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スオミ教会の2021年度の主題と主題聖句について以下の宣教師提案が2月7日の教会定例総会にて採択されました。
主題「試練と不運の真っ只中でも神に感謝することはある。それを忘れないでいこう。」
主題聖句 詩篇118篇1節「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(フィンランドのルター派国教会の1938年版聖書に倣った訳)
コロナ禍のこの1年、多くの人たちが苦難や困難に陥りました。感染を免れても別の苦難や困難がありました。この状況はまだ続きそうです。このような時、キリスト信仰者はどのように苦難や困難に立ち向かっていけるのか?詩篇118篇1節の御言葉についてルターが説き明かしたことは、立ち向かう心構え、基本姿勢を教えています。それを以下に引用します。
我々はいかなる不運に直面しても、それは本当は神が我々に灯した光なのだと理解しなければならない。それは、神の恵みと善き業が実は数えきれないくらいの出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるための光なのである。まさにその時、不運などというあの取るに足らない害悪は、我々からすれば燃え盛る炎に落ちていく一滴の雫にしかすぎなくなる。あるいは、大海の中に落ちていくちっぽけな火花にしかすぎなくなる。そのようになっていくのは、まさにこの聖句が我々にとって身近で麗しいものになるためなのである。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」この御言葉で言い表される気持ちは次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと誠実で慈しみ深い神聖な神でおられることか。私に対してもこの世全てに対してもこんなに大きくて沢山の善いことをいつも行って下さるのだから。私の感謝は全てあなたに帰せられますように。」 これと同じ聖句は聖書の中、特に詩篇の中でしばしば用いられる。この聖句は我々に正しくて神の御心に最も適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きくて優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである。
我々はいかなる不運に直面しても、それは本当は神が我々に灯した光なのだと理解しなければならない。それは、神の恵みと善き業が実は数えきれないくらいの出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるための光なのである。まさにその時、不運などというあの取るに足らない害悪は、我々からすれば燃え盛る炎に落ちていく一滴の雫にしかすぎなくなる。あるいは、大海の中に落ちていくちっぽけな火花にしかすぎなくなる。そのようになっていくのは、まさにこの聖句が我々にとって身近で麗しいものになるためなのである。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」この御言葉で言い表される気持ちは次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと誠実で慈しみ深い神聖な神でおられることか。私に対してもこの世全てに対してもこんなに大きくて沢山の善いことをいつも行って下さるのだから。私の感謝は全てあなたに帰せられますように。」
これと同じ聖句は聖書の中、特に詩篇の中でしばしば用いられる。この聖句は我々に正しくて神の御心に最も適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きくて優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである。
この説き明かしでルターは私たちが見落としがちなことを強く教えています。苦難や困難に陥った時、私たちは神に助けを祈りますが、その時、神に感謝することがあるなどとは思いもよらないでしょう。逆に苦難や困難がない時は、感謝するどころかさして祈る必要もないという態度でしょう。しかし、いつも神に感謝できていると、不運は一滴の雫、ちっぽけな火花に変わってしまうのです。自分の人生は不運だらけだった、だから神に感謝することなどない、などという考えはキリスト信仰者には無縁です。なぜなら神がひとり子を私たちに贈られたことが全ての感謝の基礎にあって中心にあるからです。このひとり子が十字架の死を遂げて私たちの罪を神に対して償って下さったおかげで私たちは神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになりました。そのような御子を贈って下さった神は良い方です。さらに彼を死から復活させることで私たち自身が将来の新しい世の復活に到達できる道を切り開いて下さいました。それで神の慈しみは永遠にあるのです。
詩篇118篇1節は、新共同訳では2~4節の形にあわせて「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」と詩的に訳しています。ヘブライ語原文を直訳すると冒頭に掲げたような「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」となります。なぜ主に感謝するのか、それは、主が良い方だから、その慈しみが永遠にあるからだ、と理由を言っているのです。その方がルターの説き明かしとよく合うのではと考えて直訳を掲げた次第です。余談ですが、フィンランドのルター派国教会の1938年版聖書もこのように訳しています。
主日礼拝説教 2021年1月10日 主の洗礼日
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるとは、一体どういうことか?ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を人々に宣べ伝えました(マルコ1章4節)。「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」とは、将来罪の赦しが得られるために、神に背を向けて生きてきた生き方を方向転換して神の方を向いて生きる、その方向転換の印としての洗礼ということです。罪の赦しそのものが得られる洗礼は、イエス様が死から復活した後で命じた洗礼です。それなので、洗礼者ヨハネの洗礼はその前段階の方向転換の印です。そうすると、イエス様のように神と同質の方でそもそも方向転換などする必要のない方がどうして洗礼など必要なのでしょうか?イエス様は罪の赦しそのものを与える方です。どうしてそのような方が罪の赦しが得られるための印を受ける必要があるのでしょうか?マタイ3章をみると、洗礼を受けにやってきたイエス様を前にしてヨハネはとまどって言います。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」(14節)と。まことに当然な驚きです。
なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのか?これを考えることは、私たち人間の救いのためにイエス様が本当になくてはならない方であることが明らかになります。本日はこのことを見ていきます。
まず、洗礼者ヨハネの洗礼がどんなものであったか、もう少し見ていきます。ヨハネのもとに大勢の人がやって来て罪を告白して洗礼を受けました。マタイ福音書やルカ福音書を見ると洗礼を受けに来た人は皆、神の怒りを恐れていたことがわかります。旧約聖書の至る所に「主の日」と呼ばれる日の預言があります。それは神が人間に怒りを示す日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異が起こる時として言われています。イザヤ書の終わりではそれこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地を創造する日のことが預言されています。人々はヨハネの宣べ伝えを聞いて、いよいよその日が来たと思ったのです。それで神の怒りが及ばないようにと、そのような天変地異の大変動から助かろうと、それでヨハネのもとに来て、神の意思に反する罪を告白して罪から清められようと洗礼を受けたのです。水を浴びることは清めを象徴しました。
ところが、ヨハネは自分の後に来る方つまりイエス様の洗礼こそが本当に神の怒りが及ばないようにする力がある洗礼と言います。そのためには洗礼に聖霊が伴わないとだめなのだが、自分の洗礼にはそれがなくイエス様の洗礼にはあると認めるのです。そうするとヨハネの洗礼は罪の赦しそのものが起こる洗礼ではなかったことになります。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚ましてそれを告白させ、すぐ後に来るメシア救い主による罪の赦しの洗礼に備えさせたのです。その意味でヨハネの洗礼は、人々を罪の自覚の状態にとどめて後に来る罪の赦しに委ねるためのものでした。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではありません。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい。その時本当に罪を赦されたお前は神の子となり、「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は人々を罪の自覚に留めて聖霊を伴うメシアの洗礼を今か今かと待つ心にするものでした。
ヨハネの洗礼に罪の赦しも来たるべき神の怒りから救う力も聖霊もなかったのならば、なぜ彼は洗礼を授けたのでしょうか?それは、神の怒りの日を覚えて自分の罪を自覚した人たちの悔恨を受け止めて、彼らが絶望に陥らないように、すぐ後に救い主が来るとことに心を向けさせるためでした。その意味で、ヨハネの洗礼はまさしく来たるべき救い主を迎える準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中に道を整えて道筋を真っ直ぐにすることでした。それでヨハネは、聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救い主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのでした。
そのようなヨハネの洗礼をどうして神のひとり子のイエス様が受ける必要があったのでしょうか?これからこのことを見ていきます。
私は以前イエス様の受洗の日課について説教をした時、神のひとり子が洗礼を受けることで人間と同列に加わったという、神の人間に対する連帯を表わすものだということをお教えしました。神と同質の方が洗礼を受けることで洗礼を必要とする人間と同じ立場に立ったということ、これこそ神の人間に対する連帯の表れだと考えたのです。ところが今回、この日課を見直してみて、イエス様の受洗は神の人間に対する連帯もあるが、それでいい尽くすことの出来ないもっと大きなこともあるとわかったので、今日はそのことをお話ししていきたいと思います。
まず、神と同質の方が人間に対して連帯を示したということを言うならば、それは、その方が乙女マリアから肉体を持って誕生したという受肉の出来事と誕生後8日目に割礼を受けたことの方が洗礼よりも相応しいと思いました。
神と同質の方の受肉の出来事について、「フィリピの信徒の手紙」2章に次のように記されています。「キリストは神の身分でありがなら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
天の父なるみ神のもとでは神の知恵ないし言葉として存在していた方が乙女マリアを通して人間の体を持つ者としてこの世に贈られてきました。それは、人間が被る死の苦しみを自分自身被ることができるようになるためでした。それで人間が罪のゆえに受ける神罰をまさに神罰として引き受けることができるようになるためでした。
イエス様が誕生8日後に割礼を受けたことは(ルカ2章21ー24節)、その外的な印をもってアブラハムの子孫の一人に加えられ、モーセの律法の効力の下に置かれました。神聖で罪の汚れひとつない神のひとり子が、神聖さがなく罪の汚れを持つ人間の立場に置かれたのです。ユダヤ民族という、罪の汚れから洗われるために数多くの宗教的儀式をこなさなければならない民族の立場に置かれたのです。本来ならばそうしたことは一切不要な立場にある方なのに、全く違う立場に置かれることになり、それによって神からの罰を罰としてちゃんと受けられて、死の苦しみを本気で受けて死ぬ者になったのです。
もしイエス様がこういう人間の立場に置かれず、ずっと天の御国の神聖な立場のままだったら、死や苦しみはイエス様に近寄ることはなかったでしょう。パウロが述べたように、神のひとり子は「律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになった」(ガラテア4章4節)のです。ただ忘れてはならないのは、イエス様は人間と同じ立場に置かれたとは言っても、罪を持たない神聖な神のひとり子だったということです(ヘブライ4章15節)。そのような方が、受肉と割礼を通して人間と同列に加わることとなり、人間の悩み苦しみと直につきあい、また自身も人間と同じように苦しみや試練や誘惑に直面しなければならなかったのです。それゆえ、「ヘブライ人への手紙」2章18節に言われるように、イエス様は試練に遭う者たちのことを本当にわかって助けることができるのです。
神のひとり子が律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになったのならば、同じになってどのように救い出したのでしょうか?人間は神の意思に反する罪を持っている。神は罪を焼き尽くす神聖な方である。人間は神の前に立たされたら焼き尽くされてしまう。神は人間が神罰を受けて滅んでしまうのを望みませんでした。罪は断固として認めないが、しかし人間は滅びから救われなければならない。このジレンマを解決するために、神は神罰の滅びを自ら引き受けることにしました。神の人間に対する愛が自己犠牲の愛であると言われる所以です。
しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。人間の罪の罰を全て受ける以上は罰を純粋に罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の神聖な意思を示す掟です。それは、人間がいかに神聖さと正反対な存在であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は律法の上にたつ存在です。しかし、それでは罰を罰として受けられません。犠牲を引き受けることは出来ません。罰を罰として受けられるために律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければならなかったのです。まさに、このために神のひとり子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。そして割礼を受けて律法の効力の下に置かれなければならなかったのです。実に、そうすることで使徒パウロが述べたように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったのです(ガラテア3章13節)。
イエス様が人間と同列に加わった連帯というのは、私たちを神の意思に反した者にしてしまう呪いから救い出すために自ら呪いを引き受けてその帰結を被って下さったのです。私たち人間が被らないように自分で被って下さったのです。私たち人間も困窮した人たちに寄り添ったり連帯したりします。しかし、神がイエス様を通して示した寄り添いや連帯は次元が違うものです。困窮した人たちもその人たちを助ける人たちも、神からこのような寄り添いや連帯を頂いていることがわかれば力や励みになるのではないでしょうか?
神の人間に対する連帯が受肉と割礼でよく現れていると言うならば、イエス様の洗礼は一体なんだったのでしょうか?なぜ、罪の赦しを与える立場にある神のひとり子が罪の赦しを得られるための方向転換の印を受けなければならなかったのでしょうか?
ここでイエス様の洗礼の時に何が起こったかを見てみます。洗礼を受けた時、イエス様に聖霊が降ったことが目撃されました。また、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声が轟きました。この出来事はイザヤ書42章1ー7で言われている預言の成就でした。すると、イエス様の洗礼は預言が成就するために必要な手続きだったことがわかります。そこで、この預言の内容を、本日の旧約の日課ではありませんが、見る必要があります。
このイザヤ書の箇所で神は、将来この地上で活動する僕(つまりイエス様のこと)が聖霊を受けて、神から特別な力を与えられて何かを実現していくことが預言されています。その何かとはなんでしょうか?
私たちの用いる新共同訳を見ると、「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返されて、神の僕が何か裁きに携わることが言われます。しかし、これは困った訳です。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体どんな意味なのでしょうか?そもそも「裁き」とは「置く」ものなのでしょうか?頭のいい人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書のもともとの意味と同じであるという保証はどこにもありません。このことは以前の説教でもお教えしたことがあります。ここでもう一度振り返ってみることにします。
参考までに各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の言葉をどう言っているか覗いてみると、英語の聖書はjustice、「正しいこと」、「正義」です。「裁き」judgementとは言っていません。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Recht、「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデン語の聖書では「権利」(rätten)、フィンランド語の聖書では「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味する単語(oikeus)です。
神の僕が携わることが、どうして日本語で「裁き」になって他の訳はそうならないかと言うと、ヘブライ語の元の単語ミシュパートמשפטをどう考えるかによります。その語の大元の意味は、「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」です。その意味から出発して「裁き」とか「判決」というような限定した意味がでてきます。しかし、限定した意味はそれだけではありません。「何が正しいかについて決めること」「何が正しいかということについての決定」をもとにすれば、「正当な要求」「正当な主張」という意味にもなるし、そこからさらに「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。辞書を見れば他にもあります。
以上のようなわけで、イザヤ42章の神の僕が携わることは「裁き」ではなく、「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」と理解できます。さらに、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞(יצא、שים)も、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と訳せるものです。そういうわけで、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民(גוי、特にユダヤ民族の異邦人をさしますが)に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」ということ。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を打ち立てる」ということです。
それでは、神の僕がもたらしたり打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何でしょうか?神の御言葉である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか言ったら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」でしょうか?それは、先ほども申し上げましたように、人間が神の意思に反そうとする罪の力から解放されることであり、解放されて神との結びつきを持ててこの世を生きることであり、そして、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠に造り主の神の御許に迎え入れられるということです。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。。これらは全て、神のひとり子イエス様が十字架の死と死からの復活の業をもってこの世にもたらして打ち立てたものです。
イエス様が洗礼を受けた時、イザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。天から預言どおり神の声が轟き、聖霊がイエス様に降り、神による人間救済を実行する力が与えられました。もちろん洗礼者ヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神のひとり子でした。しかし、洗礼は預言の成就をもたらすための必要な手続きになりました。ヨハネの洗礼を通して聖霊と特別な力を得て、主体的に神の人間救済を実現させることとなったのです。そういうわけで、イエス様の受肉と割礼は神の私たちに対する連帯の中で、ひとり子を低い私たちに低める連帯であったと言えます。そして、イエス様の洗礼は低い私たちを高める連帯であると言えます。
そう言うと、次のような異論が出てくるかもしれません。イエス様がヨハネから洗礼を受けたことでイザヤ書の預言が成就できたことはわかるが、手続きとしてはどうか?そもそもヨハネの洗礼は罪の赦しに導く方向転換の印なのだ、それを受けることでイエス様が人間と同列に置かれることに目が行ってしまい、異なる次元の連帯という深いところはわかりにくくなってしまうではないか?イザヤ書の預言を見ても神の僕に聖霊が降ることがどのようにして起こるか、どのような場面で神の声を聞くことになるのか何も言っていない。ましてや洗礼を通してとか手続き的なことは何も言っていない、と。
これに対しては、次のように言えばいいでしょう。イザヤ書の預言の成就のためにはやはりヨハネの洗礼が相応しい手続きだったのだ、と。というのは、イエス様に聖霊が降ることで、これから人間を罪と死の力から救い出す十字架の業を行うことになり、また死から復活を遂げることで死を超えた永遠の命に至る道を開くミッションを始められることになったからです。そして、イエス様が私たちに設定した洗礼は、受ける者に聖霊が降って彼のミッションの果実をその人に分け与えるものになりました。だから、イエス様が受けた洗礼は私たちが受ける洗礼の先駆けとしてあるのです。イエス様の洗礼は私たちが受ける洗礼の意味をその時点で暗示しているのです。
そういうわけで、主にあって兄弟姉妹の皆さん、イエス様の受洗は、彼の受肉や割礼と同じくらいに私たちが感謝し賛美すべきものなのです!
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
パイヴィ・ヨシムラ宣教師と一緒にクリスマス・スパイスクッキー「ピパルカック」を作って、クッキーに飾りつけをしましょう。 出来上がった後でフランネル劇「世界の最初のクリスマス」という聖書のお話も聴きましょう。
マーガリン 125g 砂糖 100g シロップ ¾ dl シナモン 小さじ1 ジンジャー 小さじ1/2 クローブ 小さじ1/2 オレンジの皮から作ったパウダー 小さじ1 (ポメランシ) 卵 1個 塩 小さじ1/2 小麦粉 250 g 重曹 小さじ1
アイシング 粉砂糖 ½ dl 水で薄めたレモン汁 小さじ 3―4
1. 上記材料のうち、マーガリンから「オレンジの皮で作ったパウダー」までを鍋に入れて温める。煮立ったら火を消す。 2. 1.のものを冷ます。それに卵を加えて、ミキサーで混ぜる。 3. 小麦粉に重曹を混ぜて、混ぜた粉を皿にふり、2.に少しずつを加えて混ぜる。 4. 生地を一晩冷蔵庫に置いておき、次の日、生地を厚さ2-3mm位に伸ばして、型でクッキーを抜く。 5. クッキーを180―200℃のオーブンで6-7分位焼く。 6. アイシングを作る。ボールに粉砂糖を入れて、それに少しづつ水で薄めたレモン汁を入れて、良く混ぜる。アイシングをビニール袋に入れて、袋の一つの角に小さく切って、アイシングを絞りだす。
主日礼拝説教 2020年12月13日(待降節第三主日)
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課は先週に続いて洗礼者ヨハネに焦点が当てられています。ヨハネは来るべきメシア救世主を人々が迎え入れるように導いた人です。少し歴史的なことを述べておくと、彼はエルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章によればイエス様より半年位早くこの世に誕生しました。神の霊によって強められて成長し、ある時からユダヤの荒れ野に身を移して神が定めた日までそこにとどまっていました。らくだの毛の衣を着て腰には皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。神の定めた日がきて神の言葉がヨハネに降り、荒れ野からヨルダン川沿いの地方に出て行って「悔い改めよ、神の国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の群衆がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネに罪を告白し洗礼を受けました。ルカ3章によれば、それはローマ帝国皇帝ティベリウスの治世15年、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。皇帝ティベリウスはイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の人で西暦14年の9月に即位しました。治世15年というのは即位年を含めて数えるのかどうか不明なので、洗礼者ヨハネの活動開始は西暦28年か29年ということになります。
ヨハネは活動開始してからまもなく、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの不倫問題を諫めたことが原因で投獄され、無残な殺され方をします。
ヨハネのもとに大勢の群衆が集まって罪を告白して洗礼を受けました。先週も申し上げましたが、当時の人々は旧約聖書に預言されている「主の日」と呼ばれる日がついに到来したと考えたのでした。「主の日」とは旧約聖書の預言書によく出てくるテーマで、神がこの世に対して怒りを示す日、想像を絶する災いや天変地異が起こって神の意思に反する者たちが滅ぼされる日です。しかし、その後に全てが一新されて天と地も新しく創造されるので、「主の日」は今の世が新しい世に変わる過渡期とも言えます。洗礼者ヨハネの宣べ伝えを聞いた人々はいよいよその日が来たと思い、神の怒りや天変地異から助かろうと、罪を告白して罪から清められようと洗礼を受けたのでした。
当時の人たちがそういう終末論的な恐れを抱いていたことは、本日の福音書の個所の中でも窺えます。当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちがヨハネに、あなたは預言者エリアかと尋ねます。これは、旧約聖書のマラキ書3章の預言に関係します。エリアはイエス様の時代からさらに800年位前に活動した預言者で、列王記下2章に記されているように、生きたまま天に上げられました。マラキ書の預言のためにユダヤ教社会では神は来るべき日にエリアを御自分のもとから地上に送られると信じていました。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではない、ましてはメシア救世主でもない、自分はイザヤ書40章に預言されている、「主の道を整えよ」と叫ぶ荒れ野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日やこの世の終わりの日は実はまだ先のことで、その前に、メシア救世主が来なければならない。自分はその方のために道を整えるために来た。そうヨハネは自分の役割について証しました。
先週の説教でもお教えしたように、ヨハネはヨルダン川の水で洗礼を授けました。それは清めのジェスチャーのようなもので、罪の赦しそのものが起こる洗礼ではありませんでした。先週の日課のマルコ1章の中でヨハネも認めたように、それが起こるためには聖霊が伴わなければならなかったのです。聖霊を伴う洗礼を授けられるのは自分の後に来られるメシア救い主しかいないのだ、と。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚ましてそれを告白させ、すぐ後に来るメシアの罪の赦しの洗礼に備えさせたのです。その意味でヨハネの洗礼は、人々を罪の自覚の状態にとどめて後に来る罪の赦しに委ねるためのものであったと言えます。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではありません。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい。その時本当に罪を赦されたお前は神の子となり、「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は罪を洗い清める洗礼ではなく、人々を罪の自覚に留めて聖霊を伴うメシアの洗礼を今か今かと待つ心にするものでした。それで、ヨハネは人間に主の道を整えさせる働きをしたのでした。それで、聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救世主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのでした。
洗礼者ヨハネの活動は普通は、イザヤ書40章3節の預言が実現したものと見なされます。それは、「荒れ野で叫ぶ声がする」と書いてあるので、ヨハネがユダヤの荒れ野で叫ぶように宣べ伝えたことと重なるからです。ところが、先週の説教でも見ましたように、そのように書いてあるのは旧約聖書のギリシャ語版で、ヘブライ語版はそう書いてありません。叫ぶ声はただの叫ぶ声で、荒れ野で叫ぶとは言っていません。「荒れ野」は、主の道を整える場所になっています。ギリシャ語版では、荒れ野で叫ぶ声がして、その声が「主の道を整えよ」と叫んでいる。ヘブライ語版では、叫ぶ声が「荒れ野で主の道を整えよ」と叫んでいる。どうしてそんな違いがあるのかということについて、先週も少し申しましたが、旧約聖書がどのようにして出来たかという大問題にかかわるので時間の限られた説教では割愛します。大事なことは、大元にあるヘブライ語の旧約聖書はどちらにでも取られる書き方をしていたということです。
ギリシャ語版に基づいて見ていくと、洗礼者ヨハネは荒れ野で「主の道を整えよ」と叫んで、人々に罪の自覚を呼び覚ましました。そして、来るべきメシア救世主から聖霊を伴った洗礼を受けられるように導きました。罪の自覚とメシアの洗礼の待機の印としてヨハネの洗礼がありました。このようにしてイザヤ書40章3節の預言は実現しました。
それでは、人々はどのようにして聖霊を伴うメシアの洗礼を受けるようになったのでしょうか?イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれ、その3日後に神の想像を絶する力で復活させられるという出来事が起きました。イエス様の復活を目撃した弟子たちは、これで彼の十字架の死がなぜ起こったかがわかりました。それは、神のひとり子が人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったということでした。そのことは実は旧約聖書に既に預言されていて、それらの預言が何を意味するのかがイエス様の十字架と復活の出来事で明らかになったのでした。
神がひとり子を用いて十字架の死と死からの復活の出来事を起こしたのは、人間が堕罪の時以来失ってしまっていた神との結びつきを取り戻せるようにするためでした。人間が、これらの出来事は自分のために神がなさせたものだったのだとわかって、それでイエス様こそ救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。これがメシア救い主イエス様の洗礼です。それを受けた人は罪を償われたので、神から罪を赦されたと見てもらえるようになります。神から罪を赦されたので神との結びつきを持って世を生きていくことになります。目指すところはただ一つ、永遠の命と復活の体が待っている天の御国です。イエス様の死からの復活が起きたことで、そこに至る扉が開かれて、キリスト信仰者はそこに至る道に置かれてそこに向かって歩み出します。順境の時にも逆境の時にも変わらずにある神との結びつきを持ってただひたすら進んでいきます。
ところが、罪を赦された者と見なしてもらえるとは言っても、信仰者から罪の自覚がなくなったわけではありません。神がそれだけ身近な存在になれば、神の意思もそれだけ身近になって自分には神の意思の沿わないことが沢山ある、罪があるということに一層気づかされるようになります。行為では盗みも殺人も不倫も偽証や改ざんなどしていなくても、心の中でそのようなことを思い描いたりします。その時、神はがっかりして愛想を尽かして見捨てるかと言うと、そうはならないのです。どうしてかと言うと、洗礼の時に注がれた聖霊が信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、罪の赦しが微動だにせずあることを示してくれるからです。神のひとり子のとても重い犠牲の上に今の自分があるとわかると、もう軽々しいことはできないという気持ちになります。また今自分が生きている新しい命は微動だにしない十字架を基にしているので、自分の過去の嫌なことが来て台無しにしようとしても傷一つつけられません。傷は全部イエス様が代わりに負って下さったのです。それがわかると心は安心し平安が得られます。
罪の自覚の呼び覚ましとその後に続く罪の赦しが一つになっているというのは聖霊の働きです。聖霊が働かなければ罪の自覚は生まれません。自覚が生まれないと罪の赦しもありません。また罪の自覚が生まれても、赦しがなかったらそれは絶望にしかなりません。それは聖霊の働きではありません。罪の自覚と赦しが一つになっているのが聖霊の働きだからです。なぜ聖霊はそのような働きをするのかというと、これを繰り返すことによって信仰者と神の結びつきが一層強まっていくからです。人間が神と結びつきを持てて、それを強めるようにすることが聖霊の目的だからです。そのような聖霊は、まさにイエス様が贈られた洗礼を通して与えられるのです。
聖霊が働くままにさせて神との結びつきが強まっていけば、内に宿る罪は行き場を失い圧し潰されていきます。罪の本質は、人間と神の間の結びつきを失わせて、人間を永遠の滅びに陥れることにあります。そのような罪を悪魔は用います。それは、悪魔の目的が、人間と神の間の結びつきをなくして人間を永遠の滅びに陥れることにあるからです。しかし、キリスト信仰者は、罪には結びつきを失わせる力がなくなっているとわかっています。なぜなら神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を十字架で受けたのですから。十分過ぎるほどの償いはなされたのです。しかも、イエス様は死から復活させられたので、彼に罪を償ってもらった者には罪は本当は力を及ぼせないのです。それがわかったキリスト信仰者は罪に対して、こう言ってやればいいのです。「罪よ、お前は本当は死んでいるのだ。」
人間と神との結びつきを弱めるものとして、罪の他に私たちが遭遇する苦難や困難もあります。そのような時、人は、神に見捨すてられた、とか、神は怒っている、などと思いがちです。イエス様の犠牲を脇に置いて自分が何かをして神を宥めねばと何かをやってしまったり、または、見捨てられたからもう神と関りは持たないという考えになりします。しかし、神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を受けたという、それくらい神が私たちのことを思って下さったのなら、見捨てたとか怒っていると考えるのは間違いです。それならば、なぜ苦難や困難があるのか?どうして神は苦難や困難が起きないようにして下さらなかったのか?難しい問いです。しかし、苦難や困難がもとで私たちが神から離れてしまったら、それは悪魔や罪が手を叩いて喜びます。それなので、今こそ苦難や困難を、神との結びつきを失わせるものから、結びつきを強めるものに変えないといけません。でも、どうやって苦難や困難を神との結びつきを強めるものに変えることができるでしょうか?とても難しい問題です。一つはっきりしていることがあります。それは、神との結びつきがあれば人生は順風満帆になるという考えは捨てることです。そのかわりに、神との結びつきは順境の時も逆境の時も同じくらいにある、外的な状況や状態に全然左右されないである、ということはうよく言い聞かせることです。ゴルゴタの十字架と空っぽの墓に心の目を向けながら、言い聞かせをすることです。
キリスト信仰者の生き方は罪の自覚と赦しの繰り返しをして神との結びつきを強めていくことであると申し上げてきました。しかしながら、そう言うと今度は、この世にはいかに神との結びつきを弱めたり失わせることが沢山あることに気づかされます。それなので、神との結びつきを失わせようとする力が働くこの世は闇と言うのは間違いではありません。そうすると、神との結びつきを持たせよう強めようとする力は光となります。この闇と光についてヨハネ福音書の本日の日課のひとつ前の個所で述べられています。
それは1節から8節までの個所です。そこではイエス様が乙女マリアから生まれて人間の体を持って誕生する前のことが述べられています。この世に誕生する前の神のひとり子には人間の名前はありません。「イエス」という名は誕生した後でつけられた名前です。この世に誕生する前の神のひとり子のことを福音書の記者のヨハネはギリシャ語で「言葉」を意味するロゴスと呼びました。神のひとり子が神の言葉として天地創造の場に居合わせて創造の働きを担ったことが述べられます(2~3節)。その後で、この神の言葉なる者には命があると言います(4節)。ヨハネ福音書で「命」と言ったら、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神の言葉なる者には永遠の命が宿っているということです。そして、永遠の命は「人間の光」であると言います(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文を直訳すると「人間の光」です。その「人間の光」が闇の中で輝いていると言います(5節)。闇とは先ほども申しましたように、神と人間の結びつきを失わせようとする力が働くこの世です。その中で輝く光とは、その結びつきを人間に持たせて強めようとする力のことです。まさにイエス様のことです。それで「人間の光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」でイエス様そのものです。
5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とあります。実はこれは解釈が分かれるところです。というのは、原文のギリシャ語の動詞カタランバノーがいろんな意味を持つからです。日本語(新共同訳)と英語(NIV)の訳は「暗闇は光を理解しなかった」ですが、フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語の訳では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持っているか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解して、日本語や英語のように訳してもいいかもしれません。しかし、悪魔は罪を最大限活用して人間から神との結びつきを失わせようとしても、それはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまったのだから、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。
さて、福音書の記者は洗礼者ヨハネのことを、この光を証しするために遣わされたと言います(6~8節)。人々はヨハネ自身がその光ではないかと思ったが、そうではなくヨハネは人々の前で、もうすぐその光が現れると表明したのでした。
この光がどれだけ素晴らしいものか、今まで申し上げたことではまだ抽象的すぎて遠い感じがすると言う人もいらっしゃるかもしれません。それならば、もう少し具体的に身近に感じられるようにお話ししてみましょう。
今はクリスマスシーズンということで、あちこちにイルミネーションが見られます。どれも冬の闇夜を照らし出して美しく華やかです。ネットを見ると、どこのイルミネーションがきれいかランキングなんかもあります。私たちの家族もそれを見て今年はどこのを見に行こうかなどと話し合って出かけます。今年は人が多いところは行けませんが。とにかくイルミネーションは闇と光のコントラストを浮き上がらせ、私たちは闇の方は忘れて光の方に目を奪われます。
闇というものを私たちは怖いもの危ないものと思います。光がない状態で暗闇の中を歩いたら何かにぶつかって転んでしまいます。また周囲に何か潜んでいるのではと思うと怖いです。しかし、この闇というものは、人を怖がらせたり危険に陥れようという目的も意図も持っていません。転ぶのは人間がライトを持たずに歩いたという不用意によるものです。闇はただ光がないという物理的な現象にしかすぎません。同じように光も人間を助けてあげようとか安心させてあげようという目的も意図も持っていません。人間がそれを利用して安全と安心を確保しようとするのです。イルミネーションも同じで、それを考案して飾り付ける人がこうしたらみんなが感動するだろう注目するだろうと考えて飾ります。イルミネーションの光自体はそのような目的も意図も持っていません。人間が自分の目的のために利用しただけです。
ところが、ヨハネ福音書の1章で言われる闇と光は違います。それ自体が目的と意図を持っているのです。闇の目的は、人間から神との結びつきを失わせようとすることです。そして、その闇が支配下に置けなかった力強い光は、まさに人間から失われていた神との結びつきを取り戻してあげることを目的としています。取り戻したらそれが失われないようにし一層強められるようにする目的を持っています。
その光は、イエス様の十字架と復活によって現れました。それは闇が支配下に置けない位、力強い光です。
なぜなら、闇が死に至らせる力に過ぎないのに対して、イエス様の光は死を超えた永遠の命に至らせる力だからです。
それなので、キリスト信仰者は、冬の闇夜を照らすイルミネーションを見た時、目的を持たない光がこれだけ素晴らしいのならば、私たちのために目的を持つ光の素晴らしさはいかほどのものだろうと予感し期待に胸を膨らませることができるのです!
穏やかな12月の土曜日、 家庭料理クラブは、大人気のクリスマスのお菓子、ピパルカックとヨウルトルッティを作りました。
最初にお祈りをして始まりです。
沢山のスパイスの入ったクッキー、ピパルカックの香りは、教会中に溢れ、可愛く焼き上がったヨウルタルトと、クリスマスの暖かな飲み物のグロッギがテーブルに並ぶと、クリスマスが近いことを感じ、嬉しい気持ちになりました。
パイヴィ先生からは、ピパルカックのお話や、聖書のお話を聞かせて頂きました。
皆様、素敵なクリスマスをお過ごし下さい。
フィンランドの伝統的なクリスマス料理は種類がとても豊富です。クリスマスの季節になると、どの家庭でもクリスマス料理やお菓子の準備をします。今日皆さんが作られたピパルカックとヨウルトルットゥは、フィンランドの伝統的なクリスマスのお菓子です。今日はピパルカックについてお話したく思います。
フィンランドでは、クリスマスが近づくと家中にクリスマスの香りがすると言われます。クリスマスの香りとは、どんな香りでしょうか?普通それはピパルカックの香りです。ピパルカックを焼いているとき、シナモンなどのスパイスの香りが家中に拡がるからです。
ピパルカックは伝統的なクリスマスクッキーですが、フィンランドでどのように始まったでしょうか?このことを調べたら、ピパルカックは実はフィンランドのものではなく、フィンランドに伝わってきたものということがわかりました。ピパルカックのもとは昔エジプトではちみつで作られたクッキーでした。それが水兵を通してエジプトからヨーロッパに伝わって、ドイツで今のものに近いものが作られるようになりました。ドイツではちみつの代わりにお砂糖を使い、バターと香辛料を生地に入れるようになりました。ドイツからフィンランドに伝わって、最初は修道院で作られました。修道院で作ったピパルカックは普通の人々に売られ、利益は修道院の収入になりました。レシピは牧師館にも伝わってそこでも作られるようになりました。レシピは非公開で普通の人たちには教えないようにしていましたが、メイドのエプロンのポケットを通して一般の家庭にも伝わっていきました。1800年頃から一般の家庭でも作られ始めて、クリスマスのクッキーの一つになりました。
現在ピパルカックのレシピはいろいろあります。材料は大体同じですが、材料の量やスパイスは変化します。それでピパルカックの名前も変わります。例えば「おお祖母さんのピパルカック」とか「昔のピパルカック」などがあります。今日のレシピは「パライステン・ピパルカック」です。1920年頃トゥルクの近くのパライネンという町から始まったレシピです。
クリスマスの前にピパルカックを作るとクリスマスの雰囲気が高まります。クリスマスにはほかにもいろんな準備をしてクリスマスの雰囲気を作っていきます。クリスマスの準備は料理やお菓子だけではなく、飾りつけやイルミネーションもあります。クリスマスの季節はフィンランドでは一年で最も暗い季節なので、クリスマスの準備をすることやイルミネーションを付けることで人々の気持ちも周りも明るくなります。「クリスマスは光のお祝い」という言い方もあります。しかしクリスマスの本当の光はクリスマスの準備やイルミネーションの中にはありません。それはどこにあるでしょうか?
旧約聖書のイザヤ書に光について次のように書いてあります。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝く。」イザヤ書9章1節です。これは、天と地と人間を造られた神様がイスラエルの民に語った言葉です。どんな意味でしょうか?イスラエルの民は神様の前で悪いことを沢山していたので、それは暗闇の中を歩むことと同じでした。しかし天の神様はイスラエルの民が光を見て歩めるようにしてあげようと、その気持ちを預言者イザヤに伝えました。それはどんな光でしょうか?神様は特別な人を私たちに送られて、その人が光輝く人になるとイザヤは言いました。この「光」は周りがよく見えるようになるための光ではなく、もっと深い意味ある光です。この光は2千年前の初めてのクリスマスの夜に現れました。その時、神様のひとり子イエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれたのです。イエス様はこの世の光としてお生まれになりました。イザヤの預言が実現したのです。
現在の私たちはかつてのイスラエルの民と同じように神様の前で悪いこと罪を犯します。私たちも暗闇の中で歩んでいるのです。だからイザヤの預言は私たちにも向けられていて、神様のひとり子イエス様は私たちにも光としてお生まれになったのです。天と地と人間を造られた神様が私たち人間を救うためにひとり子のイエス様をこの世に送ってくださいました。イエス様は私たち人間の悪いこと罪を全部十字架の上まで背負って、そこで神様の罰を受けて死なれました。そして3日後に神様の力で死から復活されました。イエス様の十字架と復活のおかけで、世界中のみんなの罪が全部許される道が開けました。そしてこの世でも、またこの次の世でも、いつも永遠に神様が私たちとともにいて下さるようになりました。私たちはこのことを信じて受け入れると、私たちは心の中にイエス様の光をいただくのです。一番初めのクリスマスの時に天使が野原で羊の番をしていた羊飼いに現れて、イエス様がお生まれになったことを一番初めに彼らに知らせました。天使が羊飼いたちに現れた時、「主の栄光が回りを照らし」ました。イエス様を信じて受け入れると、私たちも神様の栄光の内に毎日歩むことができます。
ピパルカック、ヨウルトルットゥ、イルミネーションはクリスマスの雰囲気を暖かくします。しかし、イエス様がこの世に光としてお生まれになったという知らせは本当のクリスマスの喜びを与えて、私たちの心を温め、私たちが歩む道を毎日照らしてくれます。今年のクリスマスが皆さんにとって光のクリスマスになりますように。
主日礼拝説教2020年12月6日 待降節第二主日
1.
先週の主日にキリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。今日は教会の新年の二回目の主日です。新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救世主のこの世への降臨を待つ期間です。カタカナ語ではアドヴェントと言います。この期間、私たちの心は、2000年以上の昔に起こった救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救世主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した救世主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。
待降節やクリスマスは、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、キリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。つまり、私たちは、2000年以上前に救世主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、イエス様の第一回目の降臨に心を向けつつも、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、今年も終わった、それじゃまた来年、と済ませるのではなく、毎年過ごすたびに、ああ、主の再臨がまた一年近づいたんだ、と身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様は再臨の日がいつかは誰にもわからないと言われました。彼が再臨する日というのは、今のこの世が終わる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていません。それで、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。
もちろん、私たちはこの世では、神から取り組みなさいと与えられた課題がいろいろあります。世話したり守るべきものがあればそうする、改善すべきことがあればそうする、解決が必要な問題があれば解決に努める。先週の説教でも触れましたが、宗教改革のルターも教えるように、キリスト信仰者というのは、片方ではそうしたこの世でしなければならないことをし、片方では主の再臨を待ち望む心を持っているのです。その心を持っていることが目を覚ますことです。
とは言え、イエス様の再臨というのは実は気が重いものです。最初の降臨は神のひとり子が人となってベツレヘムの馬小屋で赤ちゃんになって生まれたという、一見おとぎ話みたいで可愛らしい出来事です(本当はそうではないのですが)。ところが、再臨となると先ほど申しましたように、この世の終わりとか、最後の審判とか死者の復活とか想像を絶する出来事がつきまといます。先ほど朗読した第二ペトロの日課の個所でも、創造主の神が今ある天と地に代えて新しい天と地に造り直すことが預言されていて、「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去る」などと言っています。誰もそんな日が来ることを望まないでしょう。
しかし、キリスト信仰者は、そのような日に目を背けず、それは自分にとって大事なことと考えます。先週の説教でもお教えしましたが、イエス様を救い主と信じ洗礼を通して聖霊を注がれたキリスト信仰者は、自分には神の意思に反するもの、すなわち罪があると自覚しています。それで、それを神の前で認めて赦しと清めを願います。そうすると神は、イエス様の十字架の犠牲の死に免じて赦して下さいます。キリスト信仰者の人生は、この世を去るまではこうした罪の自覚と赦しの繰り返しです。しかし、そうすることで神との結びつきが強まっていき、内にある罪が圧し潰されていきます。そして、その繰り返しが終わる日が来ます。それがイエス様の再臨の日なのです。神から、お前は罪を圧し潰す側についていた、と認められると、神の栄光を映し出す復活の体を与えられて神の御国に迎え入れられます。もう罪の自覚を持つ必要はありません。
それから、この世で罪を圧し潰す側について生きると、いろいろ損することや不利益を被ることが出てきます。この世は、別に大勢に影響ないからいいのだとか、誰も見ていない、多くの人がやっているからいいのだとか、果ては、神はそんな厳しいことは言っていない、などと言います。せっかくイエス様の犠牲と復活のおかげで新しい命を得て、神と結びつきを持って生きられるようになったのに、この世はそれを失わせようとします。しかし、パウロがローマ12章で教えるように、キリスト信仰者は不利でも損でもいいからこの世の基準に倣わないで生きていきます。そして、イエス様の再臨の日に全てが逆転します。なにしろ、基準を出してくるこの世そのものがなくなってしまうのですから。今のこの世で神の意思に従って損していたことが、次に到来する世では得になります。逆もまたしかりです。
以上のことを思えば、キリスト信仰者にとって主の再臨とはやはり待ち望むに値するものであると言ってもよいでしょう。
2.
前置きが長くなりました。今日の福音書の日課を見ていきましょう。洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場したことが記されています。福音書の記者のマルコは、洗礼者ヨハネの登場はイザヤ書40章3節の預言の実現であると考えて、それを引用して書きました。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
聖書を注意深く読む人は、あれ、これはさっき読んだ引用元のイザヤ書40章3節とちょっと違う、と気づくでしょう。実はこれは少し大きな問題なので、後で改めてお話しします。いずれにしても、マルコは荒れ野で「主の道を整えよ」と叫ぶ声は洗礼者ヨハネのことだったと見なしたわけです。
洗礼者ヨハネが人々に命じた、主の道の整え、道筋を真っ直ぐにすることとはどんなことだったのでしょうか?ユダヤ地方やエルサレムの町から大勢の人が来てヨハネに罪を告白してヨルダン川の水で洗礼を受けました。これが主の道を整えることでした。マタイ福音書やルカ福音書を見ると洗礼を受けに来た人は皆、神の怒りを恐れていたことがわかります。旧約聖書の至る所に「主の日」と呼ばれる日の預言があります。それは神が人間に怒りを表す日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異が起こる時として言われています。イザヤ書の終わりではそれこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地を創造する日のことが預言されています。人々はヨハネの宣べ伝えを聞いて、いよいよその日が来たと思ったのです。それで神の怒りが及ばないようにと、そのような大変動から助かろうと、それでヨハネのもとに来て、罪を告白して「罪の赦しに導く」悔い改めの洗礼を受けたのです。水を浴びるので罪から清められることを象徴しました。
ところが、ヨハネは洗礼を授けたものの、自分の後に来る方つまりイエス様が本当に神の怒りが及ばないようにする力がある方だと言います。そのためには洗礼に聖霊が伴わないとだめなのだが、自分の洗礼にはそれがなくイエス様の洗礼にはあると認めるのです。どうしてイエス様の洗礼には神の怒りが及ばないようにする力や来るべき大変動を乗り越えさせる力があるのでしょうか?それは、イエス様の洗礼には、彼がゴルゴタの十字架で自分を犠牲にして人間の罪を神に対して償ったという、罪の償いをその人に注ぎ込むものだからです。洗礼を受けた人はイエス様に罪を償ってもらったことになるので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。神から罪を赦されたので神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。
さらに、イエス様は死から3日後に神の途轍もない力によって復活させられました。これによって、死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る扉も開かれました。洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてそれを歩むことになるのです。その道の歩みで、先ほども述べたように、罪の自覚と赦しを繰り返しながら進み、主の再臨の日が来ると、罪を圧し潰す側にいて生きていたことを認められて神の国に迎え入れられます。イエス様の洗礼にはそのような力があるのです。彼の洗礼に聖霊が伴うということについて。聖霊とはそもそも洗礼を受けた者が罪の自覚を持つようにと促し、自覚を持てば今度は心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて罪の赦しが微動だにせずにあることを知らせてくれる方です。それで聖霊が伴わなければ、罪の自覚は生まれず、罪を圧し潰す生き方も出来ません。逆に、罪の自覚は生まれても心の目をゴルゴタの十字架に向けさせることがなかったら、絶望に陥ってしまいます。そのように聖霊は信仰者が神との結びつきを失わずにそれを一層強める働きをして、信仰者を主の再臨の日に備えさせてくれるのです。
ヨハネの洗礼にそのような力も聖霊もなかったのならば、なぜ彼は洗礼を授けたのでしょうか?それは、神の怒りの日を覚えて自分の罪を自覚した人たちの悔恨を受け止めて、彼らが絶望に陥らないように、すぐ後に救い主が来るとことに心を向けさせる印でした。その意味で、ヨハネの洗礼はまさしく来たるべき救い主を迎える準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中に道を整えて道筋を真っ直ぐにすることでした。
3.
そうすると、イザヤ書の預言は洗礼者ヨハネがユダヤ地方やエルサレムの人たちに、イエス様を迎える準備の洗礼を授けたことで完結したことになります。ところが、預言はそこで完結していないのです。
イザヤの預言をよく見てみましょう。マルコが引用した預言はこうでした。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
引用元のイザヤ書40章3節はこうです。
「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」
よく見比べると、マルコの引用では、叫ぶ声は荒れ野で叫ぶことになっています。引用元は、声の場所はどこと言っていません。「荒れ野」は声がする場所ではなくて、道を備える場所が荒れ野です。マルコの引用では、主の道を整える場所はどことは言っていません。「荒れ野」はあくまで声がする場所です。それなので、この声はユダヤの荒れ野で叫んでいた洗礼者ヨハネを指すことになったのです。ところが引用元の文では、声がする場所は何も言われていません。それでもし、これをそのまま引用してしまったら、叫ぶ声がヨハネの声だと自信をもって言えなくなります。さて、マルコは、叫ぶ声の主が洗礼者ヨハネだと言いたいがために、元の文を改ざんして「荒れ野」という言葉を「道の整え」から切り離して「声」の方にくっつけたのでしょうか?イエス様にまつわる出来事はみんな旧約聖書の預言の実現だと言いたいがためにそういう小細工をしたのでしょうか?
そういうことではないのです。イザヤ書のヘブライ語の原文を見ると、確かに、声がする場所は何も言われていません。「荒れ野」は主のために道を備える場所です。マルコの引用では「荒れ野」は声がする場所になっています。実を言うと、マルコはイザヤ書のこの個所をギリシャ語版の旧約聖書に拠っているのです。旧約聖書にはヘブライ語版だけでなくギリシャ語版もあるというのは、紀元前4世紀にギリシャ系のアレクサンダー帝国が地中海地域の東半分を征服して、地域のギリシャ語化が進んだことが背景にあります。ヘブライ語よりもギリシャ語がわかるユダヤ人のために旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたのでした。イザヤ書40章3節で「荒れ野」が叫ぶ声の場所になっているというのはギリシャ語版なのです。
そうすると、翻訳者が間違ったのかと言うと、そうとも言えないのです。これはヘブライ語の旧約聖書がどのようにできたかという大問題になるのでここでは立ち入りません。簡単に言うと、翻訳者たち(伝説では70人いた)が目の前にした、動物のなめし皮に刻まれたヘブライ文字の羅列はどっちにも取れる書き方だったのです。「荒れ野に」(במדבר)という言葉は、叫び声がする場所と見ることも出来たし、道を整える場所とも見ることも出来たのです。(私個人の感想では、ヘブライ語のテキストを何度も見るとやはり、道を整える場所ではないかなと思われるのですが、でも声の場所も捨てがたく、とても悩ましいところです。)
そういうわけで、マルコはギリシャ語版に忠実に従っただけで、翻訳者たちも間違いを犯したわけではないことがわかります。そうすると、イザヤ40章3節は、叫び声が荒れ野でしたと言って、それが洗礼者ヨハネを指し、彼の活動をもって実現したということになります。そうなると、この預言は過去に完結したことになって後世には関係ないことになります。しかし、実はそうではないのです。もう一つの理解の可能性、「荒れ野」は主の道を整える場所と考えたら、現代を生きる私たちに関わる預言になるのです。
4.
イザヤ書40章から55章までの部分は額面通りに取ると、紀元前6世紀にバビロン捕囚の憂き目にあったユダヤ民族の祖国帰還を預言する内容になっています。荒れ野に道を整えるというのは、まさに中近東の荒野を通って、蜜と乳が溢れる祖国に帰還する道ということになります。40章2節で、民の苦役の時は満了になった、民は犯した罪に対して二倍の苦汁をなめたのでその償いは十分過ぎるほど果たした、ということが言われています。これは、イスラエルの民がかつて神に背き続けて罰として国滅ぼされ異国の地に連行されて辛酸をなめたことを指すと普通は解されます。このようにイザヤ書40章の預言は、バビロン捕囚期のユダヤ民族からすれば、もうすぐ祖国帰還が近いという希望の預言でした。それは実際に紀元前6世紀の終わりにその通りになりました。
ところが、祖国に帰還できてエルサレムに神殿を再建したものの、ユダヤ民族は立て続けに大帝国の支配下に置かれ続けました。ダビデの子孫が王となって諸国民が創造主の神を崇拝に集まって来るという預言には程遠い状況でした。しかも、エルサレムの神殿で行われる神崇拝は本当に神の意思に沿うものか疑問視する見方も強まりました。それで、イザヤ書の預言は祖国帰還なんかで実現したのではなかった、40章5節で荒れ野に主の道を整えると全ての人の目の前に主の栄光が現れるという預言はまだ実現していない、だから道を整えるというのは過去の祖国帰還のことではなく、もっと別の大きなことなのだという理解になっていきます。イザヤの預言で神が意図したのはそれだったのです。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。
イエス様の十字架の死と死からの復活の後で、イザヤ書の預言は特定民族の歴史上の期待を超えた、もっと大きな普遍的なことを意味していたことが明らかになりました。全ての人間が万物の造り主の神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにと、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待つ神の国に迎え入れられるようにと、そのために神のひとり子が私たちに贈られました。そのひとり子が私たち人間に代わって罪の償いを神に対して果たしてくれて、死を超えた永遠の命に至る扉を開いて下さったのでした。イザヤ書40章の冒頭で、罪の罰を倍以上受けて神にそれでもう十分と受け入れられたことが言われていました。これはまさしく、神のひとり子の神聖な犠牲の死のことだったのです。
洗礼者ヨハネが人々に道を整えよと命じたのは、心にイエス様を迎える準備をしなさいということでした。そのために罪の自覚を抱かせて、救い主を受け入れるしかないという心にして、もうすぐ聖霊を伴って洗礼を授ける方が来られるので心配しないで待ちなさい、というものでした。
私たちキリスト信仰者にとって、主の道を整えるというのは、本説教の最初でも申しましたような、罪の自覚と赦しを繰り返しながら神との結びつきを強め罪を圧し潰していく生き方をすることです。その時、この世がいろいろなことを言って、そのような生き方から離れさせようとします。それでこの世はまさしく主の道を整える場所なので、「荒れ野」になります。この世の中で神との結びつきを強める生き方をすることが、荒れ野の中で主の道を整えることになります。だから、イザヤ書40章3節の預言は私たちに向けられた預言なのです。そのようにしてこの世という荒れ野を進む私たちを父なるみ神は守って導いて下さることもイザヤ書40章で次のように約束されています。
10節「見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。」主のかち得られたもの、主の働きの実りとは、イエス様が果たしてくれた償いを洗礼を通して自分のものとしたキリスト信仰者のことです。それがこの世にあって御もとに従い、御前を進むのです。
11節「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって小羊を集め、懐に抱き、その母を導いて行かれる。」神との結びつきを持って生きる者は、このように守られて導いてもらえるということです。それでは、どこに導いてもらえるのか?罪を圧し潰す側についていれば、この世が仕掛ける障害物はみな、谷が埋められ山と丘が平らにさせられるように倒されて行きます。そして最後に、
5節「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に(יחדו同時に)見る。」罪を圧し潰す側にいた者も、それを邪魔した者もみな一緒に主の栄光を見る日が来ます。その日はまさにイエス様の再臨の日です。
ここで一つ忘れてはならない大切なことがあります。本日の使徒書の日課第二ペトロで言われていたように、神の意思は多くの人がイエス様の救いに与り、罪を圧し潰す生き方に入れるようにすることです。そのために再臨の日を延ばしてくれているのです。でも、それはいたずらに延ばすことでもないと言われています。まだイエス様を救い主と信じておらず洗礼を受けていない人たちが、洗礼者ヨハネの呼びかけに応じた人たちのように心の中で主を迎え入れる準備が出来るように、父なるみ神に祈らなければなりません。
6、7節「人間は全て草のよう。その華やかさ威光は野の花のよう。草は枯れ、花は散る。なぜなら神の一息が吹きかけられたからだ。」人間はそのままの状態では神の前に立たされる時、枯れて散ってしまうだけです。
8節「草は枯れ、花は散る。しかし、神の言葉は永遠に保たれる。」この永遠に保たれる神の言葉を自分のものとする者は枯れることもなく散ることもなく、同じように永遠に保たれます。「神の言葉」とは、イエス様を介して永遠の命に至るという福音であり、またヨハネ福音書の冒頭で言われるようにイエス様そのものなのです。
12月6日の今日はフィンランドの独立記念日。毎年恒例の大使館でのレセプションも今年はコロナ禍のため最初は招待客を50人に絞って、私とパイヴィもその中に入れて名誉なことと思ったが、 案の定、大使からメールが来てそれも中止となった。
フィンランドの12月6日は独特な雰囲気のある日であったことをよく覚えている。家ではパイヴィが子供たちとピパルカックを作り、晩は大統領官邸でのレセプションのテレビ中継を見たものだ。その日のテレビ番組は第二次大戦の出来事を特集する番組が圧倒的に多く、フィンランド人はいかに独立したかよりも、いかに独立を守ったかの方に関心があるのかと思ったものだった。
それは理由のないことではない。1917年の独立当時のフィンランドは国内は分裂状態で、独立後も、左右イデオロギーの対立、都市部と農村部の対立、フィンランド語系とスウェーデン語系の対立が激しく、今風に言えば「分断国家」であった。それは徐々に解消に向かうが、それを一気に解消したのが第二次大戦での(当時の)ソ連との戦争であった。外的な脅威に対して国民が一致団結したのである。
戦時中の標語に、祖国(isänmaa)自由(vapaus)信仰(usko)の3つが守られるべきものとして唱えられた。「祖国」とは日本風に言えば「兎追いしかの山」であり、「自由」とは自由と民主主義の政治体制であり、「信仰」とはルター派教会である。フィンランド人は国家的困難によく耐え乗り越え、M.ヤコブソンが言ったように、第二次大戦に参戦した欧州の国で英国とフィンランドのみが占領を免れ戦前の国家体制を維持できた国だったのである。
「戦前の国家体制の維持」と聞くと、日本人は顔をしかめるかもしれない。なぜなら、それはかつて丸谷才一が言ったように、お上に盾をついたと言いがかりをつけられないようビクビクしなければならない体制だったからだ。しかし、フィンランドは戦時中も国会は社会主義政党から保守党まで揃う議会制民主主義が機能していた。(そんな国がなぜ最後はドイツ側に立って戦うことになってしまったかについては、国際政治史の専門家に聞いて下さい。私も少しは説明できます。)
さて、今のフィンランド人に守るべきものは何かと聞いて、上記の3つは果たして出てくるだろうか?「信仰」が危ういかもしれない。1990年代まで国民の90%以上がルター派国教会に属していたが、以後国民の教会離れが急速に進み、現在は70%を割ってしまっているからだ。戦時中は大統領から国民に至るまで3つが守られるよう懸命に神に祈ったものだ。ソ連との交渉に臨む代表団がヘルシンキ中央駅を出発する時、見送りに来た群衆が一斉にルターの讃美歌「神はわがやぐら」を歌って送り出した気概はもうないだろうか?
アドベントに入り、クリスマスツリーの飾られた教会で、手芸クラブは開かれました。
コロナ渦の為、テーブルを長くして、間隔を取り、一列に並んでの開催になりました。
初めての編み物に挑戦の方や、大きなマフラーを根気よく完成されたり、ルームシューズの完成形が見えて喜んだりと、まちまちの参加者は、パイヴィ先生から優しくご指導頂きました。
編み物の後は、クリスマスのお話を聞かせて頂きました。
次回の手芸クラブを楽しみにしています。
この前の日曜日、アドベントの期間に入りました。キリスト教会では、クリスマスの前の4週間をアドベントと呼びます。日本語では待降節と言います。アドベントは「クリスマスを待つ」という意味がありますが、クリスマスを迎える準備をする期間です。フィンランドではクリスマスは、一年で最も暗い季節における光と温かさのお祝いです。フィンランド人は、アドベントになるとクリスマスの準備で忙しくなります。 クリスマスの季節は楽しいことが多い、特別な雰囲気があるとても素敵な季節です。クリスマスの準備にすることは、クリスマスカードを送ること、家の大掃除、クリスマス料理やお菓子を作ることがあります。それぞれの家族にあるクリスマスの伝統は子供たちに伝わっていきます。クリスマス料理を子供たちと一緒に作ったら、家族の味は世代から世代へと伝わっていきます。子供たちはお母さんが作ったクリスマス料理の味を覚えて、同じように作りたいと思うからです。
もう一つとても大切な準備があります。それは、クリスマスを迎えるための心の準備ということです。それはどんな準備でしょうか?それは、アドベントの期間に教会の礼拝に参加したり、聖書を読んだりして、クリスマスの意味を考えることです。フィンランドでは毎年アドベントになると「美しいクリスマスの歌kauneimmat joululaulut」という行事がどの教会でも行われます。この行事は、教会が一杯になるくらいに人が多く集まるので、とても人気があります。そこで何をするかというと、集まった人たちが皆一緒にクリスマスの歌を沢山歌います。歌うことを通してクリスマスの本当の意味を心の中でかみしめます。今年は残念ですが、クリスマスの歌を歌うために教会では集まることは出来ませんが、多くの教会はこの行事を外で行ったり、オンラインで行います。
人々は、アドベントの期間に様々な準備をして、自分でクリスマスの雰囲気を作ります。しかしながら、クリスマスは本当は雰囲気のことではありません。クリスマスの本当のメッセージがクリスマスをつくるのです。クリスマスのメッセージとは、一番最初のクリスマスの日の真夜中に、野原で羊の番をしていた羊飼いに天使が現れて言った言葉です。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」この一番最初のクリスマスの時、この世に救い主がお生まれになりました。救い主イエス様は私たち一人一人のためにお生まれになったということが、「ヨハネの手紙1」の中で次のように言われています。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
クリスマスの一番大事なことはクリスマスのための準備や雰囲気ではありません。重要なのはクリスマスの本当の意味を心の中でかみしめることです。最初のクリスマスの時にお生まれになったイエス様とは何者で、なぜこの世に送られたのかを心の中で考えてみることは大切ではないでしょうか。イエス様が送られた神様は人間の罪を赦して下さる神で、私たち人間にそのような愛を示してくださいました。私たち人間が罪の力から救われるためにイエス様をご自分のもとかた遅られ、イエス様は母マリアから人としてお生まれになりました。このように初めてのクリスマスには神様の人間に対する愛が表れました。この愛は、私たちに喜びと感謝と賛美の気持ちを与えてくれます。クリスマスは、本当に喜びと感謝のお祝いです。皆さんにとって、今年のアドベントとクリスマスが神様の与えて下さる喜びであふれる時になりますように。
再開されて2回目の家庭料理クラブは、とてもフィンランドらしい食事パンを作りました。
お祈りをしてスタートです。
最初は生地の元になるオートミールを作ります。 沢山のシード類を加えて煮上がりを待つ間は、パンの仕上がりを想像して、ワクワクしました。
適温になったオートミールに、材料を加え捏ねあげ、発酵した生地を棒状に伸ばしてカットして丸め、再度発酵を待っての焼き上がりに、笑顔がこぼれ、 滋味あふれるパンを噛みしめて、美味しさを味わいました。
パイヴィ先生からは、フィンランドのパンと聖書のお話を聞かせて頂きました。
12月の家庭料理クラブは、 クリスマスのメニューを考えています。
パンはフィンランド人の食卓の中で最も大事な食べ物です。特に昔の人はパンの重要性をよく知っていました。もしパンがないと、もうそれはご飯にならない、と言うくらいパンは食事の重要な部分でした。かつてパンは店で買うものではなくて、いつも家庭で作られました。パンの生地に入れる材料はどこでも大たい同じでしたが、パンの味はそれぞれの家庭の味になりました。昔のパンの作り方について写真を通して見てみましょう。
1. パンを作り始めるのはパンのもとを生地を作る木の入れものに入れて、体温くらいの暖かいお湯で起こして柔らかくします。ライ麦を少しづつ入れて、柔らかいおかゆみたいなものを作ります。 2. その後で布巾を上にかぶせて夜中発酵させます。 3. 次の日の朝ライ麦を加えて生地をよく捏ねて、最後に生地の上に十字架の印をして、生地を祝福します。これは良いパンが出来るようにという意味です。また生地を発酵させます。 4. 発酵させた生地をテーブルの上にのせて良く捏ねて、細長く丸めてから分けます。そしてパンの形にします。フィンランドはパンの作り方によって東と西の二つの地方に分けられます。東の地方では厚いパンを作るのが習慣でしたが、西の地方では薄いパンが作られました。 5. パンの形を作ってまた発行させます。オーブンに入れる前に空気をとるためにパンをフォークで刺します。 6. パンを薪で暖めたオーブンで焼きます。オーブンは250℃から280℃くらいの温度にします。200℃から250℃位に下がったらパンを焼きます。薪オーブンの大きさはパンの枚数で言い表します。例えば「六枚入りのオーブン」などと言います。 7. パンの焼き具合はパンの底を指で叩いたら分かります。少しポンポンとなるようになったらパンは焼けています。
昔私の母もこのように家のパンを作りました。母は毎回何十個のパンも作ったのでパン作りは一日の仕事になりました。パン作りついて、私たちが住んでいた村には面白い習慣がありました。それは出来たての温かいパンを近所に分けてあげることでした。それで私たち兄弟は焼きあがったパンを近所の家に持って行って、近所の人たちを喜ばせました。もちろんパンを作る人にとっても喜びでした。昔はこのように自分のものを他の人に分けることは普通でした。ある意味で当たり前のことでした。
実はこれは聖書の教えに基づいていました。ルカによる福音書6章38節でイエス様は「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」と言われます。そのことについて少し考えてみます。私たちは自分のものを分け与えたりプレゼントをする時はどんな考えがあるでしょうか?今クリスマスが近づいているから、多くの人はプレゼントを考え始めているでしょう。もし友達や親せきから高価なプレゼントをもらったら、どんな気持ちになるでしょうか?申し訳ない気持ちになって何か高いお返しをしなければと考えるかもしれません。また逆に、私たちが友達や親せきに高いプレゼントをあげたら、相手から何かプレゼントを期待するかもしれません。イエス様の教えはこうした考えとは全然違います。「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」この意味は、私たちが自分のものを他の人に分け与えると、天と地と人間の造り主の神様がそれを祝福して下さるということです。私たちが持っているものは本当は全部神様が与えて下さったものです。私たちが他の人に何かを分け与えるというのは、神様のものを他の人に渡して喜ばせるということです。その時、他の人がお礼やお返しをすることは考えません。お礼やお返しがなくても他の人が喜んでいるのをみて神様に感謝します。これが神様から祝福が与えられたということです。
私たちはどんな気持ちでプレゼントをするでしょうか?聖書は、「喜んで与える人を神様は愛して下さる」と教えています。私たちは何かをあげる時、喜んで与えることが大事です。でも、そんな与える喜びはどこから来るでしょうか?クリスマスプレゼントが良い例です。私たちは、クリスマスの本当の意味が分かると、プレゼントをあげる喜びが出てきます。クリスマスの本当の意味は、天と地と人間の造り主である神様が私たち人間の救いのためにひとり子のイエス様を私たちに送って下さったということです。イエス様は私たち人間の悪いこと罪を全部十字架の上まで背負って運び、そこで神様の罰を受けて死なれました。そして3日後に神様の力で死から復活されました。イエス様の十字架と復活のおかけで、私たちの罪が全部許されて、神様の前に出ても大丈夫な者にしてもらいました。そして、この世でも、またこの次の世でも、いつも永遠に神様が私たちと共にいて下さるようになりました。このようにイエス様は私たちへの神様の最大のクリスマスプレゼントなのです。こんな高価なプレゼントを頂いたから私たちは喜んで他の人に与える者になれるのです。
神様がイエス様を送って下さったことに比べたら、焼きたてのパンをあげるのは小さなことですが、パンを焼いた人も頂く人も両方喜ぶことになります。ですから、皆さん、これからプレゼントをする時は、神様が私たちにとても大きいプレゼントを与えて下さったかを覚えて行きましょう。
春先からお休みしていた家庭料理クラブが再開されました。
今回は、日本でもファンの多いプッラを作りました。
コロナ渦の中なので、参加人数の制限や、消毒にマスク、手袋を着用しての開催になりました。
最初にお祈りをしてスタートです。
計量して、手ぶくろをしての作業なので、参加の皆さん悪戦苦闘されましたが、とても良い生地が出来上がり、可愛いシナモンロールは大きな鉄板に沢山並びました。
オーブンでの焼き上がりを待つ間、久しぶりに、スオミ教会はカルダモンやシナモンとパンの焼き上がる甘い香りに包まれていました。
食前のお祈りをしていただいた、出来たての温かいプッラの味は格別でした。
パイヴィ先生からは、プッラと聖書のお話を聞かせて頂きました。
家庭料理クラブが開催出来た喜び、沢山のプッラが出来上がり、美味しく試食出来た喜び、今日の小さな喜びを集めたら、とっても幸せな一日を過ごせたことに気づき、感謝しています。
今日は久しぶりの料理クラブで皆さんと一緒にプッラ作りが出来たことをとても嬉しく思います。とても美味しいプッラが焼き上がりました。
プッラはフィンランドでは伝統的なおやつの一つです。フィンランド人はおやつの時プッラをコーヒーと一緒に食べます。プッラ作りは他のお菓子作りと違って発酵が2回あるので出来上がりまで時間がかかりますが、プッラ作りで持てる楽しみがあります。それは、プッラの生地は同じですが、そこから色んな味や形のプッラが作れることです。現在プッラの種類はとても多くて、どんどん新しい種類が出てきますが、昔のプッラは大体決まっていて、細長い編んだものでこれを薄く切ってコーヒーと一緒に食べました。このような昔のプッラは今日作ったものみたいに多くの材料を使わず、ただ生地に砂糖とバターを少なく入れただけでした。それでも昔はこのようなプッラは高価なものでした。ほとんどの家庭で作られていましたが、それはプッラがもてなしのために出されるものだったからです。もし近所の人が家に寄ったら、もてなしにはいつもプッラとコーヒーが出されました。お祝いの時はプッラよりもっと高価なもの、たとえばケーキやいろいろなクッキーが出されるようになりました。しかし、クッキーやケーキの種類が沢山でてきても、プッラの重要性は変わりません。お祝いの時のコーヒーの出し物にプッラがないと価値がないように言われるくらいです。それくらいプッラはもてなしの重要なお菓子なのです。
日本ではこフィンランドのプッラみたいなもてなしのお菓子は何でしょうか?
私たちは近所の人や友達が家に来たらどんなもてなしをするでしょうか?何かお祝いをしてお客さんが大勢来たら、色んな準備で忙しくなると思います。
もてなしは聖書の中にもよく出てきます。一つ有名なマルタとマリアのお話を紹介したいと思います。
ある日イエス様は弟子たちと一緒にマルタとマリアという姉妹の家を訪問しました。マルタとマリアはイエス様の親しい友達でした。イエス様と弟子たちは家の中に入ると、お姉さんのマルタは美味しい食事を出したかったので、すぐもてなしの準備を始めました。マルタにとってイエス様は大事なお客様だったので、良いもてなしをしたかったのです。でも妹のマリアはどうしたでしょうか?マルタが驚いたことに、マリアは食事の準備を手伝わないで、イエス様の足元に座って、弟子たちと一緒にイエス様の教えを聞いていたのです。一人で忙しく食事の準備をしていたマルタは、マリアが手伝わないでイエス様の足元に座っていたことにイライラしてしまいます。それでマルタはイエス様のところに行って、マリアも一緒に食事の準備をするよう言って下さい、とお願いしたのです。この場面を考えると、マルタの気持ちがよく分かります。一生懸命みんなのために料理を準備していたのに、マリアが手伝わないでただイエス様の足元に座っていたのです。これではイライラしてしまうのは当然でしょう。もし私がマルタの立場でしたら、同じように考えたと思います。
イエス様はマルタにどのようにお答えになったでしょうか?「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それはとりあげてはならない。」このように優しくお答えになりました。イエス様の答えはきっとマルタを驚かせたでしょう。イエス様の答えは何を意味しているでしょうか?イエス様はマルタがやっている料理の準備をやめなさいとは言いませんでした。そう言わないで、「しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」とおっしゃいました。料理とか、もてなしとか、生活のための必要なものは私たちにとって重要ですが、私たちの人生にとって一番大切なことはそれらではありません。私たちの人生にとって最も大切なことは、天と地と人間を造られた神様について知ることです。神様の子であるイエス様が神様のことを正しく教えることができます。イエス様の教えから私たちは、神様の限りしれない愛を知ることができます。「マリアは良い方を選んだ」というのは、私たちにとって良い例になるでしょう。天と地と人間を造られた神様のことを知ることと、イエス様を信じて私たちも神様の子供とされること、これらは、人生にとって一番大切なことだと思います。聖書を読み、お祈りすることを通して神様は私たちの心に平安を与えてくださいます。
プッラを焼いて、良い香りがして、焼きたてのもので相手をもてなしすることは喜びがあふれることです。それはプッラを焼いた人にも食べる人にも喜びを与えるからです。しかしイエス様は聖書の御言葉を通して私たちに毎日喜びを与えます。このことを覚えていきましょう。