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説教「神に選ばれた者とは誰か」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書22章1-14節

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(22章14節)。イエス様は、本日の福音書の箇所である婚宴のたとえを、このように結びました。「選ばれる」というのは、天地創造の神に相応しい、神の目に適う者として神自身によって選ばれることを意味します。「神に選ばれる人」ないし「神に選ばれた人」という言葉、ギリシャ語ではエクレクトスεκλεκτοςと言いますが、これには二つの厄介な問題が付きまといます。

第一の問題は、誰が神に選ばれた人なのか、そしてこの自分は神に選ばれた者なのか、という疑問を生み出します。そうすると今度は、では神が選ぶ基準は何か、何を満たせばそのような者であると言えるのか、という疑問がついてきます。選ぶ主体は、天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた創造の神です。それで、造られた人間があたかも神の考えがわかったように基準を論じるのは、ちょっと僭越ではないかと思われるのですが、いずれにしてもこれらの疑問はそう簡単に解きほぐせるものではないでしょう。

 第二の問題は、今述べた疑問を解明できたと思った時に出てくるものです。「選ばれた者」の基準を解明したぞ、それによると自分こそは神に選ばれた者だ、とか、我々こそは神に選ばれた民族だ、という具合に、選民思想が生まれてくるのであります。自分ないし自民族を神に選ばれたものとしてみると、自分以外、自民族以外は選ばれたものではなくなる。神に選ばれた自分たちは神に近く、他の者たちは遠いことになる。そうなると、上下の見方で自分と他者を分けることになる。神に選ばれ、神に近い以上、自分たちこそが正しさを代表し、他の者には正しさはない。そういうふうに善悪の見方でも自分と他者を分けることになる。こうした優越意識と独善性が結びつく選民思想は、人類の歴史にしばしば悲劇をもたらしてきたことは、私たちもよく知るところです。

 ところで、婚宴のたとえでのイエス様の主眼は、私たちが「神に選ばれた者」であれ、ということです。そうしないと、たとえの中で礼服を着ていなかった人のように神の国から追い出されてしまうことになるぞ、と警告しているのであります。それでは、「神に選ばれし者」たれと教えるイエス様は、私たちが選民思想を持つようにしろ、そして、キリスト教徒でない者を見下して、自分たちこそが正しさの権化であるかのように振る舞え、と教えているのでしょうか?いいえ、全くそういうことではないのです。イエス様を救い主と信じるキリスト信仰にあっては、「神に選ばれし者」というのは、いわゆる選民思想とは全く無縁のものです。本質的に見てキリスト信仰は、自分を他の者よりも高くすることをしない信仰です。もし誰か、イエス・キリストの名前や天地創造の神の名前に依拠して自分を高くしたり他の者を低くする者がいたら、その人は、神の名をみだりに唱えたことになり、十戒の第二の掟を破ることになります。

 それでは、キリスト信仰者にとって、「神に選ばれし者」とは何を意味するのでしょうか?本説教では、まずそれを明らかにしていきます。それができたら今度は、私たちは果たして、その意味で「神に選ばれし者」であるのかどうか?そのことを考えてみたく思います。

 

2.本日の福音書にある婚宴のたとえは、イエス様がエルサレムの神殿で敵対者である大祭司や長老たちを相手に語った三つのたとえのうち最後のものです。初めの二つのたとえでは、イエス様は解き明かしをしますが、この最後のものにはしません。それが、このたとえを難しいものにしています。最初の「二人の息子」のたとえ(21章28~32節)では、父親にブドウ園で仕事をしなさいと言われた息子が二人いて、一人は最初は「行かない」と言ったのに「思い直して」行った、もう一人は「行く」と言ったのに行かなかった、という話でした。イエス様はこれを解き明かして、「思い直して」ブドウ園に行った息子というのは、洗礼者ヨハネを信じて「思い直し」をした罪びとである、これに対してブドウ園に行かなかった息子は、洗礼者ヨハネを信じず「思い直し」もしなかった大祭司や長老たちである、と解き明かします。

二番目のたとえは、「ブドウ園と雇われ農夫」です。これは先週の主日の福音書の箇所でした。イエス様はたとえの結びで、神の国はイスラエルの指導者たちから取り上げられて異教徒に引き渡される、と解き明かしました。これをもって、たとえのなかにでてくるブドウ園は神の国、ブドウ園の所有者は神、所有者が送り続けた僕は神が送った預言者、所有者の息子は神のひとり子イエス様、邪悪な雇われ農夫こそは大祭司や長老たち、イスラエルの指導者たちを指すことが一気に明らかになったのでした。

ところが、本日の婚宴のたとえには、そのような解き明かしがありません。もちろん、聖書を何度も読んだり、注釈書を読んだりした人は、たとえに出てくる人物や出来事が何を指すか、もう知識があるでしょう。それでも、このたとえには細心の注意を払ってみなければ理解が難しいことが多くあります。そういうわけで、細心の注意を払ってこのたとえをみてみましょう。

イエス様はたとえの冒頭で「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」(2節)と言います。ギリシャ語原文は少し違っていて、「天の国は、王子のために婚宴を催した王に似ている」とあります。つまり、天の国と王が似ているもの同士になっています。これはわかりにくい表現ですので、少しわかりやすくしますと、次のようになります。「天の国は、私がこれから話をする王の行動様式や思考様式に沿ったところである。だから、たとえの中で王が何をし、何を言うか、よく聞きなさい。そうすれば、天の国がどんな国かわかるだろう」ということになります。「天の国」は「神の国」と同義語です。マタイにとって「神」と言う言葉は畏れ多すぎるので、しばしば「天」という言葉に置き換えます。

たとえに出てくる王は、神を指します。王子は、神の御子ということになります。このたとえで読者の注目を引き付けることは、この神の御子は何もしないということです。影のような存在です。先週の「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえでは、所有者の一人息子がブドウ園に派遣されて殺されてしまいますが、すぐに神のひとり子が十字架に架けられる出来事を指すとわかりました。ところが、婚宴のたとえでは、神のひとり子にまつわる出来事は何もありません。それが、このたとえの理解を難しくする原因となっています。

しかしながら、目をよく見開いて読んでいくと、神の御子の働きはちゃんとたとえの中にあることがわかります。王は招待客への伝言として「食事の用意が整った。牛や肥えた家畜を屠って、全て用意ができた」(4節)と言います。最初の招待が頓挫した後、王は家来に「婚宴は用意できているのだか」とこぼします。このように「用意できている」という言葉が繰り返されます。これは、神の人間救済計画が実現したということ、人間の救いは神の側で全て整えて準備できているということを指します。イエス様は、十字架の上で息を引き取られる直前に「全てのことが成し遂げられた」(ヨハネ19章30節)と言われました。成し遂げられた「全てのこと」とは、神の人間救済計画の全部を指します。それが、イエス様の十字架の死と死からの復活によって全て実現された。人間の救いは神の側で全部用意して下さった、整えて下さった、ということになります。つまり、婚宴のたとえの中では、人間の救済がイエス様の十字架と復活によって実現している、用意されているのです。そういうわけで、神のひとり子の存在は婚宴のたとえの中にも重々しくあるわけです。

ここで、神がイエス様を用いて人間救済計画を全部実現して下さった、ということについて、それはどういうことか、簡単に振り返ってみましょう。

創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァの犯した神への不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまい、それまであった人間と神の結びつきは壊れてしまいました。そして、人間は代々死んできたことに示されるように、代々神に対する不従順と罪を受け継いできました。そこで人間を造られた神は、人間との結びつきを回復させよう、人間がこの世から死んでも永遠の命を持てて再び造り主である自分のもとに戻ることができるようにしようと計画を立てて、それを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして、人間と神との関係を壊してしまった原因である罪の力を無力化するために、本来人間が受けるべき罪の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、この赦しを受けることで、罪と死の支配から自由の身とされることとなりました。

しかし、それだけで終わりませんでした。神は一度死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間に開いて下さいました。こうして人間は、この2000年前の彼の地で起きた出来事が現代を生きる自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神の用意した「罪の赦しの救い」を受け取ることになるのです。受け取った後は、その救いを所有する者として、罪と死の支配から解放された者となって、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになります。神との結びつきが回復したので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのであります。

 

3.以上のような次第で、婚宴のたとえの中で言われている「用意ができたもの」とは、神がイエス様を用いて実現した救いであることが明らかになりました。次に、招待された者たちは誰を指すのかを見てみましょう。

招待された者たちは、二つのグループに分けられています。最初のグループは招待されたにもかかわらず出席を拒否した者です。王が出席を促すために家来を送っても、無視したり暴力をふるったり、果ては殺してしまう人たちです。このひどい招待客は誰を指すのか。また気の毒な家来たちは誰を指すのか。先にもみたように、人間の救いはイエス様の十字架によって神が全て用意して下さいました。それで、家来が来て神の用意されたものにどうぞ来てください、と言うのは、人々に十字架の福音を説いて神の国の一員に招くということです。つまり、無視されたり殺されたりしてしまう家来というのは、福音の伝道者、宣教者であります。招きに応じなかった者とは、福音を拒否した者であります。この福音の拒否者は、もともと神の国への招待を受けていた人たちなので、ユダヤ人を指します。(正確に言うと、最初のキリスト教徒はユダヤ人であったことから、ユダヤ人のある部分は招待を受け入れたのに対して、受け入れないで拒否したユダヤ人たちもいたということです。)さらに拒否した者たちの町、というよりは都市というのがギリシャ語の言葉ポリスπολις正確な訳ですが、それが罰として焼き払われます。この都市は単数形(定冠詞付き)なので、エルサレムを指すことは明らかです。実際に歴史上起こったこととして、紀元70年にエルサレムは神殿もろともローマ帝国の大軍によって焼き払われてしまいました。つまり、イエス様はたとえの中で、エルサレムの破壊を預言しているのであります。皆様もご存じのように、イエス様はこれ以外にも、エルサレムやその神殿の破壊について、事あるごとに預言しました(マタイ23章38節、併行箇所ルカ13章35節、マルコ13章1~2節および併行箇所)。本日のたとえでは、外国ではなく、神自身が大軍を送って都市を滅ぼしますが、これは預言が的確でなかったということではありません。旧約聖書に伝統的な考え方は、神は自分の民を罰する際に他国の軍隊を仕向けてかわりに罰させるというものがあり、イエス様はその伝統の上にたっているということです。

次に招待者の第二のグループ。最初のグループはもうだめだから、誰でもいいから呼んできなさい、という時、ユダヤ人ではない異教徒を指します。異教徒に十字架の福音を説いて神の国に招待しなさい、ということになりました。これも歴史上に実際に起こったことです。ここで、一つ注意しなければならないことがあります。それは、「罪の赦しの救い」を受け取って神の国の一員になりなさい、と招待されたのは善人だけでなく悪人も一緒でした。しかし、悪人は悪人のままで、神の意志に反する生き方のままでは婚宴会場には入れないということです。先ほど述べた三つのたとえの最初のもの、「二人の息子」のたとえ(21章28~32節)のところで、イエス様は当時のユダヤ教社会で最大級の罪びとであった娼婦と取税人を評価しましたが、これは彼らが洗礼者ヨハネを信じて「思い直し」をしたからです。従って、悪人であってももちろん婚宴には招待されますが、その悪人は婚宴の席に着くときには、既に「思い直し」を経て、元悪人でなければならないのです。悪人が「思い直し」のプロセスを経ることができるかどうかは、神の実現した救いをしっかり所有できているかどうかにかかっているのです。

 

4.以上から、いろんなことが明らかになってきました。ここで、本日の最大の問題に入っていきましょう。新しい招待客のグループで宴会場は一杯になります。王が招待客を接見しはじめると、一人礼服を着ていない者がいた。ギリシャ語に忠実に訳すと「婚宴用の服」です。王は尋ねます。「どのようにして、婚宴用の服をつけずにここに入って来れたのか。」(日本語では「どうして」という理由を聞く訳ですが、「どのようにして」とか「いかにして」が原文の正確な意味です。)答えられない客は手足を縛られて外の暗闇の世界に投げ出されてしまいます。ここで起きる疑問は、この婚宴用の服をつけなかった者は誰を指すか、ということ、それから、婚宴用の服とは何を指すか、ということの二つです。イエス様は、その服がない者は招かれただけで選ばれた者ではない、と言われます。「神に選ばれし者」がいかなる者であるかをわかるためにも、この婚宴の服が何を指すのかを突き止めることは重要です。

 そこでまず、招待客で一杯になって王が接見を始めるこの婚宴が何を指すのか、それから見てみましょう。黙示録19章7、9節に、この世の終わりの日に神の国で小羊の婚宴が始まることが預言されています。つまり、本日の婚宴のたとえで王が招待客の接見をする場面は、まさにこの世の終わりの日、今ある全てのものが消え去って天と地も新しくされて神の国だけが残る日です。その日に全てのものが消え去って神の国だけが残るということは、「ヘブライ人への手紙12章27~28節、「ペトロの手紙二」3章10、12~13節に預言されています。婚宴に招待されるというのは、終末の後に始まる神の国の大祝宴に招待されるということであります。神がイエス様を用いて人間の救いを実現したことは、先ほど見た通りです。神はこの実現済みの救いを、どうぞ受け取って下さい、と全人類に提供しているのです。つまり、神の国の一員となって祝宴にどうぞと人類全てを招待しているのです。もし人間がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この救いを受け取ったことになり、それは祝宴の招待を受諾したことになります。つまるところ、キリスト信仰者というのは、神がどうぞと言って差し出しているものを、はい、ありがとうございます、と言って受け取った人であると言うことができます。

 そういうわけで、神に招待されてそれを受諾した人というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神の実現した救いを所有する者となった人、そして永遠の命に至る道を歩み始めた人とういうことが明らかになりました。そこで、婚宴の席につけるというのは、その道を歩み終えて永遠の命を持つに至って、神の国の一員以外の何者でもなくなったことを意味します。その時、婚宴用の服をつけていない者のエピソードが示すように、婚宴の席に着くにはその服は絶対条件であります。洗礼を受けて神の実現した救いを所有するようになったのに、婚宴用の服などとまた何か新しいものを獲得しなければいけないのか?この婚宴用の服とは一体何なのか?そのことを見てみましょう。

 まず、ルターがキリスト信仰者とはどのような者を言うのかについて、次のように教えてあるところから見ていきます。

「キリスト信仰者というものは、実は、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者たちということである。そのため、キリスト信仰者の間でも、憎しみ、欲望、誤ったものへの偏愛、神の守りを信用せずに心配事に身を委ねること、その他もろもろの欠点に出くわすのである。使徒パウロは、これら全てを「隣人が背負っている重荷」と呼び、我々は相手の内にそれがあると認めて忍耐しなければならない、と教えた。キリストもかつて弟子たちのなかに欠点があることを認め、忍耐し、背負って下さった。そして、今もキリストは、私たちの内にある全く同じ欠点を毎日、背負って下さっているのである。」

 これを読むと、キリスト信仰者であることは、信仰者以外の者に対しても、また信仰者同士においても、自分を高くし他の者を低くするような優越意識からほど遠い存在であることがわかります。もともと選民思想など抱けない存在なのであります。洗礼を受けて神の実現された救いを所有する者となったのに、どうしてこんな情けない存在なのかというと、それは、救いを所有するとは言っても、私たちはまだこの世を生きている間は肉をまとっているからであります。肉をまとっているという点については、キリスト信仰者もそうでない者も全く同じであります。肉をまとっている以上、神への不従順や罪、さまざまな欲望やねたみや憎しみ等々を信仰者でない者と同じように持っています。

それじゃ、洗礼を受けても何の意味もないじゃないか、と言われそうですが、キリスト信仰者とそうでない者の間には大きな違いがあります。それは、信仰者は洗礼を通して神の霊、聖霊を受けたことです。神の霊はまず、わたしたちの肉から生じる神への不従順、罪をつきとめ、「それは神への不従順です。あなたにはそれがあります」、「それは罪です。あなたにはそれがあります」と明確に教えてくれます。そんなに汚れた存在であることを暴露されてしまい、神から引き裂かれてしまったショックを受けていると、聖霊はすかさず「それでは、目をあちらにだけ向けなさい」と命じます。あちらにあるものとは、十字架にかかったイエス様です。そこに目を向け、さらに目を凝らしてみると、彼の両肩、頭の上にはなんと私の不従順と罪が覆いかぶさっている。私の不従順と罪は私から取り去られて、彼の上に覆い被せられた。そして、私は、なぜ彼があそこで死んだのかがわかる。このようにして、彼は私が受けるべき罰を私に代わって受けられたのだ、と。この時、イエス様は私の救い主となり、これらのことをひとり子を犠牲にしてまでも私のために行われた神に感謝し賛美しようという心が生まれる。そして、私が感謝して止まない神の御心を、私は知ろうとし、それに従って生きよう、いう心が生まれる。それは、神を全身全霊をもって愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するということである。自分もそうしよう。これだけの愛を受けたのだから、ということになる。

しかしながら、また現実の世界に一歩踏み入れて、いろんな人や出来事に遭遇し、いろんな問題や悩みに直面すると、また不従順や罪が頭をもたげてくる。妬んだり、嫉妬したり、陰で悪口言ったり、それを喜んで聞いたり、神が与えて下さったり結び付けて下さったものから別のものへ目移りしてしまったり等々、無数です。しかし、それでも神のもとに戻れる可能性はしっかりあります。ゴルゴタの丘の十字架に架けられた主に心の目を据えつつ、礼拝の時に行う罪の告白で、また牧師や信頼できる信徒と個別に行う罪の告白で、私たちは神から赦しを得ることが出来ます。神から得られる赦しは、また、聖餐式の時には、主の血と肉を受けるという具体的な形を取ります。

 このようにキリスト信仰者とは、現実世界をしっかり生きながら内面の戦いを戦う者たちです。絶えず十字架の主のもとに立ち返ってそれに依拠しながら生きていくことで、肉に繋がる古い人間を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人間を日々育てていくのであります。そして、私たちがこの世を去る時、肉は完全に取り去られて、瞬き程の一瞬のうちに復活の命を持つ存在に変えられ、ルターの言葉を借りるなら、その時に「完全なキリスト教徒」になるのであります。

 そこで、婚宴用の服とは、洗礼の時に私たちの肉を覆うように被せられた目には見えない純白の服を指します。不従順と罪を宿す肉は内側に残っていますが、神は洗礼の日からは私たちを純白な者として見て下さいます。本当は、まだ不従順と罪を宿しているのに。聖霊の導きに従順に従って、自己の不従順と罪と向き合い、絶えず十字架の主に目を据えるという内面の戦いをしっかり戦い抜いた時、私たちは婚宴の席についているのです。その時、洗礼の時に着せられた純白の服が失われていなかったことに気づくでしょう。それが、選ばれた者の印なのであります。婚宴用の服をつけていない者とは、洗礼後の人生において、自己の不従順や罪と向き合わなくなったり、十字架の主に目を据えることがなくなってしまって、内面の戦いを放棄してしまった人たち、そうして洗礼の時に被せられた純白の服が失われてしまった人たちであります。彼らは招かれて招待を受け入れた者ではあったが、選ばれた者にはならなかったのであります。

 終わりに、内面の戦いと言っても、それは人間関係が渦巻く現実世界を生きることから生じる戦いなので、たいていは外面の戦いと連動しています。それゆえ、時として自己の能力の限界を試されるような試練も来ます。そうした時、この戦いは孤独な戦いで誰にもわかってもらえないと意気消沈する必要はありません。周りには信仰と志を同じくする兄弟姉妹たちがいます。それから、常に私たちの側に立って戦ってくれる無敵の同士がいます。復活によって死を滅ぼされた主イエス様です。主は、世の終わりまで毎日毎日私たちと共にいる、と約束されました(マタイ28章20節)。主が約束されたことを、私たちが疑うことは許されません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


聖霊降臨後第20主日
2014年10月26日の聖書日課  マタイ22章1-14節、エレミア31章1-6節、フィリピ3章12-16節


説教「キリスト信仰者の歴史観」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章33-44節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日は、「キリスト信仰者の歴史観」という説教題でお話をいたします。最近は歴史観とか歴史認識ということが、とかく近隣諸国との外交問題を引き起こす火種のようになってしまったりするのですが、本説教では、父なるみ神が与えようとしている平和が皆様の心の中に到達できるようにすることを目指していきたいと思います。

さて、本日の福音書の箇所は「ブドウ園と農夫」のたとえですが、正確に言うと、農夫は自作農ではなく雇われ身分ですので、「ブドウ園と雇われ農夫」ということになります。キリスト信仰者は言うに及ばず、信仰者でなくても聖書を読んだことのある人やキリスト教について知識のある人だったら、このたとえは容易に理解できるのではないかと思います。ブドウ園の所有者は神を指し、雇われ農夫は当時のイスラエルの指導層の人たち、所有者が送って殺されてしまう僕たちは神が遣わした預言者、そして所有者が最後に送る自分の息子はイエス様という具合に、たとえに出てくる人物が誰を指すかは一目瞭然です。

 ところで、イエス様が面と向かい合って話をしていた当時の人たちは、このたとえをどう理解したでしょうか?彼らは、このたとえを歴史上、一番最初に聞いた人たちです。このたとえは、イエス様がエルサレムに入城した後、神殿の中で大祭司や長老たちを相手に論争している時に話されました(21章23節)。彼らは、このたとえを私たちと同じように理解したでしょうか?私たちの理解はというと、実はイエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きたことを前提としています。その出来事が起きたと知っているので、ブドウ園の所有者の息子の殺害は、神のひとり子が十字架にかけられたことを意味すると分かるのです。ところが、十字架の出来事が起きる以前では、同じような理解はおそらく得られないでしょう。所有者の息子の殺害と重ね合わせて見られる出来事がまだ起きていないからです。そういうわけで、はじめてこのたとえを聞いた人たちは、私たちと正反対にとても難しかったと思います。以下、このことを念頭に入れて、本日の福音書の箇所を解き明ししていこうと思います。

 

2.最初に、21章33~39節までを見てみます。ブドウ園の所有者は雇われ農夫に園を任せて旅に出ます。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語原文の動詞アポデーメオーαποδημεωは、「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして旅先が外国かというと、当時、地中海世界ではローマ帝国の金持ち層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、38節で、雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことがよくわかります。普通だったら、そんなことをしたらブドウ園は自分たちのものになるどころか、すぐ逮捕されてしまうでしょう。ところが、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということであります。

 さて、収穫の時が来て、所有者は収穫を受け取るために僕を繰り返し雇われ農夫のもとに送るが、農夫は僕たちを殺してしまう。しまいには、これならいくらなんでも言うことを聞くだろうと、自分の息子を送るが、これも殺してしまう。これら一連の出来事の意味は、私たちには明らかです。初めにも申しましたように、所有者は神、雇われ農夫はイスラエルの指導層、僕は神が送った預言者たち、所有者の息子は神のひとり子イエス様です。ところが、十字架と復活の出来事が起きる以前、まだイエス様が本当に神の子なのかはっきりせず疑いがもたれていた時、「これは誰それを指す」とすぐには判明できなかったでしょう。彼らのたとえの理解の仕方は、単に哀れな所有者と邪悪な雇われ農夫との間に起きた事件にしか聞こえないのであります。文字通り額面通りの理解にしかならないのであります。

たとえを話し終えたイエス様は40節で、聞き手の大祭司と長老たち、つまりユダヤ教社会の指導者たちに質問します。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするだろうか?」大祭司たちの答えは的を得たものでした。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸す。

この答えは、たとえに出てくる登場人物が誰を指すか全く知らないで、たとえをただ額面通りに理解した時に出たものです。まさか自分たちのこの答えが、自分たちの運命を自分で言い表すものになっていたとは、彼らにとっても文字通り想定外のことだったでしょう。

大祭司たちの答えの後、イエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になった。これは詩編118章22~23節からの引用ですが、これも、私たちの目から見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経て、神の国という大建築の基になったのであります。ところが、十字架と復活の出来事が起きる以前に初めてこの引用を聞いた人たちは、一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。彼らは、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえを額面通りに理解しました。その理解に基づいてイエス様の質問に答えました。そこで突然、彼らも知っている詩編の聖句が引用されたのです。一体、この三つの事柄はどう結びついて何を意味しているのか、当時の人たちには全く意味不明以外の何ものでもありません。

そこでイエス様は、初めてこれらを聞いた人たちに対して、全ての謎の解き明かしをします。43節です。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉エスノスεθνοςは、たいていユダヤ人以外の「異教徒」を指す言葉です。ここにきてやっとイエス様の教えの全貌が大祭司たちにはっきりします。ブドウ園を神の国と言うのなら、その所有者は神ではないか!所有者が送って殺されたり迫害された僕たちとは、旧約聖書に登場する預言者たちではないか!つまり、邪悪な雇われ農夫というのは自分たちのことだったのか!この時点に至って大祭司たちがたとえは自分たちについて言っているとわかった、と45節で言われています。それまでたとえを額面通りにしか理解できず、外国人ブドウ園所有者と現地人雇われ農夫の悲惨な出来事にしか聞こえていなかったのが、急にユダヤ教社会の指導層と神の民イスラエルの運命についての痛烈な批判に急変したのです。ましてや、神の国が自分たちから取り去られて異教徒に渡されてしまうというようなことを、自分たちの口を通して言わさせるとは!怒りが燃え上がった大祭司たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした(46節)。

たとえを使って聞き手に本当の姿を思い知らせるというイエス様の手法は、実はかつて預言者ナタンがダビデ王に対して使ったものと同じです(サムエル記下11~12章)。ダビデ王は一目ぼれした人妻ベト・シェバを手に入れようとして、その夫ウリヤを戦争の最前線に送って戦死するように罠をかけて目的を達成する。その時、神は預言者ナタンを遣わして、ダビデに対して次のようなたとえを話させる。二人の男がいて、一人は金持ちで多くの羊や牛を所有していた。もう一人は貧しくて一匹の小羊しか持っていなかった。貧しい男はその小羊を自分の子供のように大事に育てていた。ところが、ある日、金持ちのところに来客があり、男は客をもてなさなければならなくなった。しかし、自分の羊や牛は出し惜しみ、貧しい男の小羊を奪って、客に振る舞った、という話です。

さて、ダビデ王はたとえの本当の意味を理解せず、額面通りに受け取りました。そして、その金持ちに怒りを燃やし、そんな男は死刑だとまで言う。それくらい王は、何が正しく何が悪かはわかっている。しかしながら、それは、問題が自分をさしおいて他人に関わる時だけでした。まさにその時、ナタンは、その金持ちとはお前のことだ、神から不足なく与えられていながら、不正を働いてまで欲望を満たすとは何事か、神が与えて下さるものでは足りないと言うのか、そのように神を軽んじる者は厳しい罰を受けてしまえ、と鉄槌を下します。一気に目を覚ませられたダビデは、自分がしたことは大罪であったと認めます。

「ブドウ園の雇われ農夫」のたとえで、イエス様は、実にこのナタンのたとえの手法を踏襲していることがわかります。まさに、雇われ農夫とはお前たちのことだ、というのであります。たとえを用いて、聞く者の真の姿を思い知らせるのであります。ところが、イエス様の場合、ナタンのたとえと一つ大きな違いがあります。ナタンの場合、たとえを聞いて、自分の真の姿を思い知らされたダビデは罪を認めて悔い改めますが、イエス様のたとえを聞いた大祭司たちは悔い改めるどころか、自分たちの真の姿を知らされて逆上し、心を一層かたくなにしてしまいました。全く逆の効果を生み出してしまいました。神の意思というものが、もし、人間が神に対して罪と不従順を認めて悔い改めるものであるならば、ナタンのたとえは目的を果たしたことになります。しかし、イエス様のたとえはそれを果たしませんでした。イエス様のたとえは失敗だったのでしょうか?この疑問に対しては、次のように考えることができます。イエス様のたとえのせいで敵対者の心が一層かたくなになり、イエス様が十字架にかけられるのを確実にしていったとみれば、それは神の計画を実現に導いたのだから、大きな意味では目的を果たしすぎるほど果たしたと言えます。ただそれでも、別の大きな疑問が残ります。それは、神は御自分の計画を実現させるためには、信じない人たちの心を一層かたくなにしてしまうのか、という疑問です。どうして、信じない者を信じるように導かれないのか?神が人の心をかたくなにしてしまうということは、旧約新約聖書全体を通してあり、これは神を信じ神に信頼しようとする者にとって大きな問題です。この問題に対して、神の意図はこうこうですと言って安易に説明を下すことはできません。それくらい奥の深い問題だからです。ここで、神を信じる者が考えるべきことは、自分は神の意思をそっちのけにして自分の意思を優先させて生きていないかどうかを、たえず自己吟味することです。そこではっきり言えることは、神はそのような者に対しては、心をかたくなにすることはしないということです。

 

3.イエス様のたとえを聞いてその意味をわかった人たちが、なぜ一層心をかたくなにしてしまったのか?それは、神が御自分の計画の実現のためなら、信じない人の心を一層かたくなにすることも辞さない方だから、ということが明らかになりました。それならば、なぜ大祭司たちは一層かたくなにされてしまう前に、そもそも信じることができなかったのか?このことについて見ていこうと思います。何が彼らにとって正しい信仰の妨げだったのでしょうか?それは、彼らが、自分たちの行っている礼拝や崇拝は旧約聖書の律法や預言を全うしたものであると思い込んでいた、そうした己に対する無批判性、自己満足性にあったことでした。

当時のエルサレムの神殿はヘロデ大王が大増築したもので、縦横約400メートル、700メートル位の敷地をもち、外門をくぐって最初に出くわす広い前庭は「異教徒たちの前庭」と呼ばれていました。そこからソロモンの柱廊を通っていくと「女性の前庭」があり、これはユダヤ人の女性が到達できる場所、その先は「イスラエル人の前庭」で、ユダヤ人の男性が入れるところ、その次には祭司だけが入れる幕屋があり、垂れ幕の後ろには大祭司しか入れない最も神聖な場所、至聖所がありました。「異教徒たちの前庭」は興味深い場所です。ユダヤ人でない異教徒でも、ここまでなら神殿に入れて生け贄を捧げることができたからです。これは、神殿を運営する側としては、イザヤ書2章にある預言、世界の歴史が終わる日に諸国民が天地創造の神にひれ伏してその律法を学ぼうと「大河のように」こぞってエルサレムにやってくるという預言、それが実現したという雰囲気を与えたことは容易に想像できます。

しかしながら、当時のエルサレムの神殿が神の約束の実現とみなすのは自己欺瞞でありました。ご存じのように当時イスラエルはローマ帝国の占領下にあり、神の民は少なくとも外面上は解放された民族とは言えませんでした。さらに、異教徒が生け贄を神殿に捧げに来るとは言っても、ふたを開ければ、確かに天地創造の神に畏れを抱いている異教徒もいるが、他方ではなにも天地創造の神ひとりだけを信じているわけではない多神教の者もいる。そういう人からすれば世界各地の神を拝んでいればそれだけおめでたいことになるというだけですから、これは天地創造の神が命じる「私以外に神があってはならない」という掟からほど遠いわけです。このように地中海世界全域のユダヤ人及び異教徒たちの吸引力となったエルサレムの神殿は、ユダヤ教社会の指導者たちにとって自己満足を満たす以外の何ものでもなかったのでした。

それが神の御心からかけ離れていると見破ったのがイエス様でした。本日の福音書の箇所の前の21章12~13節で、エルサレムに入城したイエス様はすぐ神殿に乗り込み、そこにずらっと並んであった両替商や生け贄用の鳩を売る出店をことごとくひっくり返して、即座にイザヤ書56章7節とエレミア書7章11節にある神の言葉に訴えて、神殿の礼拝・崇拝の欺瞞性を暴露します。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところがおまえたちはそれを強盗の巣にしている。」

イエス様が、現存の神殿で行われている礼拝・崇拝が神の御心とは別物であるとみなしたのは、それは彼が神のひとり子として神の御心を知っていたからにほかなりません。ユダヤ教社会の指導層から見れば、現存の神殿で行われている礼拝・崇拝をもって、律法や預言が一応完結したということなのですが、そもそも律法や預言の本当の目的は何かと言うと、それは神の人間救済の計画とその実現の仕方について教え、知らせることでした。イエス様はそのことを一番ご存じでした。そして、自分を犠牲にしてその計画を実現したのでした。神の人間救済の計画と実現とは以下のことです。

創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァの犯した神への不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまい、それまであった人間と神の結びつきは壊れてしまいました。そして、人間は代々死んできたように、神に対する不従順と罪を代々受け継いできました。そこで人間を造られた神は、人間との結びつきを回復させよう、人間がこの世から死んでも永遠の命を持てて再び造り主である自分のもとに戻ることができるようにしようと計画を立てて、それを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして、人間と神との関係を壊してしまった原因である罪の力を無力化するために、本来人間が受けるべき罪の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間の罪を赦すことにしたのであります。この赦しを受けることで、人間は罪と死の支配から自由の身とされることとなったのであります。罪と死の支配から人間が贖われるために支払われた代償は、まさに神のひとり子が十字架で流した血でありました。詩篇49篇8~9節に記されているように、死する存在の人間は、命を買い戻す身代金を払うことはできません。なぜならそれはあまりにも高額だからです。それを神は、み子の血を代価にして人間を罪と死の支配から買い戻して下さったのです。

しかし、それだけで終わりませんでした。神は一度死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間に開いて下さったのです。人間は、この2000年前の彼の地で起きた出来事が、現代を生きる自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、そのまま罪と死の支配から解放された者とされて、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになるのであります。神との結びつきが回復した者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのであります。

神との結びつきが回復したということは、神との戦争状態がなくなって神との間に平和が打ち立てられたということです。イエス様がヨハネ14章27節で言っている平和、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言うところの平和なのであります。ルターが教えているように、この世が与える平和とは外面的に嵐や動乱がない状態にすぎません。嵐や動乱が起きれば失われてしまうものです。しかし、イエス様が与える平和とは、外面的に嵐や動乱があっても保たれる平和です。つまり、神がイエス様を用いて実現して自分が受け取った神との結びつきは、いくら嵐や動乱が外面上は荒れ狂っていても、自分から手離さない限りはしっかり保たれているという、心と魂の平和です。この世が与える平和を肉による平和とすると、イエス様が与える平和は霊的な平和ということになります。

 

4.イエス様は、旧約聖書の律法と預言書の真の目的を正確に把握していました。つまり真理を把握していたのです。当時のユダヤ教社会の自己満足的な指導層の律法・預言書理解は、真理とはかけ離れたものでした。もし彼らがイエス様の教えを認めたら、現存の神殿の礼拝・崇拝は存立の根拠を失ってしまいます。それゆえ、指導層の抱いた反感や危機感は相当なものだったと言えます。イエス様が律法と預言書の目的を正確に把握していたということは、彼が神の人間救済計画を知っていたということです。神の民イスラエルの辿ってきた歴史はこの計画の実現に向かう歴史で、自分はその計画が最終的に実現するためにこの世に送られたのだということもわかっていました。

イエス様の十字架と復活をもって救済計画が実現した後は、人類の歴史は今度は、イエス様が再臨する日、つまり終末の日に向かう歴史となります。その日が来るまでに出来るだけ多くの人が神の実現された救いを受け取ることができるようにするというのが神の意思ですので、神の人間救済の歴史は十字架と復活の後も続きます。このように人類の歴史は、神の人間救済の歴史であります。

 しかしながら、学校で教える歴史、歴史学で研究される歴史は、これとは全く別ものです。そこでは歴史を神の人間救済計画が実現する場とか時間とは考えません。学校で教えられる歴史や歴史学で研究される歴史は、神とかこの世を超えたものは一切切り離して、この世の中の範囲内で人間が認識できるもの確認できるものだけを見ていき、それ以外のものは見ません。そのような歴史は、キリスト教の誕生についてだいたい次のように説明します。

「ナザレ出身のイエスは、自分を神の子とかユダヤの王と称して、神の愛や隣人愛についてユダヤ教に顕著な自民族中心主義を超える教えを説いたため、ユダヤ教社会の指導層と激しく対立し、最後は占領者ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された。その後、イエスにつき従った弟子たちの間で、彼が死から蘇ったとする信仰が生まれ、彼こそは旧約聖書に約束された救世主メシアだったと説き始め、使徒ペテロはユダヤ人を中心に、使徒パウロは異教徒を中心に伝道し、そこからキリスト教が形成されていった」という具合です。

お気づきのように、こうした歴史では「イエスにつき従った弟子たちの間で、彼が死から蘇ったとする信仰が生まれ」とは言いますが、「彼が死から蘇えった」 とは言いません。学校教育や研究者の歴史からすれば、そういうこの世を離れたもの、五感や理性で把握できないものは、歴史学の領域ではなく、信仰に属するものである、ということになります。

イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は歴史観を二つ携えてこの世を生きています。ひとつは、以上みた学校教育上や研究者の歴史です。歴史を見る時、この世の範囲内だけを見、天国とか地獄とかこの世を超えたものには一切立ち入らない、五感と理性で認識できるものだけを相手にするという歴史です。もうひとつは、この世を超えたところで神が人間救済を計画し、律法や預言書を通して神の意図を随時明らかにし、最終的にひとり子をこの世に送って計画を実現した、というまさに頭脳では収まりきれない、心でしか把握できない歴史です。たとえ心ででも把握できれば、それは真理です。頭脳に収まる真理より、深く広い真理です。

このようにイエス様を救い主として信じるキリスト信仰者は、この世中心の狭い歴史観とこの世を超えた広い歴史観の双方を持っており、広い歴史観に命を託している者です。先ほども申し上げましたが、神の人間救済の歴史は、イエス様の十字架と復活の出来事の後は今度は、イエス様が再臨する復活の日、終末の日に向かう歴史です。その日が来るまでに出来るだけ多くの人が神の実現された救いを受け取って所有できるように働いていくための歴史です。その意味でキリスト信仰者は、使徒言行録の続編を生きているということになります。そのことを自覚してこの世を生きていきましょう。果たして自分は使徒言行録の続編を担って生きているかどうか自問してみることは大事です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 2014年10月19日 聖霊降臨後第19主日
聖書日課  マタイ21章33-44節、イザヤ5章1-7節、フィリピ2章12-18節


説教「神は良い方」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書20章1-6節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所は、イエス様のたとえ「ブドウ園の労働者」です。朝早くから12時間以上、猛暑の中を汗水流して働いた者が、1時間くらいしか働かなった者と同額の賃金しか得られず、当然のことながら不平を言う。雇用者であるブドウ園の持ち主は、自分はそうしたいんだから、それを受け入れろ、と言う。イエス様は、神の国の秩序はこの持ち主の考えに沿っていると教えられます。たとえの中でブドウ園の所有者は天地創造の神を指していますから、神がこれを受け入れよと言ったら、人間の目から見て理に適っていないものでも、有無を言わずに受け入れなければならない。そういう徹底して神の意思を中心に据える秩序が浮かび上がるのであります。それにしても、労働時間の長短にかかわらず賃金は一律同じという教えの意味は何なのでしょうか?そんなことをしたら、誰も長時間働こうとしなくなるでしょう。長く働こうが短く働こうが、給料は同じなのですから。

 結論から言うと、イエス様がここで教えようとしていることは、人間の救いは信徒として生きて働いた信徒歴の長短には左右されない、ということです。そこで、次のような信徒を思い描いてみましょう。赤ちゃんの時に洗礼を受け、子供の時から日曜学校に通い、聖書に親しみ、主日礼拝に毎週通い、聖書研究会にも毎回出席し、青年会や壮年会、婦人会などの教会の活動や行事に一生懸命取り組み、日曜学校でも教師を務めたり、さらには教会の役員や代議員も務めたりする。また福音伝道のために牧師の手足となって働く。まさに模範的なベテラン信徒です。そのような信徒と並んで、教会には、洗礼を受けてまだ日が浅いという新参の信徒もいます。信徒歴も教会での活動歴も、また聖書の知識や神の御言葉を使いこなす力もまだとてもベテランには及びません。それでは、救いはベテラン信徒の方に確実にあって、新参信徒は救いを確実にするためにはまだまだ修行を積まなければならないということでしょうか?いいえ、そういうことでは決してありません。キリスト信仰では、イエス様を自分の唯一の救い主、唯一の見守り者だと信じて洗礼を受け、かつそう信じて聖餐式に臨む者は、信徒歴が長かろうが短かろうが全く関係なく、皆救いが確実になっている者なのです。

こうしたことはベテラン信徒にとっては当たり前で、誰も、新参信徒はまだ救いに不十分にしか与っていない、などと思ったりしません。どうしてかと言うと、キリスト信仰では、人間の救いとは、人間が自分の力や能力で達成したり築き上げるものではなくて、天地創造の神が人間の救いのために成し遂げて下さったことをただただ受け身に徹して受け取る、これに尽きるからであります。ここで、キリスト信仰における人間の救いということについて、少しおさらいをしましょう。

 

2.まず、人間はもともと自分の造り主である天地創造の神としっかり結びついて生きる存在でありました。それが、悪魔の誘惑に引っかかり、神に対して不従順になって罪を犯したがために、神との結びつきが崩れてしまい、同時に死ぬ存在となってしまった。この辺の事情は創世記3章に記されています。そうして人間は代々死んできたことに示されるように、代々罪と不従順を受け継いできました。神との結びつきが途絶えた状態にいたのです。

これに対して神は人間を見捨てるようなことはせず、逆に、人間が再び神との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死んでもその時は自分の許に永遠に戻れるようにしてあげよう、と考え、それでひとり子のイエス様をこの世に送られたのでした。人間が神との結びつきを回復できるために、どうしてひとり子を送らなければならなかったか?それは、人間と神との結びつきを壊している張本人の罪の問題を解決しなければならない。しかし、人間から罪の汚れを除去することは不可能です。なぜなら、人間は誰も神の神聖な意思を100%実現できる人はいないからです。しかし、人間に張り付いている罪をなんとかしなければ、神との結びつきは回復できません。

そこで、神が行ったことは、御子イエス様に人間の罪を全部に負わせて、人間の罪の罰を全部イエス様に受けさせて、ゴルゴタの十字架の上でイエス様を死なせました。神は、このイエス様の身代わりの犠牲の死に免じて私たち人間の罪を赦すという道を採ったのです。しかもそれだけで終わらず、一度死んだイエス様を神は復活させて、死を超えた永遠の命の扉を人間に開かれました。こうして、罪を赦された人間は、罪をまだ持っているにもかかわらず、それを赦されたので、神との結びつきを阻むものがなくなりました。罪を持っているにもかかわらず、神との結びつきの中で生きるということは、そのような人においては、罪が生み出す死の力は完全に無力化されていて、その人は罪の呪いから解放されているということであります。

このようにして、神は人間の救いを、イエス様を用いて全部整えて下さいました。あと、人間の方ですることは何かと言えば、それは、神が「私が整えたから受け取りなさい」と差し出しくれている救いをそっくりそのまま受け取ることだけです。どうやってそっくりそのまま受け取れるかと言うと、この十字架にかかって死なれ三日後に死から復活されたイエス様こそが自分の唯一の救い主、唯一の見守り者だと信じて洗礼を受けることです。そのようにして神の整えた救いを受け取った者は、罪の赦しが効力を持ち始め、罪が生み出す死の力が無力にされます。こうしてその人は、罪と死の支配下から神からの罪の赦しの影響下に移されます。その時まさに神との結びつきが回復した者として、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。神との結びつきを持って生きる以上、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御手によって御許に引き上げられて、永遠に自分の造り主の許に戻れるようになります。以上が、キリスト信仰で言う人間の救いです。

教会とは、こうした神がイエス様を用いて整えた救いを受け取った人たちから形成される共同体です。教会の仕事として2つ大事なものが考えられます。一つは、救いを受け取った人が、その救いをしっかり携えてこの世の人生の道を歩めるように助け支えるということです。この世には、いろいろな力が働いており、一度受け取った救いを手放させようとしたり、永遠の命に至る道を踏み外させようとしています。それらが具体的に何であるかは、皆さんが個人個人で自分の問題としてお考えになってみてください。

教会のもう一つの大事な仕事は、まだ救いを受け取っていない人たちが、それを受け取ることが出来るようにしていくことです。先ほども申しましたように、神はイエス様を用いて整えた救いを、人類全体に向かって、どうぞ受け取りなさい、と言って提供しているのです。それを受け取った人がキリスト信仰者ということになります。しかし、受け取っていない人たちがまだまだ世界には大勢います。どうしたらこうした人たちが救いを受け取ることができるようになるかを考えて行動に移すことはなかなか簡単なことではありません。宣べ伝え方を間違えると、拒否されてしまうかもしれないという恐れもあります。いずれにしても、受け取っていない人たちのために、お祈りすることから始めなければなりません。あとは、祈りを必ず聞き遂げて下さる神が、私たちに勇気や力を与えてくれ、道筋を示してくれます。

以上のように、教会には、まず、救いを既に受け取った信仰者を助け支えるという仕事があり、それから、まだ救いを受け取っていない人たちが受け取ることが出来るようにする仕事があります。信徒歴が長い人というのは、こうした仕事に関わっていた期間が長いということですが、こうした人たちが信徒歴の短い人たちをとやかく言うことはありません。なぜなら、信徒歴が長い人は、短い人たちも全く同じ救いを受け取っているとわかっているからです。そういうわけで、イエス様のたとえに出てくる文句を言う長時間の労働者は、仕事した時間が長ければ長いほど、より良いより確実な救いが得られると期待したようなもので、それはナンセンスです。救いを受け取るのが早かろうが遅かろうが、受け取った救いは同じものです。受け取りが早ければ、教会の仕事にも早くから携わっていたことになり、受け取りが遅ければ、遅く仕事に取り取り掛かった、というだけの話です。

 

3.以上のように、本日の福音書のイエス様のたとえは、「信徒歴の長短に左右されない救い」について教えていると理解すると、ひとつわかりにくいことがでてきます。それは、たとえの終わりでイエス様が「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(20章16節)と言っているところです。そうなると、信徒歴の短い者に救いの優先順位が与えられ、信徒歴の長い者は救いに関して後回しにされるように聞こえます。先ほど述べた理解では、信徒歴の長い者も短い者も救いの実現においては全く同じ地位にいなければなりません。つまり、イエス様としては、「後にいる者は先にいる者と同じになる」と言った方が正確だったのではないか、先にいる者が後回しにされるというのはどういうことでしょうか?

 この疑問を解くためには、本日の箇所の前にある19章16節から30節までを本日の箇所と一緒にしてみる必要があります。

 まず19章16~22節で、一人の若者がイエス様のもとに駆け寄り、永遠の命を得るために何をすべきか、と尋ね、イエス様と若者の対話が始まります。イエス様は十戒の中の掟を述べて、それらを守れと言われる。若者はそんなものはもう守った、何がまだ足りないか、と聞く。イエス様は、足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に分け与え、そして私に従いなさい、と命じる。若者は実は大金持ちだったため、悲痛な思いで立ち去って行った、というところです。

 若者が立ち去った後で、イエス様と弟子たちの間で今起きた出来事を総括する対話が始まります。23~26節で、イエス様は、駱駝が針の穴を潜り抜ける方が金持ちが神の国に入ることより簡単だと言う。「神の国に入る」というのは、「救われて永遠の命を持つ」ということです。金持ちが救われるのはそれくらい困難が伴うのだ、と。これを聞いた弟子たちは度胆を抜かれてしまう。なぜなら、金持ちが神の国に入るのが駱駝の針の穴潜り抜けより難しかったら、貧乏人の場合はどうなるのか。仮に、貧乏人が神の国に入るのは駱駝の針の穴潜り抜けより簡単だと言われても、駱駝の潜り抜け自体は依然不可能なことなので、そう言われても何の励ましにもなりません。弟子たちが「それでは誰が救われるのだろうか」と不安に陥るのは当然です。そこでペトロがイエス様に尋ねます。自分たちはあの若者と違って全てを捨てて従ってきた。自分たちは金持ちなんかではない。自分たちは救いに与れるのか。糸が針の穴を通れるように神の国に入れるのだろうか。イエス様の答えは明快で、私の名のために親兄弟家財その他一切合財を捨てた者は、永遠の命を得て、天の国で大きな報いを得ると教えます。ペトロの質問とイエス様の答えが27

30節を成し、この後に本日の箇所である「ブドウ園の労働者」のたとえが続きます。つまり、このたとえは、イエス様と若者の出来事を総括する対話の続きなのです。それゆえ、たとえを理解するためには、イエス様と若者の出来事に遡ってみる必要があるのです。

 19章16節から22節までのイエス様と若者の対話で、若者の質問を詳しくみると、「永遠の命を得るためには、どんな良いことをしなければならないか」と尋ねます。「どんなことをしなければならないか」ではなく、「どんな良いことを」と「良い」という言葉がついています。イエス様はそれに目を留められ、すかさず聞き返します。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのか。良い方はおひとりである。」良い方はお一人というとき、その良い方とは神を指しています。ところが、話が良い「こと」から良い「方」へ、事柄から人格へ注意を向けさせます。若者は「良い」ことは人間がすること、出来ることと考えて質問したのに対して、イエス様は、「良い」ということは神だけに結びついている、「良い」ということを体現しているのは神しかいないと、反駁するのです。それで、良い方は神おひとりであり、「良い」ということを体現していない人間が永遠の命を得るために「良い」ことを行うという質問は、出だしから的外れというのであります。「良い」ということについて考えたり口にしたりする場合、神が出発点になっていなければならないのに、若者の質問は人間が出発点になっているのであります。神のもとだけに「良い」ということがある、神だけが「良い」という性質を持っている、体現している。このことを忘れると、人間は救いの実現を、自分の意志や能力に基づかせようとします。でもそれはいつか必ず限界にぶつかります。イエス様の命じられたことは、まさに若者の意志と能力の限界を明らかにするものでした。救いは、人間の意志や能力にではなく、ただただ神が「良い」ということに基づかせなければ実現しないのです。

 イエス様と若者の対話から、神が「良い」ということが救いの大前提であることが明らかになりました。そして、この神が「良い」ということが、本日のたとえの中でまた出てくるのです。それはどこでしょうか?

長時間働いた労働者がブドウ園の所有者に不平を言った後、所有者が回答します。20章15節です。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさをねたむのか。」日本語では「気前のよさ」と訳されていますが、ギリシャ語では、若者との対話で出てきた「良い」と同じ言葉アガトスαγαθοςがちゃんと使われています。日本語訳では、同じ言葉が異なる訳をされてしまったので、若者の対話とイエス様のたとえのつながりがみえなくなってしまうのですが、原文をみれば、対話で神が「良い方」であると言ったことが本日のたとえの伏線になっていることがみえてきます。そこで、問題の15節を原文に忠実に訳すと次のようになります。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私が良い者であるために、お前の目は邪悪なのか。」少し訳し込むと、「私が良い者であることがはっきりしすぎて、耐えられない位にお前の目は邪悪なのか」となるでしょう。先ほど申し上げたように、ブドウ園の所有者は神を指しますが、若者との対話でイエス様は神を良い方と言い、「ブドウ園の労働者」のたとえでも神は良い方と言われるのです。

こうして、本日のたとえと若者との対話の間に共通のテーマがあることが明らかになりました。若者との対話で、イエス様は、救いの実現を人間の意志や能力に基づかせようとする考えを打ち砕き、それを神は「良い」方ということだけに基づかせようとしました。「ブドウ園の労働者」のたとえでは、理に適っておらず受け入れがたいことでもそれが神の意志ならば受け入れなければならない。私の意志はたとえそれが理に適っていても取り下げて神の意志を優先させなければならない。そうするのが当然であるという根拠は、まさに神は「良い」方であるということによるのだ。このように対話とたとえが言わんとしていることは、神は「良い」方であるということに基づいていないと、人間は自分の力で救いを得ようとしだし、被造物の分際で創造者である神の意志よりも自分の意志を優先させようとする、そういう本末転倒が起きると教えているのであります。それでは、神が「良い」ゆえに人間は救いを全て神に委ねなければならない、神が「良い」ゆえに自分の意志を後回しにして神の意志を優先させねばならないというとき、ではその神の「良い」とは何か?それほどまでに「良い」という神の「良さ」は何か?それは、もう先ほどに述べました。神がひとり子イエス様を用いて私たち人間の救いを整えて下さったということです。罪の赦しを与えることを通して、私たちと神との結びつきを回復させたということです。

 若者が立ち去った後、出来事の総括をイエス様と弟子たちが始めます。救いの困難性を駱駝の針の穴通り抜けと比べられて、弟子たちは唖然としている。それでは一体誰が救われるのだろう、と。イエス様は答えられます。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」つまり、救いは完全に神の業であるというのです。救いの実現に人間のなしえるものは何もないというのであります。これは、イエス様の十字架の死と死からの復活によって、全くその通りになりました。

 以上から、イエス様の言葉「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」の意味が明らかになります。後回しにされてしまう「先にいる者」とは、信徒歴が長くて教会の大事な仕事を長年一生懸命してきた人ではありません。そうではなくて、救いを得るために自分の意志と能力により頼み、自分が獲得したものや持っているものを捨てられない者を指します。本日のたとえに出てくる長時間働いた労働者は救いをそのように考える人です。そのような人は、信徒歴が短い人が同じ救いに与っているとは考えたくはないのです。そのような人は、復活の日、イエス様の再臨の日には後回しにされてします。これとは対照的に、神は「良い」方ということにしっかり基づいていて、救いを得るためにただただ神の意志と力にしかより頼まない者がいます。これが「後にいる者」です。本日のたとえに出てくる短時間働いた労働者は、まさにブドウ園の所有者に見つけられて来なさいと言われなかったら、ブドウ園に行くことはありえなかったのです。このように神の意志と力に従う人なので、たとえ全てを捨てることになっても救い主のイエス様を選ぶことが出来ます。そのような人は、神の国が到来する日には真っ先に迎え入れられます。神の「良さ」にしっかり基づいていれば、人間はたとえ理に適っていなくても神の意志を優先させてそれに従うことができるが、それに基づいていないと、従うのは難しいでしょう。

ところで、いくら神の「良さ」を強調しても、理に適わないことに服するのは納得いかないと思われるかもしれません。ここで先ほど述べました神の「良さ」についてもう一度思い起こして下さい。神は御子イエスを用いて救いを全部実現して下さった。その救いの所有者にしてもらった私たちは、死を超えた永遠の命に至る道を今歩むことができている。たとえ死の影の谷を歩むとも何も恐れるものはないのです。永遠の命に与るための途方もない代価を神御自身がひとり子の流した尊い血を代価にして支払って下さったのです。まさに、ご自分の御子を犠牲にすることで。こうした神の「良さ」を思う時、どうして神の意志を後回しにして自分の意志を優先させることができるでしょうか?神は「良い」方ということにしっかり基づいていれば、神が与えられるものは何でも喜んで受けることができるようになるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 


 主日礼拝説教 2014年10月12日 聖霊降臨後第18主日
聖書日課  マタイによる福音書20章1-6節、イザヤ55章6-9節、フィリピ1章12-13章30節


10月11日のフィンランド家庭料理クラブの報告

リンゴのケーキ秋の日差しが、牧師館のカーテン越しに心地よい季節の到来を知らせてくれてる、
土曜日の午後、
スオミ教会家庭料理クラブは「リンゴのケーキ」を作りました。

最初に、パイヴィ先生によるお祈りからスタートしました。

りんごのケーキ今回は果物屋さんが太鼓判を押してくれた、美味しい紅玉を使い、18㎝の丸型を2人一組で1台ずつ焼きました。

パイヴィ先生からも、リンゴや、食にまつわるお話を沢山聞かせていただきました。
北国のフィンランドで、収穫できる果物の種類は少なく、
可愛らしい実をつけたリンゴは、庭先にはもちろん、森の中や街中でも見かけます、
お菓子やジャム、ジュースなどに加工されて、食卓をたのしませてくれます。

リンゴのケーキ焼き上がったケーキは、たっぷりのバニラソースを添えて、美味しく頂きました、
ご参加下さった皆様、有難うございました。
きれいに後片付けもしていただき、お疲れさまでした。

 

11月の料理クラブは、教会行事が重なるため、
3週目の土曜日、11月15日 13:00~になります。
「ジャガイモのクッコ」を予定しています。

皆さまのご参加をお待ちしています。

説教「赦しについて」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書18章21節~25節

今日の聖書は、「赦しについて」であります。 ルカ福音書では、17章に短く記してあります。

教会の信徒である兄弟が罪を犯した場合、戒めなさい。そして、悔い改めれば赦してやりなさい。 こういう指示があって、続いて、一日に七度罪を犯しても、その度に悔い改めを口に表すなら、赦してあげなさい。

マタイ福音書においては、弟子たちを代表して、ペテロがイエス様にたずねています。15~18節のところでは、罪を犯した兄弟に対して、忠告するに当たっての指示でしたが、ペテロは、どこに赦しの限界を設けるべきでしょうか、という点に移っています。 ペテロは問いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。 ここには、自分の罪を認めて悔い改めたなら、という条件がいっさいない。

ユダヤ教の「赦し」の考えで、ラビの伝承によれば、人が他の人に罪を犯した場合、相手に赦しを乞うということが、神の赦しにあずかるための、条件とされていた。 つまり、神の赦しにあずかるためにも、人にわびることが必要である、とされた。自然のことです。

ところで、ペテロの質問の中には、悔い改めの条件も、又、ユダヤ教のような神に対する赦しの思いも、この限界を越えて「無条件の赦し」を問題としています。これは驚くべきことでした。 しかも、「赦しは七度までですか」と言ったのです。 ラビの伝承によれば、人が罪を犯した場合、神は三度までは赦してくださるけれども、それ以上の赦しはない。 ペテロも弟子たちも、ユダヤ教のこのことは知っていたでしょう。その上で、三度までを2倍して、なお一つ加えて目いっぱい七度までですかと言ってみたのです。ペテロの大胆な、新しい息吹を感じさせる、おどろきの質問でした。 しかしながら、イエス様のペテロに対しての答えは、もっと驚くべきものでした。22節「イエスは言われた。『あなたに言っておく、七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」。 これは、七の七十倍といった数字で数えるようなものではなくて、これは「無限に赦せ」ということにほかならない。

そこでイエス様は、一つのたとえ話で確かなものとされたのです。23節以下で、「天の国は、次のようにたとえられる」と話されました。

ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 決済を始めたところ、一万タラントンを借金している家来が、王の前につれて来られた。しかし返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も又持ち物も、全部売って返済するように命じた。

さて、この話の中の借金をした家来の額が、一万円とか100万円くらいの額ではないこと、巨大な額であることに注目しなければなりません。 では、どれ位の額であったか。 1タラントンというのは6000デナリでしたから、6000万デナリということになります。1デナリは、当時の労働者一日分の給料と見なされていました。とすると、分かりやすくこれを一万円としたら6000億円という、とてつもない額になります。数字だけ言っても、これはどれ位のものか分からない。

少し分かりやすくするために、この当時の王の年収を見ますと、ヘロデ・アンティパスが、その所領ガリラヤとペレアから得た年収は、200タラントンであった。これはヨセフスという人が書いた「ユダヤ古代誌」に記しています。 又ヘロデ・ピリポが得た年収は100タラントンであった。又、列王記上10章14節を見ると、ソロモン王のもとには年間、666タラントンの金が入って来た、という。

これらのことから比較しても、1万タラントンという借金が、どれ程のものかが分かります。ヘロデ・ピリポ王の100倍です。 これは、たとえ話であります。現実にこの巨額の借金を、どのようにしたか等、考えたら不可能なことでしょう。 たとえの意味として、無限の負債を表現していると言えます。 要するにこの僕にとって、これは返済不可能な負債であった、ということです。 そこで主人は、この僕に全財産を売り払って返済することを命じた。当然のことでしょう。その当時の制度の通り命じたのです。

皆さん、どうでしょうか。この家来のようになったらどうしますでしょうか。

26節を見ますと「家来はひれ伏し、『どうか待って下さい。きっと全部お返しします』と、しきりに願った」。 27節です。すると「その家来の主君は、憐れみに思って彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」。 私たちは、この主君の言葉におどろきます。巨額の借金を全部帳消しにする、ということです。なんと言うことでしょうか。

この家来は主君の前にひれ伏して懇願しています。「どうか待ってください」。 ここの原文を直訳で言うと、次のようになるというのです。 「私に対して寛大であって下さい」と言ったのです。そうして「皆、お返しします」と言っているところを見ると、彼はなんとかして負債をつぐなおうと考えたのでしょう。免除なんて全く念頭になかったでしょう。

ところが思いもかけず主人は、この家来の巨額の負債を全部帳消しにしてやったのです。ここのたとえで示されていることから、ここで私たちは、主の犠牲が払われて、私たちの罪の全部が帳消しにされた。負い切れない罪のすべてを、帳消しにしてもらって、神のみ前に罪なき者として立つことができるのです。 この神の御国での、赦されている恵みというものを、深くふかく、もっとよく知って、理解して、受け入れて了承していくと、どんなに主の恵みがありがたいか、感謝にあふれます。

私たちが、ここでしっかりと覚えなければならないと思うのは、主君は、憐れに思って彼を赦した、とあります。 ここには、いかに深い神の憐れみというものがあるか、すべては、神の支配のもとにあります。神の憐れみの支配によるものであります。 私たちは礼拝のたびに、キリエを唱えます「主よあわれんで下さい。」、「キリストよ、あわれんで下さい。」私の罪の赦しの憐れみです。計り知れない、深く、大きな、神の憐れみと恵みです。

ところが、この赦しにあずかった僕は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に会うと、捕まえて首をしめ、「借金を返せ」と迫った。 百デナリという金額は大きな負債にちがいないが、全く返済できぬほどの巨額ではない。この男は、あの主人に巨額の負債全部をゆるされたことを忘れて、相手を獄に入れた。 すると仲間達は、事の次第を見て非常に心を痛め、主君に事件を残らず告げた。 そこで主人は、その僕を呼び出して言う。「この不埒な僕め、お前が頼んだから私はあの負債をみな免じてやった。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れむべきではないか」。

仲間の負債を赦してやらなかったこの僕の中に、私たちもどうしても、赦さない根性が根付いてあります。 神に対しての、人間の中にある負いきれない無限の罪の負債がある。それに比べ、仲間同志の負債など、ちっぽけなもの。それでも赦せないでいる。 神様の限りない憐れみによる赦しがあっているのに、人間の非情な冷酷さがこのたとえで際立って示されいます。

最後に、この無限の赦しがあるゆえに、神は私たちに全き自己放棄を求めておられる。 どこまでも友をゆるし、、愛をつらぬいてゆく事を、求めておられるのです。 このことを実際行ったら、この世は全き無秩序になっていくのではないか、という疑問が生まれるかもしれない。 しかしこれについては、パウロがローマ人への手紙に明快に記しています。 その言葉に希望の光を見たいのです。 ロマ書12章19節です。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。復讐するのは私のすること、私が報復する」と主は言われる。

紀元前2世紀~1世紀にハスモン王朝の時代、イスラエル12部族の中でガド族への遺言のように言い伝えられた遺訓というものが、次のようにあります。 「互いに、心から愛し合いなさい。もし誰かがあなたに罪を犯したら、その者とおだやかに話し、心に悪だくみを抱いてはならない。もし悔い改めて、それを言い表したなら赦しなさい。しかし、たとえ悔い改めを拒否しても、怒ってはならない」。そして最後は次の言葉で結ばれている。 「しかし、もし恥知らずで悪事を続けたとしても、心からゆるし、復讐は神にまかせなさい。」 この最後の「復讐は神にまかせよ」という言葉をパウロは、ローマ人への手紙の12章の言葉に含めているのです。 義なる神が厳然として、その審きを貫徹して下さる。 だからキリスト者は、安んじて、神の御手に委ねることであります。 この義なる神の愛に支えられてこそ、キリスト者はこの無限に赦す心を、聖霊の賜物として頂くことができるのであります。  アーメン。

 

聖霊降臨後第17主日  2014年10月5(日)

説教「罪を犯した兄弟にどう向き合うか?」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書18章15-20節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の福音書の箇所でイエス様は、「あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか」について教えます。ここで言う「あなた」と「あなたの兄弟」は、双方ともイエス様を救い主と信じる者です。17節で、問題が当事者同士で解決できなければ、教会に持ち込めと言っているので、二人とも教会に属する者であることは明らかです。つまり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者です。それでは、教会に属する者が別の者に罪を犯したとき、キリスト信仰者は、どう対処すればよいのでしょうか?

 その前に少し断線しますが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者が同じ信仰を持つ者に対して罪を犯すということがありうるのでしょうか?イエス様の問題提起はちょっとびっくりさせます。しかし、使徒書簡をみるまでもなく、キリスト教会は誕生期からいろいろな問題を抱えていたようです。「コリントの信徒への第一の手紙」の6章をみると、信仰者同士の間で利害の対立が生じた時、その解決を当時キリスト教と全く無縁であったローマ帝国の法廷に委ねることが行われていたことがうかがえます。それについて使徒パウロは、問題の解決を信仰を持つ者同士で行うのではなく、信仰を持たない者に委ねるとは何事かと叱責します。どんな利害の対立があったのかははっきり述べられていませんが、「相手から損害を被っても耐えろ」とか「相手から奪い取るな」とか言っているところをみると(6章7~8節)、金銭上のトラブルがあったことが窺えます。当時はまた、貸した金に利子をつけることも行われていたようなので(マタイ25章27節)、きっと、ちゃんと既定の額を返してくれなかったとか、逆に法外な額を要求されたとか、そういう問題があったのでしょう。この問題は、十戒の第6の掟「汝、盗むなかれ」に関わります。どっちが盗人か白黒つけられれば、どっちが罪を犯したかが明らかになります。しかしパウロは、すぐ法廷に持ち込むということに自己の利益しか頭にないということを見抜いていました。

金銭上のトラブルに加えて、信仰者同士の罪の問題には性関係の乱れがあったことも、同じコリント第一の手紙の中に記されています(5章)。キリスト教会の性のモラルの基本は、イエス様の教え「神は人間を男と女とに創りあげ、男と女は親元を離れて、神によって一つに結ばれる」(マルコ10章6~9節)にあります。つまり、徹底して男女の間の一夫一婦制に基づく性モラルです。当時の地中海世界の性モラルはこれとは異なっていて、今風に言えば「多様な」性モラルでしたから、なかなかそこから抜け出られない信仰者もいたに違いありません。余計なことですが、現代世界は、キリスト教会の内外を問わず、イエス様の教えた性モラルと相いれないモラルが蔓延していると思います。真のキリスト教徒にとっては試練の時代です。いずれにしても、この問題は、十戒の第7の掟「汝、姦淫するなかれ」に関わります。

 第6や第7の掟に関わる罪だけでなく、この他にもいろいろな罪が信仰者の相互関係を損なっていたと考えられます。例えば、金銭上のトラブルや性関係の乱れには、ほとんど必ずといってよいほど、悪口や中傷や事実を捻じ曲げた噂がつきものです。これなど、第8の掟「汝、偽証するなかれ」に関わります。

 

2.こうした信仰者同士の罪の問題はどのように解決すべきでしょうか?本日の福音書の箇所はどう教えているでしょうか?15節から17節をみると、イエス様は次のように教えています。罪の被害を被った信仰者はそれを犯した者に対して、まず、二人だけのところで、「君が行ったことは罪である。我々の神の意思に反することである

とはっきり教え戒めるべきである、と。もし罪を犯した者が、「おっしゃる通りです」と聞き入れて、罪を悔いて赦しを願えばこれを赦してあげる。そうすることで、被害を被った信仰者は、信仰の兄弟を得ることになる。つまり、赦した後は、犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にする。こうして信仰の兄弟姉妹の関係が築かれるのであります。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記19章17節にある神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」に基づいているということです。どういうことかと言うと、罪の被害を被った信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で「こんちくしょう、あの野郎」と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って、「君が行ったことは罪なのだ。我々の神の意思に反することなのだ」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは、罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと見なされる、と言うのです。教え戒めて、相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたということになります。しかし、教え戒めても聞き従わない場合は、罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人は責任解除になるのです。これと同じ神の意思が、先ほど朗読された旧約聖書の箇所エゼキエル書33章7~9節の中にも表されています。

以上から、「二人だけのところで教え戒める」の意味がわかりました。それは、単に信仰の兄弟が仲直りしてめでたしめでたしになるための手続きではない。そうではなくて、罪を犯した者にそれが罪であると認識させて、その上でそれを悔いて赦しを求めるように導くということであり、被害を被った者はその導きをする重要な役割を持つということです。罪を犯した者が悔いて赦しを願う時、被害を被った者は赦しを与えなければならない。赦した後は、犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にする。そうして、真の信仰の兄弟姉妹関係が築かれる。神の民から罪の汚れを取り除くというのは、まさにこのようなことを言います。罪を罪として包み隠さず、当事者に対して明白にし、そこから赦しを与えることで罪を帳消しにしていく、ということであります。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

次に進みましょう。残念なことに、「二人だけのところで教え戒める」ことが功を奏せず、罪を犯した信仰者が教え戒めに耳を貸さなかった場合はどうするか?つまり、自分は何も罪を犯していないとか、あるいは自分のやったことは罪ではない、と言い張った時です。その時は、証人を信仰者の中から一人か二人呼んで、それはやっぱり罪に値することだったということを確認してもらうことになる、とイエス様は教えます。この証人を立てるというイエス様の教えは、旧約聖書の申命記19章15節にある神の命令に基づいています。天地創造の神は、十戒の第八の掟「汝、偽証するなかれ」で端的に表しているように、真実を愛し偽りを憎む神です。「君が行ったことは第三者がみても罪に値するものだから、それはもう真実として受け入れなければならない」ということになれば、罪を犯した者は次の二つの選択肢の前に立たされます。つまり、罪を認めて悔い、赦しを願って、赦しを得る道に入るか、それともあくまで耳を貸さない態度を取り続けるか。前者を選べば、真の信仰の兄弟姉妹関係を築く道に入ります。しかし、後者を選べば、話は次の段階に進みます。

ここで一つ注意することがあります。証人を立てるというのは、罪を確認するという場合もありますが、逆に罪を犯していないと証言する場合もあります。被害を被ったと主張する者が、相手を陥れるためか自分を有利に仕立てるためか目論んで、話を誇張したり捻じ曲げたり、でっちあげたりする可能性もあるからです。その場合は、そちらの方が罪を犯した兄弟になります。いかなる場合であっても、神は真実を愛し偽りを憎む方であることには変更はありません。

さて、いよいよ証人を立てても、罪を犯した信仰者が耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は、教会、教会全体の集まりないしはその代表者の集まりのいずれかになると思うのですが、それに委ねられることになる、とイエス様は教えられます。ここで、罪を犯した信仰者が罪を認めて悔いそして赦しを願えば、問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とイエス様は教えます。異邦人とは、天と地と人間を造られて御子イエス様をこの世に送られた神を信じない人たち、神の民に属さない人たちを指します。徴税人とは、ユダヤ民族に属しながら、当時占領者であるローマ帝国の租税官吏となって同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしていた人たちです。民族の裏切り者と見なされていました。罪を犯しても最後まで非を認めない信仰者は、こうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。

ところで、日本語訳の「異教徒か徴税人と同様に見なしなさい」を注意してみます。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「その人は、あなたにとって異邦人か徴税人のようになってしまえ」という意味です。つまり、あなたは教会に留まる者であることは変わりないが、それに対して罪を犯した者は形式上は教会に属しているが実質上は教会の外部の者となってしまった。何度も赦しの機会が与えられたにもかかわらず、自分で自分を外部の者に追いやってしまっている。これはもう神の目から見てももうお手上げな存在だ、勝手にするがいい、ということです。日本語訳のように「異教徒か徴税人と同様に見なしなさい」と言うと、罪の被害を被った者に対する「見なしなさい」という命令になります。しかし、ギリシャ語原文では、被害を被った者に対する命令文ではありません(二人称単数ではなく三人称単数の命令形です)。罪を犯した者が差し出された手を振り切って自分でそうしている以上は、「異邦人か徴税人のようになってしまえ」と、神に突き離されているのです。それでは、罪の被害を被った者はどうすればよいのか?罪を犯した兄弟を異邦人か徴税人と同様に見なすことでしょうか?

そうではありません。本日の福音書の箇所に続く21~22節を見ると、これは次主日の箇所になりますが、ペトロがイエス様に、信仰の兄弟が罪を犯したら何回赦すべきか、7回までか、と尋ねます。それに対してイエス様は、7回どころか7の70倍までも赦しなさい、と答えます。これはもう、赦すことにおいて回数に制限を設けるなという意味です。罪を犯した兄弟がまだ罪を悔いることも赦しを願うこともしない段階で、その者を赦すとはどういうことなのでしょうか?後でそのことについて見てまいりますが、その前に、これまで述べてきた兄弟を教え戒める手続きの教えと、ペトロとイエス様の赦しの回数についてのやり取りの間にある18~20節をしっかり見てみましょう。

 

3.18節をみると、使徒たちが地上で禁じたり罰したりすることは、天の国でもお墨付きを得ている、逆に地上で認めたり赦したりすることも、天の国でお墨付きを得ているということで、使徒たちに教会生活、信仰生活の規律設定の権限を委ねる内容です。人が罪を犯したかどうか、もし犯したならば、赦しを得られるかどうかということについて、使徒たちに決める権限が与えられている。つまり、イエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になった使徒たちは、神の意志がなんであるかを地上で明らかにする権限を持っているということです。そうであるからこそ、罪を犯した者に対して、罪は罪であるとはっきり言わなければならないのです。

続く19節から20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神はかなえて下さるというような、一見、願い事は何でもかなうと言っているように見える教えです。実はそうではなく、これも18節の使徒たちの権限の教えの続きです。これをギリシャ語原文に忠実に訳すと、「お前たちが追い求めている事柄に関して、お前たちのうち二人がこの地上で合意すれば、その合意された事柄は天の父なるみ神の力で実現されたものとなる」ということです。18節で、使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言ったことに加えて、そのためには使徒一人ひとりが勝手に決めるのではなく、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だ、と言うのが19~20節の意味であります。願い事が何でもかなうという意味ではなく、教会内のいろいろな問題について、何が神の意志に沿っているか反しているかを明らかにしなければならない。その時、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意したら、それは天のお墨付きを得たことになり、地上でもその通りになるという意味であります。

 

4.以上から、18 ,20節は、教会内のいろいろな問題を神の意志に沿うように解決する際、使徒たちに大きな決定権が与えられており、それをしっかり行使しなければならない、と教えていることが明らかになりました。つまり、神の意志を明確にし、それに反していることは反しているとはっきり言わねばならない、ということです。そこで、自分で自分を教会外部の立場に追い込んでしまった信徒にどう向き合うかという問いの答えが来ます。21節でペトロがイエス様に質問します。「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。」「そのとき」というのは、まさに、イエス様が神の意志を地上で明らかにする使徒の権限について教えた「そのとき」なのです。ペトロの質問に対するイエス様の答えは、繰り返し罪を犯す兄弟に対して、赦しの回数に制限を設けるなというものでした。イエス様は、この無制限の赦しというものをわからせるために、続く23節から「仲間を赦さない家来のたとえ」を話すのであります。

これらの教えは次主日のテーマですので、ここでは立ち入りませんが、本説教のテーマとの関連で申し上げれば、イエス様の教えの中で次のことが重要な点です。キリスト信仰者とは、天文学的とも言える莫大な借金を帳消しされた人と同じような憐れみを受けている存在であるということです。罪の赦しが莫大な借金の帳消しにたとえられるのであります。最初の人間アダムとエヴァの犯した神への不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまいました。人間を造られた神は、人間との結びつきを回復させよう、人間がこの世から死んでも永遠の命を持てて再び造り主である自分のもとに戻ることができるようにしようと決めました。そこで、人間と神との関係を壊してしまった原因である罪の力を無力化すべく、ひとり子イエス様をこの世に送り、本来人間が受けるべき罪の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間の罪を赦すことにした。この赦しを受けることで、人間は罪と死の支配から自由の身とされることとなった。罪と死の支配から人間が贖われるために支払われた代償は、まさに神のひとり子が十字架で流した血であった。詩篇49篇8~9節に記されているように、死する存在の人間は、命を買い戻す身代金を払うことはできません。なぜならそれはあまりにも高額だからです。それを神は、み子の血を代価にして支払って下さったのです。しかし、それだけで終わらず、神は一度死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間に開いて下さった。人は、この2000年前の彼の地で起きた出来事が、現代を生きる自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、そのまま罪と死の支配から解放された者となって、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになる。神との結びつきが回復した者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのであります。

これが、キリスト信仰者が莫大な帳消しの憐れみを受けているということです。まさにそのために、同じ信仰を持つ兄弟姉妹が罪を犯した時、それは自分が受けた莫大な借金の帳消しを思えば、兄弟姉妹の負債など比べものにならないはした金にしかすぎないことがわかり、こだわるのも馬鹿馬鹿しくなる、というのであります。ルターも、信仰の兄弟姉妹から何か被害を被ったとしても、そんなものは小さな火花のようなもので、唾を吐きかければすぐ消えてしまうものだ、と言っています。神が自分に対して大きな赦しを与えた以上は、自分は兄弟姉妹に対して赦しを与えないということはあってはならないのであります。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、罪を犯した信仰の兄弟姉妹を赦すというのは、罪を承認することではないということです。15~20節で明らかになったように、罪は罪として神の意志に反するものとして、罪を犯した者に対して明確にしなければならない。しかし、もし犯した者が罪を悔いもせず赦しを願うこともしない場合、どうすればそうすることができるようになるかを考え、神に祈り、その実現のために何かをしなければならない。そんな人は神から大きな罰を受ければいい、などと思ってはいけない。そうではなくて、どうすれば神の罰を受けないですむようになるかを考えなければならない。なぜなら、その人もイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人だったのだから。きっと弱さや何かの迷いで道を誤ったのだろうと思わなければならない。先主日の福音書の箇所にあった「99匹と1匹の羊のたとえ」でイエス様が教えたことは、たとえ自らの誤りで神から離れてしまう道に迷い込んだとしても、神としてはその人が神のもとに戻るのを望んでいるということでした。そうである以上は、罪の被害を被った者は、罪を犯した者が神のもとに立ち返れるように神に願い祈り、可能な限り、また機会を捉えてそうなるように助けてあげる、これが、罪を犯した信仰の兄弟姉妹を赦すことです。

以上が、罪を犯した兄弟姉妹にどう向き合うかという問題の答えになります。要約すると、まず、神の意志に反することは、そうであるとはっきりさせなければならない。それと同時に、罪を犯した者がまだ罪を悔い赦しを願うことをしない段階でも、その者を赦さなければならない。ただし、赦すというのは、罪を承認するということでなく、その人が神のもとに立ち返れるよう心から祈り願い、それを支援するということです。

 

4.以上は、教会内、キリスト信仰者同士の間での罪の問題でした。それでは、罪を犯す者が教会外の者、キリスト信仰者でない場合は、信仰者はどう向き合ったらよいのでしょうか?

この問題は本日の説教のテーマには直接関係はないのですが、一言だけ申しますと、神が御子イエス様を用いて実現した人間の救いは、実は全人類に対して、どうぞ受け取って下さい、と提供されているものです。それを受け取った者がキリスト信仰者です。世界には、いろいろな事情でそれを受け取っていない人が大勢います。神が御子イエス様をこの世に送ったのは全ての人が救いを受け取るためでした。だから、それを既に受け取った信仰者はまだ受け取っていない人が受け取ることが出来るようになるために各々働きをしていかなければなりません。その意味で、先ほど申し上げた「赦す」ということは、相手が信仰者でない場合にもあてはまるのであります。罪を犯した相手に対して、あいつなど神の罰を受ければいいのだ、などと思ってはならない。そうではなくて、どうすれば罰を受けないですむようになるかを考えてあげなければならない。罪を犯した信仰の兄弟姉妹の場合は、神のもとへの立ち返りを願い祈り、そうなるよう働きかけをしなければならないと申しました。相手が信仰者でない場合は、働きかけは一層困難とは思いますが、少なくとも願い祈ることは誰にでもできます。先主日の使徒書の箇所であった「ローマの信徒への手紙」12章14節で、使徒パウロは「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と教えていますが、その通りです。

しかしながら、相手の人が神の罰を受けないようにと願い祈っても、その人がこちらの祈り願いを無にするような挙動を取り、それについて悔いることも赦しの願いもあり得ないという態度を取り続ける場合はどうするか?これは、本日の使徒書の箇所「ローマの信徒への手紙」12章の終わりでパウロが教えていることが重要になると思います。まず、神は、最後の審判の時に最終的に、悔いも赦しの願いもしなかった者に対して、その者がもたらした悪について全責任を負わせる。それゆえ、信仰者は復讐や報復に心を奪われてはならない。全ては神の怒りに任せる。そのかわり、信仰者は、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませなければならない。そうすることで、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。つまり、敵に対してただ善を行う。もし敵がそれでも悪を続ければ続けるほど、最後の審判の日にその者が負う責任は一層重くなるだけで、自分に下される罰を自ら重くするだけである。このように、最後の審判の日に最終的に悪は滅びる。他方で、もし敵になされた善がその者の心を動かして、罪の悔いと赦しの願いをもたらせば、その時一つの悪が滅びる。つまり、善をもって悪に報いる限りは、悪はいずれにしても必ず滅びる運命にあるということであります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 聖霊降臨後第16主日

 

 礼拝の中でSLEYから派遣されたミルヤム・ハルユさんの歌唱と吉村ヨハンナさんのヴァイオリン演奏が行われました。

 

 

説教「神が子供の信仰を価値あるものとみなす理由」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書18章1-14節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が子供をとても大切に考えていたことは、福音書からよく伺えます。本日の箇所の出来事は、マルコ福音書9章とルカ福音書9章にも記されています。また、ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章では、親たちがイエス様から祝福をいただこうと子供たちを連れていく場面があります。それを弟子たちが遮ろうとしたところ、主は弟子たちを戒めて、「神の国は彼らのような者たちのものだ」と言って、祝福を授けます。旧約の伝統では、神が何か任務を与える時に選ぶのはたいてい大人でした(エリのもとに引き渡されたサムエルは例外でしょうか?)。イエス様が神と子供の関係を何か特別なことのように見ていたのは当時としてはとても革新的なことだったでしょう。本日の箇所でイエス様は、大人たる者は子供の信仰を見習いなさいというようなことを教えます。また、子供の信仰を損なう者を神は断じて許してはおけないということも教えます。子供の信仰とはどういうものか?どうしてそれが手本となるのか?そういったことを後ほどみてみたいと思います。その前に、本日の箇所を、書かれていることを正確に把握しながら、理解を深めてまいりましよう。その後で、子供の信仰と大人の信仰の問題について見てまいりたいと思います。

 

 2.まず弟子たちがイエス様に「天の国で一番偉い者は誰か?」と質問します。「天の国」は、神の国のことです。マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わないようにしようとするので、そのかわりに「天」という言葉をよく使います。マタイ20章(マルコ10章)に、ヤコブとヨハネの母親がイエス様に、神の国が到来したあかつきには息子たちをイエス様の右大臣と左大臣にして下さい、と嘆願する場面があります。他の弟子たちは、この抜け駆け行為を見て憤慨しました。どうやら当時の弟子たちは、将来到来する神の国の序列や位階に関心があったようです。神の国を統治・君臨することになる王イエス様の側近になれるのは、果たして誰か?自分か、それとも他の者か?

ところがイエス様は、神の国で一番偉い者は誰かということには答えずに、子供のように、イエス、子どもたち突然、子供を弟子たちの前に立たせて言いました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

つまり、誰が神の国に入れるかということを教えるのです。神の国で誰が一番偉いかを言う前に、そもそも誰がそこに入れるのかという問題に注意を喚起するのです。その後で、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」と述べて、最初の質問に答えます。これには弟子たちもギャフンとしたでしょう。心を入れ替えて自分を低くして子供のようにならなければ、神の国で一番偉い者になれるどころか、神の国自体に入ることもできない、と言われたのですから。ここで、イエス様が教える神の国と弟子たちが理解していた神の国には大きな違いがあることは明白です。そういうわけで、イエス様が教える神の国とはどんな国かということについてみる必要があります。神の国は、先週の「人の子」と同じように、一回程度の説教では語り尽くせない大変大きなテーマです。それでも、なんとか頑張って大事な点は押さえてみたく思います。それとあわせて、神の国に入れるための条件「心を入れ替えて子供のようになる」とはどういうことなのか、これもみていきたいと思います。

神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた神がおられるところです。それは天の国とか天国とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われることもありますが、本当はそれは、人間が五感や理性を用いて認識や把握ができるこの現実世界とは全く別の世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後で、自分の世界に引き籠ってしまうことはなく、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。神の現実世界に対する介入・働きかけの中で最も重要なものは、御子イエス・キリストを御許からこの世界に送って、彼を十字架の上で死なせて、そして三日後に死から復活させたことです。

神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でありました。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまったのです。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されている通りです。

そうした悲劇が起きた後で神は人間に対して、身から出た錆だ、勝手にするがよい、と見捨てるようなことはせず、なんとか人間を助けてあげよう、人間がまた神との結びつきを持ててこの世の人生を歩めるようにしてあげよう、この世から死ぬことになっても、その時は自分の許に戻れるようにしてあげよう、と決意し、それでひとり子イエス様をこの世に送ったのであります。神がイエス様を用いて行ったことは、まず、人間と神の結びつきを壊していた原因である罪の問題を最終的に解決することでした。すなわち、人間の罪を全部イエス様が張本人であるかのようにして彼に全部負わせて、その罰を十字架の上で受けさせたということです。その結果、イエス様はとてつもない苦しみの中で死を遂げました。しかし、話はそれで終わらず神は今度は、イエス様を死から蘇らせて、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれたのです。

このように神は、御自分と人間との結びつきの回復という大事業を、イエス様を用いて実現してしまったのです。あと人間の側ですることと言えば、これらのことがまさに自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受ければ、神が実現してくれた救いを自分のものにすることができるのです。救いの所有者となって、永遠の命に至る道に置かれて人生を歩むようになります。神との結びつきを持って生きられるので、順境の時も逆境の時も絶えず神の良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時神は御手をもって御許に引き上げて下さり、こうして人間は永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのです。ただし、キリスト信仰者になったと言っても、もちろんまだ肉を纏って生きていますから、罪をまだ持っています。しかし、「イエス様を救い主と信じますので赦して下さい、罪を犯さない生き方が出来るよう助けて下さい」と神に祈り求めれば、神は「我が子イエスを救い主と信じる以上は、彼の犠牲の死に免じてお前を赦してあげよう」と言って赦し、私たちが新しいスタートを切れるようにして下さるのです。このような慈愛に満ちた父なるみ神は、永遠にほめたたえられますように。

キリスト信仰者は、このような神に絶えず心の目を向けて自己吟味をし、神との結びつきを大切にしながら日々の人生を歩む者です。向かうところは死を超えた永遠の命が待っている神の国ですが、このように歩む者はこの世の人生の段階にて既に神の国の一員として迎え入れられているのです。ところで、神の国は、今はまだ目に見える形にはありません。しかし、それが目に見えるようになる日が来ます。それが、復活の日と呼ばれる日です。その日はまた、今の現実世界が終わりを告げる日でもあり、最後の審判の日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、神が今ある天と地にかわって新しい天と地を造る天地大変動の日が来る。「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、その日、今の現実世界にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、主イエス様が再臨され、信仰を守り抜いた者たち全て、その時点で生きていた者と死から復活させられた者とをあわせて、神の国に集めて王として君臨します。

その時の神の国はまず、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに集められた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは、神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたり等々。こうした奇跡は、この限界だらけの現実世界を超える力を持つ神の国を人々に味わさせるものだったと言えるでしょう。少し話が脇道にそれますが、ある教会の全国総会で、「我々はこの地上で神の国を建設しよう」などと目標を決めていました。神の国とは、この現実世界の中に人間が建設するものではなく、本来は神が整備するものです。ルターも、神の国は神のもとから来るもの、と言っています。従って、キリスト教会の役割は、できるだけ多くの人が神の国に入れるようにすることだと思います。

 

3.神の国が以上述べたようなものであることは、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、まだはっきり理解されていませんでした。そのことは、当時のユダヤ教社会において、メシアと言う言葉の意味がいろいろな仕方で理解されていたということにもあらわれています。先週の説教でも触れましたが、メシアとは、一方ではかつてのダビデ王の末裔でイスラエルを外国の支配下から解放し栄光ある王国を再興してくれる待望の王を意味していました。他方では、この世はやがて滅び、それにかわって森羅万象が新しくされた世が到来する、その時、信仰を守り抜いた者たちと復活させられた者たちを一緒に集めて君臨する、そういうこの世と新しい世の橋渡し的役割をする王がメシアであるという考え方もありました。マルコ8章やマタイ16章に、イエス様が自分の死と復活を預言すると、それを打ち消そうとしたペトロはイエス様に強く叱責されてしまいます。ペトロがメシアの意味を現世的な民族的英雄と考えていたことがうかがえます。それで、メシアが受難の末に死んでしまうなんて受け入れがたいことだったのでしょう。先にも触れたヤコブとヨハネの母親は、イエス様の死と復活の預言を聞いた後で、神の国が到来したら息子を側近にして下さいと懇願します。母親は、神の国が現世的なものでなくて、復活を伴う新しい世の王国と理解したようです。しかしながら、身分の序列があると考えていたので、これも現世的な王国をイメージしていたことがうかがえます。

 以上のように、イエス様の死と復活の出来事が起きる前、人々は、神の国とそこに君臨するメシアについて正確な考えを持っていませんでした。そういう時に、弟子たちは「神の国で誰が一番偉いか」などと質問しました。イエス様の答えは弟子たちの予想を超えたものでした。まず、神の国に入れるための条件が言われました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して神の国に入ることはできない。」「心を入れ替える」というのは、ギリシャ語の原文では、「立ち返る」という意味の動詞στρεφωで、それが意味するところは、今の自分は神のもとからも、また神の意志からも離れてしまっている、だから今神のもとに立ち返らねば、と気づくことです。「子供のようになる」というのは、先ほど申し上げたように、神がイエス様を用いて実現して下さった救いをそのままいただくということです。神があげるよと言って下さるのを、ケチも文句もつけずに(もちろんつけようがないものですが)、ただただ受け取るだけです。逆に、これだけのものをいただけるのだから、何かこちらからもしないといけないとか、そんなお返しの必要もなく、ただただ受け身になって受け取るだけです。まさに大人としての自負も誇りもない状態で、まさに無力な子供のようになって受け取るだけです。こうして、人間は神の国の一員に迎え入れられるのです。本日の箇所では、イエス様は特に洗礼には言及していませんが、それはこの発言がまだ十字架と復活の出来事が起きる前になされたためで、それらが起きた後に、洗礼を通して救いの所有者になることがはっきりしてきます。

神のもとに立ち返って、子供のように無力な者として、神の実現された救いを受け取る、こうして人は神の国に入ることができる。このように神の国に入れる条件を明らかにした後でイエス様は、その神の国の中で一番偉い者は誰かということについて答えます。「自分を低くして、この子供のようになる人」がそれです。これは、今述べました神の国に入れる条件と同じ内容です。「自分を低くする」とは、こと救いに関しては、人間は何もなしえない、能力と知識をいかに高めて業を鍛えても、人間は死を超えた永遠の命は持てない、神の方で整えてくれなければならない。そのように観念して、救いに関しては神に全く依存するということです。ちょうど子供が親に依存しなければ生きていけないように。ここでは、「この子供のようになる人」と言って、弟子たちの目の前に立たせてある子供を指して、低くした状態がどんなものであるかを視覚に訴えています。「低くする」ことがどんなことか一目瞭然であるように、この子はおそらく身なりのみすぼらしい子供だったのではないかと思われます。

5節でイエス様は「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。(この文のギリシャ語の原文は少し厄介です。新共同訳のようなδεξηται~επι τω ονοματι μουという結びつきで考えないで、τοιουτο επι τω ονοματι μουという結びつきでみると、訳としては、「このような私の名に拠り立つ子供を一人でも受け入れる者は、私を受け入れるのである」という意味になります。つまり、イエス様を救い主と信じる子供を受け入れて、その子の信仰をしっかり守り支える者は、イエス様をしっかり受け入れて信じているのである、という意味です。次に来る6節とのつながりで考えると、こちらの方がいいのではないかと思われます。)この「受け入れる」ということですが、よくある理解の仕方ですが、孤児とか困窮した子供を引き取るという弱者救援の福祉的な意味ではありません。どんな意味かと言うと、次の6節でイエス様は「わたしを信じるこれらの小さい者の一人」と言っています。つまり、ここで引き合いに出される子供は、イエス様を救い主と信じる信仰を持っている子供です。何歳くらいかは予測がつきませんが、信仰を持っている子供ということに注意すると、先ほどの5節の「このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れる」の意味が明らかになります。それは、弱者救援ということではなく、信仰を持った子供を信仰の共同体、教会の一員として、しかも大人と対等な一員として受け入れて、その信仰をしっかり守り支える、という意味です。10節でイエス様は、「神の御前にいる守りの天使は、大人だけでなく、ちゃんと子供にもついている、だから子供を見下してはならない」と教えているのです。子供だからと言って、その信仰を軽く見てはならないのであります。

6節から9節にかけて、「つまずき」の問題が出てきます。「つまずき」とは原語のギリシャ語でスカンダロンσκανδαλονといい、正確には「つまずかせるもの」という意味です。日本語でも英語借用語スキャンダルのもとの言葉です。

「つまずかせるもの」は、私たちをどうつまずかせるのか?先ほど申し上げましたように、私たちはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が実現された救いの所有者となって、この世にありながら既に神の国の一員に迎え入れられて、約束された永遠の命に向かって歩むようになりました。キリスト信仰者とは、自分の肉に宿る古い人間を日々死なせ、洗礼を通して植えつけられた新しい人間を日々育てていく存在です。「つまずかせるもの」とは、古い人間と結託して新しい人間の成長を妨げたり阻止しようとするものです。暴力をもって信仰を捨てさせようとする迫害もありますが、もっとソフトな誘惑というものもあります。例えば、「これをすれば君は素敵な人生を送れるぞ。もちろん君の言う信仰には相いれないかもしれないがね。今どきそんな古めかしいことに自分を縛りつけて何になるんだい?」という具合に、です。キリスト信仰者にすれば、神のひとり子が流した尊い血が身代金になって自分を罪と死の支配から解放してくれたということが最大の自由であって、この世が誘惑する「素敵さ」こそが束縛に他なりません。イエス様が言われるように、五体満足のまま地獄におちるよりも、五体不満足のまま永遠の命に入れる方がよいというのは、健康や富や名声に恵まれてこの世を生きても、それが自分を造ってくれた神に背いて得られたり享受したりするものならば、呪われたものでしかないのです。

しかしながら現実には、「つまずかせるもの」の誘惑に聞き従って、新しい人間を育てることを止めて、古い人間にとどまってしまう人も出てきます。特に若者は、新しく生まれ変わりたい、今とは違う自分になりたい、と希求する心が強いので、洗礼で植えつけられた新しい人間をしっかり見据えていないと、「つまずかせるもの」が次々と打ち出してくる新しい人間像、先端をゆく人間像に目移りしてしまう危険があります。その意味で、本日の箇所でイエス様が「つまずかせるもの」への警告を大人よりも子供に向けているのは理由のあることなのです。(イエス様は、「つまづかせるもの」について教える前と後では、「お前たちは」と言って弟子に向かって教えていますが、「つまづかせるもの」のところでは、「お前は」と言って一人の相手に言っています。)

12節から14節までは、迷い出てしまった1匹の羊と迷わなかった99匹の羊のたとえ話です。もし信仰を持つ子供ないし若者が信仰を外れる道に迷い出てしてしまった場合、父なる神は見つかるまで探し出す決意でいるということです。迷い出した者自身が見つけられることを拒否しない限り、神は必ず見つけて下さり、信仰の道に再び戻して下さいます。洗礼を受けて救いの所有者になったにもかかわらず、そのことをすっかり忘れて生きるようになった人たちが、どうか、神によって見つけられますように。

4.それでは、本日の福音書の箇所を理解したところで今度は、大人の信仰と子供の信仰の問題について考えてみましょう。大人の信仰に何か問題があるのでしょうか?子供の信仰には、本当に大人が見習わなければならないものがあるのでしょうか?こうしたことを考える時、幼児洗礼の意味を振り返ってみるとよいと思います。

生まれたばかりの赤ちゃんに洗礼を授けることに意味があるのかという疑問はキリスト教会の歴史においてしばしば議論されてきました。まだ信仰告白はおろか、言葉さえ発せられない赤子がイエス様を救い主と信じる信仰を持っているかどうかとても疑わしい。洗礼を施すなら、ある程度年齢が進んで、聖書を理解でき、イエス様を救い主と信じますと自分で決意できる段階で授けるのが正しいと考える教派もあります。

ここで、神がイエス様を用いて実現した人間の救いは、人間の貢献が全くない100%神の業であった、ということを思い返す必要があります。神が救いを完成品として、どうぞ受け取ってくださいと、全人類に差し出して下さっている。救いはまさに神の全人類に対する無償の贈り物です。救われるために人間がすることと言えば、それをただ受け取るだけです。人間が受け身に徹すれば徹するほど、贈り物の無償性がはっきりします。その意味で幼児洗礼ほど、救いが贈り物であることが鮮明になる機会はないのであります。逆に言うと、理解力がなければだめだとか、何々しなければ施さない、受けないと言う場合は、贈り物に条件が課せられることになります。さらに、信仰が人間の自由な意思決定の産物となって、哲学や思想やイデオロギーのように、人工物化する危険があります。

もちろん、幼児洗礼を受けて、それで全てが解決するということにもなりません。ルター派が国教会となっているフィンランドでも現在多くみられるのですが、幼児洗礼がすっかり形式的な通過儀礼になってしまい、親は教会にも行かず、子供を日曜学校にも行かせない、家庭で一緒にお祈りすることもなければ、神やイエス様について教えることもないということが起きる。そうなると、子供は自分が救いの所有者であることに気づかずに育ってしまう。そのままで堅信礼を迎えてしまうと、そこでよほどの導きに遭遇しないと、それも形式的な通過儀礼に終わってしまう。その後の人生において、「聖書に書いてある神の意志などというものは時代遅れのもので、そんなものいちいち聞き従っていたら、自由な生き方や自己実現の邪魔になる」と言わんばかりの、無信仰の人が多く出てきます。そのような場合、幼児洗礼で与えられた贈り物はその人にとって何の意味もありません。ただ、正確を期して言うと、贈り物の意味自体は消滅しません。贈られた人が意味に目を背けて生きているだけです。そこで、もし、そういう人が信仰に立ち返れば、それは既に与えられている贈り物の意味を再びかみしめて生きることになるので、再洗礼を受ける必要は全くありません。いずれにしても、人が幼児洗礼で受け取った贈り物の意味をわかり、それを携えて生きるようになるためには、家庭の信仰生活の大切さは強調しても強調しすぎることはありません。

ところで、日本ではキリスト教徒は全人口の圧倒的少数派で、洗礼を受ける人も家族代々受けるというよりも、その人の人生の歩みの途上で受けるということが多い。そうなると、信仰を自己の自由な意思決定の産物にする危険がでてきます。青年とか大人になって洗礼を受けるのだから、赤ちゃんのような完全な受け身状態で贈り物を受けるというのは不可能です。しかし、そうであればこそ、理解力を持つ大人は、「受け身に徹すれば徹するほど救いは贈り物になる」という真理の一点に理解力を集中すべきです。「私は自分の能力を持ってこの救いを勝ち得た」などと考えてはいけません。2000年前の彼の地でで起きた出来事は、今を生きる私のためになされた、とわかったとき、自分の持つ能力、業績、名声その他そういったものは贈り物を受け取る際に意味がないばかりか、邪魔にさえなることに気がつくでしょう。その点で、子供が有利な地位にあることは否めないでしょう。本日の箇所でイエス様が「自分を低くして子供のようになれ」と教えられたのは、まさに、救いを贈り物として携えて生きていけるために必要なことなのです。

最後に、幼児洗礼が孕む問題として、それが子供の信教の自由を制限するのではないと心配されることについて一言。日本ではキリスト教徒の親が子供は成長してから自分で決めるべきだとして洗礼を授けないことがよくあると聞いたことがあります。どうして親は、自分が受け取った救いの贈り物は何にも代えがたい素晴らしいものだと信じているなら、どうして自分の子供に同じ素晴らしいものを受け継がせたいと思わないのでしょうか?子供が大きくなって、世界の諸宗教や思想、哲学、イデオロギーを客観的に眺められる知識を築いた後、果たして、自分はこれを選ぼうと言って何かを選ぶでしょうか?私が思うに、そうなると逆に選択するのは難しくなるのではなり、全てを客観的に眺める立場でい続けようということになると思います。しかし、もし子供を、キリスト信仰を持つ者として育てれば、子供は世界の諸思潮に向き合う際の拠点を得ることになります。その拠点を持つが故に必然的に生まれてくる荒波に乗り出して行くことになります。そのような拠点を与えることは自由の制限にはならないと思います。信教の自由とは、自分の好きな宗教を自由に選べるという意味もありますが、他方では自分の信仰を妨げなく実践できる自由という意味もあります。子供にキリスト信仰を受け継がせることは、こちらの自由を実現することになるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

聖霊降臨後第15主日の聖書日課 マタイによる福音書18章1-14節、エレミア15章15-21節、ローマ12章9-18節

9月13日のフィンランド家庭料理クラブの報告、「人参パン」

心地よい季節の到来に、皆さま、夏の疲れは大丈夫でしょうか?

家庭料理クラブは、夏休みのあと、秋のコースがスタートになりました。

今回は、すりおろし人参とミルクで捏ねた「人参パン」を作りました。

人参のパン、フィンランド、パン、porkkanaleipäたっぷりの人参と
最後に加えたドライトマトがアクセントの、手作りならではのパンに仕上がり、
キャベツのさっぱりサラダとサーモンを添えて、
試食会を楽しみました。

次回10/11は
「リンゴのケーキ」を予定しています。

 

説教「使徒の伝統に立たずしてキリスト信仰は立たず」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書16章13~20節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の福音書の箇所はとても難しいです。一回読んでなんとなくわかった感じになっても、それで油断してはいけません。次のような疑問点やどう理解してよいかわからない点は、皆さまはお気づきになられたでしょうか?

まず、イエス様が弟子たちに、人々は「人の子」を誰だと考えているかと尋ねるところです。「人の子」とは、旧約聖書ダニエル書7章でダニエルがみた預言の幻の中に登場します。今のこの世が終わる時、神の国が到来し、それを統治する主体です。イエス様は、この「人の子」が誰かということについて、当時の人々の見解を弟子たちに質問するのです。弟子たちの答えは、「人の子」を洗礼者ヨハネだと言う人もいれば、旧約の預言者エリヤだとかエレミアだとか言う人もいる、また他の預言者の名をあげる人もいる、というものでした。このように、「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、イエス様は今度は、では弟子たちはイエス様のことを誰だと考えるのか、と尋ねます。質問が、「人の子」についての人々の見解から、イエス様ご自身についての弟子たちの見解にかわるのです。これは、少し飛躍がすぎないでしょうか?「人の子」について、人々はああ思っている、こう思っていると答えた後だから、続く質問としては、では、弟子のお前たちは「人の子」をどう考えるか、という方が自然な流れではないでしょうか?イエス様の二つの質問 - 「人の子」についての人々の見解とイエス様についての弟子たちの見解 - 一体これらは、どうつながっているのでしょうか?

 もう一つ理解に苦しむ点は、イエス様が弟子たちに自分がメシアであることを人々に話してはならないと禁じたことです。メシアとは、ヘブライ語の「油を注がれて聖別された者משיח」という意味です。旧約聖書では神から特別な任務を与えられた者をさし、イスラエルの歴代の王が代表的な例です。そういうわけで、油注がれた者משיחは、イスラエル民族の現実の王様の印でした。これが、バビロン捕囚の後になると次第に、ダビデ王の子孫で将来イスラエル王国を再建する待望の王をさすようになります。さらに、紀元前3,2世紀頃からユダヤ教社会のなかで、この世の終わりとその後に来る新しい世ということに関心が高まりだしました。そうした時、メシアとは、終末の時に現れて、信仰を守って生き抜いた者たちを苦難から救い出して、死から復活した者とあわせて一緒に新しい世に迎え入れる救世主と考えられるようになります。(ペトロが「あなたはメシアです」と答えた時、それは、こうした終末の救世主を意味していたのか、それともイスラエル王国を再建するダビデ家系の王を意味していたのか、これは一つ興味深い質問となりますが、今は立ち入らないでおきます。)

どちらをとるにしても、なぜイエス様は、メシアであることを人々に話してはならないと命じられたのか?無数の奇跡の業を行ったことは既に多くの人たちに知れ渡っているし、その教えは神から授かったとしか言いようがないくらいの権威をもっていたことも誰の目にも明らかだった。それなのに、なぜズバリ、あの方こそメシアだ、と公に言ってはならないのか?

 三つの目の疑問として、ペトロがイエス様のことを「あなたはメシアです。生ける神の子です」と答えた時、イエス様は、そのことをお前にわかるようにしたのは神である、と言って、ペトロを教会の基にするとか、彼に天の御国の鍵を渡すとか言われます。イエス様がメシアであることを神にわからせてもらって、なお且つ将来形成されるキリスト教会の中心人物にしてやる、というようなことを言っている。ペトロにそれほどまでの権威を与えるというのはどういうことなのか、という疑問です。

 四つ目の疑問は、天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ」、「地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことです。この地上でつなぐこと、解くこととは一体何を意味するのか?

他にも細かい点でいろいろな疑問がでてくると思いますが、本日の説教ではとりあえず以上述べた4つの大きな疑問点に絞って、それらの解明に努めていきたいと思います。これらを解明することで、本日の福音書の箇所が今日を生きる私たちに何を教えているのかを明らかにしていきたいと思います。

 

2.まず、最初の疑問点。イエス様が「人の子」についての人々の見解を尋ねたと思いきや、今度はイエス様自身についての弟子たちの見解を質問したのはどういうことか?これを解明する重要な鍵は、「人の子」とは何かということを明らかにすることです。ところが実は、「人の子」とは何かということは、当時のユダヤ民族にとっても、また現代の旧約聖書学界にとってもやっかいな問題で、それを一礼拝の説教で説明することはほとんど不可能です。大ざっぱで荒っぽい説明になることを承知で話を進めていきます。

初めにも触れましたように、「人の子」はダニエル書の7章に登場します。この世の終末の時、ある強大な国家が「日の老いたる者」に滅ぼされて、そこで「人の子のような者」が登場します。「日の老いたる者」とは、原語(アラム語のעתיק יומין)の意味からすれば「年齢を無限に重ねた者」、すなわち天地創造の神を指します。さて、「人の子」は、この神から王権と権威を授けられて、終末後に現れる神の国の統治者になります。これがダニエル書の預言です。

紀元前2世紀半ば頃からイエス様が登場するまでの時代に、パレスチナのユダヤ教社会の中で、「人の子」のことを新しい世に登場する王とか、ずばりメシア救世主とみなす思想が現れます。他方で、本日の箇所が示すように、イエス様の時代の人々は、「人の子」を洗礼者ヨハネとかエリヤとかエレミアとか迫害を受けた預言者たちと見なしていました。つまり、迫害を受けた預言者の誰かがこの世の終わりの時に再び現れて、新しい世の神の国の指導者として君臨するというイメージを抱いていたのです。

このように当時の人々が「人の子」のことを、迫害を受けた者と考えていたとすれば、イエス様も十字架の受難を受けたのだから、名だたる預言者リストにイエス様を付け加えてもいいではないか、と思われます。しかし、時はまだ、イエス様の十字架の出来事が起きる前のことです。誰もそんなことが起きるなどとは予想もしていなかったので、それは無理です。イエス様は、人々が「人の子」の正体に自分を含めていないことがわかりました。それで弟子たちに、それではお前たちは私のことを誰だと思うかと尋ねました。イエス様は、自分に降りかかる受難を知っていいました、つまり自分が「人の子」であると知っていて、それで弟子たちに自分を誰だと思うかと聞かれたのです。しかし、イエス様の受難をまだ見ていない弟子たちにとって、彼を「人の子」とみなすのは無理でした。以上からわかるように、イエス様の一見結びつかない二つの質問は実は、「人の子」を主題にしているという点で、結びついているのです。

ペトロは、イエス様のことを「人の子」と答えるかわりに、メシア救世主、生ける神の子である、と答えました。イエス様はまさしく「人の子」であると同時に、メシアであり神の子でもあるので、ペトロの答えは間違っていません。興味深いことに、本日の箇所に続く21節から23節にかけて、イエス様はまさに自分の受難について預言されるのです。つまり、迫害を受けるという意味で、自分は「人の子」でもあると明らかにされるのです。「人の子」とは誰かという最初の質問の答えをここで示すのです。

さらに、これに続いて24節から28節にかけて、イエス様は永遠の命に入れるための条件について教えます。その条件とは、イエス様を救い主と信じる信仰です。その信仰を守り通した者は、たとえ信仰のゆえに命を落とすことがあっても、復活の命を与えられて永遠に生きられるようになる(25節)。人間は死に及んで誰も命を取り戻すための代価は支払えないが、イエス様を救い主と信じる信仰で新しい永遠の命に入ることができる(26節)。これに続いて、「人の子」が天使と共に到来する、と言われていますが(27節)、今の世が新しい世にとってかわる時、すなわち復活の時、「人の子」であるイエス様が再臨して、信仰を守った者たちと復活した者たちを集めて、新しい国、天の御国の王として君臨するということであります。

 以上から、マタイ16章の13節から28節までをひとまとまりにして読むと、イエス様は、十字架と復活の出来事をまだ目にしていない弟子たちに、「人の子」とメシアの意味を明確にし、加えて自分がそれであることを教えたということが明らかになります。実際、13節から28節までの記述は、イエス様一行がフィリポ・カイサリア地方に行った時の出来事で、もともとひとまとまりになっているところです。それで、本日の箇所のように細切れにしないでひとまとまりにして読んだ方が、意味がわかってくるのであります。

 

3.本日の箇所の二番目の疑問点は、なぜイエス様は自分がメシアであることを公にしてはならないと命じたかということです。先ほど、イエス様の時代のユダヤ教社会ではメシアについて、二つの思潮、現世的で民族的な英雄として考える思潮と現世から永遠の命の世界へ橋渡しをする救世主と考える思潮、があると申しました。イエス様は確実に後者の救世主だったのですが、十字架と復活の出来事が起きる前は、弟子たちもイエス様をどこまで救世主として理解していたか、むしろ現世的民族的英雄観が強かったのではないかと思わせるところがあります。弟子たちにしてそうでしたから、イエス様を歓呼で迎えた群衆はなおさらそうだったでしょう。

そのようなメシア理解がされていた当時のユダヤ教社会において、まだ十字架と復活の出来事が起きる前に、この方はメシアだと広めたらどうなるでしょうか?現世的な民族的英雄として理解されれば、ローマ帝国の支配から脱したい愛国的ユダヤ人は熱狂するでしょう。しかし、当局は彼を危険な反乱者として断固たる措置をとらなければならなくなるでしょう。他方で、救世主ということを前面に打ち出せばどうなるか?ユダヤ教の指導者たちはそれを神への冒涜と受け取り、やはり抹殺しなければならないということになるでしょう。イエス様に対する疑念は既に高まっていました。もし彼に対する迫害がもっと早期に起きてしまったら、エルサレムを舞台にした十字架と復活の出来事は、実際に起きたように起きることができなくなってしまいます。ヨハネ福音書の中に、イエス様が群衆の前で公然と教えを宣べていて、彼を逮捕するまたとない機会だったにもかかわらず、誰も彼に手を下さなかったという不思議な場面があります。それをヨハネは「時がまだ来ていなかったからだ」と説明します(7章30節、8章20節)。そして、あの運命的な過越祭の直前、エルサレムに入城したイエス様は、「人の子が栄光を受けるときが来た」と自ら述べたのです(ヨハネ12章23節)。時が来るまでは、イエス様は無傷でいなければならなかったのです。

イエス様はまさに、人間を罪の支配下から贖い出すための犠牲の生け贄としてエルサレムに入られました。最後の審判をつかさどる天地創造の神に捧げられる無傷かつ完璧な生贄として入られたのです。そういうわけで、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、イエス様について正確なことを言うと、エルサレムで実現すべき贖いの業を妨げてしまう危険があったのです。イエス様がメシアであることを公にしてはならないと命じたことは、このような背景を考えればよいと思います。もちろん、十字架と復活の出来事の後は逆に、イエス様をメシアであると公けにしてよくなったのです。否、公けにしなければならなくなったのです。

 

4.三つの目の疑問に進みましょう。ペトロは、イエス様がメシアであることを神にわからせてもらいました。それで、なお且つ将来誕生するキリスト教会の中心人物にしてやる、とまで言われました。どうしてペトロにそれほどまでして権威を与えるのでしょうか?

 この問いの答えの鍵は、17節のイエス様の言葉にあります。イエス様がメシア、生ける神の子であるとペトロに現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ギリシャ語の原文を忠実にみると、「お前に明らかにしたのは血と肉ではない。私の天の父なのだ」です。「人間」ではなくて「血と肉」σαρξ και αιμαと言っています。この「血と肉」というのは人間を意味する熟語なので、日本語訳のように言っても間違いではないのですが、ただ、それだと、誰かがペトロに教えるかわりに神が教えてくれた、という意味にとられてしまいます。ここはそういう意味ではありません。神から霊的な影響力を及ぼされてそれに服さないと人間は単なる血と肉の塊にとどまり、それでは人間はイエス様の正体を理解できない、ということです。人間は神から注がれる霊的な影響力に服さない限り、イエス様の正体はわからない、ということであります。

ペトロがイエス様のことを、メシアです、生ける神の子です、と言った時、彼は神からの霊的な影響力に服していたことになります。ただし、この影響力に服することはまだ決定的ではなかったようです。皆さんもご存知のように、ペトロはイエス様が十字架に掛けられる前に主を見捨てて逃げてしまいました。しかし、十字架と復活の出来事の後、全てが一変しました。霊的な影響力に最終的に服することは聖霊降臨の時に実現しました。それ以後は、ペトロも他の使徒たちも、どんな迫害にも屈せずに、イエス様こそ神の子、救い主メシア、将来再臨する人の子であると公けに宣べ伝え始めたのです。そういうわけで、十字架と復活の出来事の前に、ペトロがイエス様のことをメシア、生ける神の子と言い表した時は、霊的な影響力に服することの走りだったと言うことができます。

十字架と復活の出来事の後、特に聖霊降臨の後、人間が神からの霊的な影響力に服するというのはどういうことかということを見ていきます。神は最初の人間アダムとエヴァの時の堕罪の出来事以来、人間と神との関係が壊れてしまったことを深く悲しみ、これを回復させようと考えた。つまり、人間がこの世の人生を神との結びつきの中で歩めるようにしよう、絶えず神から良い導きと守りを得られるようにしよう、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手を持って御許に引き上げて人間が永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげよう、と決めた。それを実現するために、ひとり子イエス様をこの世に送った。そして、人間と神との関係を壊していた原因である罪と不従順をあたかもイエス様が全ての張本人であるかのようにして彼に全部背負わせて、罪からくる罰を全部イエス様に身代わりに受けさせて十字架の上で死なせた。しかしそこで全ては終わらず、今度は神はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命の扉を人間に開かれた。このように人間の救いは、神がイエス様を用いて全部実現してしまった。神はこの実現済みの救いをどうぞ受け取りなさいと言って人間に提供している。もし人間が、これらのことは自分自身のためになされたのだとわかって、それでイエス様は真に自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、この実現済みの救いを受け取ったことになるのです。これが、神の霊的な影響力に服するということであります。

イエス様がペトロを基にして教会を建てると言ったのは、どういうことか?それは、教会とはまさに、霊的な影響力に服して最早単なる血と肉の塊だけではなくなった者たちから形成されるもの、ということです。これは洗礼を受けた人たちを指しますが、まだ洗礼を受けていないが礼拝に参加する人たちも教会の形成に関係があります。そうした人たちは、本日の箇所のペトロのように、まだ洗礼は受けていないが神からの霊的な影響力が及ぼし始まっていて、イエス様がただ者ではないとわかり始めて、教会に足を運ぶようになった人たちです。このように、ペトロを基にして教会を建てると言うのは、ペトロという特定の個人を基にするということではなくて、ペトロに起こったような、神からの霊的な影響力に服するということが土台になると言っているのであります。

このことがわかると、イエス様の次の言葉「陰府の力もこれ(教会)に対抗できない」の意味もわかってきます。この言葉もギリシャ語原文に忠実にみると「陰府の門も教会を圧倒することはできない」という意味です。日本語の訳で「力」と言っているのは「門」πυλαι(複数形)です。どういうことかと言うと、ルターも教えていますが、人間は死ぬと復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠る。そういう安置所が陰府ということになります。人間は死んで陰府の門を一度くぐってしまうと門は固く閉ざされ、もうこちら側には戻っては来れません。その意味でこの門は何ものをも圧倒する力を持っている。ところが、イエス様を自分の救い主と信じる者は、復活の日に復活の命と体を得られて神のもとに引き上げられる。つまり、固く閉ざされた門をぶち破るようにして出てくるのです。教会とはそういう信仰者から構成されるので、それで陰府の門は教会を圧倒することはできない、ということになるのです。

 

5.最後に四つ目の疑問をみてみましょう。天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ」、「地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことです。この地上でつなぐこと、解くこととは一体何を意味するのでしょうか?まず「地上で解くこと」からみていくと、これはギリシャ語の原文では「地上で許可すること」(λυω背景にアラム語のשרא)になります。何を許可するのかというと、天の御国に入れてもらうことです。ペトロが地上で天の御国への入国を認めるとした者は天の方でもそれに倣うということです。「地上でつなぐ」とはギリシャ語の原文を忠実にみると、「地上で縛りつける、禁止する」という意味で(δεω背景にアラム語のאסר)、これは「地上で許可する」ことの反対ですので、天の御国への入国を許可しないということになります。つまり、ペトロが地上で天の御国への入国は認めないとした者は天の側でもそれに倣うということです。これで、ペトロに天の御国の鍵が渡されたことの意味がはっきりするのであります。

しかしながら、ここで注意しなければならないのは、ペトロにそのような大事な鍵が渡されたのは、これもペトロという特定の個人に渡されたということではなくて、神からの霊的な影響力に服する者として与えられたということです。本日の出来事のところで、ペトロは、最終的ではありませんでしたが、神からの霊的な影響力に服しました。最終的に服することになったのは、十字架と復活の後の聖霊降臨の時ですが、それは他の使徒たちも皆一緒だったことを忘れてはなりません。彼らも皆、一緒に神からの霊的な影響力に服することになったのです。従って、イエス様がペトロを教会の基にするとか、天の御国の鍵を彼に渡すと言ったからと言って、他の使徒たちには意味がないということにはなりません。マルコ3章14節に記されているように、12使徒というのはイエス様とたえず共にいるようにと召された者たちです。なぜ、たえず共にいるのかというと、イエス様の教えと業と出来事をつぶさに間近に見聞きする目撃者となり、それを後に公に証言するためでした。裏切ったユダの後に、マティアが使徒として補充されましたが、その選出の条件は、イエス様が洗礼を受けた時から天に上げられた日まで、いつも共にいて主の復活の証人になれる人ということでした(使徒言行録1章12~26節)。実に使徒たちは皆、イエス様に関して対等な証人なのであります。

そういうわけで、ペトロに権限が与えられたと言っても、イエス様の名をかりてなんでも好き勝手に決めることはできません。他に11人の対等な目撃者が目を光らせているので、自分の決めることはちゃんと主の教えと意志に従ったものでなければなりません。他の11人はチェック機能を持っていたでしょう。そうなるとペトロの権限というものは教会の独裁者などでは全くなく、責任ある代表者というのが正確な任務だったと言えます。そういうわけで、目撃者、証言者として特別な地位にある使徒たちは、また目撃者、証言者としてお互いに対等な地位にあったのです。

ところで、使徒たちの命を賭した証言を聞いて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける人が次々と出始めました。使徒たちの証言は、新しい信仰者によって受け継がれていきました。最初は口伝えが主で、次第に書き記されるようになりました。そうした目撃録・証言録の伝承の集大成として福音書が誕生しました。使徒たちはまた、キリスト信仰そのものについて、またキリスト信仰者の生き方についていろいろ教えました。それが使徒書簡になりました。旧約聖書はと言えば、それは使徒たちにとって、イエス様が神の子、メシア、「人の子」であることを理解したり確信できるために必要な書物でした。そういうわけで、福音書、使徒書簡、旧約聖書から構成される聖書という大書物は、文字通り使徒の伝統の結晶なのであります。そのような聖書を開いて自分で読む時、また誰か他の人が読んだり解き明かしをするのを聞く時、開いた聖書から神の霊的な影響力がその人に対して働き始めます。私たち信仰者は洗礼を通して神の霊的な影響力に服することになった者たちであります。しかし、この世にはこの影響力からも私たちを引き裂こうとする力に満ち満ちています。兄弟姉妹の皆さん、使徒の伝統の結晶である聖書を絶えず繙くことを怠らないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


聖霊降臨後第14主日の聖書日課 出エジプト6章2~8節、ローマ12章1~8節、マタイによる福音書16章13~20節 

説教「主よ、あわれんで下さい」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書15章21節~28節

今日の聖書は、表題にありますように「カナンの女の信仰」ということです。 ユダヤの女性が登場するのではなくて、カナンの女であります。

21節を見ますと「イエスはそこを立ち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、その地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ、とあります。

イエス様は、ユダヤ地方での福音宣教で、パリサイ人や律法学者といった人々との戦いに決裂して、弟子たちをつれてガリラヤよりずーっと北にあります、ツロとシドンの地方に退かれたのでした。 イエス様の生涯において、この旅が、どんな意図をもってなされたか、これは充分意味のあることであったでしょう。

これまでイエス様は、ガリラヤ湖の畔を中心に病気の人々を癒したり、多くの人々にはパンを施したり、といった救いの活動をなさってこられたのであります。しかし、イエス様にとっては、こうした救援活動をすることが、究極の目的ではありませんでした。 一方、北方にあるツロやシドンは、悪名高い、偶像崇拝の町でありました。どうしてイエス様は、わざわざこの悪名高い異邦人の町へ旅されたのでしょうか。

ツロの町については、旧約聖書イザヤ書23章1~7節に出てきます。又エゼキエル書26章から28章にかけて出てまいります。或いはヨエル書4章4~8節等にも記されています。 そこでは、ツロとシドンは滅ぼされるという予言です。 シドンについては、北イスラエルの王アハブの時代に、アハブ王がシドンの王女イゼベルを妃として迎えたために、この地のバアル崇拝となり、イスラエルは大きな禍いをもたらした、という事情が起こりました。これは、列王記上16章31節を見ますと分かります。 もっと昔にさかのぼって、士師時代にイスラエルの民は、シドンの神々に仕えた、という記述があります(士師記10章6節)。 そういう異邦人の地へ行かれたその訳は、結局のところわかりません。神からの御示しによる、としか言いようがないのかも知れません。 少なくとも、この地域に救いをもたらすためではなかった(マルコ7章24節)。

イエス様は群衆とはなれて、弟子たちと静かに、神の御旨の本質を深く、語りたかったのではないでしょうか。 間もなく、自分はこの世を去っていく。残った弟子たちに、福音宣教の重大な課題をしっかりと伝え、将来に備えての霊的訓練を、じっくりしておきたかったのではないでしょうか。 イエス様はここにおいて、弟子たちとの霊的交わりの重要さを、深く感じておられるのであります。

又、別の面から見ますと、イエス様の十字架と復活の後、昇天され、弟子たちはこの重大なキリストの福音を、西の方面へ、エジプトへと広められ、又、東の方面には、エラム、メソポタミヤといった世界へ、広められていったのであります。けれども主流としては、何と言っても、北の方面へと進められていったのです。 北の地、異邦人の地へと教会は広められて、アンテオケを中心に小アジアに教会は伝道され、時にパウロは主に、異邦人伝道につくのでありますが、このアンテオケを基地にして三回の伝道旅行をし、エルサレムへの往復も、彼らはツロとシドンの地方を通過したのでありました。こうしてみるとこの地方は、初代福音宣教の前進基地として、重要な役割を担ったことになります。

イエス様が、そういう時代の先の、歴史的事実を予想して、このツロとシドンの地方へ来られたのか、それはむずかしいところで、ただ、神様の御計画のうちになっていったのであります。 例えば、私たちのこのスオミ教会が、遠いフィンランドの教会の方々の、熱い伝道の思いをこめて、なぜ、東中野のこの地に宣教師の先生方を送って下さって、福音伝道がなさているのか、まことに不思議なことであります。 そのことが、やがて将来、何十年か何百年の後に、どのような重要な意味をもつ教会となっていくのか、私たちにはわかりません。神様の御経綸の中に成り行くことであります。人の目には隠されている。 しかし、確かにその布石はすでに打たれている、後の歴史的事実を見ます時、私たちは深い驚きを覚えるのであります。

イエス様御自身としては今、この異邦人の地ツロとシドンという地方へ、弟子たちをつれてこられ、大切なひとときをすごそうとされているわけであります。

ところがここに、思いもかけず一人のカナンの女が登場して参ります。そして、イエス様に助けを訴えるのであります。 「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、叫んでくるのです。 娘が悪霊に、ひどく苦しめられています。助けて下さい、と叫び続けます。恐らく重度の精神障害を負っていたのでしょう。 彼女の夫については、何も記されていないところからみると、この障害の子供のため、離別されたと思われます。 これからどう生きたらいいのか、将来の不安と、困窮のどん底で、彼女はイエス様の中に、神のみ力を見ていますので、その救いを求めて必死に叫びをあげているのです。 彼女は異邦人でありますが、イエス様に向かって「ダビデの子、主よ」とよびかけています。私たちは、彼女の叫びに驚かれます。

神学者シュラッターの解説を見ますと、イエスを呼び止めた異邦人の女は、イエスに「ダビデの子」という、王としての名前で呼んだ。 ユダヤ人からは、そうたびたび受け入れられなかった名であります。 彼女は、たた単に、イエスの偉大な業をなさることを聞いていったにちがいない。イエスこそ、自分の娘を助けることができるお方と、見たのである。 シュラッターの解説です。

待望の人が、今ここに現われたと、彼女は信じたことでしょう。 しかしイエス様は、彼女の叫びに一言もお答えにならなかった。弟子たちは、彼女の必死の叫びにうるさくて、ついにイエス様に願って言った。「彼女を追い払って下さい。叫びながらついて来ます」。 この時の弟子たちの態度の中には、異邦人に対する差別と、女を軽蔑するまなこで見ていることが、露骨に出ています。

弟子たちの求めに応じて、イエス様はこの女性に語られた。 「わたしはただ、イスラエルの家の、失われた羊にだけ遣わされたのだ」。 このことはマタイ10章6節で、12人の弟子を電動に派遣された時にも、言っておられたことでした。 「異邦人の道に行ってはならない。むしろイスラエルの家の、失われた羊のところへ行きなさい」。 イエス様の目は、しっかりと神の委託に目を向けておられるのです。それでも、なお、彼女はイエス様の前にひれ伏しまして「主よ、どうかお助け下さい」と言っています。 彼女は、イエス様の言葉でもそこを去らなかった。それどころか、遠くから叫ぶより、もっと大胆に近寄って来て、全身全霊を込めてイエス様の答えが、彼女のねがいを満たしてくれるように望んだのです。

こうしてこの場面は、以外な展開を見ることになります。 イエス様にとっては、彼女に強要されて、御自分の道を脇に追いやることは、できない。26節で、イエスは応えて言われた。「子供たちのパンを取って、小犬にやってはならない」。 イエス様の本来の使命は、まず、イスラエルの救いのため、全力を挙げねばならない。異邦人にまで救いはやれない、と。 それを、子供とパンをもって、たとえて言われた。

本来、子供たちに与えるパンを、小犬にはやれない、とカナンの女を小犬よばわりにされて、軽蔑のひびきすらする言葉です。 しかし、カナンの女はなおも、切実な願いを込めてイエス様に迫りました。彼女は、イエス様のそっけない返事に反発することなく、心を低くして、まずイエス様の言葉を受け止めています。 その上になお、願いを重ねていく必死の姿に、私たちは心うたれます。 そうして彼女な言っています。「主よ、そうです。しかし小犬でも、その主人の食卓から落ちるパンくずは、いただくのです」。

そうです。主人は子供にはパンを与えます。でも、主人の食卓から落ちるパンくずは、いただけるのでしょう、と、彼女は言っているのです。 私たちは、彼女のこの深い、叡智に裏付けられた熱い言葉に、胸打たれます。 もし子供が飢えて、小犬が満腹するというのなら、あってはならないことでしょう。しかし、子供も充分に与えられ、落ちたパンくずで小犬も食べられるなら、救われるのです。 彼女は、イエス様の御力がユダヤ人にも、異邦人にも、すべての者のために、豊かに溢れるように、と信じたのです。彼女は、このお方なら、イスラエルの民のために仕えると共に、異邦人を助け、イスラエルの約束を満たすと共に、異邦人の女の願いも聞きとどける、という、両方の事が同時におできになる、と信じたのであります。

イエスは彼女に言われた。「女よ、あなたの信仰は見上げたものだ。あなたの願うとおりになれ」。すると彼女の娘は、その時癒された。 イエス様は、彼女の信仰を、見上げたものだ」と言われます。 この異邦人の女は教養もなく、聖書もない、神学もなかったが、イスラエルの教師たちが分からない謎を、解くことができたのであります。

聖書には、<神は御自分の御国のために、イスラエルをお造りになったが、それと同時に、その栄光は地上に満ち溢れる>と、記されている。 この二つが、どのようにして一緒に見出されるようになるか、将来の大きな謎であります。 しかし、神様の御旨は必ず成っていくのであります。 アーメン

 

  聖霊降臨後第13主日  2014年9月7(日)