説教「最後の審判で神は何を裁くのか」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書25章31-46節

主日礼拝説教 2020年11月22日 聖霊降臨後最終主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

.はじめに

今日は聖霊降臨後最終主日ですので教会の一年は今週で終わり、新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それはまた最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。とは言っても、今のフィンランドでそうした自省をする人はどれくらいいるでしょうか?「裁きの主日」の礼拝が終わって教会の鐘が鳴り響くと、町々は、待ってましたとばかりにクリスマスのイルミネーションが点灯され始めます。私などいつも、待降節までまだ1週間あるのにと思ったものです。しかも近年では「裁きの主日」の前に点灯してしまうそうです。

誰も、最後の審判の時に自分が神からどんな判決を下されるか、そんなことは考えたくないでしょう。本日の福音書の個所はまさに最後の審判のことが言われています。説教者にとって頭の重いテーマではないかと思います。あまり正面切って話すと信徒は嫌になって教会に来なくなってしまうのではないかと心配する人もいるかもしれません。しかし、聖書にある以上は取り上げないわけにはいきません。そういうわけで今日はこの礼拝を通して皆さんと一緒に自分たちの信仰を自省することができればと思います。

本日の福音書の箇所ですが、最後の審判について言われていますが、これはまたキリスト信仰者が社会的弱者やその他の困難にある人たちを助けるように駆り立てる聖句としても知られています。ここに出てくる王というのは、終末の時に再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで多くのキリスト信仰者が、弱者や困窮者、特に子供たちに主の面影を見て支援に乗り出して行きます。

しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると、神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かになってしまう、つまり、人間の救いは善い業をしたかどうかに基づいてしまいます。それでは人間の救いを、イエス様を救い主と信じる信仰に基づかせるルター派の立場と相いれなくなります。ご存知のようにルター派の信仰の基本には、イエス様を救い主と信じる信仰によって人間は神に義と認められるという、信仰義認の立場があります。私がフィンランドに住んでいた時、地域の教会の主任牧師の選挙があり、ちょうど時期が「裁きの主日」の頃でした。地元の新聞に三人の候補者のインタビュー記事があり、マタイ25章の本日の箇所と信仰義認の関係をどう考えるかという質問がされました。三人ともとても歯切れが悪かったのを覚えています。一人の候補者は、「私はルター派でいたいが、この箇所は善い業による救いを教えている」などと答えていました。

問題は、ルター派を越えてキリスト教のあり方そのものに関わります。善い業を行えば救われると言ったら、もうイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。仏教徒だってイスラム教徒だって果てはヒューマニズム・人間中心主義を標榜する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っています。それを実践すればみんなこぞって神の国に入れると言ってしまったら、ヨハネ146節のイエス様の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である(注 ギリシャ語原文ではどれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを教えているのでしょうか?

この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言えば、本日の箇所は善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて読めば、本日の箇所も信仰による救いを教えていることがわかります。これからそのことをみてまいりましょう。

2.イエス・キリストの兄弟グループ

 最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれてイエス様が再臨する。裁きの王座につくと、諸国民全てを御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分ける。羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置かれる。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠が言い渡される。ここで、普通見落とされていることですが、この審判の場では人々のグループは二つではなく、実は三つあります。何のグループか?40節をみると、再臨の主は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言っています。日本語で「この最も小さい者」、「この」と単数形で訳されていますが、ギリシャ語原文では複数形(τουτωνなので「これらの」が正解です。一人ではありません。原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にしたのは」となります。つまり、第三のグループとしてイエス・キリストの兄弟グループもそこにいるのです。主は兄弟グループを指し示しながら、羊と山羊の二グループに対して「ほら、彼らを見なさい」と言っているのです。

それでは、このイエス・キリストの兄弟グループとは誰のことを言うのか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςという言葉は身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような程度の低さも意味します。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような者たちです。社会の基準からみて価値なしとみなされる者たちです。従って、主の兄弟たちは子供に限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいでしょう。

それでは、この主の兄弟グループは、もっと具体的に特定できるでしょうか?できます。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこから答えが得られます。そこでイエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、伝道に派遣します。その際、伝道旅行の規則を与えて、迫害に遭っても神は決して見捨てないと励まします。そして、使徒を受け入れる者は使徒を派遣した当のイエス様を受け入れることになる(1040節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(41ー42節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」(ここではτουτωνをちゃんと複数形で訳しています)、「小さい」ミクロスμικροςという単語は、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが(マタイ186節)、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。このマタイ10章ではずっと使徒たちのことを言っているので、「小さい者」は子供を指しません。使徒たちです。

使徒とは何者か?それは、イエス様が自分の教えることをしっかり聞きとめよ、自分が行う業をしっかり見届けよ、と自ら選んだ直近の弟子たちです。さらに、イエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという良い知らせ、つまり福音を命を賭してでも宣べ伝えよ、と選ばれた者たちです。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。イエス様は弟子のことをどうして「小さい」とか「取るに足らない」などと言われるのか、それは、彼が別の所で弟子は先生に勝るものではないと言っているのを思い出せばよいでしょう(マタイ1024節、ルカ640節)。

マタイ10章では、使徒を受け入れて冷たい水一杯を与える者は報いを受けられると言っていますが、本日の箇所も同じことを言っているのです。使徒を受け入れて、衣食住の支援をして病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に迎え入れられるという報いを受けると言っているのです。

3.使徒たちが携えてきた福音を受け取ること

これで、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すことが明らかになりました。そうなると、これを一般的に社会的弱者・困窮者と解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちは怒ってしまうかもしれません。支援の対象は福音を宣べ伝える使徒だなどとは、なんと視野の狭い解釈だ、と。しかし、これは解釈ではありません。書かれてあることを素直に読んで得られる理解です。そうなると、この箇所は支援の対象を使徒に限っているので、もう一般の弱者・困窮者の支援は考える必要はないということになるのか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえ(ルカ1025-37節)で隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者の支援もキリスト信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということです。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と関係ないものになり、別にキリスト教徒でなくてもできるものになります。先ほども申しましたように、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは、別にキリスト教徒でなくてもわかり実践できます。では、キリスト信仰者が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。あとでそのことも明らかにしていきます。

それから、子供を助けるということに関して聖書が果たした重要な役割についてひと言述べておきます。古代のギリシャ・ローマ世界には生まれてくる子供の間引きが当たり前のように行われていました。この慣習に最初に異を唱えたのがユダヤ人でした。なぜなら旧約聖書に基づいて人間は全て創造主の神に造られ、人は母親の胎内の中にいる時から神に知られているという立場に立っていたからでした。続いて旧約聖書を引き継いだキリスト教が地中海世界に広まるにつれて間引きの慣習は廃れていきました。この歴史的過程とそこで影響を与えた聖書の個所やその他のユダヤ教・キリスト教の文書についての研究もあります。代表的なものとしてE.コスケン二エミが2009年に出した研究書があります(”The Exposure of Infants among Jews and Christians in Antiquity”)。私の記憶では、その中で本日の福音書の個所は分析の対象に入っていなかったと思います。

さて、使徒というのは、イエス様の教えをしっかり聞きとめ、彼の業をしっかり見届けた者たちです。さらに彼らは、イエス様の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を宣べ伝え始めました。福音が宣べ伝えられていくと、今度は人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、彼らが困窮状態にあればいろいろ支援してあげる人たちが出てくる。他方で福音を受け入れず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出てくる。ここで思い起こさなければならないことは、支援した人たちというのは、支援することで、逆に使徒の仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということです。そのような例は使徒言行録にも見ることができます(17章のヤソンとその兄弟たち)。

その意味で支援した人たちというのは、使徒たちがみすぼらしくして可哀そうだからという同情心で助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音のゆえに彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのです。つまり、支援した人たちは福音に対して態度を決定して、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った人たちです。逆に使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった人たちです。つまるところ、福音を受け入れるに至ったか至らなかったか、信仰を持つに至ったか至らなかったか、ということが、神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの決め手になっているのです。そういうわけで、本日の箇所は、文字通り信仰義認を教えるもので、善行義認なんかではありません。

4.キリスト信仰の隣人愛

これで、イエス様の取るに足らない兄弟たちとは使徒を指し、彼らを支援したのは彼らが携えてきた福音を受け入れたからであることが明らかになりました。実に、神の国に迎え入れられるか否かの基準は、使徒を支援するのが当然になるくらい福音を受け入れるか否かということになります。福音を受け入れることがポイントだとすれば、最後の審判の該当者は使徒の時代の人たちに限られません。その後の時代からずっと今の時代の人々みんなが該当者になります。使徒の時代には受け入れて守ってあげるのは、福音を携えてきた使徒たちでした。使徒たちがこの世を去った後は受け入れて守ってあげるのは、使徒たちが携えてきた福音ということになります。もし仮に使徒たちが生きているとしたら、私たちも同じように支援してあげられなければならない、それくらい彼らが携えてきた福音を受け入れなければならない、さもないと神の国に迎え入れられないということです。

 ここで使徒たちが携えてきた福音とは何かということについて復習しておきましょう。福音とは、要約して言えば、人間が堕罪の時に失ってしまっていた神との結びつきを、神の計らいで人間に取り戻してもらったという、素晴らしい知らせです。どのようにして神との結びつきを取り戻してもらったかというと、人間は堕罪の時以来、神との結びつきを失った状態でこの世を生きなければならなくなりました。この世を去った後も自分の造り主である神の御許に永遠に戻れなくなってしまいました。そこで神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪を全部負わせてゴルゴタの十字架の上で彼に神罰を下し、人間の罪を人間に代わって償わせました。あとは人間の方が、これは本当に起こった、それでイエス様は真に救い主だと信じて洗礼を受けると彼が果たした罪の償いが自分のものになります。罪の償いが果たされたのだから、神から罪を赦された者と見なしてもらえます。罪が赦されたのだから神との結びつきが回復して、その結びつきを持ってこの世を生きることになります。この世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。以上が使徒たちが携えてきた救い主イエス・キリストの福音でした。

 人間は、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」がまさに自分のためになされたのだとわかると、もう神に対して背を向ける生き方はやめよう、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。神から受けた恩寵の大きさがわかればわかるほど、自分の利害がちっぽけなこともわかって、自分の持っているものに執着しないで、それを他の人のために役立てようという心になっていきます。真に、キリスト信仰にあっては、善い業とは救われるために行うものではなく、救われた結果として生じてくる実のようなものだと言われる所以です。

ここで、神の意思に沿うように生きるという時の「神の意思について述べておきます。神の意思とは、要約すれば、神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することの二つです。神への全身全霊の愛とは、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。何か願い事があればこの神にのみ打ち明けて祈り、他の何ものにもそうしないこと。感謝することがあれば同じようにこの神にのみ感謝し、他の何ものにもそうしないこと。悲しいこと辛いことがあればこの神にのみ助けを求め、他の何ものにも求めないこと。これが神を全身全霊で愛することです。このような愛は、神から受けている恩寵がわからないと持つことは出来ません。

隣人愛の方は、キリスト信仰では、神への全身全霊の愛を土台にして実践することになります。それなので隣人愛を実践するキリスト信仰者は、神を唯一の神としてしっかり保たれているようにしているかどうかをいつも吟味する必要があります。神としては、全ての人間が「罪の赦しの救い」を受け取って将来は神の国に迎え入れられるようになることを望んでいます。キリスト信仰者は隣人愛を実践する際には、このことを忘れてはなりません。

5.福音に対する態度決定の問題

以上、最後の審判の日に神の国に迎え入れられるかどうかの基準として明らかになったのは、使徒たちが携えてきた福音を受け入れてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということです。神の恩寵の前では自分の利害などちっぽけなものになって自分の持っているものに執着しなくなってそれを他の人のために役立てようとします。またキリスト信仰者になると神の意思に敏感になるので自分には罪があると自覚するようになり、まさにそのために十字架に立ち返り、罪の赦しの恩寵を自分の内に新たにします。そこでまた自分の利害がちっぽけなものになり、他の人のために役に立とうとします。

ここで次のような疑問が起こります。福音を受け入れるもなにも、福音を伝えられないで死んでしまった人たちはどうなるのか?そもそも聞いていないので態度を決めること自体できなかったのに、お前は福音を受け入れなかった、だから地獄の炎に投げ込まれるのだ、というのはあんまりではないか?

 そこで福音を伝えられずに死んだ人に対する神の処遇はどうなるのか?これについて、黙示録20章を手掛かりにしてみてみます。そこでは、最後の審判の時、最初に復活させられて神の御許に引き上げられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たち、つまり殉教者たちです(4節)。それ以外の人たちの復活はその後に起こりますが、その時、それらの人たちがこの世でどんな生き方をしてきたかが全て記された書物(複数形)が開かれて、それに基づいて判決が下されると述べられています(1315節)。「それ以外の者たちとは殉教者以外の人たちですが、どんな人たちがいるかと言うと、まず、信仰を持っていたが、特に命と引き換えにそれを守らねばならない極限状況には置かれないで済んだ人たちがいます。それから信仰を持たなかった人たちがいます。信仰を持たなかったというのは、ひとつには洗礼を受けたがそれが何の意味も持たない生き方をした人たちがありましょう。また、福音を伝えられたが受け入れなかった人たちがありましょう。そして、福音自体が伝えられなかった人たちがおりましょう。これらの人たちは全部ひっくるめて神の記録に基づいて判断されるのです。

洗礼を受けたがそれが意味を持たない生き方をした人たちについて、次のようなことが考えられます。ひょっとしたらあの人は、私たちの目から見て信仰者に相応しくない生き方をしていたが、実はイエス様を救い主として信じる信仰を追い求めて苦しんでいたのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。詳細な真実は神の記録に記されており、私たちはその内容を知ることはできない。だから、その人の処遇は神に任せるしかない。

次に福音を伝えられたが洗礼を受けなかった人について、次のようなことが考えられます。ひょっとしたらあの人は、ルカ23章に出てくる強盗が息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白して神の国に迎え入れられたように、死の直前に心の中で改心があったのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実を知っている神に任せるしかない。

最後に福音そのものが伝えられなかった人たちについては次のようなことが考えられます。人間はこの世を去る時、未知の大いなる者に自分の全てを委ねることになると気づきます。それに気づくと、その大いなる者は果たして自分を受けとめてくれるのかどうか心配が起きます。自分には至らないことがいろいろあって、その大いなる者は受け入れてくれないかもしれない、しかし自分の力ではもう治すことが出来ない、誰かに執り成してほしい。そのように一瞬でも思えればイエス様との出会いはすぐ目の前です。

この時イエス様を受け入れる素地が出来たと言えるのですが、さて神はどう思われるか?やはり、イエス様を受け入れること自体がないとダメと言われるのか?素地だけでは不足だと?これらことは私たちにはわからないことなので、その人の処遇はもう神に任せるしかありません。

この世を去る時、未知の大いなる者に自分の全てを委ねる時、その大いなる者は自分を受け入れてくれるかどうかという問題について、実はキリスト信仰者というのは心配する必要がない者たちです。どうしてかと言うと、次のように祈ることが出来るからです。父なるみ神よ、私はイエス様が果たして下さった罪の償いと赦しを衣のように纏って、剝ぎ取られないようにしっかり纏ってきました。その衣の神聖さの重みで私の内に残っている罪を日々圧し潰してきました。神よ、これが私の全てです。今あなたにお委ねします。どうかお受け取り下さい。このようにキリスト信仰者はこの世を去る時に誰に対して何を言うべきかということがはっきりしているのです。

6.おわりに

最後に、このイエス様の教えについて一つ忘れてはならない大事なことを述べておきます。それは、先週の3人の家来のたとえと先々週の10人のおとめのたとえが警告の教訓話であると申し上げたことです。同じことが本日の個所にも当てはまります。つまり、山羊のようにならないために今からでも遅くないから心を入れ替えなさい、ということです。そして、イエス様が果たした罪の償いをまだ自分のものにしていない人たちに対しても早くそれを自分のものとして神の国に向かう道を歩み始めなさい、そこに迎え入れられる用意をする生き方を始めなさい、ということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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