイエス様の救いに接することが出来たのであります。その意味に於いて彼らは宮殿に座して錦の着物を着ている者たちよりもまことに幸福でありました。これに反して富んでいる人々、食べるものに飽きるくらい好みの飲食に満たされている人々、或いは人生を快楽と栄誉の中に過ごしている人々。彼らはイエス様のもとに来る動機も持たず、金など自分の思いのままに何でも出来るのですから、イエス様の救いに触れる機会も全く無い。天国の福音を聴く機会すらも全く無い。機会すらないのです。束の間のこの世の快楽も死を持って終ります。それ故彼らにはまことの幸福はない。むしろ災いと不幸でしかないのであります。人が幸福か、不幸であるかはイエス様の身許に来るチャンスを持つかどうかで決まるのあります。
現代で言うならば、天の御国の救いに神の言葉である教説が語られている教会に来る事が出来るか、神の御言葉に触れ聖霊の導きによって信仰へと導かれ、これまでの古い人生から全く新しい人生の生き方へと変えられることが決定的な天の御国の約束と希望に満たされる真の幸福者となる事であります。この世は金と物質、ものが支配する世界です。嗚呼
お金があったらどんなに幸福か、その、この世は既に過ぎ去り死を迎えたら物質の支配は一切ありません。魂の世界、霊の世界です天の御国の支配に一番大切なものは、ただ愛の世界であります。救い主キリストを信じてキリストの愛に生かされるために、この世は愛も訓練の場でしかありません。愛を持って栄光をあらわす永遠の時であります。だから、イエス様は教え給うのです。嗚呼なんと幸せな人々、貧しい人々よ、神の国はあなた方のものです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
今年最初の家庭料理クラブは2月8日に開催されました。今回は寒い季節にも合うフィンランドの伝統的なカルヤラン・ピーラッカを作りました。カルヤラン・ピーラッカは日本でも近年よく知られるようになったので多くの方々が興味をもって参加されました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にピーラッカの生地を作ります。材料を順番にボールに入れて捏ねていくと生地の出来上がりです。それを、作るピーラッカの個数に分けて一つ一つを丸め、麵棒で薄く伸ばします。参加者の皆さんはカルヤラン・ピーラッカ用の麵棒で生地をよく伸ばせるようになって、薄い皮がどんどん増えていきます。その次は、丸形の薄めの生地の上にお米のお粥をのせて広げます。それから、ピーラッカの周りの皮を人差し指で閉めていくとピーラッカの形になっていきます。
きれいな形に作るのは難しいですが、皆さんとても上手に作っていました。そうして、鉄板にはきれいな形のピーラッカがあっという間に沢山並びました。ピーラッカは300℃くらいの高い温度のオーブンで焼きます。しばらくして台所から美味しそうなピーラッカの香りが漂ってきたので味わうのが待ち遠しくなってきました。ピーラッカを焼いている間に玉子バターを準備します。焼き上がったピーラッカに溶かしたマーガリンを塗って出来上がりです。
お皿の上に玉子バターとサーモンをきれいに盛りつけてピーラッカを美味しく頂きながら歓談の時を持ちました。最後にカルヤラン・ピーラッカの歴史やカルヤラの人たちが大事にしていたもてなしの心、そして聖書の「マルタとマリア」のお話を聞きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さまに感謝します。次回の料理クラブの日程は未定です。決まりましたら教会のホームページに案内を載せますのでどうぞご覧ください。
カルヤラン・ピーラッカはフィンランドの食文化のシンボルです。それは歴史を辿ってフィンランドの国民食になりました。カルヤラン・ピーラッカは、フィンランドの東にあるカルヤラという地方から始まり、もともとはただピーラッカと呼ばれていました。そのピーラッカはどのようにフィンランド全国に広がって国民食になったでしょうか?
第二次大戦でカルヤラ地方の一部はソ連に取られてしまいました。そこに住んでいた人たちは自分の故郷を去らなければなりませんでした。当時フィンランドでは他のヨーロッパの国々と違って難民の人たちに一時的な住まいを建てることはしませんでした。彼らをフィンランドの西の地域の家庭に分散して住まわせたのです。それで東と西の地方の人たちは一緒に暮らすようになって、ここから二つの文化の出会いが始まったのです。食文化はその一つです。新しい地域に移住したカルヤラの人たちはカルヤラン・ピーラッカやパンを自分の故郷と同じように作るようになりました。出来上がりのカルヤラン・ピーラッカを住まいを提供している家族の人たちにも分けて一緒に食べました。フィンランド人は最初はカルヤラン・ピーラッカをそれほど美味しいとは思いませんでした。彼らは「パンはパンとして、お粥はお粥として食べるものだから。」と言っていました。カルヤラン・ピーラッカのようにパンとお粥を一緒にした食べ物には馴染みがなかったからです。しかし彼らもカルヤラン・ピーラッカの味覚が好きになっていつの間にか全国に広がっていきました。そして、カルヤラ地方の伝統的な食べ物だったカルヤラン・ピーラッカは、今ではフィンランド全国にとって伝統的な食べ物になったと言える位、とても一般的な食べ物になりました。
カルヤラの人たちが食文化の他に大事にしていたことがあります。それが、彼らがもてなしがとても上手でもてなしは彼らのライフスタイルと言われていました。1925年に出版された雑誌には「カルヤラの人たちにはもてなしの心がある」と書かれていました。彼らは自分の故郷を去らなければならなず、いろいろなものを失われましたが、滞在した場所でももてなしを大切にして作ったものをいつも分けて一緒に味わいました。カルヤラの人たちを通してフィンランド人のもてなしが豊かになったかもしれません。
フィンランドでは昔は近所の人たちはお互いに尋ね合ったりしてもてなしを大事にしていました。お客さんにいつもコーヒーの他にお菓子を何種類も出しましたが、「家には何もないんです」などと言っていました。
現在はもてなしの仕方はもっと簡単になったと思います。
もてなしは聖書の中にもよく出てきます。一つ有名な「マルタとマリア」のお話を紹介したいと思います(ルカによる福音書10章38-42節)。
ある日イエス様は弟子たちと一緒にマルタとマリアという姉妹の家を訪問しました。マルタとマリアはイエス様の親しい友達でした。イエス様と弟子たちは家の中に入ると、お姉さんのマルタは美味しい食事を出したかったので、すぐもてなしの準備を始めました。マルタにとってイエス様は有名なお客様だったので、良いもてなしをしたかったのです。でも妹のマリアはどうしたでしょうか?マルタが驚いたことに、マリアは食事の準備を手伝わないで、イエス様の足元に座って、弟子たちと一緒にイエス様の教えを聞いていたのです。忙しくしていたマルタは、イライラしてしました。それでマルタはイエス様のところに行って、マリアも一緒に食事の準備をするように言って下さい、とお願いしたのです。この場面を考えると、マルタの気持ちがよく分かります。一生懸命もてなしの準備をしていたのに、マリアが手伝わないでただイエス様の足元に座っていたのです。これではイライラしてしまうのは当然でしょう。もし私がマルタの立場でしたら、同じように考えたと思います。
イエス様はマルタにどのようにお答えになったでしょうか?「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それはとりあげてはならない。」このように優しくお答えになりました。イエス様の答えはきっとマルタを驚かせたでしょう。イエス様の答えは何を意味しているでしょうか?イエス様はマルタのことを批判することではなく、マルタがやっているもてなしの準備をやめなさいとは言いませんでした。それではなくて、「しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」とおっしゃったのです。料理とか、もてなしとか、生活の中で必要なものは私たちにとって大事ですが、それらよりもっと重要なことがあります。それはイエス様が教えられたように天と地と人間を造られた神様について知って信じることです。マリアはイエス様の足元に座ってイエス様のお話を聴いていたのはこの為だったのでした。
イエス様がおっしゃった「良い方を選んだ」とはどんな意味でしょうか? それは天の神さまの側にいて神さまのお話を聴いてその話を通して癒されることです。そして、神様の計りしれない愛を知ってイエス様を通して与えて下さる救いを受け取ることです。神さまは愛と救いを聖書のみ言葉を通してもっと豊かに与えて下さいます。イエス様が言われたように「取り上げてはならない」ものです。
故郷を失ってカルヤラの人たちがカルヤラン・ピーラッカを作って住まいを提供してくれた人たちに分け与えたのは美しいもてなしでした。イエス様は私たちをみ言葉を通して私たしの魂に栄養を与えてくださいます。イエス様はみ言葉を通して私たちをもてなして下さるのです。そのことを忘れないように行きましょう。
聖書は原語で読めなくても大丈夫(その3)
今回は、聖書を原語で読むことの落とし穴についてです。前々回の時、原文にあたって見ると、訳の少しぼやけた感じが照準定まった感じになると申しました。一つ例をあげると、使徒言行録2章37節に「人々は心を打たれ、」とあります(新共同訳)。これは読んで違和感を覚えるところです。というのは、ペトロは群衆に向かって、イエスを十字架につけたのはお前たちだ、と言っているのに、「心を打たれ」と言ったら、群衆はそれに感動してしまったみたいだからです。ギリシャ語の動詞カタニュッソーは「突き刺す」という意味です。それで、ここは「人々は心に突き刺さるものを感じて」と理解します。
こういうふうに照準が定まることが多い反面、逆に収拾がつかなくなることも多くあります。辞書を開けば、一つの単語に沢山の異なる意味があって、どれを選んだらいいのか?文法書を開けば、この属格は主語的用法?目的的用法?所有的?部分的?材料的?解釈的?この未完了形の意味は未完了のままか間接的命令か?辞書や文法書で解明できたと思っても、次は、この句はどこにかかるか?等々。選び方次第で解釈に違いが生じるということが出てくるのです。昔、W.バウアーの世界的権威の聖書ギリシャ語・ドイツ語辞書を使って調べものをしていた時、何の単語が忘れましたが、数多くある意味の一つに「この意味はあまりにもルター派すぎる!」などと括弧書きで注釈がしてありました。
原語で読んで、どれを選んだらよいかという時はどうしたらいいのか?私はさっさとキリスト教の伝統的な信条集プラス、ルター派の信条集を意識してそれらからはみ出ないことを心がけて選ぶようにしています。そんなのは正統主義の威を借りるやり方だ、と蔑む人もいるのですが、私は、別にいいじゃん、と思っています。正統主義に囚われずに訳を追求することは偉大な挑戦です。でも、それは命がいくつあっても足りない世界なので、私は限られた寿命の中で出来ることはこれと思って今のやり方で行きます。
人によっては、偉い学者が書いた参考書をそのまま引用披露する方もいますが、それではその学者が選んだ結果を拝借するだけで自分が無さすぎます。説教者はやはり自分で悩むこともあった方がいいと思います。
あと、自分で原語で読んで理解が現代語から離れすぎていると気づいたら、他の国はどう訳しているか覗き見もします。私が対応できる現代語の聖書は日本語の他は、フィンランド語(ルター派国教会の)とスウェーデン語(Bibel2000)と英語(取りあえずNIV)とドイツ語(新約のみ、ルター訳とEinheitsübersetsung訳)の4つだけですが、必ず同志に出会えます。覗き見で一つ気がついたことがあります。日本語で説教するようになってまだ15年足らずでサンプルは十分ではないかもしれませんが、日本語と英語の訳が一致して、フィンランド語とスウェーデン語とドイツ語がそれとは違う意味で一致していることが多いと思います。もちろん、これとは異なる一致の組み合わせもありますが、大体60~70%はそんな感じです。聖書の翻訳には、日米同盟と欧州連合の対決があるみたいで面白く感じています。
主日礼拝説教 2025年2月9日顕現節第五主日 スオミ教会
イザヤ6章1-8節
第一コリント15章1-11節
ルカ5章1-11節
説教題 「『人間を捕る漁師』になる必要はない、使徒たちが投げた網にかかって罪の底から引き上げられればいいのだ」
1.はじめに
本日の福音書の個所は、イエス様が漁師のペトロに「これからお前は人間を捕る漁師になるのだ」と言って、ペトロだけでなく他の漁師もイエス様に付き従っていく場面です。これと同じ場面がマルコ福音書とマタイ福音書にもありますが、違う書き方をされています。マルコとマタイでは、大量の魚がかかったことやペトロが罪を告白することは書かれていません。彼らが把握していたのは漁師たちがイエス様につき従ったという結果だけだったようです。ルカは結果に至るまでに何があったかも把握していたのでそれを書いたということです。今日の説教はルカの個所をもとに説き明かしをしていきます。
「人間を捕る漁師」とは何でしょうか?なんだか熱心な宗教団体の勧誘員みたいに聞こえてきます。人を獲物扱いする宗教なんか誰も近づきたいと思わないでしょう。ペトロや他の弟子たちは本当にそういう勧誘員だったでしょうか?今日は、「人間を捕る漁師」とは何か考えてみましょう。
2.神聖な神を前にした時の罪の自覚と神への恐れ
舟も沈まんばかりの大量の魚が網にかかったのを見てペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫びました。ペトロはなぜ罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが告白の原因になっています。ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?
少し出来事を振り返ってみましょう。イエス様は湖の岸辺で群衆に教えていました。教えの内容は記されていませんが、4つの福音書の記述から次のような内容だったと推察できます。神の国がイエス様と一体となって到来したこと、人間は神の国に迎え入れられるために罪の問題を解決しなければならないこと、人間は神の意志を正確にわかって悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないことです。
岸辺では大勢の群衆がイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。ちょうどその時、岸辺に漁師の舟が二そう止まっていました。漁師たちが網を洗っているところでした。イエス様はペトロの舟に乗って岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教えました。ひと通り教えた後でペトロに、もう少し沖合まで漕いで網を投げるよう命じました。
しかし、ペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかったと言います。ペテロの応答にはイエス様の指示に対する懐疑が窺われます。何しろペトロはプロの漁師です。ナザレなんて山の上の町から来た者に漁のことがわかるか、そういう思いがあったかもしれません。だけど、このお方は今や律法学者を超える旧約聖書の教師として名をとどろかせている方だ。それで、あなたのお言葉ですからやってみましょう、と言う通りにしました。。
半信半疑で網を投げたところ大変なことが起きました。網が破れんばかりの夥しい量の魚がかかったのです。もう一そうの舟が応援にかけつけるも、二そうとも沈んでしまいかねない位の大量の魚で舟は溢れかえりました。まさに想定外の事が起きてペトロは怖くなって叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」ペトロは何を恐れたのでしょうか?ここでペトロがイエス様を呼ぶ時の呼称が変わったことに注意しましょう。網を入れる前はイエス様のことを指導者、リーダー、代表者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいました。新共同訳では「先生」と訳されています。それが恐れを抱いた時には一気に神を意味する言葉キュリオスκυριος「主」で呼んだのです。ペテロの罪の告白は、神に対する告白になったのです。
それでは、どうしてペトロは神に罪の告白をしたのでしょうか?ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことを見たからです。神の力が働いたのを見たということは、神が自分の間近にいたということです。
本日の旧約の日課イザヤ書6章では、神聖な神を間近にすると自分の内には神の意思に反する罪があるという自覚が呼び覚まされること、神聖さというのは本質上、罪の汚れに対して容赦しないものであること、それで神を間近にしたら自分は焼き尽くされるか消滅するという恐怖を抱いてしまうこと、そうしたことがよく描かれています。ペトロが抱いた恐れも同じでした。それでイエス様に、お願いだから私から離れて下さい、と叫んだのです。
ここで預言者イザヤに起こったことを見てみましょう。イエス様の時代から700年以上も昔のことでした。ユダヤ民族の南北の王国が王様から国民までこぞって神の意思に反する道を進んでいました。その時、預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の中に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから(4節)。」(ヘブライ語原文に忠実な訳)。まさに神聖な神を目の前にして起こる罪の自覚の悲痛な叫びです。神聖な神と罪の汚れを持つ人間の絶望的な隔たりが一気に浮かび上がる瞬間です。神の神聖さには、自分の意思に反するものを汚れとして焼き尽くす炎の力が備わっています。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇に押し当てられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、イザヤが霊的に清められたことを意味します。
このように、人間が真の神を間近にする時、神聖さと全く逆の汚れある自分を思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方です。なので、神を間近にしてしまった時、自分を神の意思に照らし合わせる人が恐れを抱くのは自然な反応です。他方で、神の意思を知らない人や知っていても自分には関係ないと言って照らし合わせをしない人は恐れを抱きません。こう言うと、私は恐れなんか抱いて生きたくないから、そんな神はいりません、と言う人も出てくるかもしれません。そこで、人間を捕る漁師になった使徒たちは何をしたのでしょうか?神への恐れと罪の自覚を呼び覚ますことだったでしょうか?
3.神に関わる真実は無かったことにはできない
イエス様につき従ったペトロや弟子たちは熱心な宗教団体の勧誘員になって人々をイエス様のもとに引き連れていったでしょうか?人々を集めたのはむしろイエス様自身でした。弟子たちが伝道のために町々に派遣されたことがあります。ただ、その時の派遣先はユダヤ民族に限られていました。活動内容も神の国が近づいたと告げ知らせることと、その近づきが本当であるとわからせるために病気の癒しや悪霊の追い出しをすることでした。弟子たちが伝道した町々の人々がぞろぞろイエス様のもとにやってきたという感じはしません。どちらかと言えば、もうすぐしたら起こる十字架と復活の出来事に備えて心の準備をさせる活動だったと思われます。
ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こると様子が変わります。ペトロと弟子たちは、自分たちの目で見て耳で聞いたことに基づいて、あのお方は本当に旧約聖書に約束されたメシア救世主だったのだ、と公けに証言し始めたのです。人々は、このような弟子たちが見聞きしたことと旧約聖書に基づく証言を受け入れてイエス様をメシア、神の子だとどんどん信じるようになっていきました。最初、彼らは一緒に神を賛美して祈り、お互い持ち物を分け合う位に支え合う共同体を形成します。この使徒たちの教えや共同体の生活態度を見てそれに加わる人たちがどんどん増えていきました。それが瞬く間のうちにユダヤ民族の境界線を超えて地中海世界へと広がっていったのです。
こうして見ると、イエス様がまだ地上におられた時のペトロたちの任務は、イエス様が教えたこと行ったこと、また彼に起こったことをつぶさに目撃して記憶することにあったと言えます。そしてイエス様が天のみ神のもとに帰られた後は今度は、自分たちが見聞きしたことと旧約聖書をつき合わせたら見事に整合性がとれて、あの方こそ約束のメシア救世主であるとわかって証言し始めたのです。ユダヤ教社会の指導層やローマ帝国の官憲からやめろと脅しをかけられ妨害されても怯まないで証言していったのです。
使徒たちが権力者に脅されても怯まずに証言することが出来たのはどうしてでしょうか?一つには直接の目撃者としての責任があります。あれだけ明白な事実だったのに無かったなどと、とても言えません。真実は曲げられないという心です。しかしながら、責任感だけだったら、命はないぞと脅されたり、または、出世に響くぞ、家族が路頭に迷うぞ、もっと大人になれ、などと言われたら心は揺れ動いてしまうでしょう。しかし、使徒たちの場合は責任感を揺るがないものにすることがありました。それは、彼らの証言する真実が天地創造の神、私たち人間を造られた神に関わる真実だったということです。それなので、自分は神に造られた者という自覚を持つと、神に関わる真実はますます無かったことにできなくなります。それで、出世なんかどうでもいい、お仕着せの大人なんかにはならない、命だって復活の日の永遠の命がある、それを諦めるようなことはしない、そういう心になるのです。
無かったことにできないという神に関する真実をもう少し詳しくみてみましょう。あのお方は十字架にかけられて死なれたが三日目に神の想像を絶する力で死から復活させられた、それを自分たちはこの目で見たということが土台にあります。それで死からの復活というのは旧約聖書の単なる文章上の事ではなく本当に起こることなのだとわかりました。あの方が復活されたことで死を超える永遠の命が本当にあることがわかりました。それで、自分たちもこの世からの死で全てが終わって消滅してしまうのではない、将来、復活の日にイエス様のように復活させられて神の御許に迎え入れられることがわかりました。この一連のわかったことが曲げられない無かったことにできない真実でした。それではどうして使徒たちはイエス様の復活があったので自分たちも復活させられる、そして神の御許に迎え入れられるとわかったのでしょうか?
それは、人間を永遠の命から締め出している原因である罪、神の意思に反しようとする性向、すなわち罪の問題をイエス様が私たちに代わって解決して下さったとわかったからです。あの方の痛ましい十字架の死は実は私たち人間の罪の神罰を代わりに受けて下さった贖罪の死であったこと、神はそのようにして私たち人間の罪の問題を解決して下さったことがわかったからです。使徒に続く人たちは、これらのことが全て本当に起こったとわかって、しかも、それらは旧約聖書で預言されていたことの実現として起こったとわかって、それで神はなんと私たちのために約束を果たす忠実なお方であるかと敬愛し、神罰を受けて下さったイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ける、そうすればイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いをそっくりそのまま自分のものにすることができる。その時、自分は復活に至る道に置かれてその道を歩み始める。ここからも明らかなように、神は信仰と洗礼の目的として復活の日に私たちを御国に迎え入れることを定めているのです。それなので、神が私たちをその道に置いた以上は、神は私たちが道を進むのをいつも何があっても守り導いて下さるのです。
4.勧めと励まし
神聖な神を間近にしたら人間は罪の自覚と神への恐れが生じます。間近になることがなくても、かの日に神の御前に立たされることを考えたら自覚と恐れを感じます。しかしながら、神への恐れで終わらないのがキリスト信仰です。神への恐れがあっても、それがすかさず神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰なのです。罪の自覚と神への恐れがあるからこそ神への愛と生きる希望が出てくると言ってもいいです。罪の自覚と神への恐れがなかったら生きる希望も神への愛も出てこないというのがキリスト信仰なのです。こう言っても、まだピンとこなければ、こう言ったらどうでしょう。罪の自覚と神への恐れが重くて下に沈めば沈むほどバネの反発力が強まってより高く生きる希望と神への愛に飛び立っていけるのだと。そのバネがキリスト信仰です。その信仰がなければ、恐れと絶望の重みに沈み込んでしまうだけか、または、そんな馬鹿々々しいことに付き合ってられないと言って離脱するかのどちらかです。キリスト信仰者は、それは馬鹿々々しいどころか、本当の生きる希望はここにあるんだとわかってそれを見つけるのです。また、神への愛を強く意識できるから、自分をヘリ下させることができて、高ぶったり苛立つ必要はなくなり、神にお任せして隣人に接することができるのです。
このように罪の自覚と神への恐れが神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰です。そうすると、人間を捕る漁師というのは、まさに罪と恐れの底に沈んでしまった人を愛と希望の岸辺に引き上げてくれる者ということになります。人を底から岸辺に引き上げる網のような道具は、聖書の御言葉です。使徒たちが目撃したこと、イエス様から見聞きしたこと、イエス様の十字架と復活を通して旧約聖書がわかったこと、使徒たちはこれらを無かったことにできない真実として人々に伝えました。彼らの命を顧みない証しや伝道を聞いた人々は真実を受け入れてイエス様を救い主と信じていきました。彼らの無かったことにできない真実が漁師の網だとすれば、その真実は全て聖書に収められています。それで聖書は使徒という漁師の網なのです。
多くのキリスト教会では今日の日課について説教する時、イエス様は人間を捕る漁師になれと言って弟子を集めた、だから我々クリスチャンは人間を捕る漁師にならなければならないと説教するのではないかと思います。兄弟姉妹の皆さん、私たちは人間を捕る漁師になる必要はありません。本当の人間を捕る漁師は直接の目撃者である使徒たちです。その証言と教えをもって新約聖書を作り上げた使徒たちです。私たちは直接の目撃者ではありません。聖書も形作っていません。私たちは、聖書という使徒たちが投げた網にかかって罪の底から引き上げられればいいのです。
聖書は原語で読めなくても大丈夫(その2)
どうして聖書は原語で読めなくても大丈夫なのか?それは、聖書は日本語ででも全体を繰り返して読んでいくと、わからない個所の理解は別の個所が助けてくれるように出来ているからです。 まさに、聖書の解釈は聖書にしてもらうということです。先週、新共同訳はヘブライ語のミシュパートをほとんど自動的に「裁き」と訳していると申しました。「裁き」とは、もともとの意味は有罪か無罪かを決めることでしたが、「お前を裁いてやる」という言い方があるように、実際には断罪の意味が強いです。それで、旧約聖書で「裁き」という言葉に出くわすと、どうもしっくりいかないことが多い。しかし、旧約聖書全体を何回も読んでいくと、これは断罪ではないと感覚的にわかってきます(因みに、私の使っているヘブライ語・英語の辞書では「正義」、フィンランド語の聖書もそう訳すことが多いです)。
そういうわけで、聖書を原語で読むというのは、全体の繰り返し読みをしないで済まそうとする横着なやり方とも言えます。
「聖書の解釈は聖書にしてもらう」という聖書の理解法の大敵は、解釈を聖書にさせず、聖書外のものでさせようとすることです。例えば、先週の例にあげた詩篇36篇6~7節について、何か「真実」をテーマにした小説を読んで大変感動したとします。それで、詩篇36篇6節の「神の真実」もそれと同じなんだと理解してしまう。(聖句は違いますが、実際にその手の説教を聞いたことがあります。牧師曰く、「これが、今日の個所でイエス様がおっしゃりたいことではないでしょうか?」) しかし、詩篇36篇6節の「神の真実」は、正確には「神の揺るがぬ頼り甲斐」です。それで、その節が「真実」のことを言っていると思い違いして、小説に結びつけてしまったら、神が御言葉を通して言おうとしていることからどんどん離れていきます。
そう言うと、じゃ、「揺るがない頼り甲斐」をテーマにした小説を読んで感動したら、それは結びつけてもいいんだな、と言われるかもしれません。しかし、それもダメなんです。というのは、詩篇で言われるように、神の揺るがない頼り甲斐は、雲にまで至るほどの高いものです。人間の頼り甲斐は背丈ほどの高さです。なので、小説の登場人物の頼り甲斐に感動したら、神の頼り甲斐はもっともっと高いものなんだ、人間の頼り甲斐でこれだけ感動したら、神の頼り甲斐がもたらす感動は計り知れないのだ、というように予感できないといけないのです。神を人間のレベルに引き下げないことです。
そう言うと、神はひとり子を人間としてこの世に送ったのだから、神を人間レベルで扱ってもいいじゃないかと言われるかもしれません。それも違うんです。神がひとり子を送った心というのは、天にまで届く「恵み」と「頼り甲斐」、聳え立つ山々のような「義」、地の底まで覆いつくすくらいの「正義」の4つを総合したものです。人間の心とは比較にならないものです。
次回は、聖書を原語で読むことの落とし穴についてお話しします。