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「わからずやの多文化主義論」

1.
フィンランドは人口500万程の小さな国である。その国内で大きなニュースになることが日本にまで伝わってくることはほとんどない。しかし、国外には伝わらないローカルな出来事でも、それが実は日本でも報じられる大きなグローバルな出来事と連動していることはよくある。その一つとして、今年の夏フィンランド国内を騒がせた「多文化主義」論争がある。

論争の発端は、政権与党の一つで移民受入れに否定的な立場を取る政党の議員がネットのブログに「多文化主義は国を害する悪である、自分は断固としてそれと戦う」という主張を載せたこと。早速メディアは沸騰し、各政党は同議員を非難し、問題の政党に説明責任を要求、各地で人種差別反対・多文化主義擁護のデモが起きた。結局、問題の議員は、「戦う」というのは暴力的手段を意味しないと釈明し、2ヶ月の党籍停止の処分を受けて一応自体は収束した。

この論争の背景には、今年激しさを増した地中海やバルカン経由で西ヨーロッパになだれ込む難民移民の大移動があるのは言うまでもない。他の西欧諸国に比して移民難民の受け入れの少なかったフィランドであるが、今年は難民申請者だけでも3万5千になるとの見通しが持たれている(10月15日の内務省発表による)。100万近くなると言われるドイツに比べれば雲泥の差だが、人口比で考えれば1億2千万の日本に84万人の難民申請者が押し寄せる計算になる。それ位の数の難民申請者がやって来たら、この世界第3位の経済大国はどうなるだろうか?経済的、精神的に持ちこたえられるであろうか?ひょっとしたら、この問いの答えは、我が国の難民受け入れ政策の実績が示しているのかもしれない。

2.
ちょうど「多文化主義」論争たけなわの頃、ある大学教授が新聞のコラムに少し軽いタッチで自分の見解を披露していた。それによると、ヨーロッパの大都市に見られるような、移民と元からの住民が別々に棲み分けがされてお互い隔絶してしまったような状況は本当の多文化主義ではない。多文化主義とは異なる文化の人たちが接触し交流し合うことを言い、そうするうちにお互いが相手の良い点を取り入れて次第に一つの大きな文化を形成していく。つまり、多文化主義とはそういう単一文化に至る過程を言うのだ、という見解であった。終わりのところで、自分は稲荷ずしとラテン音楽の愛好者である、などと述べていた。

 なるほど、自国以外の料理もよく食べ、外国の音楽を沢山聞けば多文化主義者になるのか、そうなると日本人はものすごく多文化主義的な国民ということになるが本当にそうだろうか?異なる文化というものは、各自が嗜好・愛好を取捨選択していくうちに融合・統合していくものだろうか?

例えば、宗教。どの宗教も人間は死んだらどこに行くのかという問いに答えを持っている。その答えがあるから、じゃ今生きているこの生をどう生きるべきか、ということに指針が与えられる。宗教によって死生観は大きく異なる。巷の仏教だと、人間は死んだら仏様になって33年位の修行の旅を続けて極楽浄土に到達する。その間、生きている人を見守ったり助けたりしてあげなければならない。キリスト教だと、死んだら神のみぞ知る場所で安らかに眠るだけで修行も何もしない。ただ眠っているだけ。しかし、最後の審判とか復活の日とか呼ばれる時が来たら目覚めさせられて、あとは天の御国に迎え入れられるか、または入れられないかということになる。この二つの宗教だけ見ても、果たして融合や統合の余地はあるのだろうか?

近年ではキリスト教会の中でも、極楽浄土だろうが天国だろうが最終目的地は実は皆同じで、ただ各々の宗教が違う言葉で言っているだけ、などと言う人が増えてきた。共通の目的地に至る道はいろいろあり、その異なる道がそれぞれの宗教なのだ、ということで、キリスト教は御殿場口から、仏教は須走口、イスラム教は吉田口、ユダヤ教は富士宮口、あとは頂上で会いましょう、という具合なのである(富士山登頂ルートと宗教の関係は何も考えていません)。

一見結構な話に聞こえるが、いっぱしのキリスト教徒として言わせてもらうと、天国で目にする神とは、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与え、母親の胎内にいた時から自分のことを知っていた神なのである。それが実は阿弥陀如来と同じだったと言われてもなかなか納得できるものではない。仏教の人たちだって、極楽浄土で目にする阿弥陀如来が実は、自分のひとり子を2000年位前に今のパレスチナの地に送った方と同じと言われて、はい、その通りです、と言うだろうか?

3.
ところが、このような異なる死生観を盾にして違いを強調すると、頑なになって異なる考えの相手を否定して宗教戦争が起きるのだ、と批判されることにもなる。私自身、そのような批判を受けたことがある。でも、私の死生観はあなたと全然違うのだ、と言ったら、必ず宗教戦争になるのだろうか?そうならないために、「同じ山頂、異なるルート」というコンセプトの中に諸宗教を流し込まなければならないのだろうか?それとも、頑なと言われたくないから、ものわかりよくしようとするのか?

 ここで思い出すのが、キリシタン大名の小西行長が関ヶ原後、六条河原で首を刎ねられた時の出来事である。いよいよ最期の時、徳の高い僧が近づいてきて、成仏できるように念仏を唱えてあげようと申し出たが行長はこれを断ってしまった。これは歴史史料にも記されている史実と聞いたことがあるが、実はこの出来事が30年位前のNHKの大河ドラマ「黄金の日々」にあった。観られた方は覚えておいでであろうか?高僧を前にボロボロの行長が言ったのは、「私はキリシタンだ。キリシタンに仏教の念仏など無用!」そして首を刎ねられるのである。

仏教の人がみたら、なんと恩知らずの罰当たりなことを言うのかと呆れてしまうだろう。しかし、行長としては他に言いようがないのである。死んだら神のみぞ知る場所にいて安らかに眠り、復活の日に目覚めさせられて復活の新しい体を与えられて神の御許に迎え入れられる。罪深い人間の私にそれが可能なのは御子イエス・キリストが私の罪を十字架の上で贖って下さったからだ。そういう死生観と信仰を持つ者にしてみれば、成仏とか念仏とか言われても、全く筋違いな話なのである。仏教の人から見れば、せっかく極楽浄土に行けるのにどうしようもないわからずやだ、ということになろう。キリスト教徒からみれば、死者は復活させられるのにおたくこそわからずやだ、ということなる。お互いがお互いに対してわからずやなのである。

このような「わからずや」がいると、隔絶した棲み分けをもたらすことになるのだろうか?宗教戦争の原因になるのだろうか?ここで、小西行長と一緒に首を刎ねられたのは、石田光成と安国寺恵瓊であったことを思い出そう。光成は小僧上がりの武将、恵瓊は僧出身である。二人とも仏教徒である。信仰と死生観ではわからずやの立場の者同士が、家康の覇権阻止という共通の目的のもとに共に命を賭けて戦うのである。自分はキリシタンだから仏教徒とは一緒にはやりません、仏教徒だからキリシタンは嫌です、ということにはならなかった。隔絶とか宗教戦争とは全く逆のことが起こっているのである。しかも、行長の最後の言葉が示すように、死生観と信仰に関しては、わからずやさが全身みなぎっているのである。もし、行長に「同じ山頂、異なるルート」という発想があったならば、喜んで念仏を唱えてもらったであろう。なぜなら、念仏を唱えてもらって成仏できるというのは、別ルートではあるが目指す天国に着けることなのだから。

4.
従って、異なる死生観、信仰を持つ者同士が協力・協働することは可能である。もちろん、そのような協力・協働の場では、いろいろ意見の相違も生まれてこよう。しかしその全てがそういう信条の違いによるものとは言えないのである。同じ信条の持ち主の場合でも意見の相違は生じるのだから。もちろん、死生観が現世を生きる際の指針を与える以上、信条の相違が意見の相違をもたらすことも十分ありうる。しかし、その時は、お前はわからずやだ、いや、お前こそ、と言って終わって、また協力・協働を続けるしかない。これが本当の多文化主義ではないか。「同じ山頂、異なるルート」という発想は得体の知れない単一文化主義である。

スオミ・キリスト教会の2015年度の総会

2015年度の総会が当教会の主管牧師・大柴譲治牧師(武蔵野教会)のもとに執り行われました。全ての報告、議案は滞りなく承認され総会は無事に終了しました。総会資料の閲覧をご希望の方は役員までお申しつけ下さい。

 

説教「時は満ち、神の国は近づいた」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章14節-20節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.ガリラヤ湖の岸辺をイエス様が通りかかる。そこで、漁師の兄弟ペトロとアンデレが網を投げて漁をしているのに出くわす。イエス様が、私について来なさい、お前たちを人間をとる漁師にしよう、と声をかけると、二人はすぐに網を捨てて従って行った。さらに進んでいくと、今度は漁業経営者ゼベダイが二人の息子ヤコブとヨハネさらに雇われ漁師たちと一緒に舟の中で網の手入れをしているのが見えた。イエス様はすぐこの兄弟にもついて来るようにと声をかけた。すると、これもまた、父親と雇い人たちを舟に残して従って行った。

これは一体何なのでしょう?イエス様が声をかけると、かけられた人はまるで自動反応のように従って行ってしまいます。このような自動反応的なつき従いは他にもあります。マルコ2章14節をみると、取税人のレビが税を取り立てる場所に座っていたところをイエス様について来なさいと言われて、そのまま立ち上がってついて行きました。同じ出来事を記したルカ5章28節をみると、レビは「全てを捨てて」ついて行った、とあります。二組の漁師の兄弟たちも、自分たちの生業や家族を捨てるようにしてイエス様につき従って行ったのであります。

さて、このところフランスのテロや地下鉄サリン事件の裁判の新しい動きがニュースを騒がしました。そのような時勢ですので、本日の福音書の箇所は読みようによっては、若者が何もかも捨てて宗教的な指導者に従って行ったと受け取られ、やっぱり宗教は怖い危ないという反応を持たれる向きが出るかもしれません。しかしながら、時事的な問題や出来事を土台にして宗教とはこういうものだと結論してしまうと、今度は聖書が伝えようとしていることが見えなくなってしまいます。時事的な問題や出来事はそれはそれとしてひとまず置いといて、ここでは聖書が伝えようとしていることだけに焦点をあて、その伝えようとしていることをわかるようにしていきたいと思います。それがわかったら、そこから時事的なこと周りの世界のことをどう考えていったらよいか、という判断の土台になればと願う者です。

 

2.本日の福音書の箇所の記述を見ると、イエス様とつき従って行った人たちとの間にはなんのやり取りも交わされていないことに気づかされます。「ついて来なさい」という一言でついて行ってしまいます。本当に何か不思議な力が働いて、声をかけられた人が次々と吸い取られていくようです。マルコ福音書とマタイ福音書の記述は、流れとして、イエス様はまず弟子をある程度集めてから奇跡の業や教えの宣べ伝えを大々的に行っていきます。そうすると、最初の弟子たちは、イエス様の教えも奇跡の業もまだ知らないでつき従って行ったことになります。本当に何か不思議な力が働いたとしか言いようがありません。

こういう場合、説明の仕方としてよくあることですが、4人の漁師の若者たちのつき従いを合理的に説明しようと、その時彼らがどんな社会的心理的状態にあったかを推測することがなされます。例えば、ペトロ、アンドレ、ヤコブ、ヨハネの4人は、平凡な漁師の暮らしに満たされないものを感じる日々であったとか、特にヤコブとヨハネは雇い人を持つほどの裕福な経営者の跡取りとして安定を約束されていたが心に空白を感じていたとか、まずそういうことにして、そういう時に突然声をかけてくれた人物を見ると、その眼差しに何かただならぬものを感じて、この人について行けば、きっと満たされないものを満たしてくれて本当の人生を全うできると確信して、それで全てを捨ててついて行った、という具合です。

私は、4人の若者の内面は別に分析する必要はないと思います。第一、福音書にはそのことについて何も書かれていません。書かれていないというのは、福音書記者マルコにとっては、別に知らなくても書かなくてもよいことだったのです。マルコにとっては、イエス様の呼びかけの声の中に聞く者を有無を言わせずにつき従わせる力があったことを知らせるだけで十分だったのです。

それでは、イエス様の呼びかけの声の中に聞く者を有無を言わさずにつき従わせる力があったという、その力についてみていきたいと思います。

 

3.

 最初に、イエス様が公けに活動を始めた頃の様子をマルコの記述をもとに整理してみましょう。そうすると、イエス様の不思議な力のこともわかってきます。

 イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神から「お前はわが愛する子である」と神の子の認知を受け、神の霊すなわち聖霊を注がれました。こうしてイエス様は神のひとり子としての自覚をもって、彼がこの世に送られた目的である人間救済計画の実現に乗り出しました。公けに活動を開始する直前、イエス様はユダヤの荒野で悪魔から40日間試練を受けてこれに打ち勝ちます。その時、洗礼者ヨハネが、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスによって投獄されました。領主の不倫問題に口をはさんだことが原因でした。まさにその時、イエス様はユダヤ地方からガリラヤ地方に乗り込んで活動を開始します。その時、彼が公けに宣べたスローガン的な言葉が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」でした。そのガリラヤでの活動の最初の頃に4人の漁師を弟子にして、ユダヤ教の会堂シナゴーグで教えを説き始め、さらに人前で奇跡の業を行い始めたのです。

「時は満ち、神の国は近づいた」というスローガン的な言葉は、イエス様の活動と人について端的に言い表しています。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉が使われています。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味し、単に時の流れを意味するクロノスχρονοςと区別されます。つまり、「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということであります。この「時」が洗礼者ヨハネの投獄の時と重なったのは、これは、ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに至らせる悔い改めの洗礼」を与えることができなくなった、これからはイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということであります。洗礼者ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしたのであります。

「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。言葉だけからみると、空高いどこか、ないしは宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれてしまいます。そうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また数学や物理学を使って測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定したり確定できない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたのです。そうすると「神の国」とは、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいですが、神から見たらこちらの方が裏側でしょう。神は、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えられた後、あちら側に引き籠ってしまうことはしませんでした。あちら側から絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。その中で最大の関わりは、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間救済計画を実現したことでしょう。

ところで、旧約聖書のイザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書の多くの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26-29節など)を見ると、今あるこの世は滅びるという終末についての預言があります。その時、神は今ある天と地にかわって新しい天と地を創造し、そこで唯一残るものとして現れてくるのが「神の国」です。そうすると、「神の国」とは天国のことだから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教って死んだらすぐ天国に行くんじゃなかったの?という疑問が起きると思います。実はそうではなく、「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活ということが起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることなのです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています。そうなると、じゃ、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きると思います。実はこれも、何度も教えたところですが、ルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠っているのであります。復活の日に復活の体と命を与えられて蘇らせられるということであります。

このような「終末」とか「新しい天地」とか「死からの復活」などが大黒柱になっている死生観は、日本の仏教や神道と大きく異なっています。仏教でしたら、亡くなってから33年間の修行のあと極楽浄土に入れ、神道でしたら、郷土ないし日本国全体にとって意味のある人となれば神になって神社に祀られることなります(そうすると、亡くなった人によっては、居る場所が極楽浄土と神社が指定する場所の二つを持つということも考えられます)。

話しが脇道にそれましたが、それでは、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、彼は終末が近づいたと言っていたのでしょうか?そうだとすれば、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままなので、イエス様の言ったことは当たっていなかったことになります。しかし、イエス様は少し違うことを言っていたのです。

どういうことかと言うと、イエス様の行った奇跡の業が、神の国が近づいたことと関係があります。イエス様は無数の奇跡の業を行いました。大勢の難病や不治の病の人を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、枚挙に暇がありません。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげたという人道支援の意味もあったでしょう。また、自分は神のひとり子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上にいて困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜそうしないで、さっさと十字架の道に入って行ったのか、という疑問が起きます。

イエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せた、味あわせたということがあります。神の国とは、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神によって労われるところです。神の国はまた、同じ黙示録21章4節で言われるように、神がそこに迎え入れられた者の目からことごとく涙を拭い取り、悲しみも嘆きも労苦もないところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神の手によって償われるところです。このように最終的に労われたり償われるところがあるので、キリスト信仰者というのは、この世ではとにかく神の御心に従って、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛して生きようとする。その時、人の目から見て無意味で取るに足らないことでも、神の目から見ればとても意味のある素晴らしいことである、と知っているのです。それゆえキリスト信仰者は、何かをなそうとする時、神の御心に沿うようにしよう、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛するようにしよう、そうすれば結果は期待外れでも無駄だったとか無意味だったとかいうことは何もない、とわかっているのです。ルターが言った言葉として伝えられていますが、「明日この世が終わると知っていても、今日リンゴの木を植えて育て始めよう」というものがあります。まさにそういう心意気が生まれるのです。

このように神の国とは、神の正義と栄光が貫徹されていて、そこに迎え入れられた者はこの世で受けられなかった償いと労いを最終的に全部受けられて、あらゆる害悪や危険そして死そのものがなく、永遠に平和と安心の中で生きられるところです。イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹というものもなく、自然の猛威に晒されるということもない状態が生まれました。つまり、神の国そのものがイエス様の一つ一つの奇跡の業を通して人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は神の国と共にあって歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになって目に前に現れて、「私について来なさい」と言ったら、人間は抵抗できるでしょうか?イエス様の呼びかけの声の中に聞く人を有無を言わさずにつき従わせる力があったというのは、まさにここにあります。病気が治れと言われて健康に変わったように、悪霊が出て行けと言われて出て行ったように、嵐が静まれと言われて静まりかえったように、「ついて来なさい」と言われたらついていくしかなかったのです。イエス様の眼差しとか声の調子の中に何か満たされないものを満たしてくれる何かを感じたとか、そういう感傷的なレベルの話ではないのです。イエス様の呼びかけの声の中には、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた神の力が働いていたのです。

 

4.

 そういうわけで、イエス様がこの世で活動していた時、神の国が彼と共にあったということ、彼の行った奇跡の業は、まさに神の国の実在性を示すものであったということがわかりました。イエス様に呼びかけられて自動反応のようにつき従って行った弟子たちも神の国の力を及ぼされたので、これも奇跡の業と言ってもよいでしょう。

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神との結びつきを失って神への不従順と罪を代々受け継いできました。人間は、そのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。人間は神聖な神とあまりにも対極なところにいる存在だからです。罪と不従順の汚れが消えなければ神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしても、宗教的な修行を積んでも、人間は心と体と魂に染みついている罪と不従順を消去することはできず、自ら神聖な存在に変身することはできません。

人間が神との結びつきを回復できて神の国に迎えられるように問題を解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。神は、人間が罪と不従順の汚れを自分で除去できない以上、その罰を全部自分のひとり子に請け負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。私たち人間は、まさにイエス様が十字架で流した血を代価として、罪と不従順の奴隷状態から買い戻されたのです。神は、私たちの命をそれくらい価値あるものと見て下さったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を今度は死から復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉も人間のために開かれました。私たち人間は、これらのことが自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の身代わりの犠牲に免じて罪が赦されるということが本当に起こり、神との結びつきが回復して、見事に神の国に迎え入れられるのです。私たちのために御自分のひとり子も惜しまなかった愛と恵みの神のみ名が永久にほめたたえられますように。

5.

 最後に蛇足ですが、本説教の初めで、時事的な問題や出来事のために、宗教に関わることで否定的な印象を生み出す可能性があると申しました。イエス様に呼びかけられた若者が有無を言わない状態でつき従って行ったというのは、何か宗教団体や宗教運動のいかがわしい勧誘を想起させてしまうのではないかと。しかし、イエス様がいわゆる教祖とか幹部などという宗教指導者と全く異なる方であることは、本説教からも明らかになったと思います。イエス様とは、神の国が一緒について回り、また天と地と人間を造られて人間一人一人に命と人生を与えた神の力が働いた方で、まさに神から送られた神のひとり子でした。それのみならず、最後はそうした神的なものを一切かなぐり捨てて十字架の道に入られた方でした。人間を通して生まれて人間の体を持っていたので、人間と同じ痛み苦しみを味わえる者として、本当に痛みと苦しみを味わうことになると知りながら、あえて十字架の道に入られたのです。そうしないと、私たち人間はいつまでたっても神との結びつきを回復できず神の国に入ることができないからです。手足を五寸釘で打ちつけられて、わき腹をこれでもかと槍で刺されて、本当に痛みと苦しみの中で死に絶えました。そして三日後、天地創造の神の力によって、復活の体と命をもって復活させられました。このような方に、宗教指導者という名称はあてはまりません。

 それから、イエス様に「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われて弟子になった若者たちはどうなったでしょうか?彼らは宗教団体の教祖とか幹部だったでしょうか?彼らの使命はと言えば、それは、イエス様と始終共にいて、彼の教えと業をつぶさに見聞きすること、そしてイエス様から受けた教えと授かった力をもって宣教することでした(マルコ3章13-15節)。彼らがイエス様と行動を共にしたことが、後に目撃者としての彼らの証言を生み出すことになりました。そして、彼らの迫害を顧みない命を賭した証言を聞いて、イエス様を知らなかった人たちが彼を救い主と信じるようになる、そういう連鎖反応が起こっていきました。その集大成として聖書の新約の部分ができあがったのであります。弟子たちの証言と旧約新約双方の聖書がなければ、誰も信仰を持つことができず、主が扉を開いた神の国にも入れません。そういうわけで、イエス様は神の人間救済計画そのものを実現しましたが、弟子たちは実現された救済が国と時代を超えて多くの人たちに及ぶようにする役割を担ったのであります。

 その時、彼らはどんな教えをひろめたでしょうか?それは皆様に使徒書簡をしっかり読んでいただくようお願いしたく思います。時事的な問題や出来事からキリスト信仰を捉えようとする向きには、イエス様の十字架と復活というものが本当はどんな倫理道徳を生み出すのか、一つの例として使徒パウロの次の言葉を見てみるとよいと思います。これはほんの一例です。

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12章9-21節)

 またパウロは、聖霊を受けた信仰者は、聖霊が結ぶ実を結べる器にされていくとし、その実として、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制をあげています。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


顕現節第3主日
1月18日の聖書日課 マルコ1章14節-20節、エレミア16章14節-21節、第一コリント7章29-31節 


1月17日の料理クラブの報告

1/17の家庭料理クラブは「ル―ネべリタルト」を作りました。

料理クラブ、東京、フィンランドの料理

北風が舞う寒い土曜日、牧師館の窓からは、明るい日差しが差し込む中、 最初にお祈りをして家庭料理クラブは始まりました。

全ての材料の計量をして、作業が進みます、材料の主役のピパルカックを砕いてると、 スパイスの香りと共に、クリスマスシーズンが思い出され、つい先日のクリスマスが、遠く懐かしくさえ感じてしまいました。

焼き上がったタルトの生地を冷まし、ラズベリージャムやアイシングで飾り付けをして 、 ルーネベリタルトは完成です。

パイヴィ先生から、ルーネベリタルト成り立ちや、材料の事、フィンランドの食のお話など、
興味深く聞かせていただきました。


次回2月14日(土)の家庭料理クラブは、 「ラスキアイスプッラ」(Laskiaispullat)を予定しています。 シナモンロールの生地をベースに作る、スキーやそり遊びのシーズンに食べる、 おやつのプッラになります。

説教「なぜイエス様は洗礼を受けなければならなかったのか?」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章9節-11節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるとは、一体どういうことか?マルコ1章4節に、ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を人々に宣べ伝えていたとあります。「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」とは、将来罪の赦しを得られるために、今神に背を向けて生きている生き方を方向転換して神の方を向いて生きる、その方向転換の印としての洗礼と言い換えてよいと思います。罪の赦しそのものを与える洗礼は、復活後のイエス様が命じた洗礼なので、洗礼者ヨハネの洗礼はその前段階の洗礼、方向転換の印としての洗礼ということになります。いずれにしても、イエス様のように方向転換するもなにも、そもそも神の霊によって宿り乙女から生まれ、罪の汚れもしみもない神のみ子にどうして洗礼など必要なのでしょうか?マタイ3章をみると、洗礼を受けにやってきたイエス様を目の前にして、洗礼者ヨハネはとまどって言います。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」(14節)と。

 なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか?本日はこの問いの答えを明らかにしていこうと思います。

 

2.イエス様の洗礼なぜイエス様はヨハネから洗礼を受ける必要があったのか?この問いの答えを見つけようとする場合、まず、イエス様が行ったり教えたりしたこと、さらにイエス様に起こった出来事の全ては神の人間救済計画の実現に関係があるということをよく覚えておく必要があります。つまり、イエス様の洗礼も神の人間救済計画の実現に結びついているのです。そこで初めに、神の人間救済計画とは何か、ということがわからなければなりません。それは大体以下のようなことです。

創世記3章にあるように、最初の人間が造り主である神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死する存在となってしまい、神聖な神との結びつきを失って生きていかなければならなくなってしまいました。使徒パウロが、罪の報酬は死である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は罪と不従順がもたらす死の力に従属する存在となってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金をつんでも死の力から自分を買い戻すことはできないのです。そこで、父なるみ神は、人間が再び造り主である自分との結びつきを持ってこの世を生きられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、と計画をたてられ、それを実行しました。これが神の人間救済です。

人間が神聖な神との結びつきを回復できるようになるためには、なによりも人間を罪の奴隷状態と死の力から解放しなければなりません。しかし、肉をまとい肉の思うままに生きる人間には、自身に宿る罪と不従順を取り除くことは不可能です。そこで神は、御自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪と不従順からくる罰を全て負わせて死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦すことにしました。この神のひとり子がゴルガタの十字架の上で血みどろになって流した血が、私たち人間を罪の奴隷状態から解放する身代金となったのです(マルコ10章45節、エフェソ1章7節、1テモテ2章6節、1ペテロ1章18-19節)。さらに、神は、一度死んだイエス様を復活させることで、今度は死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。人間は、神がみ子イエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取ることで、彼の身代わりの死に免じて罪を赦されて、神との結びつきを回復することができるようになったのです。つまり、救われるのです。「罪の赦しの救い」を受け取るというのは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。こうして、神との結びつきを回復できた人間は、この世の人生の段階で、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めることになります。神との結びつきがあるので順境の時にも逆境の時にも常に神から良い導きと助けを得られて生きられるようになり、万が一この世から死んでも、その時は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになります。

以上が、神の人間救済計画とその実現についてでした。それでは、イエス様が洗礼を受けたことが、この神の人間救済計画の実現にどう結びつき、どう役立ったのかをみていきましょう。

神のみ子であるイエス様は、洗礼を受けることで洗礼を必要とする人間たちと同列に加えられることとなりました。「フィリピの信徒の手紙」2章に次のように記されています。「キリストは神の身分でありがなら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。人間と同列に置かれ、人間が被る死の苦しみを自分自身被ることができるようになる。それで人間の不従順と罪から来る罰をまさに罰として引き受けることができるようになる、ということです。このことは、元日礼拝の説教でも触れました。その時は、イエス様の割礼が福音書の箇所でした(ルカ2章21-24節)。イエス様は、割礼を受けることで、外面的な印をもってアブラハムの子孫の一人に加えられ、モーセの律法の効力の下に置かれました。神聖で罪の汚れひとつない神のみ子が、神聖さを欠いて罪の汚れを持つ人間の立場を持たされました。人間の中でも、罪の汚れから贖われるために数多くの宗教的儀式をこなさなければならないユダヤ民族の立場を持たされたのです。本来ならばそうしたことは一切不要な立場にある方なのにもかかわらず、全く逆の立場を持たされることによって神からの罰を罰として本気で受け、死の苦しみを本気で受けて本気で死ぬ者になったのです。もしイエス様がこうした立場を持たされずに、単に神聖な立場のままにいたら、死も苦しみもイエス様に近寄ることはできなかったでしょう。パウロが述べたように、「律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになった」(ガラテア4章4節)のであります。ただ、何度も繰り返すように、我々と同列に加えられ人間と同じ立場を持たされたとは言っても、イエス様は不従順と罪は持たない神聖な神のみ子だったのです(ヘブライ4章15節)。そのような方が、人間と同列に加わることとなり、人間の悩み苦しみと直につきあい、また御自身も人間と同じように苦しみや試練や誘惑に直面しなければならなかったです。それゆえ、「ヘブライ人への手紙」2章18節に言われるように、主は、試練に遭う者たちを本当にわかって助けることができるのです。

人間と同列に加わったというのは、神が人間に寄り添う姿勢を示したとか、人間と連帯しようとしたなどと言うことが出来ます。ただし、ここで一つ忘れてはならないことがあります。それは、この「同列に加わる」というのは、「寄り添う」とか「連帯」という言葉では言い尽くせない、そんな言葉が生易しく聞こえてしまう位もっと大きな意味があるということです。どういうことかと言うと、先ほど、神の人間救済というものは、神が人間に与える「罪の赦しの救い」であると申し上げました。この「罪の赦しの救い」を実現するためには、誰かが人間にかわって罪の罰を受ける犠牲にならなければなりませんでした。もし罰が起きなければ、神は罪を是認したことになるからです。しかし、神は人間が背負いきれない罰を背負って押し潰されて滅んでしまうのを望まなかった。罪は断固として認めないが、しかし人間は救われなければならない。このジレンマを解決するために、神は犠牲を自ら引き受けることにしました。神の人間に対する愛が、自己犠牲の愛であると言われる所以です。しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。なぜなら、人間の罪と不従順の罰を全て受ける以上は、罰を純粋に罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の神聖な意思を示す掟です。それは、神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は、当然、律法の上にたつ存在です。しかし、それでは、罰を罰として受けられません。犠牲を引き受けることは出来ません。罰を罰として受けられるために、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。まさに、このために神の子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。そして割礼を受けて律法の下に置かれ、さらに洗礼者ヨハネから洗礼を受けなければならなかったのです。実に、そうすることで使徒パウロが述べたように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったのです(ガラテア3章13節)。イエス様が人間と同列に加わった、と言う時、私たちは、この「わたしたちのために呪いとなった」ということ、イエス様が人間に降りかかって染みついている呪いを全て自分のものとして請け負って下さったことをいつも心に刻み付けておかなければなりません。私たち人間も困窮した人たちに寄り添ったり、連帯したりします。しかし、神がイエス様を通して示した寄り添いや連帯は、もっともっと根本的なものであるということを忘れてはなりません。

 

3.イエス様が洗礼を受けたのは、私たち人間と同列に加わるという意味があったということが明らかになりました。同列に加わると言っても、とても深い根本的な意味があることもわかりました。ここで角度を少し変えて、今度は洗礼を受けた時にイエス様に聖霊が降ったり、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声も轟いたという出来事を中心にイエス様の洗礼をみていきましょう。この出来事は、本日の旧約の日課であるイザヤ書42章1-7で言われている預言の成就です。イエス様の洗礼は、預言の成就のためになされる必要があったということが明らかになります。そこで、この預言の内容を見てみる必要があります。

このイザヤ書の箇所で、神は、将来地上で活動する僕(つまりイエス様のこと)が神からの霊、つまり聖霊を受け、同時に神から特別な力を与えられて、何かを実現していくことが預言されています。何を実現するのでしょうか?

私たちの用いる新共同訳を見ると、「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返されて、神の僕が何か裁きに携わることが強調されます。しかし、これは困った訳と言わざるを得ません。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体なんなのでしょう?そもそも「裁き」とは「置く」ものなのでしょうか?裁判官や陪審員が訴訟で「判決を導き出す」という言い方はあるでしょうが、「判決を置く」という言い方はあるでしょうか?私も含めてここにいる皆さんは「裁き」という言葉、「導き出す」という言葉、「置く」という言葉のそれぞれの単語の意味はわかるでしょう。しかし、意味がわかる単語をそのままくっつけて文にした時、その文も同じように意味がわかるかというと必ずしもそうならないことがあるのです。受験の国語の成績が良い人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書のもともとの意味と同じであるという保証はどこにあるのでしょうか?

いずれにしても、私たちは、個々の単語の意味がなまじっかわかるのでそれをつなぎ合わせた文も何となくわかったつもりで読み進んでしまう。すると立ち止まって、振り返ってみるとどうでしょう。これは一体何だったのだろうということが起きてしまうのです。そういうわけで、皆様も聖書を読む際には「この箇所は一体何が言いたいんだ」という追及する姿勢をお持ちになることをお奨めします。理解が難しい箇所は無数に出てくると思います。その中でも、「ここは今の自分にとって何か大きな意味があるのではないか」というような箇所があったら、立ち止まって何度か読み返して考えてみたり、聖書の他の箇所を手掛かりにして理解できるか試みたりして下さい。神からの知恵を祈り求めることも忘れてはなりません。それでも自分の力で解明できない時は、注釈書を繙いたり、牧師先生や宣教師に聞いたりしましょう。そうすることで神の御言葉である聖書と私たち自身の関係は深くなります。逆に言えばそうしないと深くなりません。

少し脱線しましたが、イザヤ書42章の神の僕の活動についてみていきます。神の僕が携わることになると強調されている「裁き」ですが、これはヘブライ語の元の単語はミシュパートמשפטと言い、「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」という広い意味があります。その広い意味から、「裁き」とか「判決」というような限定した意味がでてきます。しかし、広い意味から限定した意味はそれだけに尽きません。「何が正しいかについて決めること」「何が正しいかということについての決定」ということを出発点にすれば、「裁き」や「判決」の他にも、「正当な要求」「正当な主張」という意味にもなるし、そこからさらに「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。他にもまだあります。参考までに、各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の新共同訳の「裁き」をどう言っているか見てみましょう。英語の聖書は大抵justice、ずばり「正しいこと」、「正義」です。「裁き」judgementとは言っていません。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Rechtで「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデンのルター派教会が使用している聖書ではrätten、これは「権利」の意味が強くなります。フィンランドのルター派国教会が使用している聖書ではoikeus、これは「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味します。以上のようなわけで、イザヤ42章の神の僕が携わることは「裁き」ではなく、「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」と理解できます。それから、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞(יצא、שים)も、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と訳して何の問題もありません。以上から、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民、特にイスラエルの民以外の異邦人をさしますが(גוי)、諸国民に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」ということ。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を打ち立てる」ということであります。

そこで、神の僕がもたらしたり、打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何かを明らかにしなければなりません。神の御言葉である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか言ったら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」ということです。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのでしょうか?それは、先ほども申し上げましたように、人間が罪の奴隷状態や死の力から解放されることであり、それらから解放されて神との結びつきを持つ者としてこの世を生きることであり、そして、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻るということであります。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのであります。これらは全て、神のみ子イエス様が十字架の死と死からの復活をもってこの世にもたらし、打ち立てたものであります。

イエス様が洗礼を受けた時、イザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。天から預言どおりの神の声が轟き、聖霊がイエス様に降り、神の人間救済計画を実現するための力が与えられました。もちろん洗礼者ヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神のみ子でした。しかし、洗礼は預言の成就をもたらすために必要な手続きでした。洗礼を通して聖霊と特別な力を得て、イエス様が主体的に神の人間救済計画を実現させる活動を始める出発点となったのでした。

 

4.以上が、なぜイエス様は洗礼者ヨハネの洗礼を受けなければならなかったかという問いの答えです。洗礼を受けることで、人間と同列に加えられる意味がある。ただし、そこには神の人間救済計画が完全な形で実現されるという深い意味があることがわかりました。加えて、神が預言者を通して約束されたことが成就するという意味がありました。そこから私たちは、神とは真に約束したことを必ず果たされる忠実な方であることを知ることができます。

最後に洗礼者ヨハネがイエス様について、「聖霊をもって洗礼を授ける」(マルコ1章8節)方であると言ったことについて若干申し上げておきたく思います。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、他の人に起こらなかったことが起こりました。聖霊が彼の上に降ったということです。この聖霊の降臨は、私たちの洗礼にも起きます。つまり、イエス様の洗礼は、後のキリスト信仰の洗礼の先駆けになっているのです。私たちは洗礼を受ける時、水をかけられますが、「聖霊をもって」する洗礼、洗礼される人に聖霊が降る洗礼とは、どういう洗礼でしょうか?

私たちは洗礼を受ける時、聖書を朗読して神の御言葉と結びつけられた形で水をかけられます。化学や物理学を用いた計測では、水は御言葉に結びつけられてもられなくても水としての成分は同じです。しかし、御言葉に結びつけられた水は、神の目から見ると、これは聖霊が降る洗礼を可能にする要素に変貌しているのです。聖霊が降るということについて、少し詳しく言うと、人は洗礼を受ける前にも、既にイエス様を救い主と信じ始めます。遥か昔の彼の地で起きた出来事は現代を生きるこの自分のためになされたのだということをわかり始めます。それが起こるのは、聖霊がその人に働き始めたからであります。使徒パウロが教えるように、聖霊の力が働かなければ、人はイエス様を救い主と信じることはできません(第一コリント12章3節)。イエス様を何か歴史上の人物の一人として知識で知ってはいても、それは自分の救い主として信じることとは何の関係もないのです。聖霊が働かなければ、イエス様について知っていることは単なる知識にとどまるだけです。

しかし、洗礼を受けることで、人は持続的に聖霊の影響力のもとに置かれることになります。これは赤ちゃんも同じです。「罪の赦しの救い」は神からの贈り物である以上、赤ちゃんも、親の愛を注がれてただそれを受け取るのと同じように神の贈り物も受け取るのです。赤ちゃんや子供が、その後の人生で聖霊の力が働く受け皿として育っていくかどうかは、あとは家庭や教会がどう育てていくかということに大きくかかってきます。 

そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、私たちは聖霊を受けた者として、神のことを「アッバ、お父さん」と呼べるくらい神の子とされていることを忘れないようにしましょう。使徒パウロが随所で教えているように、神の子とされているならば、それはイエス様と兄弟の立場を持たされているということです。イエス様と共に神の御国を継ぐ跡継ぎにされているのです(ローマ8章15-17節、29節、ガラテア3章27-27節、4章5-7節、エフェソ1章11、14節)。そのことを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


 主日礼拝説教 主の洗礼日
1月11日の聖書日課  マルコによる福音書1章9節-11節、イザヤ42章1節-7節、使徒言行録10章34-38節


説教「博士の訪問」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書2章1~12節

2015年とう新しい年を迎えました。今日の御言葉は、マタイ福音書2章1~12節であります。

1節を見ますと、「イエスは、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」

救い主が、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったということ。そして、救い主はユダヤのベツレヘムでお生まれになった。とマタイはまず、しっかりと、私たちに告げています。

次に、そのとき、占星術の学者たちが東の方からエレサレムに来た。と告げています。マタイは歴史の事実として、ユダヤの王の年代から記しています。1節にある「ヘロデ王の代にイエスがベツレヘムでお生まれになった」マタイは、どんなメッセージをこめて、この一言を書いているか。ローマ帝国の支配のもとに、ヘロデが王として、全ユダヤを治めていた、ということ、バークレーによりますとヘロデはユダヤ人とエドム人の間に生まれた、エドム人の血が混じっていた彼はパレスチナの内乱の際、ローマのために業績をあげたため、ローマ人の信用をえて、紀元前40年に王の称号をえた。紀元前4年まで長期間権力をふるった。彼はヘロデ大王と呼ばれたがパレスチナの支配者たちの中でパレスチナの平和を維持し、混乱の世に秩序をもたらした。

しかし、ヘロデの性格には致命的な欠陥があった。それは狂気に近いほど猜疑心が強かったことである。もともと、疑り深い性格であったが、それが年とともにこうじて遂に晩年には「殺意にみちた老人」と呼ばれるようになった。誰かが自分の権力の座をおびやかすと思えば、すぐその人を葬り去ってしまった。彼は自分の妻や、その母も息子たちも殺していった。ヘロデの野蛮で残酷な性格は近づく自分の死を前にしていよいよあらわとなっていった。

このようなヘロデ王のもと東方からの占星術を専門とする三人の博士たちが輝く星に導かれて、まずヘロデ王の宮殿を訪れたのです。「ユダヤ人の王として、お生まれになった、お方はどこに、いらっしゃいますか」これを聞いたヘロデ王は、もうびっくりでしょう。ユダヤの王は、このおれだ。自分の他に新しく王が生まれたとは、どうしたことか、それはどこに生まれたのか。彼の内心は怒りに燃えたでしょう。

預言者でもない異国の天恩学者たちに「ユダヤを救う」ところのメシヤが誕生した事を告げられたのですから。3節を見ますと「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。」エレサレムの人々も同様であった。エレサレムの人たちは、ヘロデがこのような消息を突き止めると子供を殺すことをよく知っていたからです。ヘロデは祭司長と律法学者を召集した。神からの油を注がれて生まれる新しい王がどこに生まれるのか、聖書は、どのように示しているのかたずねたのです。彼らは旧約聖書、ミカ書5章2節を引用して答えた。

 ヘロデ王は博士たちをよびよせ幼な子が生まれた場所をくまなく探すために派遣した。自分も幼な子を拝みに行きたいから、と言ったが彼の唯一の願いは王として生まれた幼な子を殺すことであった。博士たちは再び星に導かれてベツレヘムの馬小屋に寝かせてある幼な子、救い主と出会うことができた。そして彼らにできる精いっぱいの神様への応答として宝の箱を献げたのでありました。彼らは、ひれ伏して幼な子を拝み、宝の箱を開けて黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 博士たちが王の宮殿で期待していた幼な子はいなかった。しかし、神のしるしは最後まで彼らを導いたのでした。そしてベツレヘムにおいて博士たちは想像だにしなかった暗い洞窟の家畜小屋で、貧しくてどうしようもない状況の中に神の子メシアを見出したのであります。博士たちが、母マリアと幼な子の貧しさに、つまづかないように、神からの贈り物であった、神のしるしである光り輝く星よりも、もっと偉大なキリストを彼らが見ることができるように神さまは彼らを支えて下さるのであります。

 最期、この福音書を書いていますマタイがこの博士たちの訪問で私たちへのメッセージが何であるか、ヘロデ王の代わりに東の方からの博士たちがメシアの生まれた事を告げたということです。ヘロデ王のもとで苦しむ民、暗闇の世に救い主イエス・キリストがまことの光としてお生まれになった。ヨハネ福音書では1章5節でこう表現しています。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」14節「言は肉となって私たちの間に宿れれた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって恵みと真理とに満ちていた」。

 私たちの間に宿られた栄光を異邦人である、東の国の博士たちがヘロデ王に告げた、ということであります。この出来事を記している福音書はマタイだけであります。ローマ帝国の権力をほしいままにしているヘロデにまことの救いをもたらす新しい王が生まれたと異邦人から突きつけられている、そのことをマタイはくどくどと2章でしっかりと書いているのであります。ここでマタイが言っていることは、イスラエルが異邦人にキリスト誕生を記していったのではない。

東の国の3人の博士たち、異邦人が神に用いられて遠い遠い長旅を乗り越えて救い主メシアの誕生を告げているということです。東の国からの博士たちがエレサレムをたずねて来たことはまことに不思議なことであります。更に不思議なことは、イエスが誕生された頃、不思議にも世界中に王を待ち望む機運が満ちていたことであります。このことはローマ帝国の歴史家さえも知っていた。

タキトウスという歴史家が書き残している中に「人々が固く信じていたことは、その頃、東の国が強力になり、ユダヤから出した支配者が全世界を包括する定刻を築くということである。」このようなことは古代には、容易に起こりうることであった。人々は神を待ち望んでいた。こうして待ち望む世にイエスが来られたのである。

星を眺め、研究していた博士たちの名はマギと呼ばれる人々であった。彼らはメディアの種族でペルシャでは権力や野心を捨てて、祭司の種族となった、といわれる。彼らは哲学、薬学、自然科学に秀でていた。当時の人々はみな、占星学を信じ、星によって未来が占えると思い、又ある星のもとに生まれると、その星によって運命が定められる、と信じていた。星の運行は一定していて、宇宙の秩序をあらわす。そこへ突然に明るい星が現れたり、特別な現象によって天体の不変の秩序がみだれると、それは神が創造の秩序を破って何か特別なことを告示するのだと考えらた。

3人の博士たちは突然明るく輝く星を見出した。古代の占星術師はこうした異変は偉大な王の誕生を告げると信じて疑わなかった。そこで3人の博士たちは新しくお生まれのなった王に会いたいと旅立ったのです。彼らがエレサレムまで輝く星に導かれて行ったことは想像だにできない神の計画の中に星をしるしとして、それら全てを神が用いていかれたということであります。

今年、新しい年を迎え神様は私たちをどのように用いていかれるでしょうか、祈っていきたいと思います。    アーメン

 顕現主日。

 

2015年 今年も宜しくお願いいたします。

説教「奇跡を超える信仰」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書2章1節-11節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

カナンの結婚、イエス1.本日の福音書の箇所は、ガリラヤのカナという町でイエス様が行った奇跡の業について記していますが、福音書の中でよく知られている話の一つです。結婚式の祝宴でお祝いに飲むぶどう酒が底をついてしまった。そこで、イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行って、祝宴は無事に続けられたという話です。奇跡と呼ぶには、少し大げさに聞こえるかもしれませんが、結婚式の祝宴というものはイエス様の時代にも大がかりなものであったことを考えてみるとよいでしょう。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ2,3メトレテス入りとありますが、ひとつにつき80-120リットル入りです。それが6つありました。すでに出されていたぶどう酒が底をついてしまった時に、イエス様は追加用にこの水瓶の水全部480-720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしたのです。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきますし、大量の水を瞬く間にぶどう酒に変えたというのは、やはり奇跡と言うしかありません。

この福音書の箇所はまた、イエス様が困難に陥った人たちを助けてくれる心優しい方であることを述べている箇所としても知られ、結婚式に関わる出来事なので、キリスト教会の結婚式や婚約式での説教の聖書の箇所としてもよく用いられます。あなたたちはこのように見守ってくれる主の御前で式をあげているんですよ、あなたたちにはこのような優しい方がついておられるんですよ、というメッセージは、新しい門出を旅立つ新郎新婦の心を和ませてくれるでしょう。

ところで、この箇所は、よく読んでみると、わかりにくいことがいろいろあります。それは、ぶどう酒が底をついた時に、イエス様の母マリアが彼に祝宴会場にはもう全然ぶどう酒がない、と言った時のイエス様の答えです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」という答えです。「わたしとどんなかかわりがあるのです」というのは、ギリシャ語の原文が少しわかりにくいのですが、「この件に関して、私とあなたとの間にはなにがあるというのか」、もう一歩訳し進めると「この件に関して、あなたはわたしにどうしてほしいというのか」という意味になります。そのすぐ後にイエス様は、「わたしの時はまだ来ていないのだ」と続けられます。

こうしてみると、マリアは祝宴からお祝いムードがどんどん冷めていくのを見るに耐えかねて、イエス様に、お前何かできないかね、と打診して、それに対してイエス様は母親に、あなたが私に頼む筋合いではない、私の時はまだ来ていないのだ、と答えたのであります。イエス様は、はい、わかりました。ひと肌脱ぎましょう、とは言わなかったのであります。イエス様の答え方はまるで、自分の知ったことではない、と突き離す内容に聞こえます。心優しいどころか、何と冷たい人なのかと思わされます。ところが、このような冷たい答えにもかかわらず、マリアは何を思ったのか祝宴の召使いに、イエスが何か命じたらすぐそれを実行するように、と言いつけます。つまりマリアは、イエス様はなんだかんだ言っても助けてくれると理解していたのであります。結果をみれば、その通りになって優しいイエス様の面目は保たれるのですが、それにしても最初のやりとりはわかりにくく、イエス様はあまのじゃくで、素直な方ではないと思わされます。

しかしながら、実はイエス様はあまのじゃくな方でも、素直でない方でもなく、ちゃんと意味の通ることをおっしゃっているのです。「わたしの時はまだ来ていない」という言葉をちゃんと理解できれば、そのことがわかります。以下にそれについて見ていきましょう。

2.「わたしの時はまだ来ていない。」「わたしの時」とはどんな時で、その時が来るのはどんな時なのでしょうか?ヨハネ12章で、次のような出来事があります。イエス様が最後のエルサレム入城を果たして、大勢の群衆の前で神や神の国について教えて、ユダヤ教社会の指導層と激しい論争を行っていた時、地中海世界の各地から巡礼に来ていたユダヤ人たちが、イエス様に会いたいと言って来ました。それを聞いたイエス様は弟子たちに次のように言いました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12章23節)。さらに、ヨハネ17章で、十字架にかけられる前夜の最後の晩餐の席上、イエス様は次の祈りを父なるみ神に捧げました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すようになるために、子に栄光を与えて下さい」(17章1節)。

つまり、「イエス様の時」とは、イエス様が十字架にかけられて死を遂げる時、その前に受ける拷問を含めて大いなる苦しみを受ける時、そしてその後で神の力で死から復活させられて神の栄光を現わす時であります。イエス様が苦しみを受けて十字架にかけられて死ななければならなかったのは、これは、人間が全ての罪と神への不従順を神から赦していただくための神聖な犠牲となるためでしたから、これは神にとっても人間にとっても大事な時だったのであります。さらに、イエス様が死から復活させられたことで、死の力が無力にされて死を超える永遠の命の扉が開かれたことになりました。人間は、父なるみ神とみ子イエス様のおかげで、神との結びつきを持ってこの世を生きて、死を超えた永遠の命に至る道を歩む可能性を与えられたのです。「イエス様の時」とは、まさに人間にこの可能性を与える出来事を起こす時、十字架と復活の時を意味していたのです。地中海世界の各地からイエス様に会いたいと人が来たのを聞いて、イエス様はいよいよ、この出来事が起きた後でその知らせが世界中に伝わる素地が整ったと判断されたのでしょう。

そういうわけで、「わたしの時はまだ来ていない」というのは、どんな意味かというと、それは、「まだ私が十字架の苦しみの道に足を踏み入れておまえたちから離れる時ではない。まだおまえたちのもとにいて神の意思と計画について、また神の国というものについて正確に教え、さらに神がおまえたち人間をどれだけ愛してくれているか、それを教えと奇跡の業を通して示していかなければならないのだ。まだ十字架と復活の前の段階の今は、私はこのミッションを続けなければならいのだ」という意味であります。

 

3.このように「わたしの時はまだ来ていない」というのは、まだ十字架と復活の時ではない、まだおまえたちのもとにいて自分のミッションを続けなければならない時だ、という意味だとわかれば、「わたしの時はまだ来ていない」という言葉は奇跡の業を行うことと関係があるとわかってきます。

イエス、癒しイエス様の奇跡の業は枚挙にいとまがありません。大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えた本日の出来事を皮切りに、数多くの難病や不治の病を癒してあげたり、一度息を引き取った人を生き返らせたり、大勢の群衆の空腹を僅かな食糧で満腹にしてあげたり、自然の猛威を静めたり、悪霊に憑りつかれている人からそれを追い出したり、と無数にあります。

イエス様がこのように人助けの奇跡の業を数多く行った理由として、イエス様や彼を送った父なるみ神が優しい愛に満ちた方で困っている人を助けずにはいられなかった、というふうに考える向きが多いと思われます。もちろん、イエス様や父なるみ神は優しくて愛に満ちた方というのは否定できないから、そう見ることもできますが、それだけが奇跡の業を行った理由というのは一面的すぎるでしょう。もし、それだけならば、イエス様はなぜもっと地中海の東海岸地方の限られた地域だけでなくてもっと世界各地を回って奇跡の業をし続けなかったのか、ということになります。世界各地にはまだまだ病気や飢饉はあちこちにあったのですから。しかし、イエス様は時間一杯とばかり、ミッションを限られた地域にとどめ、さっさと十字架の苦しみの道に入られました。それは、イエス様と彼を送った父なるみ神にとって、十字架の死と死からの復活の出来事を起こして、そこから神と人間の結びつきを回復して、人間が永遠の命に至る道に置かれてその道を歩めるようにすることが何にもましてすべきことだったからです。

イエス様が、十字架と復活の時が来るまで奇跡の業を行った理由として、そのことを通して、人々が彼を神のひとり子であると信じさせるひとつの手段として用いていたことがあります。ヨハネ14章でイエス様は、イエス様がまだ神から送られた方だと実感できないと言う弟子のフィリポに対して、次のように言います。「フィリポ、こんなに長い間、一緒にいたのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見たものは、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を示してください』と言うのか。わたしが父の内にいて、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におわれる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(14章9-11節)。人間は、ただ言葉で聞いても信じられない、それならば、イエス様が行った業をもとに信じなさい、ということです。

しかしながら、こうした信仰の手段として奇跡を用いることはイエス様自身も問題があることをよくご存知でした。ヨハネ6章で、5千人の群衆がわずかな食糧で空腹を満たされた後、イエス様の後を追いかけてきます。その群衆に対してイエス様は次のように言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(6章26節)。奇跡を経験した人々は、それをイエス様が神から送られたひとり子であることを示すしるしとまではとらえるには至らなかった。イエス様のことを、ただ人々の欲や必要を満たしてくれるありがたい方、一緒にいればまだまだいいことがある、そういう期待を持って追いかけてきたことをイエス様は見抜いたのであります。奇跡を経験した人が、もしイエス様を神のひとり子と本当にわかって信じることができれば、その人の心は、どうやって自分の必要や欲をさらに満たしてくれるかということから、どうやって自分は神の意思に従って生きることができるか、ということに向けられるようになります。それができるというのは、やはり、十字架の死と死からの復活という奇跡の中の奇跡が起きる前はなかなか難しいことなのであります。

このようにイエス様は、人間というものは、言葉だけでは信じられない弱さがあると知って、奇跡の業を信仰に至る手段として用いつつも、それが必ずしも正しい信仰をもたらさないリスクを持っていることを知っていました。このように人間とは、神の手に負えないしょうもない存在なのであります。それにもかかわらず、神は、そんな私たち人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにと、しかもその生きる道が死を超えた永遠の命に至る道であるようにするために、イエス様をこの世に送られ、彼を用いてこの人間の救いを実現して下さったのです。このような神は、永遠にほめたたえられますように。

4.以上から、イエス様が母マリアに「私の時はまだ来ていない」と言ったのは、彼はまだ人々と共にいて自分のミッションを続ける立場にある、ということを意味したことが明らかになりました。ミッションの中には、人々を信仰に導くための奇跡の業も含まれますから、このぶどう酒が底をついて祝宴が台無しになり出した状況に対しても、何かしなければならないことはよくわかっている、というのであります。そうすると、イエス様の言葉、「この件に関して、あなたはわたしにどうしてほしいのか。わたしの時はまだ来ていないのだ」というのは、私の知ったことか、何にもしないよ、という意味ではなく、私がまだ人々の間にいる以上は何かするつもりでいるのは当たり前ではないかという意味であることが明らかになります。ただし、何かするにしても、それを行うのは、自分が神のひとり子であることを示す以外の目的では行うのではない、母親を含めて単に人にお願いされたから自動的にそうしてやるのではない、ということが含まれていることを忘れてはなりません。いずれにしても、マリアはイエス様の言葉を聞いて、ああ、イエスは何かをするつもりだなとわかったのであります。それで召使いたちに、言われた通りにしなさいと命じたのでした。イエス様は別にあまのじゃくでも、素直でない方でなく、彼とマリアのコミュニケーションは、問題なく通じていたのであります。(私たちの新共同訳の聖書では、イエス様が問題の言葉を述べた後、マリアが召使いに言いつける際、「しかし、母は召使たちに」と「しかし」という言葉が入っています。ギリシャ語原文には「しかし」はありません。ここで逆接の接続詞を入れたから、イエス様の言葉があまのじゃくのようになってしまったと思われます。)

 これまで申し上げてきたことの中には、奇跡が私たちの信仰にとって持つ意味やリスクを考えるよい材料があったと思います。私たちの目の前には、当時の人たちと違って、奇跡の業を目の前で行ってくれるイエス様がいらっしゃりません。彼は今、天の御国の父なるみ神の右に座し、再臨の日まではそこから私たち一人一人に対して大抵は見えない形で働きかけられます。もし、イエス様が当時のように私たちの目の前におられ、奇跡の業を行ってくれれば、私たちも信じやすくなるのにな、と思う人がいるかもしれません。しかし、当時の人たちと私たちの間にはひとつ決定的な違いがあります。当時、奇跡を目のあたりにした人たちは、「イエス様の時」がまだ来ていない時に生きていた人たちでした。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前に生きて奇跡を目撃した人たちでありました。私たちはと言えば、十字架と復活の出来事の後の時代を生きる者ですから、イエス様の来た後の時代を生きていることになります。この違いは決定的です。

どういうことかと言うと、イエス様の同時代の人たちも、やがて十字架と復活の出来事を目撃して、イエス様が神の子であることが、これ以上の証拠はいらないという位にわかって信じることになりました。その結果、自分の必要や欲を満たしてくれるから神の子として認めてやるという考え方は消え去り、自分を犠牲にしてまで人間と神との結びつきを回復しようとされた救い主として信じるようになったのです。それで、どうしたら神の意思に沿う生き方ができるかを真剣に考えるようになったのです。私たちも実は、このように十字架と復活の出来事の後に、つまり「イエス様の時」が来た後に、心が入れ替わった信仰者と同じ信仰を持っているのです。自分の置かれた状況や境遇に左右されない信仰です。私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年12月28日の聖書日課  ヨハネ2章1節-11節、イザヤ62章1節-5節、コロサイ1章15-20節


「すごく不思議なクリスマス」

「すごく不思議なクリスマス」は、クリスマスについての楽しいゲームスタイル アニメーションです。インターネットのブラウザと Youtube、iPhone と Android のタブレット、携帯電話やKindleでも見れます!無料です。是非、見て下さい!

美しいクリスマスの季節は、毎年、やってきては、過ぎ去ってしまいます。でも、今年のクリスマスは特別です。香と金蘭凛と菊花の3人は、東京でクリスマス・イルミネーションを見ているうちに、2000年前の時代へと舞い込んでしまいました。
本当のクリスマスへと・・・。

降誕祭前夜礼拝、説教「人類の希望のクリスマス」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章1-20 節

私たちの父なる神と主イエス・キリトから恵みと平安が 、あなたがたにあるように。  アーメン

1.クリスマスと言えば、 一般には何か希望が叶う素敵な日といイメージ持 たれていると思ます。例えば、子供が欲しかっものをプレゼントにもらったりすると、クリスマは希望が叶う素敵な日いうイメージ定着します。 また、私が子供の頃、テレビ・ドラマか映画だったか忘れ ましが離れ離れになった親子がお互いを一生懸命探し続けて、やと 再会 を果たすのがクリスマの日だったと いうよな 感動ものを見た記憶があります。 クリスマに結びつけた、似たような筋書きの映画やドラマは沢山出ているのではないかと 思います。皆さんも何かそのようなものを見たことがおありではしょか?

どうして、クリスマは希望が叶う素敵な日という意味を持っるのでょうか? それは、世界史上最初のクリスマが今から 2000 年プラス 20 年位 前 に起きた第一回目のクリスマが、 まさに 希望が叶 った日だことに由来しています。それで、クリスマは希望が叶う日という意味を持つよになった のです。それでは、その時叶った希望とは一体何だったのでしょうか?それについては、先ほど読んでいただいた福音書の箇所に ある天使言葉が明らかにしています。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大き喜びを告げる。今日ダビ デの町で、あなたがたのめに救い主がお生まれになった。こ方そメシアである」(ルカ 2章 10 -11 節)。

「この方こそ主メシアである」と言うのは、つい先ほどダビデ王ゆかりの町 ベツレヘムで赤ちゃんが生まれた、それがあの待望のメシアである。待望のメシアがやっとこの世に来た、みんな希望叶がやっと叶った。という意味であります。

ここで、いろいろな疑問が起ってきます。「待望のメシア」という時、メシアとは何か?というこがまずありす。それから、このメシアとやらは、あ なたがたのため の救い主と言われますが、「あなたがた」とは誰を指のか?さらに、 このメシアが「救い主」として機能すると言うからには、その者は誰を何の危険から救い出すのか? そうい疑問です。 実を言えば 、「メシア」の意味も、「あなたが」 が指している 者も、「救い」の 意味 内容についても、当時の人たちに は統一見解がありませんでした。それらについて、大きく分けて三つの異 なる見解がありました。それぞれの見解に応じて、希望の内容も三つの異なるものが ありました。これから、そについて見ていきたく思いますが、結論 を 先に申し上げると 、三つの希望うち二つはユダヤ民族が中心 の希望で、これは予想外れ、期待外れに終わりました。三つ目は全人類に関る希望で、こちらの希望が最終的に成就したのでした。

 

2. 三つの希望のうち、最初のものはメシアというものを、ユダヤ民族を他 国支 配から解放 してくれる、ユダヤ民族にとっての解放者 と考える希望です。メシア、ヘブライ語 のマーシァハ משיח は、もともとは 「油を頭に注がれた者」いう意味があり ました。「油を注ぐ」というのは 、神が与え る任務を遂行する者 が世俗から区別されて神聖な目的に仕える就任式の意味 を持ちました 。実際に は、ダビデ王朝の王様が即位する時に油を注れた のでメシア「油を注がれた者」は同王朝の王を意味することが伝統になりました。ところが、紀元前 500 年代初めにダビデ王朝の王国はバビロン帝国に滅ぼされて、 国民は集団捕虜としてバビロンに連行されてしまいました 。世界史の教科書で「バビロン捕囚」 と呼ばれる事件です。紀元 前 500 年代後半に なると 今度は 、ペルシャ帝国がバ ビロン帝国を滅ぼして 古代オリエント世界の覇者にな ります。 この時 、ユダヤ 民族は故国への 帰還が認められて 、エルサレムの町や神殿を復興させました。 しかし、それからも ずっとペルシャ帝 国、それに続くアレクサンダー大王の国に支配され続けました。紀元前 100 年代に 一時、ほぼ 独立を回復しますが、 ほどなくして ローマ帝国の支配下に置かれてしまい、イエス様が誕生する日 を 迎えたのであります。先ほど読んでいただいた福音書の箇所で、ローマ皇帝アウグストゥスが全領土の住民に課税ため登録を命じというのは、まさにユダヤ民族が当時置かれていた状況だっのであります。 このようにバビロン 捕囚 以後、 ダビデ王朝の国は復活しなかったですが、

ユダヤ民族の間では、 将来 ダビデ家系の王 様が現れて、神の助けを得て国民を他国支配から解放し、強大な国家 を建設する、そして諸国に号令をかけ、世界中の民がひれ伏すように してやってきてエルサレムの神殿に捧げ物を 持ってくる、 というよな希望が 生まれした。どうてそんな 希望が生まれたかと言 うと、旧約聖書の中にそよな将来を意味すると思われ預言があるからです(例としてイザヤ 2章)。先ほど読んでいただイザヤ書 9章の預言も、そうしたダビデ王国復興の預言と理解されたのです。

そう しますと、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と言った天使の言葉 ですが、これは、ユダヤ民族を他国支配から解放するビデ家系のヒーロの到来という希望の成就成 になります。 この場合、メシア「油注がれた者」 とは王様そのもを指し、「救い主」とはユダヤ民族を他民族支配から救うという民族解放を意味し、「あなたたち」とはユダヤ民族を指します。

 しかながら、ユダヤ民族の間で抱れていた希望は、ダビデ王国復興より も、もっとスケールの大きな希望ありました。 これが二つ目の希望です次にそれを見てみましょう。

旧約聖書という書物 は、古代オリエント世界の民族興亡 や国家間関係の記録 という側面もありますが、もっと 歴史の 時間と空間を超えた普遍的な側面 を持 っていること も忘れてはなりません。それは、今 私たちの周りにある 天と地の 誕生 から 始まって、それら が終わりを告げる終末までを視野に含めいるからです。例えば、 イザヤ書の 終わり方の 60 章や 65 章をみると 、かつて天と地 と人間を造られた創造主 の神が今 ある 天と 地にかわる新しい天と地を造ることが預言されています。らにダニエル書 みると、 今の世が終わりを告げる時に 死んだ者 たち の復活が起こり、天地創造の神 に相応しい者は永遠命を得て神のもとに迎えられ、そうでない者は全く異る運命をたどることが預言されています。

 こうした終末的な預言 を念頭に置いて、 ダビデ家系の救い主メシア を考える とどうなる でしょう か? メシアとは終末の時に神のもとから地上送られて、 神に相応しい者たちを集めて、 彼らを 新し く出現す る神の国に迎え入れて君臨 するという 、そういう超越的な 王として理解されるように なります 。つまり、 メシアとは、もはや現世的な王様ではなく文字通り超越的な存在です。 先週 まで二回の主日で読れた福音書は 、洗礼者ヨハネについて伝える内容でした。 ヨハネが「悔い改めよ、神の国は近づた」と公けに宣べ伝えた時、当時の人々 は、ついに 終末の日が 来た、天からメシアが送られる、自分 は神聖な 神の意思  に反して生きいた 、罪を犯してきた ことを素直に認めて赦しをいただこうと、 こぞってヨハネのもとに集まって洗礼を受けたのでした。しかしながら 、ヨハネの洗礼は、まだ 「罪の赦しの救い」を与える洗礼ではありませんした。 「罪の赦しの救い」は、イエス様の十字架の死と死からの復活によってはじめて可能となったのです。

さて、 終末的な預言と結びついた メシア とは誰を何から救う のでしょうか? 天 地が入れ替わるという森羅万象の大変動中で 、神に相応しい者を集めるというのは、 それは、ユダヤ民族の視点を超えたスケールではあります。しかし、やはり神に相応しい者とうのは、ユダヤ民族、正確に言えばユダヤ民族の中でもさらに神の意思に従って生きる者たちなので、こ希望 もユダヤ民 族の観点に立つ希望です。

 

3. 天使の言葉「今日ダビデ町で、あな たがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」は、実ユダヤ民族の利害をはるかに超えた、もっと深い広い壮大なスケールの希望を意味してま。この希望を理解 できるためには 、なぜ神のひとり子 が、わざわざこの世に降って来なけれ ばならかったの、 本来なら天の神の御国で全てに優越した場所いてふん ぞり返っていればもいいものを何を好き好んで、わざわざこ世に降ってこなければならかったのか、 しかも、神 そのものの存在の形を捨てて 限られた存在 にしか過ぎない人間の形をとってこ世に生まれ来なければならなかったのか、 こうしたことが希望を理解する 鍵になります。 もし、メシアも救い主も現世的 な民族解放運動指導者だったら、別に普通の男女結びつきか生まれてくる人間でもよかったでしょう。また、 もしメシアが 、終末の時に神に相応しい者 を守り集める 超越的な救い主であれば、なにもわざわざ赤ちゃんから始必 要はな いのであって、 そのま 神聖な 恐るべき姿かたちを とって 天使の軍勢を 従えて 天から 下ってくればよかたのです。

 なぜ神そのものの存在であった 神の ひとり子が人間の形をもって、こ世に 来なければらか ったのでしょうか ?神 は人間を何から救おうとしたの で しょうか?

 神がひとり子を人間の形をもってこの世に送ったのは、まさ救うためでした。一体人間を何から救うといのでしょうか?それは、人間が自分の造り主である神との関係を失ってしまった状態から救うことでした。創世記に記されてい ますが 、神に造られた当初の人間は神との結びつきを持った存在で した。それが、 神の意思に背こうとする罪と不従順が人間入り込んだために。人間は神との結びつきを失い、死ぬ存在なって しまいました。使徒パウロが 「ローマの信徒への手紙」 6章 23 節で 述べているように、罪の報酬は死なのであります。 人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。これに 対して神は、人間が再び自分との結つきを持って生きられるようにしよう、たとえこの世から死んでもその時は永遠に造り主である自分のもとに戻ることができるようにしてあげようと考えました。 結びつきが回復できるた めには、 人間から罪を除去しなければなりませきん。人間には それは不 可能でした。それで、神はひとり子を この世に送り、彼を人間の全ての罪を背 負わせて、あたかも彼が全の張本人であるようにして、全ての罪の罰を負わせて死なせたのです。これがゴルガタの丘の十字架の出来事です。神は、このひとり子の身代わりの犠牲の死に免じて、人間の罪を赦す と いう手法をったのです 。

 それでは、人間 の方ではどうしたら 罪を赦されて神との結びつきを 回復できるでしょうか?それは、人間がこれらの 神がなさった全てのことは まさに自分 のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この信仰をみた神はその人の罪を赦して下さるのです。 洗礼を受け たと言っ ても人間はまだ 肉を纏う存在ですから、まだ内には罪を内在させてい ます 。しかし、神はイエス様を救い主と信じる信仰を持つ者には、 彼の犠牲に免じて赦しを与えて下さるのです。しかも、 神は イエス様を十字架の死に引き 渡した時、 罪と死 をも一緒に 滅ぼして両者から 絶対的な力を 消し去 りました。 それで、 イエス様を救い 主と信じる者には罪と死は最終的な力持ってないのであります。

 加えて、 神は一度死んだイエス様を 今度は 復活させて、永遠の命への扉を人 間に開かれました。イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれて歩きはじめます。こうして神との結びつを回復した信仰者は、順境の時も逆境の時もたえず神から守りと良い導きを得れるようになり、万が一こ世から死ぬことになっても、その時はイエス様が御手を引き上げて下さり、永遠に造り主である神のもとに戻ることができ るようになったのでありま す。この ように 、罪と死は信仰者に対して最終的な力を持ってい ないのであります。

こで、イエス様の 身代わりの犠牲の質を考えてみましょう 。神その ものの存在である方が犠牲になったのですから、これ以上神聖ものはないと言えくらい神聖な犠牲の生け贄です。人間を罪と死の支配下から贖う生け贄として、これ以上完璧なものはいと言えるくら完璧な犠牲の生け贄です。 このこと を逆に言えば、神は自分のひとり子を惜しまない 位に私たちを大切に思っているということです。イエス様がの世に送られた以上の贈り物を人間は 持ちえないのであります。この神の贈物を 既に 受け取っている方は、その大切 さを忘れないようにして、いつも神に感謝しましょう。まだ受け取っていない人は、 一日も早く受け取るようにして下さい。今からで遅は ありません。

 

4. 以上から、 本日の 福音書の箇所の天使 の言葉 「今日ダビデの町で、あなたが たのめに救い主がお生まれになった。この方こそメシアである」の意味が明らかになりました。メシアとは、全ての人間を罪と死の支配下から救い出して神との結びつき を持って生きられるようにしてくれて、 死を超えた永遠の命 を持てる日まで 共に歩んで下さる全人類の救世主であります。「なたがた」と いうのは、もうこの聖書の御言葉を目にし耳にする全て人を指 します 。この ように クリスマというのは 、過去の時代の特定の民族の希望成就なのではでなく、全人類に関わる希望の成就です。旧約聖書をもっと広く深く読んいくと、自らを犠牲にして人間の罪を贖う神の僕にも出わします(イザヤ書 53 章) ルターが、旧約聖書は 救い主 イエス様を見いだす書物である と言っているのは、誠にその通りであります。

最後に 、神そのものの存在が人間の形を持って生まれてきたことが、人間にとってだけでなく、神にとっても有益だったということにも触れておきましょう。イエス様は、本来ならば天の神の御国で優越的な場所でふんぞり返っていても良い方でした。それが、犠牲の贖を実現するめにこ世に降ったのですが、人間の心と体を持つこで喜びや痛み悲しも味わうこととなりました。神が人間の喜びや痛みや悲みを人間が味わうのと全く同じように味わうこと になったのです!だから、神は私ちの悩みや苦しも全てわかって下さる方です。天地を創造 された全知能の方ですから、私ち 以上にのことを痛みも含めてわかっおられるです。そような神は、 全てに優る 信頼を寄せるに相応しい方 であることが、「ヘブライ人への手紙」 4章 15 -16 節に記されていますので、そ箇所を引用し本説教締めと致します。 「この大祭司(イエス様を指す)は、わたしちの弱さに同情で きない方ではなく、罪を犯されかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵みにあずって、時宜にかなった助けをいだくために、大胆に恵みの座に近づ こうではありませんか。」

人知 ではと うてい測り知ることのできない神平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエに あって守るように         アーメン

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2014年12月24日の聖書日課   ルカ2章1-20 節、イザヤ 9章1- 6節


説教「キリストは死の陰に座する者を平安に導く光」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章67節-79節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 本日の福音書の箇所は、エルサレムの神殿の祭司であり洗礼者ヨハネの父親となるザカリアの預言です。この預言は、ラテン語でベネディクトゥスBenedictusと呼ばれていますが、それは預言の初めの部分「イスラエルの神である主は称えられよ」の「称えられよ」の部分です。ちなみに、ルカ福音書1章47-55節に聖母マリアの賛歌がありますが、これもラテン語でマグニフィカトmagnificatと呼ばれており、それは賛歌の初めの部分「私の魂は主を大いに賛美する」の「大いに賛美する」の部分です。それから、同じルカ2章にシメオンの賛美があります。これもラテン語でヌンク・ディミッティスNunc dimittisと呼ばれており、賛美の出だし部分「主よ、あなたは今、あなたのお言葉通り、あなたの僕を安らかに去らせて下さいます」の「今、去らせて下さいます」の部分です。これらマリアのMagnificat、ザカリアのBenedictus、シメオンのNunc dimittisの三つは、キリスト教会の司式の中で古くから使われてきた祈りの歌です。特に西方教会において、Benedictusは朝の祈り(laudes)の中で、Mディミッティスagnificatは夕べの祈り(vesper)の中、Nunc dimittisは一日の終わりの祈り(kompletorio)の中で用いられてきました。従って、本日は朝の祈りの言葉が説教のテーマということになります。
本日のザカリアの預言には、私たちの信仰にとって大切な事柄がいろいろ含まれています。本説教ではそれらから三つだけを取り上げてみていきたいと思います。

1.信仰とは、自分の外的な出来事や事情がいかに変わろうとも、神が自分に与えて下さる恵み・憐れみは相も変わらず同じである、という神への信頼を自分の内に持っていることである。

この最初の大切な教えは、ザカリアの信仰からみることができます。ザカリアの妻エリサベトは、もう出産が望めない高年齢にもかかわらず子供を宿しました。聖書には、高齢の婦人が出産する例として、他にアブラハムの妻サラがあります。この二つの事例には、信仰ということに関して共通することがあります。まず、双方とも、願っている子供が生まれなくても、神に失望したり背を向けたりはしなかったということです。それから、念願が叶ったら叶ったで、今度はその念願成就の結晶である子供を神のご用のために捧げたということです。

アブラハムの場合は、まさに息子イサクの命を捧げる寸前まで行きました。もちろん、神はイサクの命を望んでいたのではなく、アブラハムがどこまで自分の言葉に従うかを見極めようと試したのであります。創世記22章1節で「神はアブラハムを試そうと決めた」と言っているのは重要です。神は「試し」、アブラハムは「試された」のです。もし、アブラハムが血も涙もない機械人間で、子供を生け贄に捧げなさいと言われて、何も感ぜず何も考えずにハイと言ってすぐ実行してしまったら、それは「試された」ことには全くなりません。「試された」以上は、凄まじい葛藤の中に投げ込まれたのです。しかし、神は、イサクが誕生する前にアブラハムに対して、「お前の子孫は夜空の星のように多くなる」という約束をしており、それに背くことはせず、全く忠実だったわけです。このような御自分の約束に忠実な神の御名は永遠に誉めたたえられますように。

洗礼者ヨハネについてみますと、彼がいつ家を出て荒れ野の生活に入ったかはわかりません。ルカ1章80節で、「成長し、聖霊にあって強められた。そしてイスラエルの民の前に出現する日まで荒れ野にいた(ギリシャ語原文による)」と言っているので、ある程度成長してからでしょう。いずれにしても、洗礼者ヨハネの両親は天使ガブリエルから息子が神に用いられる者となる旨を告げられて(ルカ1章13-17節)知っていました。それで、彼が祭司の家系を捨てて荒れ野に出て行くのをそのままにしたのであります。

それから、これは高齢出産ではないのですが、サムエル記上で、エルカナの妻ハンナは、不妊で苦しんでいた時、神に祈り、もし男子を授けてくれればそれを神の用に役立つよう捧げると誓いました。そして、サムエルが誕生すると、ハンナはその通りにして、祭司エリに男の子を引き渡しました。

もう子供を得ることは無理だろうとわかっても、神は願いを聞いてくれないひどい方だ、と文句を言ったり、失望するわけでもない。アブラハムはイサクが産まれる前も、生まれた後も同じように神に忠実でした。ザカリアとエリサベトの二人は子供はなくとも、「神の前に正しく、主の全ての掟と定めに従って非の打ちどころなく生きて」(ルカ1章6節)いました。つまり、願いが叶わなくても、神を信じ、信頼し、神の意思に聞き従って生きるということには何ら変更はないのです。もし不可能な願いが叶えられれば、それは奇跡ですが、その時は神への賛美と感謝に身も心も満たされましょう。しかし、それでも神を信じ、信頼し、神の意思に聞き従って生きるということは、アブラハムにしても、ザカリアにしても、奇跡が起きようが起きまいが同じなのであります。

このような「奇跡が起きようが起きまいが同じ」ということがないと、どうなるでしょうか?その場合、神を信じ信頼し、神の意思に従うということは、願いが成就するかしないかということに左右されてしまいます。願いが叶わなければ、そんな神は神として認めてやるもんか、と別の何かを探し求めることになります。反対に、願いが叶えられれば叶えられたで今度は、それが神からいただいたものであるとか、神に属するものであるとか、神のご用に役立てられるものとか、そういう発想は起こらないでしょう。

願いが叶うにしろ叶わないにしろ、そういう外的な条件がどうであるかにかかわりなく、いつも全く同じように神を信じ、信頼し、神の意思に聞き従おうとする生き方は、どのようにしてできるでしょうか?それは、まず、神の方で、人間の外的条件により価値が増えたり減ったりしないもの、いついかなる場合でも高い価値のままにとどまる何かを用意してもらい、それを人間が持てる時にそのような生き方ができます。キリスト信仰では、そうした不変不滅の高い価値のものは、イエス様の十字架の死と死からの復活がそれです。

イエス様の十字架の死と死からの復活を不変不滅の価値として持っている人は、不妊であろうが病気であろうが金がなかろうが、たとえ外的な条件が悪くても、神が自分に与えてくれる恵み・憐れみそのものは、外的条件が良い時と全く同じであると知っています。それで神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従うことに何の変更も起きないのであります。そこで、もし、そのような信仰を持つ不妊の人が子供を産んだり、不治の病の人が健康になったり、金のない人が金を得たりしたら、どうなるか?その時は、これは神からいただいたものだ、神から預かったものだ、だからもともとは神に属するものだ、という考えなので、神のご用に役立てようという考えになります。自分の用のために役立てようとか、自分の欲のために消費しようとか、そういうことには執着しないのです。そういうわけで、もともと子供のいる人、健康の人、お金のある人も、こうしたことが自分にはどうあてはまるのだろうかと考えてみることは大事でしょう。

2.神は、全ての時代の全ての国民・民族を射程において、人間救済計画をたてて実施したが、計画と実施自体は特定の時代の特定の民族を通して行った。

次にザカリアの預言の本体をみてみましょう。この預言は、来るべき救世主メシアについて預言しているものではありますが、内容も言葉づかいもとてもユダヤ民族の利害と観点を反映しています。69節で「神は私たちのために救いの角をその僕であるダビデの家から起こされた」と言いますが、その「救い」とは、71節で「私たちの敵からの救い、私たちを憎む全ての者の手からの救い」であると言っています。つまり、ユダヤ民族に敵対する諸民族の脅威から自由になることが「救い」を意味しているのです。そうして、敵対民族の手から救われたあかつきには、74-75節にあるように、「私たちの全ての日々において、神の御前にて、神聖さと義にあって、おそれを抱くことなく、神に仕える」ことができるようになるのであります。このようにメシアの役割は、イスラエルを完全な民族自決国家として再興させて、あらゆる敵対民族を撃退してそれらの汚れを遠ざけて、神聖さのうちに完全な礼拝を実現させるというふうに考えられています。そのようなメシアの登場は、太古からの預言者の預言(70節)や神のアブラハムへの約束(73節)の中に言われていたというのであります。さて、67節で、ザカリアは「聖霊に満たされて」預言したと言っていますが、それでは聖霊を送った神は、来るべきメシアを全世界に及ぶものでなく、特定の民族にかかわるものと考えていたのでしょうか?

実は、神はメシア救世主を全世界的なものと考えていました。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥ったために罪が人間の命に入り込むという堕罪が起きてしまいました。しかし、その直後、創世記3章15節に神の人間救済計画が早くも預言されています。神はそこで、蛇の姿をとる悪魔に対し、「将来、人間から生まれてくる一人の者がお前の頭を叩き割る。だだし、お前も彼の踵を打ち砕くことになるが」と宣言されます。つまり、自分を犠牲にして悪魔を打ち滅ぼす者が現れるというのであります。それが、イエス・キリストでした。創世記12章3節で、神は後にアブラハムという名前にかわるアブラムに対して、彼が受ける祝福は世界の全ての民族にとって祝福になる、と約束します。このように神の考える救いとは、全世界の人間に及ぶものなのです。それでは、なぜザカリアの預言では、救いがユダヤ民族中心のもののように言われるのでしょうか?

それは、神が全世界の人間の救いを考えて、御自分の意思を人間に伝える時、意思を伝えられた人間の方は特定の具体的な歴史状況の中で生きていたという事情があります。それで、全世界的な観点と一民族的な観点のギャップが生まれる原因になったのです。神は、悪魔の頭を叩き割る救世主がユダヤ民族の中から生まれてくると定められました。そうなると、救世主が登場するまでは神の目はユダヤ民族を中心に向けられ、ユダヤ民族の歴史とともに歩むことになります。そこで、御自分の意思を告げる時はいつも、将来実現する全世界の人間の救いが根底にはあるとは言え、その意思はいつもユダヤ民族のその時その時の具体的歴史状況に関係するものにもなります。例として、イザヤ書53章に、人間の罪を背負って自ら苦しみを受けることで人間を罪から贖う神の僕についての預言があります。キリスト信仰の観点では、これはイエス様を指す預言だとわかります。しかし、この預言は、バビロン捕囚が終わる頃の歴史的状況にいたユダヤ人にとっては、捕囚に陥った自分たちが民族の犯した罪の罰を受けた、それで民族は赦しを得て再出発できるという、そういう理解になります。その場合、捕囚のユダヤ民族が神の僕になってしまいます。

神が特定の民族の特定の歴史と関係を持ちながら、人間救済計画を立案し実施したという事実は、特に旧約聖書を読むときに注意する必要があります。そこには、全世界の人間の救いを実現しようとする神の意思が働いているにもかかわらず、神から啓示を受けた人たちやそれを書き留めた人たちは皆、特定の歴史状況の中で生きていた人たちでした。そうした状況に基づく利害や観点が表面に出てくるのは当然です。現代において、旧約聖書を読む人の中には、神の人間救済計画などという超歴史的なものは一切見ないで、純粋にその場限りの歴史を語る歴史書物として読む人が大勢います。そういう人は、旧約聖書の個々の書物の歴史状況やそれに基づく利害や観点や思想を知ろうとして、旧約聖書を繙くのです。しかしながら、もし、キリスト信仰者が旧約聖書を信仰の書物として読もうとするのならば、歴史的な利害や観点を常に超える神の人間救済計画というものを念頭に置いて読まなければなりません。ルターも、キリストを見出さない旧約聖書の読み方は意味がないと言っています。それに、天と地と人間を造った旧約の神と救い主イエス・キリストを送られた神は同じ神であるというのがキリスト信仰なのですから。

3.キリストは、死の陰に座する全世界の全ての人々を照らして、平安に導く光である。

ザカリアの預言には、メシア救世主とその役割の理解についてユダヤ民族の利害・観点が強くでていると申し上げました。しかしながら、預言の終わりの方になると、ユダヤ民族中心のメシアなのか、全世界の人間の救いを担当するメシアなのか、はっきりしなくなる部分がでてきます。まさに、個々の歴史状況の利害と観点に覆い隠されてしまってはっきり見えなかった全人類的な救済計画が頭をもたげてくる部分です。

まず、76節に入って預言は、ザカリアの息子洗礼者ヨハネについて述べます。ヨハネがメシアに先立ってその道を整えるという、イザヤ書40章3章の預言の実現であることが言われます。そして、77節で、ヨハネはユダヤ民族に「救いの知識を与える」と言われていますが、その救いは先に述べたような敵対民族からの解放ではありません。ここでは、救いは、「罪の赦しに結びつくもの」と言われています。さらに78節に入ると、その罪の赦しに結びつく救いは、「神の憐れみ深い心によるもの」と言われて、その神の憐れみ深い心があることで、「いと高きところから朝日のような光が地上の私たちのところにやってくる」。79節に入ると、その光がやってくる目的が明らかにされます。それは、「暗闇と死の陰に座する者たちに顕現するためであり、彼らの足取りを平和の道に向けるようにするためである」。

天から到来する光が、死の陰に座する者たちの目の前に輝き現れて、彼らの足取りを平和の道に向けるようにする。これは、まさにユダヤ民族を超えた全世界の全ての人にかかわる救いを意味します。先にも述べましたように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことが原因で、人間の内に罪が入り込み、その罪の呪いの力が働いて、人間は死する存在になってしまいました。「ローマの信徒への手紙」6章23節で使徒パウロが、罪が払う報酬は死である、と言っている通りです。人間は、代々死んできたころから明らかなように、不従順と罪を代々受け継いできたのです。「死の陰に座する」というのは、まさに、人間が不従順と罪の支配の下におかれて死に定められている状態を指します。しかし、神は、人間の全ての罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての張本人であるかのように仕立てて、十字架の上で全ての罰を受けさせて死なせました。このイエス様の身代わりの犠牲に免じて、人間の罪を赦すという手法を神は採ったのです。それだけで終わりませんでした。今度は神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて、堕罪以来閉ざされていた永遠の命への扉を人間のために開かれました。このように神は、ひとり子イエス様を用いて、罪が人間に対して持っていた支配力を無力にし、死を超える命の可能性を人間のために開かれたのです。これが、天地創造の神の人間救済です。

これから明らかなように、「足取りが平和の道に向けられる」という「平和」とは、敵対民族との戦争状態がユダヤ民族の勝利で終わって平和がもたらされるということではありません。ここでいう「平和」とは神との平和であります。神聖な存在である神は罪や不従順の汚れを憎み、焼き尽くしたいと思う方です。そのため、堕罪以来、人間と神の間には戦争状態が存在していました。ところが神は、先ほど申し上げたように戦争状態の原因であった人間の罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、私たちの身代わりとして罰を受けさせて死なせたのです。「ガラテアの信徒への手紙」3章13節で使徒パウロが言うように、神のひとり子が私たち人間にかわって呪われた者にされて神の罰を受けたのです。まさに、私たちがその罰を受けないですむように。そこで私たち人間がイエス様こそ自分の真の救い主であると信じて洗礼を受けるならば、その人は、イエス様の身代わりの犠牲の死に免じて神から罪の赦しを得られます。人間は神から罪の赦しを受けると、神との戦争状態から脱して(エフェソ2章16-17節)、神との結びつきを回復します。こうして人間は、神との平和を永遠に享受することになるのです。「永遠に」というのは、神から「罪の赦しの救い」を受けた時点から、この世の人生の歩みにおいてずっと、さらに死を超えて永遠の命を持って生きるようになるまでの間ずっと、ということです。

だから、この世の人生の歩みにおいて、なにか外的に不利な条件を被ることが起きても、それは、私たちが神から与えられている罪の赦しの恵みと憐れみが減ったということではありません。人によっては、不治の病にかかったり、経済的な困難に陥ったりすると、神に見捨てられたとか、神の怒りに触れたとかいうような捉え方をする人もありますが、キリスト信仰においては、そんなことはありえません。洗礼を受けた以上、不従順と罪の呪いから解放されて永遠の命に至る道を歩んでいるということは、病気になろうが貧乏になろうが、そのままだからです。神との平和を享受しているということはそのままです。このことを人生の土台にして、あとはその人生に入り込んだ不利な条件にどう対処していくかです。不利な条件が大きすぎたり重大なものだったりして、人生がひっくり返るくらいのものに感じられる時があるかもしれません。しかし、イエス様の十字架の贖いの業と死からの復活という人生の土台は微動だにしません。そうした土台の上に立つ人生もひっくり返ることはありません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように  アーメン

 

 

主日礼拝説教 2014年12月21日 待降節第四主日の聖書日課 ルカ1章67節-79節、ゼファニア3章14節-17節、フィリピ4章2-7節